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2013/10/19

言葉の香氣 大手拓次

 言葉の香氣

 

 ことばは、空のなかをかけりゆく香料のひびきである。ゆめと生命とをあざなはせて、ゆるやかにけぶりながら、まつしろいほのほの肌をあらはに魂のうへにおほひかぶせるふしぎのいきものである。かはたれのうすやみにものの姿をおぼろめかす小鳥のあとのみをである。まぼろしは手に手をつないで河のながれをまきおこし、ものかげのさざめきを壺のなかに埋めていきづまらせ、あをじろいさかづきのなかに永遠の噴水をかたちづくる。

 ことばのにほひは、ねやのにほひ、沈默のにほひ、まなざしのにほひ、かげのにほひ、消えうせし樂(がく)のねのにほひ、かたちなきくさむらのにほひ、ゆめをふみにじる髮ひとすぢのにほひ、あへども見知らずにゆきすぎる戀人のうつりが、神のうへにむちうつ惡魔のにほひ、火のなかに月をかくすおちばのにほひ、ただれた雜草のくちびるに祈をうつす祕密のにほひ、女のほぞに秋の手のひらを通はせる微笑のにほひ、とらへがたい枝枝のなかをおよぐ光(ひかり)のにほひ、肉親相姦の罪の美貌のにほひ、忘却の塔のいただきにふりかかる候鳥の糞のにほひ、人人を死にさそふ蘭の怪花のにほひ、ひといろにときめきあからむ處女のほほのゆふべのにほひ、荒鷲のくちばしにからまる疾風のにほひ、天上する蛇のうろこに想念の月光を被(き)せる僧門のにほひ、窓より窓に咲いてゆくうすずみいろの、あをいろの、べにのしまある風のにほひ、欲情のもすそにほえる主なきこゑのにほひ、五月のみどりばのきらきらとそよぐもののけのにほひ、うまれいでざる胎兒のおほはれた瞼(まぶた)のにほひ、大地の底にかきならす湖上の笛のにほひ、はびこる動亂の霧に武裝をほどく木馬のにほひ。

 まことに、ことばはたましひのつくるそよかぜのながれである。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫版の原子朗編「大手拓次詩集」では異同がある。以下に本底本に従いながら正字化したものを示す。相違箇所(ルビの有無を含む)の下線は私が引いた。

 

 言葉の香氣

 

 ことばは、空のなかをかけりゆく香料のひびきである。ゆめと生命とをあざなはせて、ゆるやかにけぶりながら、まつしろいほのほの肌をあらはに魂のうへにおほひかぶせるふしぎのいきものである。かはたれのうすやみにものの姿をおぼろめかす小鳥のあとのみをである。まぼろしは手に手をつないで河のながれをまきおこし、ものかげのさざめきを壺のなかに埋(う)めていきづまらせ、あをじろいさかづきのなかに永遠の噴水をかたちづくる。

 ことばのにほひは、ねやのにほひ、沈默のにほひ、まなざしのにほひ、かげのにほひ、消えうせし樂(がく)のねのにほひ、かたちなきくさむらのにほひ、ゆめをふみにじる髮ひとすぢのにほひ、はるかなるうしろすがたのにほひ、あへども見知らずにゆきすぎる戀人のうつりが、神のうへにむちうつ惡魔のにほひ、火のなかに月をかくすおちばのにほひ、ただれた雜草のくちびるに祈をうつす祕密のにほひ、女のほぞに秋の手のひらを通はせる微笑のにほひ、とらへがたい枝枝のなかをおよぐのにほひ、肉親相姦の罪の美貌のにほひ、忘却の塔のいただきにふりかかる候鳥(こうてう)糞(ふん)のにほひ、人人を死にさそふ蘭の怪花のにほひ、ひといろにときめきあからむ處女(をとめ)のほほのゆふべのにほひ、荒鷲のくちばしにからまる疾風のにほひ、天上する蛇(へび)のうろこに想念の月光を被(き)せる僧門のにほひ、窓より窓に咲いてゆくうすずみいろの、あをいろの、べにのしまある風のにほひ、欲情のもすそにほえる主(ぬし)なきこゑのにほひ、五月のみどりばのきらきらとそよぐもののけのにほひ、うまれいでざる胎兒のおほはれた瞼(まぶた)のにほひ、大地の底にかきならす湖上の笛のにほひ、はびこる動亂の霧に武裝をほどく木馬のにほひ。

 まことに、ことばはたましひのつくるそよかぜのながれである。

 

「ことばは、」「かはたれのうすやみにものの姿をおぼろめかす小鳥のあとのみ」「である」――「ことばのにほひは、ねやのにほひ、沈默のにほひ、まなざしのにほひ、かげのにほひ、消えうせし樂(がく)のねのにほひ、かたちなきくさむらのにほひ、ゆめをふみにじる髮ひとすぢのにほひ、」そして、つい逢はざりし人の面影、「あへども見知らずにゆきすぎる戀人のうつりが」である――そしてまたそれは、「女のほぞに秋の手のひらを通はせる微笑のにほひ」であり、「肉親相姦の罪の美貌のにほひ、忘却の塔のいただきにふりかかる候鳥の糞のにほひ、人人を死にさそふ蘭の怪花のにほひ、ひといろにときめきあからむ處女のほほのゆふべのにほひ、荒鷲のくちばしにからまる疾風のにほひ」なのだ――その形象は遂に「窓より窓に咲いてゆくうすずみいろの、あをいろの、べにのしまある風のにほひ」となり、「欲情のもすそにほえる主なきこゑのにほひ」となり、「五月のみどりばのきらきらとそよぐもののけのにほひ」からヒラニア・ガルパ、黄金の胎児、「うまれいでざる胎兒のおほはれた瞼(まぶた)のにほひ」へ翔び、「大地の底にかきならす湖上の笛のにほひ」として舞い上がったかと思うと、一瞬にして「はびこる動亂の霧に武裝をほどく木馬のにほひ」へと堕ちてゆく。――「まことに、ことばはたましひのつくるそよかぜのながれ」なの「である。」……この拓次節ともいうべき波状的に畳み掛ける、恐るべき粘性のめくるめく変化(へんげ)のフェテイシズムは慄っとするほど素敵だ。……この詩は個人的にすこぶる附きで偏愛する詩なのである。]

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