中島敦日記 昭和十六(一九四一)年九月十日至昭和十七年二月二十一日 電子化始動
[やぶちゃん注:以下は、筑摩書房版中島敦全集第三巻(昭和五一(一九七六)年旧版全集)に載る、中島敦の残存する唯一の日記(手帳類を正式な日記と見ずに。尚、其の他の日記は焼却されたものと推定されている)である、自昭和十六(一九四一)年九月十日至昭和十七年二月二十一日の「南洋の日記」(全集編者による呼称と思しく、本文にはただ「日記」とある)に載る日記の電子化注釈である。
この日記は喘息の漸次悪化に伴い、転地療養を考え始めた(底本年譜によれば、昭和十六年二月のことである)敦が、同年三月末を以って横浜高等女学校を休職(正式な退職届は六月十六日附であるがこれが事実上の退職となり、四月からは敦の代わりとして何と六十七歳の敦の実父田人が勤務した)、昭和十六年六月二十八日附で以って、当時日本の委任統治領であった南洋群島(内南洋)の施政機関支庁でパラオ諸島のコロール島にあった南洋庁(大正一一(一九二二)年に開設され太平洋戦争敗戦時に事実上消滅)に教科書編集掛(国語編集書記三級)として同庁内務部地方課勤務となってからのものである(南洋庁は文部省の所属ではなく、当時、外地と呼称された日本の植民地の統治事務・監督・海外移民事務を担当した拓務省の監督下にあった)が、在パラオ中の完全なものではない(現地赴任現着は七月六日)。但し、この日記の始まる九月十日以降、当時、植民地域となっていたミクロネシアの島々への巡検出張に従事するようになり、これについて彼は「實にイヤでイヤで堪らぬ官吏生活(蠟を嚙むどころではございませぬ。こんなあぢきない生活は始めてです)の中で唯一の息拔きの出張旅行」と告解する楽しみの日々でもあった(引用は底本の旧全集第三巻「書簡Ⅰ」の昭和十六年九月十三日附の実父中島田人宛書簡(同全集書簡番号一一七)より)。但し、最後には太平洋戦争の勃発に遭遇、同時期に悪化し始めた喘息のために昭和一七(一九四二)年三月十七日には東京へ出張(参照した底本年譜によれば『おそらくは東京轉勤の意を含めた出張のため』とある)、厳しい寒さの中で肺炎を発症し、世田谷の父田人の家で療養し六月に回復するも、八月末に南洋庁へ辞表を提出、九月七日附で官を免ぜられている(この間の七月、妻子を実家に帰している間に多量の手稿・ノート類を焼却しているが、本日記が残ったことは幸いであった)。その後、十月中旬より喘息の発作が激しくなり、心臓が衰弱、十一月中旬に世田谷の岡田病院に入院、十二月四日午前六時、宿痾の喘息のために同医院にて死去、多磨墓地に葬られた(奇しくも偶然のこと乍ら私藪野直史の遺骨も献体解剖終了後はこの墓地にある慶応大学医学部合葬墓に入ることになっている)。
この日記は原本は三十九丁七十八頁の二十×十六センチメートルの手帳で、底本全集で四十ページ(二段組)に及ぶもので南洋の風俗誌を生で語って頗る興味深いものである。まずはここブログにて順次電子化注釈をゆるりと行ってゆくこととする。踊り字「〱」「〲」は引用書簡なども含め、総て正字化した。底本編者による改頁記号(但し、解題によれば数字は総て敦自身が記入したものとのこと)は省略した(必要と思われる箇所では注で示した)。取消線は抹消を示す。]
日記 (昭和十六年九月十日――昭和十七年二月二十一日)
蠍座ゆ銀河流るるひと所黑き影あり椰子の葉の影
さやさやに椰子の葉影のさやぎゐて遠白きかもあめの河原は (七月)
[やぶちゃん注:第一頁に独立して書かれた短歌二首。]
○熱帶の一夜、ふと、歌舞伎座の地下室の店を思出すこと
○アミンタスの熱帶の薔薇
[やぶちゃん注:第二頁に独立して書かれたが、何故か総て抹消している。抹消の意図は何か? 「歌舞伎座の地下室の店」の思い出は何か例の秘かな記憶と結びついていたのではなかったか?
「アミンタスの熱帶の薔薇」これは恐らくイングランドの作曲家ジョン・ブロウ(John Blow, 一六四九年~一七〇八年)の結婚頌歌“Chloe found
Amintas”(クローエはアミンタスが泣き崩れているのを見つけた)及びそれに基づくものと思われる彼の弟子のヘンリー・パーセル(Henry Purcell 一六五九年~一六九五年)の歌曲“When first
Amyntas sued for a Kiss”(薔薇より甘くアミンタスが初めて唇を求めてきた時)に纏わる謂いであるらしいが、不学にして歌曲原話の内容を知らない。識者の御教授を乞うものである。しかしこの歌曲の題名だけでも明らかに前行の秘かな思い出との強い親和性を疑わせるものである。]