山吹や井手を流るる鉋屑 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
山吹や井手を流るる鉋屑
崖下の岸に沿うて、山吹が茂り咲いて居る。そこへ鉋屑が流れて來たのである。この句には長い前書が付いており、むずかしい故事の註釋もあるのだが、これだけの敍景として、單純に受取る方がかえつて好い。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。朔太郎の言う前書は以下。後に語釈を附す。
加久夜長帶刀(かくやのをさのたちはき)はさうなき數寄(すき)もの也けり。古曾部(こそべ)の入道はじめてのげざんに、引出物見すべきとて、錦の小袋をさがしもとめける風流などおもひ出つゝ、すゞろ春色にたへず侍れば
・「加久夜長帶刀」平安中期の官吏で歌人藤原節信(ときのぶ/としのぶ 生没年未詳)。天皇及び東宮の護衛に当たる下級SPであった帯刀舎人(たちはきのとねり)の長。加久夜長帯刀と呼ばれた。「後拾遺和歌集」などの勅撰集に歌三首を残す。長久五
(一〇四四) 年河内権守に任ぜられているので以下の能因法師とは同時代人。
・「古曾部の入道」能因法師(永延二(九八八)年- 永承五(一〇五〇)年又は康平元(一〇五八)年)。「古曾部」は現在の大阪府高槻市古曽部町で能因の隠棲地。
・「げざん」見参(げんざん)。
・「引出物」饗宴初対面の際の主人から客に対しての贈答品。ここでは互いの門外不出の秘蔵の品を見せ合ったのである。
これは井手(井堤とも呼称した。現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町)がそこを流れる玉川(木津川支流)の河鹿蛙(かじかがえる)の鳴き声と山吹で知られた歌枕であったこと、平安末の藤原清輔の歌学書「袋草紙」にあるそれを元にした藤原節信と能因法師の邂逅の際の逸話に基づいている。ここで蕪村が仄めかしている「錦の袋」に入れたものこそが句の眼目の「鉋屑」で、二人が始めて出逢った際、互いに引出物として見せ合ったそれは能因が「長柄(ながら)の橋の鉋屑」、節信が「井手の蛙(かはづ)の干物(ひもの)」であって、そのフリーキーな風流コレクター振りに互いに畏れ入ると同時に意気投合したという和歌奇譚を元にした句想である。評釈者の中には流れる「鉋屑」は山吹の散るさまを鉋屑に喩えたとするものもあるが、それでは短歌の亜流で俳諧としては堕したものとなろう。蕪村自身も他に「只一通(とほり)の聞(きき)には、春の日の長閑なるに、井手の河上の民家などの普請などするにや、鉋屑のながれ去(さる)けしき、心ゆかしき樣也」(引用元不詳。谷田貝常夫氏の「蕪村攷」の記載に拠った)とはっきりと述べており、朔太郎の謂いは正当である。]