日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 21 湯元温泉への道程と男体山
路は二マイルばかりの間湖水に沿うている。これが中禅寺と湯元とを結ぶ唯一の街道なので、叢(くさむら)が両側から迫り、歩く人に触ったりするが、而もよく踏み固められてある。時々我々は半裸体の土民や背に荷を負った妙な格好の駄馬に行きあった。歩きながら赤坊に乳房をふくませる女が来る。間もなくもう一人、両肌ぬぎで日にやけた上半身をあらわし、駄馬を牽きながら片手で赤坊を荷物のようにかかえ、その赤坊がこんな風なぎこちない位置にいながら、乳を吸っているというのが来る。路は湖畔を離れて徐々に高い平原へ登る。ここ迄は深林中の、我国で見るような下生えの間を通って来たのである。今や我々は、暑くて乾き切った夕日が、一種異様の光で、これから我々が横切ろうとする何マイルかの平坦地を照す所に出て来た。この地域は疑もなく死滅した火山の床、即ち火口底なのである。黒蠅に似た所のある蠅が、我々を悩し始めた。刺すごとに血が出る。蝶はひっきりなしに見られた。大群があちらこちらに群れている。路には鮮かな色の甲虫類が沢山いた。またいたる所に、青と紫のあやめが、広い場所にわたって群生して咲いていたが、最も我々を驚かせたのは躑躅の集団で、我々はその中を文字通り何マイルも徒渉した。我々は男体山の頂上で、すでにこれ等の花が赤い靄(もや)のように見えるのに気がついていた。この高原は高い山でかこまれていたが、そのすべてに擢(ぬき)んでる男体は、遠く行けば行く程、近くなるように見えた。図85はここから見た男体である。再び我々が森林に入った時、あたりは全く暗かった。我々は疲れてはいたが、二マイル行った所にある美しい滝に感嘆することが出来ぬ程度に疲労困憊(こんぱい)してもいなかった。
[やぶちゃん注:「二マイル」3・2キロメートル。推測した旅宿から湯元に向かって道が中禅寺湖から離れて行く菖蒲ケ浜までは、地図上で約3・7キロメートルほどなので一致する。
「黒蠅に似た所のある蠅が、我々を悩し始めた。刺すごとに血が出る」原文は“A fly, not unlike the black fly, began to annoy us, bringing the
blood at every sting.”とあり、この“black fly”は「黒蠅」と訳すべきではなく、「ブユ」又は「ブヨ」(蚋)(双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidae)とするべきところである。吸血性で刺咬後の出血が見られ、相当に悩まされている(刺咬時に痛感がある)とみられるとことからは、アシマダラブユ
Simulium japonicum 又は、キアシオオブユ Prosimulium yezoense が疑われる。因みに私はかつて泊まった奥鬼怒川温泉の加仁湯のラウンジで、浴客を襲う後者を数分間で数十匹叩き落とし、それを見ていた宿の亭主から「勲章ものだ」と褒められてコップ酒一杯を奉じられたことがある。
「何マイルかの平坦地を照す所」戦場ヶ原である。戦場ヶ原は、標高約一三九〇から一四〇〇メートルの平坦地に広がる約四〇〇ヘクタールの湿原で、もともとは現在西部分を流れる湯川が男体山の噴火で堰き止められた堰止湖であったが、その上に土砂や火山の噴出物が積もり、さらにその上にヨシなどの水生植物の遺骸が腐らずに堆積して陸地化し湿原となったもので(以上はウィキの「戦場ヶ原」に拠る)、モースの「疑もなく死滅した火山の床、即ち火口底」という見立ては誤りである。
「二マイル行った所にある美しい滝」戦場ヶ原から三キロ程度の位置に湯ノ湖から流れ落ちる湯滝がある。落差五十メートル、幅二十五メートルで、華厳滝・竜頭の滝と並んで奥日光三名瀑の一つである。ここまで読んで気がついたのだが、モースの叙述にはかの華厳の滝の描写も、この日の湯元行で見たに違いない竜頭の滝のそれもない。当時は見学(特に前者は)が困難ででもあったものか? 識者の御教授を乞うものである。]
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