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2013/10/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 6 陸に上がって一路東京へ 美しき花々 附 疱瘡神呪(まじな)いの手形

 東京から十マイルのところで向い風が起った。我我はそこで上陸して人力車をやとい、ボーイは荷物を持って来るために後に残した。人力車は我々をのせて新しい地域を横断した。ここは世界大都会の一つである東京の境界地なので、興味があった。家の形は多少異っていた。即ちある箇所、特に屋梁の取扱い方に、新しい所があって、百マイル北の家屋で見受けるのとは大いに違っていた。

[やぶちゃん注:「東京から十マイルのところ」この「東京」という起点をどこから採るかが問題であるが、距離の短さからみて、東京府の外縁を指すと考えられるから、試みに葛飾区の水元公園を起点とすると、約16キロメートルの利根川流域は茨城県と千葉県の県境の茨城県守谷市の東南、千葉県上利根附近(地図実測16・8キロメートル)になる。

「百マイル」161キロメートル。第二章冒頭で日光までを96マイル(宇都宮までを66マイル、そこから日光までを30マイルとしている)としているから、見てきた日光や宇都宮郊外の家屋を指していると考えてよい。]

 


M102


図―102

 

 塵芥を埋立その他の目的で運搬するのには、長い紐輪を持つ、粗末な筵を使用する。塵芥は耨(くわ)でこの筵の中に搔き込まれ、そこで天秤棒を使って図102のように二人の男がそれを運搬する。

 

 この広い世界を通じて、どこでも子供達が、泥のパイや菓子をつくるのを好むのは、面白いことである。日本の路傍ででも、小さな女の子が柔軟な泥をこねて小さな円形のものをつくっていたが、これは、日本にはパイもパンもないので、米でつくる菓子のモチを現わしているに違いない。

 

 この国の人々が――最下層の人でさえも――が、必ず外国人に対して示す礼譲に富んだ丁寧な態度には、絶えず驚かされる。私は続けさまに気がついたが、彼等は私に話しかけるのに先ず頭に巻いた布を解いて、それを横に置くのである。一台の人力車が道路で他の一台に追いつき、それを追い越す時――我々は早く東京に着き度くて急いでいたのでこれをやった――車夫は必ず詫び、そして、通訳の言によると「お許しが出ますれば……」というようなことをいう。

[やぶちゃん注:「お許しが出ますれば……」原文は“By your permission, if you please.”。「御免なすって!」辺りか。]

 

 我々は多くの美しい生垣を通過した。その一つ二つは、二重の生垣で、内側のは濃く繁った木を四角にかり込み、それに接するのは灌木の生垣で、やはり四角にかり込んであるが、高さは半分位である。これが町通りに沿うて、かなりな距離並んでいたので、実に効果的であった。日本の造園師は、植木の小枝に永久的の形がつく迄、それを竹の枠にしばりつけるという、一方法を持っている。私の見た一本の巨大な公孫樹(いちょう)は、一つの方向に、少なくとも四十フィート、扇のように拡がりながら、その反対側は、日光も通さぬ位葉が茂っていながらも、三フィートとは無かった。樹木をしつける点では日本人は世界の植木屋中第一である。この地方を旅行していて目についた花屋は美しかった。ことに蜀葵(たちあおい)、すべりひゆの眩(まばゆ)い程の群団、大きな花のかたまりを持つ青紫の紫陽花(あじさい)等は、見事であった。梅や桜は果実の目的でなく、花を見るために栽培される。有名な桜の花に就いては、今迄に旅行家が数知れず記述しているから、それ以上言及する必要はあるまい。変種いくつかが知られている。売物に出ている桃は小さく、緑色で、固く、緑色橄欖のように未熟であるが、人人はその未熟の状態にあるのを食う。私はいくつかの桃を割って見たが、五つに四つ位は虫がいた。

[やぶちゃん注:「四十フィート」12・2メートル。

「三フィートとは無かった」90センチメートル未満。

すべりひゆの眩い程の群団」原文は“the dazzling masses of portulacas”。“portulacas”は確かにナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属を指す語ではある(この和名の莧(すべりひゆ)の語源については「ひゆ」は「ひよこ」と同語源で「小さく可愛らしい」の意であるとも、茹でた際に出るヌメリに由来するともいう)。問題は訳通り、このモースが見たのが本当にスベリヒユ Portulaca oleracea なのかどうかという疑義なのである。あの――私の庭にもしばしば蔓延って困るところの――食用になるが私はまだ食べたことがない(来春には庭のそれを食ってみよう)あの――夏に地を這っている枝先に黄色いごく小さな花を咲かせるだけの――あのスベリヒユなんだろうか? あのスベリヒユの地味な黄色の群落(群落自体は実際大きくなるが)を果たして“dazzling”(目も眩まんばかりに眩しい、眩惑的な)と形容するだろうか? あのちんまい黄色の花は、外国人が「蜀葵」と「大きな花のかたまりを持つ青紫の紫陽花」の間に挟んで絶賛するほどの美しい花であろうか?……これはどう考えても同じスベリヒユ属のマツバボタン Portulaca grandiflora としか私には考えられない。問題は明治十年の日本に南アメリカ(ブラジル・アルゼンチン)原産のマツバボタンの有意な群落が東京近郊に存在したかどうかにかかっている。結論から言おう。存在したと思う。その有力な証左は私がよくお世話になる跡見学園女子大学公式サイトの嶋田英誠氏の編になる「跡見群芳譜」の「外来植物譜」の「マツバボタン」の記載にあった。そこにはマツバボタンの渡来は、モースの記載に先立つ十三年前、幕末の元治元・文久四(一八六四)年とあり、しかも『しばしば河川敷などに逸出』とあるからである。利根川から北へ下って江戸川・荒川・隅田川を人力車で横断していったモースの目に映ったのはまさに渡来したばかりの、しかし力強く河川敷に広がって美しい十三年目の白・黄・赤・オレンジ・ピンクの多彩絢爛な(“dazzling”)花を咲かせた日本のマツバボタンであったのだと私は思うのである。他にも似た名とイメージを持つ明治初年に渡来した同目別科のナデシコ目ハマミズナ科マツバギク Lampranthus spectabilis も同定候補にはなり得るが(リンク先は同じく「跡見群芳譜」の「外来植物譜」)姉さんのマツバボタンをさしおいて名乗りを挙げるものでもなく、モース先生はちゃんと“portulacas”と言っておられる。なお、マツバボタンの属名“Portulaca”(ポルチュラーカ)はラテン語の「門」を意味する“portula”(ポルチュラ)に由来し、ウィキの「マツバボタン」によれば、『花が昼に開き、夜に閉じる様が門を彷彿とさせることからこの名がついたと解釈されている。日本ではホロビンソウ(不亡草)とも呼ばれ、年々種が零れて新たな花が生えだしてくるのでこう呼ばれている』とある。最後に。もうお分かりかも知れないが、私は実はマツバボタンが好きなのである。

「緑色橄欖」原文“green olive”。流石に訳が古い。熟す前に収穫され、塩水に漬けられた青いオリーブの実のこと。]

 

 この国の人々が持つ奇妙な風習はいたる処に見え、そして注意を惹く。ある家の入口には、漢字を僅か書いた横に、指を広くひろげた手に墨を塗ったものが二つ、ペタンと押してあった【*】。

 

 

* 数年後、私はこの記号は、疱疽(ほうそう)を追い払うためにつくられたということを聞いた。

[やぶちゃん注:「疱疽」疱瘡に同じい。前では「疱瘡」という表記である。感染症としての疱瘡=天然痘(Smallpox)については詳細を「第一章」で既注済みであるが、ここでは挙げられた疱瘡除けに合わせて疱瘡を擬神化した疫病神について、ウィキの「疱瘡神」から引用しておく(注記記号は省略した)。『平安時代の『続日本紀』によれば、疱瘡は天平7年(735年)に朝鮮半島の新羅から伝わったとある。当時は外交を司る大宰府が九州の筑前国(現・福岡県)筑紫郡に置かれたため、外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、大宰府に左遷された菅原道真や藤原広嗣らの御霊信仰とも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられた。近世には疱瘡が新羅から来たということから、三韓征伐の神として住吉大明神を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていた。寛政時代の古典『叢柱偶記』にも「本邦患ㇾ痘家、必祭疱瘡神夫妻二位於堂、俗謂之裳神(『我が国で疱瘡を患う家は、必ず疱瘡神夫妻お2人を御堂に祭り、民間ではこれを裳神という』の意)」と記述がある』(漢文部分は正しく正字化して示すと「本邦、痘を患ふ家は、必ず疱瘡神夫妻二位を堂に祭り、俗に之れを裳神と謂ふ」と訓ずる。「裳神」は「もがみ」又は「もすそがみ」とでも読むか)。『笠神、芋明神(いもみょうじん)などの別名でも呼ばれるが、これは疱瘡が激しい瘡蓋を生じることに由来する』。『かつて医学の発達していなかった時代には、根拠のない流言飛語も多く、疱瘡を擬人化するのみならず、実際に疱瘡神を目撃したという話も出回った。明治8年(1875年)には、本所で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えており、あたかも後述する疱瘡神除けのように赤い物を身に付けていたため、それが疱瘡神だったという話が、当時の錦絵新聞『日新真事誌』に掲載されている』(リンク先に実際の画像がある。これがモース来日の二年前の新聞である点でも必見である)。『疱瘡神は犬や赤色を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として張子の犬人形を飾ったり、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった。赤い物として、鯛に車を付けた「鯛車」という玩具や、猩々の人形も疱瘡神よけとして用いられた。疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている。江戸時代には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には源為朝、鍾馗、金太郎、獅子舞、達磨など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた。為朝が描かれたのは、かつて八丈島に配流された為朝が疱瘡神を抑えたことで島に疱瘡が流行しなかったという伝説にも由来する。「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」といった和歌もが赤絵に書かれることもあったが、これは前述のように疱瘡神が犬を苦手とするという伝承に由来する』。『江戸時代の読本『椿説弓張月』においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。浮世絵師・月岡芳年による『新形三十六怪撰』に「為朝の武威痘鬼神を退く図」と題し、為朝が疱瘡神を追い払っている画があるが、これは疱瘡を患った子を持つ親たちの、強い為朝に疱瘡神を倒してほしいという願望を表現したものと見られている』(リンク先に月岡芳年画「新形三十六怪撰」より「為朝の武威痘鬼神を退く図」が掲げられている。下線はやぶちゃん。これがモースが記した手形型疱瘡除けの謂われである)。『貼り紙の事例としては「子供不在」と書かれた紙の例もあるが、これは子供が疱瘡を患いやすかったことから「ここには子供はいないので他の家へ行ってくれ」と疱瘡神へアピールしていたものとされる』。『疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった』。『また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として新潟県中頚城郡では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り、発病の1週間後にそれを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった』。『医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった』。『幕末期に種痘が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、牛痘による種痘の効果のアピールが行われた。種痘による疱瘡の予防が一般化した後も、地方によっては民間伝承における疱瘡神除けの習俗が継承されていた。例として兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)では、予防接種から1週間ほど後、御幣を立てた桟俵に笹の葉、赤飯、水引などを備え、道端に送る風習があった。大阪府豊能郡能勢町でも「湯がけ」といって、同様に種痘から12日目に紐を通した桟俵に赤い紙と赤飯を備えて疱瘡神を送った。千葉県印旛郡では疱瘡流行時、子女が万灯を肩に鼓を打ちながら村を囃して歩くことが明治10年頃まで続けられていた。接種の際に赤い御幣、赤飯、食紅の印を付けた饅頭などが供えられることも多かった』とある。この後の天然痘史を別資料(日本医史学会会員富田英壽氏の、寛政二 (一七九〇)年にジェンナーの牛痘種痘法成功よりも六年も早く人痘種痘法を本邦で初めて成功させた緒方春朔の顕彰サイトにある天然痘関係歴史略年表に拠った)で略述すると、種痘法の制定は明治一八(1885)年、であったがなかなか徹底せず、この年から翌々年の明治二〇(一八八七)にかけて第一回の大流行があって死者三万二千人、明治二五(一八九二)年から二七年にかけて第二回大流行(死者二万四千人)、明治二九(一八九六)年から翌年にかけて第三回大流行(死者一万六千人)を見た大正八(一九一九)年に大正期最高の天然痘死者数九三八人を出した後、昭和元(一九二六)年に死者数一五八人を最高に第二次世界大戦終了まで死者百人を超える年はなかった。昭和二一(一九四六)年復員・引揚者の影響で天然痘が大流行して患者一万八千人、死者三千人を出したの最後に急速に制圧され、本邦では昭和三〇(一九五五)年の患者一名を最後に天然痘患者はゼロとなった。昭和五一(一九七六)年、日本は定期種痘を停止、ご存知のように、一九七九(昭和五四)年にケニアの首都ナイロビでWHO世界天然痘根絶確認評議会が世界から天然痘患者が根絶されたことを確認、翌年、WHO総会で「世界天然痘根絶」が宣言された。]

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