白菊の目に立てゝ見る塵もなし 芭蕉
本日二〇一三年十月三十一日
陰暦二〇一三年九月二十七日
白菊の目に立てゝ見る塵もなし
しら菊や目に立(たて)て見る※(ちり)もなし
[やぶちゃん字注:「※」=「土」+「分」。]
[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十七日の作。
第一句目は「笈日記」、第二句目は「矢矧堤」に拠る(初案かと思われるが真蹟の切れが伝存する)。支考の「追善日記(芭蕉翁追善之日記)」には、第一句目に『廿七日、園女が方にまねきおもふよし聞へければ、此日とゝのへて其家に會す』と前書して載せる。
女流門人斯波園女(しばそのめ 寛文四(一六六四)年~享保一一(一七二六)年)は伊勢山田(現在の三重県伊勢市)の神官の子として生まれた。同地の医師斯波一有(別号:渭川(いせん))に嫁し、元禄三(一六九〇)年に芭蕉に師事、同五年には夫と大坂へ移住した。芭蕉没後の元禄一六(一七〇三)年に満三十九で夫と死別して未亡人となった。宝永二(一七〇五)年になって宝井其角を頼って江戸へ出て眼科医を業としながら江戸座の俳人と交わった。大阪時代が俳人としての活躍期で雑俳点者としても名が高かった。享保三(一七一八)年、剃髪して智鏡尼と号した。正徳年間に深川富岡八幡に三十六本の桜の植樹を寄進、『歌仙桜』の名で江戸庶民に親しまれた。編著に「菊のちり」「鶴の杖」(以上はウィキの「斯波園女」に拠る)。
その園女亭での九吟歌仙の発句。眼前に咲く白菊に託して女主人の清楚な印象を讃えた挨拶句であるが、これが本歌として西行の「山家集」に載る、
くもりなう鏡の上にゐる塵を目にたててみる世と思はばや
を元としていることを考えると、そこには一捻りがある。この一首は古来、難解とされてきたものであるが私は、
――この世というものは――仏道に帰依した者の曇りなき真澄の心の鏡の上にある――僅かな煩悩の塵をさえも――殊更に取り立てて批難したがる――誠心をも踏みにじる世の中に過ぎぬのだ――と無視したいと思うておる――
という意味に採っている。それを踏まえるとすれば、そうした微細な「目に立てゝ見る塵」さえも白菊にはおかれていない――この聖園女の清廉にして潔白な凛々く毅然とした崇高の女の美を芭蕉は透徹する。その時、芭蕉の心には直近の四月ほど前の元禄六年六月初めに亡くなった、生涯ただ一人愛した女壽貞の面影が重なったに相違ない(単なる直感に過ぎないが、幸(さち)薄き壽貞(生年未詳)の年齢は恐らく園女とあまり変わらなかったのではなかろうか)。そしてそれは、その追悼句である、
數ならぬ身とな思ひそ玉祭り
と響き合うように私には思われる。「目に立てゝ見る塵もな」き庭前の「白菊」の光景は園女の面影をオーバ・ラップさせながら、同時に壽貞の霊魂の形象としてもあるように私は感じられるのである。]