『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(11)
游江島 源鱗〔字文龍 號東江〕
忽極登臨目。
南溟指素秋。
日含孤島湧。
雲傍十洲流。
隱見魚龍窟。
參差蛟蜃樓。
飜揚仙路近。
直欲伴浮丘。
[やぶちゃん注:作者は儒者で洒落本の戯作者でもあった沢田東江(さわだとうこう 享保一七(一七三二)年~寛政八(一七九六)年)。書道家としても知られた。本来は多田姓だったが沢田姓に改めた氏は源で鱗は諱。士族の子として江戸両国柳橋に生まれた。早くから書を好み、二十代前半までに明の王履吉の流れをくむ唐様の書家高頤斎に入門、学芸では井上蘭台に入門して古註学をに励む一方で遊里に溺れ放蕩を尽くし、吉原中に「柳橋の美少年」と騒がれたという。二十六の正月に洒落本「異素六帖」を刊行している(これは漢籍「魏楚六帖」のもじりで「唐詩選」の有名句と百人一首の下の句を組み合わせて吉原の情景を織り込むというもの)。二十八歳の春には幕府の要請によって蔵書印篆文の揮毫を行う。同じ年の秋には蘭台の口利きによって幕府学問所頭の林家に入門、林鳳谷に師事、主に朱子学を学んだ。明和元(一七六四)年春には幕命により朝鮮通信使御書法印を篆して白金を下賜されている。天明二(一七八二)年の公遵法親王の帰京の際には随行を許され、大坂の木村蒹葭堂を訪問、ほかにも多くの蘭学者や俳諧師との交友が知られている。明和四(一七六七)年、親交のあった山県大弐が尊王論者として死罪となる明和事件に連座、取り調べの結果はお構い無しとなったが、後の出世は頭打ちとなり、書をもって生業とする決意をした。以後、書において東江流と呼ばれる一派を成し、江戸に書塾を開いて多くの弟子を育てた。門弟には「北越雪譜」の作者鈴木牧之など当代の著名人が含まれる(以上はウィキの「沢田東江」に拠る)。
江の島に游ぶ 源鱗〔字は文龍、號は東江。〕
忽ち極む 登臨の目(もく)
南溟 素秋を指す
日は孤島を含みて湧き
雲は十洲に傍らして流る
隱見たり 魚龍の窟
參差たり 蛟蜃の樓
飜揚して 仙路 近く
直ちに浮丘に伴はんと欲す
「浮丘」は道士(仙人)の名。浮丘公。周の霊王の太子王子喬は河南省の伊水洛水に遊んだ折り、この浮丘公に出逢って伴われて嵩山に登り、そこで修行すること三十余年にして仙人となった。後、王子喬は白鶴に乗って飛び去った、と「列仙伝」に出る。]
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