耳囊 卷之七 旋風怪の事
旋風怪の事
俗語にかまいたちと稱し、つむじ風の内に卷(まか)れて怪我する者あり。予がしれる人にも怪我なせし人あり。其事に付或人語りけるは、弓術に名高(なだかく)、與力へ被召抱(めしかかへられ)し安富運八子供に源藏源之進迚有(あり)しが、幼年の砌(みぎり)加賀屋敷原は門前なれば、右原へ遊び居(をり)しに、今の運八外へ用事有て通りしに、彼(かの)兩人の子供、つむじ風にしたがい𢌞り居しを運八見て、聲を掛(かけ)ぬれど答へもなくひた𢌞りける故、飛掛(とびかかり)て兩人を引出(ひきいだ)し宿元へ連歸りけるが、年かさ成(なる)小兒は黑き小袖を着しが、鼠の足跡の如き物一面に付居(つきをり)しと也。然れば打拂ひけると也。末の子は木綿の着服故あとは付(つか)ざりける。かまいたちといへる獸、風の内に有しや、又は鼠鼬(ねづみいたち)樣の物、是も風にまかてかゝる事ありしや、しらずと人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。本格怪異譚。しかし、以下の「かまいたち」の注で分かるように、この特徴は身体や物がすっぱりと切れることにある。本話柄では「鼠の足跡の如き物一面に付居」とあるだけで、切創の記載がない。何らかの飛散物質(植物の種や高高度からの雪や霰様の結晶物。雪の結晶は鼠の足跡のように見えぬことはないと私は思う)が黒地の衣服に付着もののしたようにも見え、鎌鼬の仕業とするには十分条件ながら必要条件のようには思われない。その点では標題の「旋風怪」は相応しいと言えよう。
・「加賀屋敷」現在の東京大学本郷キャンパスの位置にあった。
・「かまいたち」鎌鼬。突然皮膚が裂けて、鋭利な鎌で切ったような傷を生ずる現象。特に雪国地方で見られ、越後の七不思議の一つとされ、古来、妖怪の仕業と考えられた。妖怪としては旋風(つむじかぜ)に乗じて出現し、鎌のような両手の爪で人に切りつけるとされた。鋭い傷を受けるが痛みがないのを特徴とする。以下、ウィキの「鎌鼬」にある各種の伝承を見ると、『元来は「構え太刀」の訛りであると考えられているが、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』「陰」の「窮奇」に見られるように、転じてイタチの妖怪として描かれ、今日に定着している。根岸鎮衛の著書『耳袋』にも、江戸の加賀屋という屋敷で子供がつむじ風に巻かれ、その背中に一面に獣の足跡が残されており、これを「構太刀」と証するとの記述がある』とするが、私の所持する二本には「構太刀」なる記載はない。『ハリネズミのような毛とイヌのような鳴き声を持つ獣で、翼で空を飛ぶ、鎌か剃刀のような前脚で人を襲うともいう』。『人を切る魔風は、中部・近畿地方やその他の地方にも伝えられる。特に雪国地方にこの言い伝えが多く、旋風そのものを「かまいたち」と呼ぶ地方もある。寒風の吹く折などに、転んで足に切り傷のような傷を受けるものをこの怪とする』。『信越地方では、かまいたちは悪神の仕業であるといい、暦を踏むとこの災いに会うという俗信がある。越後七不思議の一つにも数えられる』。『東北地方ではかまいたちによる傷を負った際には、古い暦を黒焼きにして傷口につけると治るともいわれた』。また、『飛騨の丹生川流域では、この悪神は』三人連れで現われ、『最初の神が人を倒し、次の神が刃物で切り、三番目の神が薬をつけていくため出血がなく、また痛まないのを特色とするのだと伝えられる。この三神は親子、兄弟のイタチであると考える地方もある』とする。『奈良県吉野郡地方でも、人の目に見えないかまいたちに噛まれると、転倒し、血も出ないのに肉が大きく口を開くとい』い、『愛知県東部では飯綱(いづな)とも呼ばれ、かつて飯綱使いが弟子に飯綱の封じ方を教えなかったため、逃げた飯綱が生き血を吸うために旋風に乗って人を襲うのだと』し、『かまいたちによる傷で出血がないのは、血を吸われたためともいう』とある。『高知県や徳島県山間部など西日本では、これらの怪異に遭うことを「野鎌(のがま)に切られる」といい、草切り鎌が野原に置き忘れられた末に妖怪化したものの仕業と』考えられて、『鎌の怨霊が変じた付喪神(器物が化けた妖怪)ともいわれる』。『徳島県祖谷地方では、葬式の穴堀などに使った鎌や鍬は墓場に』七日の間『置いてから持って帰らないと野鎌に化けるといい、野鎌に遭った際には「仏の左の下のおみあしの下の、くろたけの刈り株なり、痛うはなかれ、はやくろうたが、生え来さる」と呪文を唱えると』もいう。『東日本ではカマキリやカミキリムシの亡霊の仕業とも』称され、『新潟県三島郡片貝町では鎌切坂または蟷螂坂(かまきりざか)という場所で、かつてそこに住んでいた巨大なカマキリが大雪で圧死して以来、坂で転ぶとカマキリの祟りで鎌で切ったような傷ができ、黒い血が流れて苦しむという』。『西国ではかまいたちを風鎌(かざかま)といって人の肌を削ぐものだといい、削がれたばかりのときには痛みがないが、しばらくしてから耐え難い痛みと出血を生じ、古い暦を懐に入れるとこれを防ぐことができるという』。『また野外ではなく屋内での体験談もあり、江戸の四谷で便所で用を足そうとした女性や、牛込で下駄を履こうとしていた男性がかまいたちに遭った話もあ』り、『青梅では、ある女が恋人を別の女に奪われ、怨みをこめて自分の髪を切ったところ、その髪がかまいたちとなって恋敵の首をばっさり切り落としたという話が』残るという。『このように各地に伝承されるかまいたちは、現象自体は同じだが、その正体についての説明は一様ではない』とある。続く、「古い文献での記述」の項。『江戸時代の尾張藩士・三好想山の随筆『想山著聞奇集』によれば、かまいたちでできた傷は最初は痛みも出血もないが、後に激痛と大出血を生じ、傷口から骨が見えることもあり、死に至る危険性すらあるという。この傷は下半身に負うことが多いため、かまいたちは』一尺(約三十センチメートル)『ほどしか飛び上がれないとの記述もある。また同じく三好想山によれば、かまいたちは雨上がりの水溜りに住んでいるもので、水溜りで遊んでいる者や川を渡っているものがかまいたちに遭ったとい』い、『北陸地方の奇談集『北越奇談』では、かまいたちは鬼神の刃に触れたためにできる傷とされている』。『江戸期の『古今百物語評判』によれば「都がたの人または名字なる侍にはこの災ひなく候。」とある。鎌鼬にあったなら、これに慣れた薬師がいるので薬を求めて塗れば治り、死ぬことはない。北は陰で寒いので物を弱らす。北国は寒いので粛殺の気が集まり風は激しく気は冷たい。それを借りて山谷の魑魅がなす仕業と言われている。都の人などがこの傷を受けないのは邪気は正気に勝てぬと言う道理にかなったことだと言う』。最後に「現象の科学的解釈」の項(但し、これには記載不全が指摘されている)。『近代には、旋風の中心に出来る真空または非常な低圧により皮膚や肉が裂かれる現象と説明された。この知識は一見科学的であったために一般に広く浸透し』ているが、『しかし、実際には皮膚はかなり丈夫な組織であり、人体を損傷するほどの気圧差が旋風によって生じることは物理的にも考えられず、さらに、かまいたちの発生する状況で人間の皮膚以外の物(衣服や周囲の物品)が切られているような事象も報告されていない』。『これらの理由から、現在では機械的な要因によるものではなく、皮膚表面が気化熱によって急激に冷やされるために組織が変性して裂けてしまうといったような生理学的現象(あかぎれ)であると考えられている。かまいたちの伝承が雪国に多いことも、この説を裏付ける。また、切れるという現象に限定すれば、風が巻き上げた鋭利な小石や木の葉によるものとも考えられている』(以下、砂嵐によって巻き上げられたり、突風で飛ばされて来た砂や小石を原因とする仮説の検証詳細が載るが、最後に『諸外国の文献や記録には、日本のかまいたちに類する現象はほとんど見られない』という点からは現象の科学的説明としては私には信じ難い)。因みに私は富山県高岡市の伏木中学校の二年当時(一九七〇年)の冬、校庭の中庭で作業実習をしていた折り、ある生徒の顔面がすっぱりと切られたのを実見したことがある。但し、この時、近くにいた別の生徒が実際に鎌を用いて除草していたこと、その彼が負傷した生徒の横に立って茫然としていたこと(私は現在もその人物の姓名を記憶している)、切れた瞬間を私は目撃していないこと、そして作業を監督していた教師がその場で即座に「彼の鎌が当たったんやない! 鎌鼬や!」と断言したという、やや奇異な印象に於いて、はっきりと記憶しているのであって、私自身は鎌鼬が真空を作って切創が生ずるという考え方には現在も懐疑的である。なお、その傷を負った生徒は後、顕在的に眼球の損傷を受け、視力の有意な低下を伴う後遺症を持ったことを記憶している。最早、四十三年前の出来事である。真相は何であったのかは分からぬ。しかし、私の人生の中で鎌鼬の体験は、この一度きりである。
・「まかて」底本には右に『(まかれてカ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『巻かれて』とある。
■やぶちゃん現代語訳
旋風(つむじかぜ)の怪異の事
俗語にて「かまいたち」と称し、つむじ風の内に巻き込まれて怪我をする者がある。
私の知っておる御仁にも実際に怪我をした者が、これ、おる。
そのことにつき、ある人が語ったことには、
「……弓術に名高い与力に召し抱えられた安富(やすとみ)運八と申すお方を御存知でしょう。……あの御仁の子供に源蔵と源之進と申す子(こお)が二人御座いますが、彼等が幼年の砌り、加賀屋敷の野っ原が門前で御座ったによって、かの野原にて遊んでおったところ、そこへかの運八がたまたま外へ用事のあって、野っ原の傍らを通りかかったところ、かの二人の子供が、旋風に従い、
――くるくる――くるくる――
と廻っておるを運八見て、何気に遊びをしているものとばかり思うて、呑気に声をかけたところ……
――くるくる――くるくる――
と廻るばかりで答えもなく、
――くるくる――くるくる――
と!
――ひたすらに! ひた廻る!
――それがどうも!
――己が意志にて経巡っておるのにては、これ、ない!……
と気づき、遮二無二、二人に飛びかかって、その妖しき旋風の内より引き出だいて、すぐに屋敷内へと連れ帰って御座ったと申す。
みると、年嵩(か)さの小児は黒き小袖を着して御座ったが、その表面には
――鼠の足跡の如きものが
――これ一面に
附着致いて御座った……
されば、あまりの不気味さにうち払ったと、申します。
末の子は木綿の着服で御座ったゆえ、そうした跡は附着しておらなんだとのことで御座ったが……『かまいたち』と申す妖獣……これ、風の内に潜む妖怪(あやかし)ならんか……または実際の鼠や鼬(いたち)のようなるものが、これ、たまたま一緒に風に巻き込まれて、このような跡をたまたま残したものに過ぎぬものか……よう分かりませぬ……」
とは、さる御仁の語ったことで御座った。
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