中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(11) 高橋や國華ホールの前すぎていくよゆきけむ冬のさむよを
高橋や國華ホールの前すぎていくよゆきけむ冬のさむよを
[やぶちゃん注:「高橋」東京都中央区八丁堀の亀島川に架かる橋の名。「たかばし」と濁るのが正しい。「中央区郷土史同好会」のこちらの頁に、『亀島川に架かり、鍛治橋通りで八丁堀と新川を結ぶ。地区では古くから記録に残っている橋。江戸城と深川を結ぶ道であったと思われる。船舶の出入りが激しかったので、橋台の高い橋、つまり高橋という。赤穂浪士(堀部安兵衛)が泉岳寺への途で渡ったとも言われて』おり、現在の『名前の由来については、亀島川の河口付近に架けられたため船舶の出入りが頻繁で、橋脚の高い橋を架けたことに由来するといわれている。明治』一五(一八八二)年竣工の『鉄製ホイル・トラス橋は、初めて日本人技術者原口要によって設計されたという国産橋であったが、その後の大正八(一九一九)年に長さ四一・八メートル・幅二一・八メートルのRCアーチ橋に架け替えられた、とある。
「國華ホール」呉服の大店だった中島屋呉服店が現在の中央区八丁堀二丁目に持っていた百貨店ビルの中にあった国華ダンスホールのこと。前注同様、「中央区郷土史同好会」の別の頁によれば、中島呉服店は東京でも一流の呉服店で、大震災後も多くの呉服屋が廃業転業した中、三階建のビルを建てて中島屋百貨店として開店、昭和七(一九三二)年には、国華商事が四階を建て増しし、一階に私設市場(マーケット)十五店舗、四階に国華ダンスホールなどが入った、とある。このホールは盛時、『ディック・ミネなどが出演したり、モボ・モガ』の格好の遊興場として不夜城の活況を呈していたという(なお、リンク先にはそのころの太宰治関連の記載がある)『戦後まもなくは鉄鋼商社の木下商店(産商)ビルになり、その後倒産して撤退』した。現在の東京建物東八重洲ビルの位置に相当する。]