此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉
本日二〇一三年十月 三十日
陰暦二〇一三年九月二十六日
旅懷
此秋は何で年よる雲に鳥
此秋は何にとしよる雲に鳥
[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十六日の作。
第一句目は「笈日記」、第二句目は「芭蕉句選」に拠る。竹人の「蕉翁全伝」には、『廿六日、新淸水彼方此方徘徊して』とあり、これだと前に掲げた句会の前に創られたものかとも読める。
「笈日記」で支考は句に続けて、
此句はその朝より心に籠めて念じ申されしに、下の五文字、寸々の腸(はらわた)を裂かれけるなり。是れはやむ事なき世に、何をして身のいたづらに老いぬらんと、切におもひわびられけるが、されば此秋はいかなる事の心にかなはざるにかあらん、伊賀を出て後は、明暮になやみ申されしが、京・大津の間をへて、伊勢の方におもむくべきか、それも人々のふさがりてとゞめなば、わりなき心も出きぬべし、とかくしてちからつきなば、ひたぶるの長谷越えすべきよし、しのびたる時はふくめられしに、たゞ羽をのみかいつくろひて、立つ日もなくなり給へるくやしさ、いとゞいはむ方なし。
と綴っており、土芳の「三冊子」も『此句、難波にての句也。此日朝より心にこめて、下の五文字に寸々の腸をさかれし也』と記す。
安藤次男は「芭蕉百五十句」の本句の評釈で、芭蕉はここで例の「病雁」の句を想起し、同時に杜甫の詩、「孤雁」をも想起したと断ずる(以下に示す訓読は安藤に従っていない)。
孤雁
孤雁不飮啄
飛鳴聲念羣
誰憐一片影
相失万重雲
望盡似猶見
哀多如更聞
野鵶無意緒
鳴噪自粉粉
孤雁
孤雁 飲啄(いんたく)せず
飛鳴して聲は群を念ふ
誰(たれ)か憐れむ 一片の影
相ひ失すのみ 万重(ばんちやう)の雲
望み盡くるも 猶ほ見るに似(に)たり
哀しみの多くして 更に聞くがごとし
野鵶(やあ) 意緒(いちよ)無く
鳴噪(めいさう) 自(おのづ)から粉粉たり
そうして安藤はこの「望み盡くるも猶ほ見るに似たり」の訓読箇所に傍点して、『「此秋は」「雲に鳥」はそのことをぬきにしては語れない』と述べる。
安藤は最後に『「鳥雲に入る」という暮春の季語がある。北帰する冬鳥のことだが、暮秋、南へ帰る夏鳥なら「雲に鳥」だ、と云いたいらしい』という修辞解釈をも示しているのだが、鬼才安藤にしてこの謂いはやや不満である。「鳥雲に入る」という言辞を転倒諧謔して「雲に鳥」を導くという程度のこと(無論、芭蕉にとっての「という程度のこと」の謂いであって我々凡夫にはその逆転の発想自体が難しいことは言うまでもないことだ)を捻り出すのに、芭蕉ともあろうものが『その朝より心に籠めて念じ』乍ら、この『下の五文字』に対して『寸々の腸を裂』くであろうか、という素朴な疑義である。
私は若き日にこの句を見て、鮮烈なイメージの衝撃を受けたことを忘れない。その時、私には雲の形をした大いなる鳥が見えた――いや、虚空に鵬のような大鳥の空隙を見たのであった。それは同じ時期に見た滝口修造の「扉に鳥影」詩とフォト・コラージュ(デュシャンの遺作「(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ」
“Étant donnés: 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'éclairage”の前に立って穴を覗く瀧口自身の後ろ姿)が離れ難く結びついてもいるのである(そこでは私にとって詩人瀧口修造は芭蕉なのであった)。――いや、それ以上にこの句は、まさに私自身が幻影したそれは……かのマグリットの「大家族」“la grande famille ”(一九六三年作。リンク先はグーグル画像検索「la grande famille magritte」)のような鳥影ででも……あったのかも知れない。――――]
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