耳嚢 巻之七 仁にして禍ひを遁し事
仁にして禍ひを遁し事
文化三丑三月四日の大火に芝邊なりしとや、赤木藤助といへる者、火災甚間近鄽(はなはだまぢかくみせ)其外戸前(とまへ)をうちて目塗(めぬり)こまやかになしけるが、召仕(めしつか)ふ者、外(ほか)より手傳(てつだひ)に來りし者不殘(のこらず)集りしに召仕壹人見へず。内に殘りてや有(あら)んと、あるじ殊にあんじけるが、何卒最早殘り居るべき、先へ立退(たちのき)もなしけんと人々申(まうし)けるを、左にあらず、戸まへはづし可見(みるべし)と言(いひ)しを、最早火は近し、風は強し、今更開きなば類燒は目の前なり迚いづれもいなみけるを主人、燒たれば迚是非なし、明け候へ迚戸前壹枚はづしければ、察しの通退(とほりのき)おくれ内に居たり。何故殘りしと尋(たづね)ければ、最早片付仕廻(かたづけしまひ)たれば出んと思ひつれど出所(でどころ)なし。内より戸前をあく迄たゝきけれど、外の物さはがしきに聞(きき)つくる物なければ、まさに死なんと覺悟きわめしといいしが、無程(ほどなく)あたりも不殘(のこらず)類燒して、主人初(はじめ)怪我せぬ事にぞ、そこそこ目塗して立退しに、家竝に一軒も殘りし者なく、戸前丈夫の藏も火入(いり)たすからずなりしが、此並木やが鄽藏(みせぐら)は無難殘りし也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「文化三丑三月四日の大火」文化三(一八〇六)年は丙寅(ひのえとら)であるから誤り(訳では訂した)。前年の乙丑(きのとうし)と誤ったか、若しくは「年」の誤字であろう。この「文化の大火」は既注済み。本巻で先行する「正路の德自然の事」の私の注を参照のこと。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、火事なればこそ間近の文字通り「ホットな」噂話である。
・「目塗」合わせ目を塗って塞ぐこと。特に火災の際に火が入らないよう、土蔵の戸前(土蔵の入口の戸のある所及びその戸を指す)を塗り塞ぐことをいう。
・「鄽藏」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『見世藏(みせぐら)』(正字化して示した)とあり、長谷川氏は『防火のため土蔵造りにした店』と注しておられる。
■やぶちゃん現代語訳
仁徳あればこそ禍いを遁れた事
文化三年丙寅(ひのえとら)の三月四日の大火の折りの話で御座る。
芝辺りとか聴いておるが、さる大店(おおだな)の主人、赤木藤助と申す者、火災、これ、はなはだ間近となり、店その外は勿論、蔵の戸前(とまえ)をも厳重に閉じおいて、隙間にはびっちりと泥を目塗り致いて御座ったと申す。
ところが、いざ、防火の仕儀を終えて、召し仕(つこ)うて御座った者どもや、外(ほか)より手伝いに参って御座った者どもも残らず集まったによって、よう調べてみたところが、親しく召し仕(つこ)うて御座った一人の姿が、これ、見当らぬ。
「……い、家内に残っておるのではあるまいか……」
と、主人(あるじ)は殊の外、心配致いたれど、
「――どうして最早残っておろうはず、これ、御座いましょうや! 大方、臆病風に吹かれて先に立ち退きなんど成したものに違い御座いませぬッ!」
と、火急の切迫の中なればこそ、誰もが口々に申したてた。
ところが、
「――いや、さにあらず! 蔵の扉を外して中をよう、調べるがよいぞッ!」
と命じた。しかし、
「――いいえ! ご主人さまッ! 最早、これ、火は近し、風は強し――いまさら、折角、目張りを致しました土蔵の戸を開いてしまいましたら、これ、類焼は免れませぬぞッ!」
と、誰もが否んで尻ごみ致いた。
それでも主人は、
「――焼け落ちるならば――これ、焼け落ちよッ! 是非に及ばず! ともかくも、開けなされッ!」
と厳として命じたによって、折角、びっちりと目塗りで固めおいた戸前を、総て掻き落といて、戸一枚を外した。
すると――主人の察した通り――かの者、これ、逃げ遅れて土蔵の内におったと申す。
「――何故に居残っておったものかッ!?」
と糺いたところが、
「……へぇ……も、最早、片付けも終わりましたれば、さても逃げ出でんと思いましたところが……見れば……どこもかしこも外より目塗りの、これ、終わって御座いましたによって……もう、出づべき所も、これ、御座いませなんだ。……内より入口の戸(とお)を、あらん限りの力をもって……懸命に叩きに叩きましたけれども……戸外のもの騒がしさに……これ、聴きつけて呉るる者は……誰(たれ)一人として、おられませなんだ……されば……かくなる上は……最早、このまま死なんものと……覚悟を決めて……おりまして御座いましたッ……」
と述懐致いたと申す。
ほどのう、芝一帯は、これ、殆んど、類焼に及んだによって、主人始め、
「――怪我せぬことぞ、何よりの大事ぞッ!」
と、再びその外した一枚に、そこそこの目塗りを施した上、即座に立ち退いて御座ったと申す。
さても――芝一帯の家並は――これ――一軒の残りもなく――格式高き大店(おおだな)の戸前丈夫を誇った大きなる蔵も――これ――その殆んどに火の入って――無事なるところは――これ――全くないに等しい惨状と……相い成って御座った。……
……ところが
――何故か――この主人の「並木屋」の店蔵のみは――これ――全くの無傷にて――一面の焼野原となった中――忽然と立って御座った。
――内なる財貨も――これ――一つとして焼けることのう――全く以って無事、残って御座ったと申すことで御座った。
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