白梅や誰が昔より垣の外 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
白梅や誰が昔より垣の外
昔、戀多き少年の日に、白梅の咲く垣根の外で、誰れかが自分を待つて居るやうな感じがした。そして今でも尚、その同じ垣根の外で、昔ながらに自分を待つてゐる戀人があり、誰れかが居るやうな氣がするといふ意味である。この句の中心は「誰が」といふ言葉にあり、戀の相手を判然としないところにある。少年の日に感じたものは、春の若き惱みであつたところの「戀を戀する」思ひであつた。そして今、既に歳月の過ぎた後の、同じ春の日に感ずるものは、その同じ昔ながらに、宇宙のどこかに實在して居るかも知れないところの、自分の心の故郷であり、見たこともないところの、久遠の戀人への思慕である。そしてこの戀人は、過去にも實在した如く、現在にも實在し、時間と空間の彼岸に於て、永遠に惱ましく、戀しく、追懷深く慕はれるのである。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。この評釈は凄絶である。蕪村の姿がメタモルフォーゼしてランボーになる。……いや、伊東靜雄になつたと言ふのが正しい……私はこの評釋を讀んだ瞬間……伊東靜雄の詩集「反響」の一篇、
水中花
水中花と言つて夏の夜店に子供達のために賣る品がある。木のうすいうすい削片を細く壓搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の變哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤靑紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都會そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。
今歳(ことし)水無月のなどかくは美しき。
軒端(ば)を見れば息吹(いぶき)のごとく
萌えいでにける釣しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜(よ)と晝のあはひに
萬象のこれは自(みづか)ら光る明るさの時刻(とき)。
遂(つ)ひ逢はざりし人の面影
一莖(いつけい)の葵(あふひ)の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
の映像を鮮やかにダブらせてゐる自分を見出してゐたのである。……]