海士の屋は小海老にまじるいとゞ哉 芭蕉
本日二〇一三年十月二十日
陰暦二〇一三年九月十七日
海士(あま)の屋(や)は小海老(こえび)にまじるいとゞ哉
海士の屋の小海老に交る竈馬(イトヾ)哉
海士の屋は小海老もまじるいとゞ哉
[やぶちゃん注:元禄三(一六九〇)年、芭蕉四十七歳。この年の九月十三日から二十五日まで、当時、大津にあった芭蕉は門人千那(せんな)らのいた琵琶湖西岸の堅田に滞在した。堅田滞在中、芭蕉は「拙者散々風引き候而(て)、蜑(あま)の苫屋に旅寢を侘び」(九月二十六日附茶屋与次兵衛宛書簡)たと記している。冒頭句は「猿蓑」所収で先の「病雁(びやうがん)の夜さむに落(おち)て旅ね哉」の句と並載する。「泊船」では同句同様、「堅田にて」の前書を有する。二句目は「帆懸船」所収の、三句目は「軒傳ひ」の句形。因みに私は二句目の句形で腑に落ちる。
なお、本句は高校の古典の教科書にもしばしば載る通り、向井去來の「去來抄」の「先師評」に「猿蓑」選句入集時のエピソードが載る(同じものは「無門關」にも所収)。以下に示す(底本は岩波文庫ワイド版「去来抄・三冊子・旅寝論」に拠った)。
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病鴈のよさむに落て旅ね哉 はせを
あまのやハ小海老にまじるいとゞ哉 同
さるみの撰の時、此内一句入集すべしと也。凡兆曰、病鴈はさる事なれど、小海老に雜るいとゞハ、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸也と乞。去來ハ小海老の句ハ珍しといへど、其物を案じたる時ハ、予が口にもいでん。病鴈は格高く趣かすかにして、いかでか爰を案じつけんと論じ、終に兩句ともに乞て入集す。其後先師曰、病鴈を小海老などゝ同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり。
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この「先師評」、芭蕉の「笑ひ」は「病雁の」の句を自身乾坤一擲の句として、則ち、去来の評言を全的に支持するものとして、去来によって自画自賛的に示されているのであるが、実は最晩年の芭蕉の「軽み」の詩想から考えるならば、寧ろ「海士の屋は」の句こそが、従来の事大主義的な芭蕉自身の偶像的自己の、その殻を割り砕くべき世界を拓いた句でもあったと私は思っているのである。だからこそ、この芭蕉の「笑ひ」の意味は多層的で分裂的であって、如何にも芭蕉らしい笑みであると感じている。この「多層的で分裂的」とは、安藤次男が「芭蕉」(昭和五四(一九七九)年中央公論社刊)の中で言ったように、『おそらく芭蕉は』この同く堅田で詠まれた両吟の『優劣を尋ねたのではない。いずれも湖西の秋の哀を詠んだ作品ながら、連衆の心を持つ作りと孤心をもつ句作りと孤心のにじみ出た句作りとが生まれるのは俳諧の宿命、そのいずれを採るかは、このとき只今きみたちの心を染める色合によることだ、と芭蕉は言っているのだろう』という意味に於いてである。
因みに今も思い出すのであるが、遠い昔、初めてこの部分を授業した際、教師用指導書の中に、この「小海老」が孤高の芭蕉で、「いとど」(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ Diestrammena apicalis)が有象無象の詩想を持たぬ似非俳諧師とする解釈があるというのを読んで眉唾を感じながら、つい、その際下劣な言志とも言えぬ言志的噴飯解釈を面白がって授業で紹介してしまった自分自身を今も恨む気持ちが未だに消えずにあることをここに告解しておきたい。]
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