人間に鶯鳴くや山櫻 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
人間に鶯鳴くや山櫻
人里離れた深山の奧、春晝の光を浴びて、山櫻が咲いて居るのである。「人間」といふ言葉によつて、それが如何にも物珍しく、人蹟全く絶えた山中であり、稀れに鳴く鶯のみが、四邊の靜寂を破つて居ることを表象して居る。しかるに最近、獨自の一見識から蕪村を解釋する俳人が出、一書を著して上述の句解を反駁した。その人の説によると、この句の「人間」は「にんげん」と讀むのでなく、「ひとあい」と讀むのだと言うのである。即ち句の意味は、行人の絶間絶間に鶯が鳴くと言うので、人間に驚いて鶯が鳴くといふのでないと主張して居る。句の修辭から見れば、この解釋の方が穩當であり、無理がないやうに思はれる。しかしこの句の生命は、人間(にんげん)といふ言葉の奇警で力強い表現に存するのだから、某氏のやうに讀むとすれば、平凡で力のない作に變つてしまふ。蕪村自身の意味にしても、おそらくは「人間(にんげん)」といふ言葉において、句作の力點を求めたのであらう。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。現今の読みも「人間」は「ひとあひ(ひとあい)」で、意味も人に対する懸想や愛想、人付き合い、交際、さらには文中評者の言うような行き過ぎる人々の人間(ひとま)の謂いでとっているように思われる。しかし朔太郎のこの「人間」を「にんげん」と読んで人跡の絶えた「人里離れた深山の奧」の景とするには聊か無理があるように思われる。かといって私は「ひとあひ」説によって里山の山桜と桜狩の喧騒とその合間の鶯という如何にもな景も今一つ好きになれぬのである。私は寧ろ誰とも妥協せずにこの句は、
人閒(じんかん)に鶯鳴くや山櫻
と読みたい欲求に駆られるのである。そこが花見の客がちらほらと行き来する場所であろうが、深山幽谷であろうが、そんなことは実はどうでもいいことだ(どうでもいいというのはどちらでもよいという謂いでもあるが、同時にその孰れかを同定することに意味はないという謂いでもある)。その「鶯」の音と「山櫻」を心眼でこの輪廻の哀しくそれでいて儚き哀れの人事と自然の間合い――「人閒(じんかん)」――に聴くしみじみとした思いを詠じたものと私は詠みたいのである。そこには朔太郎の人跡未踏の地の静寂も、評者の車馬人声の喧騒も包含され吸い込まれ消えてゆくであろう。]