日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 27 モース先生は「裸の大将」だった!!! ~ 第二章 了
宿屋に着くと我々は急いで荷造りをし、ドクタアは駄馬をやとい、十七マイルの距離を橋石まで歩いて帰ることにした。その日一日の経験の後なので、丘を上下し、平原や渓流を横切り始めた時には、いささか疲れていた。我々はかくの如くにして、七月四日の独立祭を祝ったのである。私は昆虫採集に時を費した為に取り残されて了い、私の日本語たるや「如何ですか?」「さようなら」「一寸待って」、その他僅かな.バラバラの単語に限られているのに、数時間にわたって、英語の全く話されぬ日本の奥地に、たった一人でいるという、素晴しい新奇さを楽しんだ。この日は暑熱きびしく、私の衣服はすべて人夫が背負って先に持って行って了ったので、私は下シャツとズボン下とを身につけている丈であった。それも出がけにボタンが取れて了ったので、安全ピン一本でどうやら体裁をととのえ、かくて私はその日を祝うために「大砲ドンドン」「星の輝く旗」等を歌いながら、或は蝶々を網で捕え、或は甲虫を拾い、とにかく局面の奇異を大いに愉快に思いながら歩いて行った。私は熱い太陽を除けるために、てっぺんの丸い日本の帽子をかぶっていた。これで私の親友と雖(いえど)も、私が誰だか判らなかったことであろう(図89)。日本人がこの焦げつくような太陽の下を、無帽で歩いて平気なのには実に驚く。もっとも折々、非常に縁の広い縮んだ笠をかぶっている人もいるが……。平原地を通りぬけて再びあの深林中の小径に来た時、突如私の前に現われたのは一匹の面構え野蛮にして狼のような犬で、嚙みつかんばかりの勢で吠え立てたが、路が狭くて通りこすことが出来ないものだから、後ずさりをした。我々はその状態を続けた。犬は逃げては吠えた。白状するが、私の僅かな衣類は極めて薄く思われ、私はピストルを持っていなかった。間もなく三人の日本人が現われた。犬は彼等の横を走りぬけ、我々は身体をすり合わせて通った。すると犬奴は彼等を見失うことを恐れ、思切って森の中に飛び込んで私と反対の方向に走った。何故犬が森を怖れたのか、私には訳が分らぬ。いずれにしても、犬が行って了ったことは悦しかった。もっとも、それ迄に見た犬から判断すると、この国の犬は害のない獣であるから、私も特別に恐れていはしなかったが……。
[やぶちゃん注:いいですねぇ、モース先生!……あなたは真正の「裸の大将」の濫觴だったのですね!……高原を独り高歌放声しながら如何にも楽しそうにそぞろゆく、巨体の天使のお姿が見えまする!!!……
「大砲ドンドン」原文“"Boom goes the cannon”。不詳。独立記念日に歌うのだから、何だか、かなり有名な歌の様には思わるのだが、この文字列では検索に引っ掛からない。どうか識者の御教授を乞うものである。
「星の輝く旗」原文“Star-Spangled Banner”。謂わずと知れたアメリカ合衆国国歌。]
私は中禅町で、休憩しながら私の来るのを待っていた一行に追いつき、食事をした後でまた歩き出した。橋石に向う途中の景色は、来た時よりも余程雄大である。下り坂なので、荒々しい切り立った渓谷を見下すことが出来るばかりでなく、上る時には暑くて疲労が激しい為に何も考えることが出来なかったが、今は深い谷の人に迫るような形状をつくづくと心に感じることが出来た。我々の食料はなくなりかけていた。赤葡萄酒や麦酒(ビール)は残っていたが――我我が極端な節酒家であることの証拠である――ビスケットは完全になくなって了った。(外国人は日本の食物や酒に馴れなくてはならぬ。私は一、二年後にすっかり馴れた。これは同時に運搬や調理の面倒と費用とを節約することになる。)我々は米、罐詰のスープ、鶏肉で、どうにかこうにか独立祭の晩餐をつくり上げ、ミカド陛下、米国大統領、並に故国にいる親しき者達の健康を祝して乾杯し、愛国的の歌を歌い、テーブルをたたいて、障子からのぞく宿屋の人々を驚かしたりよろこばしたりした。
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