耳嚢 巻之七 正路の德自然の事
正路の德自然の事
文化三寅年三月四日芝車町邊より出火して吉原近邊迄燒亡し、數萬家此憂(このうれひ)にかゝり燒死の者多(おほし)。上(かみ)よりも深き御惠ありて、野宿の者を憐み給ひ數か所の御救(おすくひ)の小屋を立て、堺町葺屋町の芝居もの等へ被仰付(おほせつけられ)、焚(たき)出しの握り食等數日被下(すじつくだされ)、莫大の御慈悲難有事成(ありがたきことなり)りし。然れ共(ども)姦商の品、右費(つひへ)に乘じ賣物の品高値(かうぢき)になして、ことごとく利を貪る輩少からず。因之(これによつて)兩町奉行よりも觸出(ふれいだ)し、高利を制せられ、不同輩罪科にも處せられしが、別(わけ)て材木板類は圍ひ等の入用ゆへ、又人々爭ひ求めしに、常は壹兩に付(つき)百枚、百貮三拾枚もなす板を、五拾枚くらひに買賣(ばいばい)なせる間、問屋中賣(なかうり)ありしが、其中に甲州に本店ありて深川木場に商ひ店(みせ)ある問屋の内、段々御觸の趣に承り、兼て松板拾萬枚餘所持なせしを、出火以前の値段にて、山出(やまだ)しへ少々づゝの口錢(くちせん)を加へ仲買を放れ値賣致度(いたしたき)と、世上の爲を存じ町奉行所へ願ふ故、非常の節中賣にかまわず賣出(うりだ)すべき旨(むね)申渡し有(あり)て、則(すなはち)右奇どくの段公聽(くわうちやう)へも達し、御褒美として白銀(しろがね)等被下(くだされ)けるに、拾萬枚餘の松板、出火以前の値段を見合(みあはせ)、日數五日程に賣拂ひけるが、少々の利□にて大造成(たいさうなる)利分を得、殊に御褒美を給(たまは)りし事、誠に正路(しやうろ)は自然に加護も有(あある)事といふべき歟(か)。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。アップ・トゥ・デイトなちょっと粋ないい話。南町奉行(勤就任八年目)であった根岸が直に関わった大火復興処理の貴重な記録である。
・「文化三寅年」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年の夏。
・「正路」は「しやうろ(しょうろ)」と読む。正直な行為。
・「文化三寅年三月四日芝車町連邊より出火……」明暦の大火と明和の大火とともに江戸三大大火の一つとされる文化の大火。丙寅(ひのえとら)の年に出火したため丙寅の大火、車町火事、牛町火事とも呼ぶ。文化三年三月四日(新暦一八〇六年四月二十二日)に江戸で発生した。出火元は芝の車町(高輪の大木戸から東海道を南へ沿ってあった町。現在の港区高輪二丁目内で別名牛町とも言った)材木座付近で午前十時頃に発生した火は、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼、折しも西南の強風に煽られて木挽町・数寄屋橋へと飛び火、そこから京橋・日本橋の殆どを焼失させた。更に火勢は止むことなく、神田・浅草方面まで燃え広がった。翌五日の降雨によって鎮火したが、延焼面積は下町を中心に凡そ五三〇町(約五百二十五万六千平方メートル)、長さ二里半(約三・九キロメートル)、幅七町半(凡そ九八〇メートル)、焼失家屋は十二万六千戸(内、大名屋敷八十三、寺院六十三、主要神社二十、焼失町数五百三十四余、死者(焼死及び溺死)は一二〇〇人を超えたと言われる。このため本文にあるように町奉行所では被災者のために江戸八ヶ所(鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注では十五ヶ所とする)に御救(おすく)い小屋を建て炊き出しを始め、十一万人以上の貧民の被災者には御救米(米や支援現金)を与えた(以上は主にウィキの「文化の大火」と底本鈴木氏の注に拠った)。
・「御救の小屋」地震・火災・洪水・飢饉などの天災の際、被害にあった人々を救助するために幕府や藩などが立てた公的な救済施設(小屋)のこと。救小屋(すくいごや)。
・「不同輩」「同じくせざる輩」と読むか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『不用輩』(もちゐざるやから)で、すんなり従わない連中と遙かに通りがよい(「同」は誤写ともとれる)。こちらで訳した。
・「買賣なせる間、問屋中賣ありしが」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『賣買なせる問屋・中買有りしが』(正字化した)で、これもこっちが通りがよい(「間」と「問」は衍字が疑われる)。こちらで訳した。
・「深川木場」現在の深川地域内に当たる江東区木場。この木場(貯木場)は隅田川の河口に設けられ、江戸初期から江戸への建設資材の集積場として発展し、特に大火の度に紀州などから大量の木材がここに運び込まれた。
・「山出し」山で伐採し運び出したときの元値。
・「口錢(くちせん)」「こうせん」と読んでもよい。問屋が荷主や買主から徴収した仲介手数料・運送料・保管料のこと。
・「値賣」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『直賣』(正字化した。「ぢきうり(じきうり)」と読み、仲買人を通さずに問屋が直接販売することをいう)。これもこっちが通りがよい(「値」と「直」は衍字がやはり疑われる)。こちらで訳した。当時、問屋の直売りが厳しく禁じられていたことが分かる。
・「利□」底本には右に『(德カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『利潤』。これで訳した。
■やぶちゃん現代語訳
正直であることの徳は自ずから然るという事
先般、文化三年丙寅(ひのえとら)三月四日のこと、芝は車町(くるまちょう)辺りより出火、吉原近辺まで焼亡、数万の家屋が被災の憂き目を見、焼死致いた者の数もはなはだ多く御座った。
この時、お上よりも深き御恵みのあらせられ、野宿の者を憐みなさって数ヶ所の御救い小屋をお立てになられ、堺町や葺屋(ふきや)町の芝居小屋の者どもへも仰せつけあって、炊き出しの握り飯なんどを数日に亙ってお下しになられ、莫大なる御慈悲をお垂れになられたことは、これ、まっこと、有り難きことで御座った。
然れども、おぞましき人品を持ったる奸(かだま)しき商人の中には、この焼亡の損失に乗じ、売り物の品を、これ、法外なる高値(こうじき)になして、被災民の骨の髄までしゃぶり尽くさんが勢いの、尽く利を貪る輩が少のうなかったので御座る。
そこで両町奉行よりも御触(おふ)れを出だし、尋常ならざる高利を貪るを制して、これに従わぬ輩は重き罪科を以って処して御座ったが、その阿漕な商売の中にも、これ取り分け見逃しに出来ぬものが御座った。
別けても材木板の類いはこれ、焼け出された者どもが取り敢えずは応急に居住せる空間を遮蔽したり、判然とせずなった土地の境を示す囲い等として、これ、早急に入用で御座ったゆえ、また殆どの人々が争ってこれを求めて御座ったところが、常ならば一両も出せば百枚、百二、三十枚をも容易に求めらるるところの良質の松板などを、たった五十枚ばかりにて売買(ばいばい)致す問屋や仲買が多く御座った。
その中にあっても、甲州に本店のあって、深川木場に商い店(みせ)を構えて御座った問屋の内に、御触れの条々の趣きを承るにつけ、兼ねてより良き松の板材を十万枚余りも所持致いて御座ったを、――出火以前の値段にて――これは山出(やまだ)しに少々の仲買手数料を附加させただけの卸し値で御座った――仲買を通さずに卸し値で直接に販売致したき旨、世上のためと存じ、町奉行所へと願い出て御座ったゆえ、我ら、
「――非常の節なれば仲買に構わず売り出すを許す――」
べき旨の申し渡しを致いた。
この奇特なる行いは即座にお上の御耳にも達し、褒美として白銀(しろがね)なんどまでお下しになられて御座った。
この材木問屋はその十万枚に及ぶ松材の板を、出火以前の値段と全く同じにしたまま、貴賤を問わず平等に売り始め、日数(ひかず)五日ほどにして即座に完売致いたと申す。
一枚当たりはごく少量の利潤ではあったが、その十万倍なればこそ相応に大層なる利分をも得、殊にそれとは別にお上よりの御褒美を給わって、これ、結果としては意図ともせぬ大いなる福を得て御座ったことは、これまことに――正直であることは自ずから然るべきご加護もこれある――ということというべきで御座ろうか。
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