耳囊 卷之七 黐を落す奇法の事
黐を落す奇法の事
予許(よがもと)へ來(きたれ)る醫師與住(よずみ)語りしは、世には奇法も有(ある)もの也。彼(かの)知れる人、蠅をうれゐて紙にとりもちを引(ひき)て置(おき)しを、飼猫未(いまだ)子猫なりけるが、くるひあそぶとて彼(かの)紙にくるまり、漸(やうやう)彼紙をとりしが、總身もちなる故糠(ぬか)抔ふりても落(おつ)べき樣なく、見るもうるさき躰(てい)なりける故、色々なせ共(ども)せん方なし、扨洗ひ抔なせる女房に、かゝる事有し時藥やあらんと尋(たづね)ければ、衣類抔はもちの付(つき)たるを千萬盡せど落(おち)ざる時、右黐(とりもち)のつきたる上へ、辛子(からし)の粉をつゝみてあらひ□落(おつる)者なりし故、其事を傳へて、彼猫をからしときて洗ひしに、元の如くきれゐになりしと語る。
□やぶちゃん注
○前項連関:冒頭の書き方が全く同じで、聴取者も同じく知己の医師。民間の生活の知恵シリーズともいうべきもの。
・「黐」とりもち。実は底本の標題の字は(へん)の部分が「禾」(のぎへん)で、これは目次もそうなっている。当該字は表示出来ないことと(「廣漢和辭典」にも載らない)、本文が正しく「黐」となっていることから訂した。以下、ウィキの「鳥黐」より引用する。『鳥黐(とりもち)は、鳥や昆虫を捕まえるのに使う粘着性の物質。鳥がとまる木の枝などに塗っておいて脚がくっついて飛べなくなったところを捕まえたり、黐竿(もちざお)と呼ばれる長い竿の先に塗りつけて獲物を直接くっつけたりする。古くから洋の東西を問わず植物の樹皮や果実などを原料に作られてきた。近年では化学合成によって作られたものがねずみ捕り用などとして販売されている』。『日本においても鳥黐は古くから使われており、もともと日本語で「もち」という言葉は鳥黐のことを指していたが、派生した用法である食品の餅の方が主流になってからは鳥取黐または鳥黐と呼ばれるようになったといわれている』。『原料は地域によって異なり、モチノキ属植物(モチノキ・クロガネモチ・ソヨゴ・セイヨウヒイラギなど)やヤマグルマ、ガマズミなどの樹皮、ナンキンハゼ・ヤドリギ・パラミツなどの果実、イチジク属植物(ゴムノキなど)の乳液、ツチトリモチの根など多岐にわたる。日本においてはモチノキあるいはヤマグルマから作られることが多く、モチノキから作られたものは白いために「シロモチ」または「ホンモチ」、ヤマグルマのものは赤いために「アカモチ」と呼ばれる。鹿児島県(太白岩黐)、和歌山県(本岩黐)、八丈島などで生産されていた』。『鳥黐の製法は地域や原料とする植物によって異なるが、モチノキなどの樹皮から作る場合は、樹皮を細かく砕いて水洗いし、水に不溶性の粘着質物質をとりだすことで得られる。商品として大量に生産する場合は、まず春から夏にかけて樹皮を採取し、目の粗い袋に入れて秋まで流水につけておく。この間に不必要な木質は徐々に腐敗して除去され、水に不溶性の鳥黐成分だけが残る。水から取り出したら繊維質がなくなるまで臼で細かく砕き、軟らかい塊になったものを流水で洗って細かい残渣を取り除く。得られた鳥黐は水に入れて保存する。場合によっては油を混ぜることがある』。『主要な鳥黐であるモチノキ属植物、ヤマグルマ、ヤドリギの果実などから得られるものの主成分は高級脂肪酸と高級アルコールがエステル結合した化合物であるワックスエステル、つまり蝋である。逆に言うと化学的には、植物から得られ、常温でゴム状粘着性を示す半固体蝋が鳥黐であるともいえる』。(中略)『こうした化学的組成により、非水溶性であり、また二硫化炭素、エーテル、ベンゼン、石油エーテルといった有機溶媒には溶けるが、アルコールには溶けない』。『鳥黐は強力な粘着力があることから、職業として鳥を取る鳥刺しなどによって使用される。食用に鳥を捕獲する場合は黐竿と呼ばれる長い竿の先に鳥黐をぬりつけたものを使い、直接小鳥をくっつける。一方、メジロなど観賞用の鳥は直接くっつけると羽が抜けて外見が悪くなるため、枝などに鳥黐を塗っておいて囮や鳥笛をつかっておびき寄せ、足がくっついて飛べなくなったところを捕らえる』。『また、子供の遊びとして虫捕りにもよく使用される。この場合、黐竿をつかってトンボなどを捕獲する。ただし粘着力が強すぎ、脚や翅に欠損を生じることがあるため、標本用途には向かない』。『鳥黐は水につけると粘着性がなくなるため、保存や取扱いの際には水で湿らせておくか、少量の場合は口中で噛んでおく。枝などに塗りつけたあと乾かすと再び強い粘着性を示すようになる』。『日本においては、鳥屋や駄菓子屋などで販売されていたが、鳥獣保護法の施行によって鳥類の捕獲が難しくなってからはあまり販売されなくなっている』。『かつては鳥獣保護法において法定猟具に鳥黐は含まれており、これを利用した黐縄(もちなわ。鳥黐を塗った縄を湖面に張り巡らせることで水鳥を捕獲する。参照流し黐猟)や、はご(木の枝や竹串に鳥黐を塗布して鳥を捕獲する。おとりの鳥を入れた鳥篭を高所に配置して、近づいてきた鳥を捕獲する猟法は高はご、多数のはごを配置するものは千本はごと呼ばれた)などの猟具が存在した』。『高はごは、メジロ、カワラヒワ、マヒワなどを捕獲するのに用いる。
長い竿、高樹などの頂に竹竿を結びつけ、これにおとりの籠をつるし、これとは別に黐を付けた竿または枝をこずえに固定し、滑車と綱を利用して黐付きの竿を上下するようにしておく。竿は』『近くのこずえよりも高くし、または一本樹を利用する。はごは矢竹、クワ、柳などのやわらかな枝を用いる。おとりは小型の籠を複数、かさねておく。おとりに誘われた鳥は樹枝と誤認して黐付きの枝にとまり、黐が付着し、地上に落下する。このときいっぽうの手縄をゆるめ、他方の手縄を引き、竿をおろして捕獲する』。千本はごは、『割り竹、細ひごなどに黐をぬりつける。その太さ、長さは鳥種によって異なる。雁鴻を捕獲するには、夜、鳥が集まる水田、池、沼に黐を塗っていない部分を』『挿し立て、ところどころに空き場をつくっておく。おとりを置き、誘致する。雁鴻はおとりに誘われて着地し、徒渉するとき黐が羽毛に付着し、これを捕獲する。千葉県手賀沼でさかんに使用された。カケス、ヒヨドリなどを捕獲するには、あらかじめ鳥が来る樹上に小型のはごを設置し、黐が鳥に付着し、地上に落下するのを捕獲する』。『現在ではかすみ網やとらばさみ、あるいは雉笛などとともに禁止猟具に指定されており、鳥類の捕獲自体も銃猟若しくは網猟に限定されていることから、鳥黐を使用して鳥類を捕獲する行為は、禁止猟具を用いての捕獲およびわなを用いての鳥類の捕獲に該当し、鳥獣保護法違反で検挙対象となる』とある。以上、長々と引いたのは私自身が実は鳥黐を見たことも使ったこともないからである。私は私の注で何よりも私自身が十全に学びたいのである。
・「與住」与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師で、駒込に住む。「耳囊」では「卷之一」の「人の力しるしある事」力しるしある事」以来の情報屋の古株で、「卷之六 執心の說間違と思ふ事」、この後の「卷之九 浮腫妙藥の事」等にも登場する。
・「辛子の粉をつゝみてあらひ□落者なりし故、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、「衣類抔」以降を直接話法とし、『辛子(からし)の粉を包み洗ひぬれば必ず落る物也」と語りぬ。』とあって「其事」に続く。これを訳では採用した。それにしても黐を知らぬ私はこの辛子による黐除去法が真実かどうかも検証出来ぬ。何だか何故かそれが淋しい。
■やぶちゃん現代語訳
鳥黐(とりもち)を落とす奇法の事
私の元へ来たれる医師の与住(よずみ)が語ったことには、
「……世の中にはいつ何時役立つかよう分からぬ奇法も、これ御、座るものにて。
……我らの知れる御仁、蠅が盛んに飛ぶを五月蠅がって、細長き紙に鳥黐を塗って部屋の隅に置いて御座ったところが、飼い猫の未だ子猫であったもの、これまた、やんちゃで狂うたように部屋の中で転がり遊ぶうち、かの鳥黐をべったり塗った紙に包(くる)まってしもうて、ようよう紙は引き剝したものの、総身(そうみ)は鳥黐だらけ――されば糠(ぬか)なんどをふりかけて、そちらに鳥黐を移さんと試みしが、これ、一向に落つる様子も御座ない。……見るも無残におぞましく、五月蠅き蠅なんぞよりもっと不快極まりなき体(てい)なればこそ、色々試みて御座ったものの、いっかな、落ちぬ。されば最早どうしようもなくなって御座ったと申す。……
……さてそこで、家で遣って御座った洗濯など頼みおる下女に、
「……このようなことがあった折りの……そのぅ……妙薬を存ぜぬものか、のぅ?……」
と恥ずかしながら、尋ねてみたところが、
「衣類なんどでは、鳥黐のついたもの、これ、千万回洗い尽くせど落ちませぬ折りは、その鳥黐のついた上へ、辛子(からし)の粉を万遍のぅふりかけて、まあ言うたら――辛子の粉塗(まぶ)し――といった体(てい)に致しまして洗いますれば、これ、まっこと、奇麗に落ちまする。」
と申しましたによって、その鳥黐だらけの猫の話を致いて、かの猫を連れ参り、その下女にたっぷりの辛子を溶いた水で洗わせましたところが……これ、元の如く……まあ、奇麗な子猫に戻りまして御座ったそうな。……」
とのことで御座った。
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