秋の夜を打崩したる咄かな 芭蕉
本日二〇一三年十月二十四日
陰暦二〇一三年九月二十一日
秋夜
秋の夜を打崩(うちくづ)したる咄(はなし)かな
[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十一日の作。
前書は元禄七年九月二十三日附の窪田意専・服部土芳宛書簡に拠る。「笈日記」には、
廿一日二日の夜ハ雨もそぼ降りて靜なれば
と前書し、「まつのなみ」「こがらし」「浪化日記」等には、
菊月廿一日、潮江車庸亭
と前書する。「菊月」は九月の異名。「潮江車庸」は「しほへしやよう(しおえしゃよう)」と読み、通称潮江長兵衛という大坂の芭蕉の門人の俳号。裕福な町人であったらしい。その屋敷で九月二十一日に芭蕉・車庸・洒堂・游刀・之道・素牛・支考が一座して七吟半歌仙(七人で歌仙三十六句の半分十八句一巻の連句を巻くこと)の夜会が興行された際の発句である。この句会は蕉門内で対立していた洒堂と之道の仲を取り持つ意味もあった故に一種の言祝ぎの句としても素直に読める。]
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