中島敦 南洋日記 十月一日(水) 又は 「この手紙……変ですねぇ」(杉下右京風に)
十月一日(水)
船内朝食時間の遲きに懲りて、ジャボールにてパンを購め船に持込む。今朝ボーイをしてに燒かしめて食ふ。
朝來、小雨。涼し、晝食後、將棋。
夜、麻雀、
[やぶちゃん注:「朝來」「てうらい(ちょうらい)」と読み、朝からずっと続くこと、朝以来。
以下、同日附たか書簡(旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一三一)を示す。長いので途中に私の語注を配した。先に出た竹内虎三の詳しい話が載っていて興味深い。この人物、確かに魅力的だ。消息が知りたくなる。何方かその後の彼のことを知りませんか?
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〇十月一日附(消印ボナペ郵便局16・10・4。パラオ丸にて。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書)
九月二十八日。ヤルートは面白い島だよ。ここ迄來て、やつと、南洋へ來たといふ束がするね。島中で一番高い土地でも海面より五尺と高くないんだ。幅が二丁とはないから、大きな波が來ると、心配な位だ。椰子の木が、パラオのなんかに比べて、ずつと.セイが高い。パラオに白い砂はないが、ここは島中、砂ばかり。(土が無いんだ)だから、海水が又、ズツト澄んでゐる。今迄も隨分、海水のキレイなことを書いたけれど、このヤルートの海ほど、澄んでゐるのは、見たことがない。それに見える魚の種類の多いこと! 今朝は一時間ほど、あきずに海を覗(のぞ)いてゐた。こんなキレイな見物(ミモノ)が世の中にあるとは知らなかつたよ。底の珊瑚礁が美しい上に、その上を泳ぐ魚どもの色の、あざやかなこと。一番キレイなのはね、長さ一寸五分位の魚で、丁度、螢草(つゆくさ)の色を、もう少し濃くアザヤカにした樣な色のヤツがね。一杯に群れてあそんでる有樣だよ。ほんとに、なんてと言つていいか、判らない。水の上から朝日が射してくるとね、その靑い魚のヒラくしてるのがね、紫色になつたり、紺色になつたり、玉蟲色になつたり、色々に光りながら變るんだ。この靑い魚のほかに、二十種類ぐらゐの魚どもがあそんでるんだ。數にしたら千匹どころぢやないだらう。かなり大きい黑鯛ぐらゐのもゐるんだ。キレイだよ。見せてやりたかつたねえ。桓にも、ノチャにも、お前にも。
[やぶちゃん注:「五尺」一・五二メートル。「二丁」二一八・二メートル。「一寸五分」約四センチ六ミリメートル。]
○今日は日曜で、學校觀察もできないので、二日休息。
○夜は月が明るい。七日か八日の月なんだが、内地の滿月ぐらゐの明るさ。海岸へ涼みに行つたら、土人の靑年達が頻(シキ)りに、ギターを鳴らして歌(うた)を唱つてゐる。この島の歌もあるが、「支那の夜」なんぞも歌つてゐる。
九月二十九日。今日は、朝六時から公學校參觀察。朝六時から、といふと、大變早いやうだが、役所も學校も六時始まりなんだから、大したことはない。一年生の授業を見に行つたら、先生が、先づ言ふんだ。「今日は南洋廳のお役人が皆さんの授業を見に來(こ)られました。皆さんが行儀よくしてゐると、南洋廳(チヤウ)のお役人は大層喜ばれます」すると、土人の靑年の通譯がゐて、(一年坊主はまだ日本語が良く判らないから)それをマーシャル語で、言直す。すると六十人ばかりのチビの黑助共が、僕の方をふり返つて見て、「ヘー」といふやうな、恐入つたやうな顏をするんだ。南洋廳のお役人樣、くすぐつたくつて、しやうがない。
午前十時ヒルメシ。午後は、支廳の人と一緒に島内を歩き、カブアといふ大酋長の家をたづねた。一寸ハイカラな洋風の家だ。この酋長は年收(椰子のコプラによる)七萬圓ぐらゐあるさうだから、大したもんだね。酋長は三十位の大人しい靑年で、日本語も英語も出來る。サイダーや椰子水がや、タコの實を御馳走して呉れた。彼の細君が、は、非常な美人だ。色も内地人位。内地人としたつて、立派に美人で通ると思ふ。その細君の妹も出て來たが、之もキレイだ。二人とも日本人との混血なんだ。(元町の女學校あたりには、この程直のは、中々ゐやしない)この酋長の家の入口に、標札(へうさつ)がかけてあつて、「嘉坊(カブア)」と書いてある。をかしいだらう?
○夜は僕の歡迎會。支廳長以下國民學校、公學校の先生達、が出席。何とかいふ料理屋だつたが、日本の地の海の果まで來て、怪しげな藝者をあげようとは思はなかつた。苦笑ものだね。
[やぶちゃん注:「何とかいふ料理屋」当日の日記に「竹の家」とある。]
○土人の赤ん坊はトテモ可愛い。目が大きく、マツゲが長いからだね。大人になると、ミットモナクなるが。
九月三十日。今日の午後で、ヤルートとお別れだ。ヤルート滯在中、一人の役人と仲良くなつた。竹内といふ、實に氣持の良い男。僕より三つ四つ年上だが、上役と衝突ばかりしてそのため出世できないでゐる男だ。男前もいいし(?)、頭もハツキリしてると思ふが、頭のハツキリしてることは、役人(小役人)として一番、出世の邪魔になることらしい。餘り昇(シヨウ)給させないので腹を立てゝ、内務部長に「マタ、ゲツキフ、アゲヌ。バカヤラウ」と電報を打つたので有名な男だ。此の男とすつかり仲良くなつちまつて、今日は、この人の家で朝食をたべた。一緒に、役人といふもの(殊に南洋廳の役人)を痛快な程、罵倒(バタウ)した。さて、それから、色々話してゐる中に、「自分は一昨年、「風と共に散りぬ」の譯者、大久保康雄を案内して、マーシャルの離島へ行つた」と言出した。お前、おぼえてるかい? 田中西二郎が送つてくれた小説の本に、大久保康雄の南洋の小説が二つあつたことを。あれは皆、この竹内氏が話した材料なんだとさ。尤(モツト)も、當(タウ)の竹内氏は大久保康雄の小説を讀んではゐないんだがね。それでね、あの小説を竹内氏に讀ませてやりたいと思ふんだがね、決して急ぎは、しないから、何時でもいい、ヒマな時に、あの本二册(三册の中、なかを調べて見るんだぜ、大久保康雄のがあるかどうか)(マチガヘテ、風と共に散りぬを送つちや駄目だよ。「妙齡」つていふ、田中の送つて來たヤツだよ)送つてやつて呉れないか。宛名は、南洋群島ヤルート島。ジャボール。ヤルート支廳。竹内虎三樣」書留になんか、する必要はないよ。急ぐ必要もないぜ。賴むよ。僕は、この竹内つていふ男が好きなんだよ。どうして、こんな竹を割つたやうな氣性の男が、人から憎まれるのかなあ。
[やぶちゃん注:「大久保康雄」(明治三八(一九〇五)年~昭和六二(一九八七)年)は英米文学翻訳家で専門翻訳家の草分け的存在である。茨城県生。慶應義塾大学英文科中退。大宅壮一のジャーナリスト集団に属して翻訳を修業、昭和六(一九三一)年に最初の訳本ポール・トレント「共産結婚」を刊行、昭和一三(一九三八)年には中島も述べているマーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」の完訳を刊行した。昭和一六(一九四一)年頃には立ち上げた同人誌に小説を執筆したりもしている。戦後、絶版となっていた「風と共に去りぬ」を復刊してベストセラーとなり、ヘンリー・ミラーの主たる作品やナボコフ「ロリータ」の純文学の他、クロフツ「樽」やコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズ、ハガード「洞窟の女王」などの推理・SF小説なども含む、現代米文学を中心に多くの訳書がある。参照したウィキの「大久保康雄」によれば、『大学で教鞭をとる傍ら翻訳にあたる多くの翻訳者とは一線を画し、生涯教職とは無縁で、職業翻訳家として次々に翻訳を発表。日本の英米文学紹介者の中で独特の活躍を続け、彼以後様々な職業翻訳家が活動するようになった』。『下訳者たちを駆使し約55年にわたり膨大な「大久保訳」を生み出しており、「大久保工房」と呼ばれた下訳者の中には、戦前からの付き合いの中村能三、田中西二郎の他、白木茂、高橋豊、加島祥造など、後に独立し名を成した翻訳家たちが多くいる』。『面倒見の良い人物で、下訳者や編集者は大した用事はなくてもよく大久保のもとを訪れていたと伝えられる』とある。「妙齡」という作品は不詳だが、ネット検索を掛けると雑誌『日本文学』(二〇一二年十二月日本文学教会刊)に杉岡歩美という方の『中島敦〈南洋行〉と大久保康雄「妙齢」』という論文が載るので関心のある向きはそちらを参照されたい。なお、大久保のヤルート到着は昭和一四(一九三九)年六月のことであったことがこちらの方のブログ記載で分かった。]
竹内氏はね、役人としても相當な手腕をもつてると思はれる。島民管理に直接、當つてゐるんだが、大變島民に慕はれてゐるらしい。最近ヤルート島の土人でに五日音樂隊を作らせ(土人は音樂が好きだからね)、それを率ゐて、東の方の離れた島々を廻つて歩くんださうだ。僕も、それについて行きたくて、し方がなかついんだが、もう豫定が決つてゐるので駄目だ。彼の話によると、東の島々ののどかさは何ともいへないらしい。竹内氏が一人、朝、島へ着くね、さうすると、島中の土人が、一日がかりで、彼一人のため歡迎の準備をするんだとさ。そして夕方になると、酋長の家の庭に、村中の靑年や娘が、歌を唱ひながら集まつてくる。そして女達はそれぞれ今日作つた花輪を持ち、一人一人、竹内君の所まで來ては、プレゼント(この邊は英國人が來てゐたので、英語をつかふんだ)といつて頭や肩や膝(ヒザ)に花輪をかけてくれるので、しまひに、花で埋まつちまふんだといふ。それから篝火を炊いて、豚や雞や魚や、タロ芋の料理が山程出るんだといふから、堪らないねえ。竹内氏も日本人よりは島民が好きだといふし、島民も竹内氏が好きらしい。竹内氏はかう言つてゐた。「たとひ、世界がどうなつても、私は、太平洋の眞中のマーシャルの小島へ行けば、絶對に自分を支持し、世話してくれる土人達がある。それを考へると何だか心強い」とさ。どうも少し、この男一人の話をしすぎたやうだ。
○今日(三十日)の晝飯は、飯田といふ國民學校長の家で雞のスキヤキの御馳走になる。(朝、一寸、淀川のウチに寄つたら、雞ノスープ、と雞のカツレツとを御馳走してくれた。一番物資の無いといふ噂のヤルートで一番、澤山肉を喰ふわけだ。
飯田氏は横濱の人で、内海さんの弟子さ。ここでの今日の晝飯は、實に雞肉をドツサリたべたぜ。スキヤキの外に、公學校の先生が、島民料理「雞の石燒(イシヤキ)」を一羽もつて來てくれた。之が、減法(メツパウ)うまい。石燒つてのはね。椰子がらなどで火をおこして、それに石を數十入れて、石が眞赤になる迄熱する。それから、土地に室穴をほり、下に植物の葉を敷き、燒石をその上に竝べ、又、葉を敷いて、その上に毛をむしった雞を置き、又葉つぱ、それから又、燒石、それから葉、その上に砂を掛けて、二時間程埋めて、蒸し燒にするんだ。ウマイゼ。腿(モモ)の所なんか、足をもつて、おしたじを一寸つけて食ふんだが、本常にオイシイ。公學校の生徒に燒かせたんださうだ。完全に滿腹して(飯はくはずに、肉ばかり、たべちやつた)船に乘込んだ。船に乘る時、淀川のお父さんから、ウチハと革帶(バンド)(革ぢやない。島民細工のタコの纖維(センヰ)で編んだもの)、竹内氏からもバンド、公學校の先生から、バナナとパパイヤの贈物を貰つた。
三時出帆。貰ひものや、御馳走があつたから言ふんぢやないが、僕は今迄の島でヤルートが一番好きだ。一番開けてゐないで、ステイヴンスンの南洋に近いからだ。だが、竹内氏にいはせると、「南洋群島でヤルートが一番いい、といつたのは、あんたが始めてだ」さうだ。ヤルートは不便だ、とみんながコボスといふ。寂しいともいふさうだ。僕は、まるで反對だ。
◎南洋廳のお膝元のパラオで肉が喰へず、一番へンピなヤルートで、肉がフンダンに喰へるなんかは、をかしな話だ。
ヤルート(ヤルートに限らず、マーシャル群島)の土人は、とてもオシヤレだ。どんなボロ家にも手ミシンとアイロンだけは、ある。(これは、早くから、西洋人が入込んで來てゐた關係だらう)日曜には、男も女も、とても着飾つて教會へ行く。そのくせ、家と來たら、砂地の上に小石を竝べ、床(ユカ)なしで、むしろを敷き、その上に屋根をおほつて
作つて作るだけの粗末なものだ。町などのチヤンとした床(ユカ)のある家では、必ず緣の下に、ムシロを敷いて、使用人等が住んでゐる。
◎さて、又、これからは、以前來た道(コース)を道に西へ向つて行く譯だ。ヤルート―→クサイ―→ボナペ―→トラックの順に。ヤルートに、もつと滯在したい氣がする。
十月一日。一日中、海の上。上陸して、忙しいと忘れてゐるが、ヒマだと、お前達のことばかり考へて仕方がない。今日も食卓での話に、「もう東京では秋刀魚(サンマ)ですなあ」と誰かが言つた。歸りたいと思ふなあ。桓や格の病氣してる樣子や、お前が何かクヨクヨ心配して涙ぐんでる樣子が、目の前に浮かんで來て困る。しかし、いくらヤキモキした所で、お前からの消息(タヨリ)を見ることの出來るのは、早くて十一月の末、大抵は十二月になるのぢやないかと思ふ。隨分たよりないことだね。
[やぶちゃん注:ここ、郷愁切々と絶望感の中、敦はわざと無理におどけて洒落を言っているという気がする。以下、突如として中断するコーダ部分なども何か痛ましいという気さえしてくる。]
全く、今年の四月パンジイの花の世話をしてた頃は、樂しかつたが、あの頃、オレが今みたいに、みじめな身にならうとは思はなかつたなあ! 船の上で少しぐらゐゼイタクしてたつて、何の、たのしいことがあるものか。今は、まだ、身體(喘息)がの調子が良いから、いいんだが、パラオに歸つたあとのことを、考へると、クラヤミさ。マツクラだよ。何か、人事不省(ジンジフセイ)になるやうな劇しい病氣にでもなつて、フト、目が覺(サ)めて見たら、お前達の傍にゐた、といふやうなことにでもなれば、どんなにいいだらう。子供等にうつる病氣でさへなければ、どんな大病にでもなり度いと思ふ。もし、それで、お前たちの傍にかへされるんだつたら。
*
なお、この一三二書簡については、底本解題に珍しく詳細な注記があり、実はこの書簡は二枚のパラオ丸の「御晝食獻立」(先に出た通りの印刷されたものと思われる)二枚の裏に書かれていることが分かる。それぞれのメニューは、一枚が「昭和十六年十月三日金曜日」で、
澄スープ
犢肉カツレツ野菜添
ボムベイカレーライス
サラダ
御菓子
果實
珈琲
紅茶
で、もう一枚は「昭和十六年十月五日日曜日」のそれで、
澄スープ
ハリコットオクステイル
ポークソセーヂキャベヂ添
精肉カレーライス
サラダ
御菓子
果實
珈琲
紅茶
とある、と記されてある。ちょっと不思議なのはこの書簡の消印が十月四日とあることである。十月五日日曜日昼の献立表を何故、ここで便箋替わりに使用出来たのだろう? 変なことが気になる――僕の悪い癖――]
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