北條九代記 北面西面の始 付 一院御謀叛の根元 竝 平九郎仙洞に參る 〈承久の乱【一】 後鳥羽院御謀叛 西面の武士事始め〉
〇北面西面の始 付 一院御謀叛の根元 竝 平九郎仙洞に參る
同年四月の比より、後鳥羽上皇、鎌倉を滅さんと思召(おぼしめ)し立ち給ふ。往初(そのかみ)上皇御在位の御時より武臣既に天下の權取りて、王威を蔑(ないがしろ)に思ひ奉り、禁中の政道の衰へ行く事を憤り、御位を第一の皇子土御門〔の〕院に讓りて隱居(おりゐ)させ給ひ、この君御在位十二年の後、何の子細もおはしまさざるに、御位を下(おろ)し奉りて、第二の皇子順德院を以て御位にぞ即(つ)け奉らせ給ふ。是は當腹(たうふく)御寵愛の故とぞ聞えし。後鳥羽〔の〕院をば一院とも申し、叉は本院とも申す。土御門院をば新院とぞ申しける。是に依(よつ)て、本院新院の御中快(こゝろよか)らず。天下国家の政道は當今(たうぎん)、新院には任せ給はずして、 一向(ひたすら)本院の御計(おんはからひ)なり、然るに、本院は仙洞に籠り給ひ、和歌管絃の御暇(おんいとま)には國家の政理(せいり)を聞召(きこしめ)れ、又其間には專(もつぱら)武藝を事とし給ひ、院中北面の者の外に、西面(さいめん)の侍を置きて、諸國の武士を召集(めしあつ)めらる。往昔(そのかみ)白河院の御時に、始(はじめ)て、北面の侍を召し遣はれ、又西面と云ふものを置(か)れたり。今又本院武藝を好ませ給ひて、武士多く參り仕ふ。是偏(ひとへ)に關東を亡さばやと思召さるゝ御企(くはだて)の御用意とぞ覺えたる。
[やぶちゃん注:〈承久の乱Ⅰ 後鳥羽院御謀叛 西面の武士事始め〉底本頭書『承久亂源(一)武臣の跋扈』
本段より本格的に承久の乱へと突入し、主たる典拠も「吾妻鏡」から「承久記」(鎌倉中期に成立したと推定される軍記物。二巻。作者未詳。承久の乱の経過を記して論評を加えたもので、「吾妻鏡」では知り得ない京都側動静を詳細に伝えて史料的価値が高い。「承久兵乱記」「承久軍物語」などの異本がある)へとスライドするが、実は私自身、「承久記」を精読したことがない。されば同書の引用その他、個々の注にも時間が掛かると思われ、私自身、承久の乱の顛末をゆっくりと検証してみたくもあることから、以下、パートごとに分割して示すこととする。従って実際の本文は改行なしで連続していることをここにお断りしておく。まず以下に本パートを書くに当たって筆者が参考にしたと考えられる「承久記」の記載を引用する。なお、この参考当該箇所の同定については、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)を参考にさせて戴いた。引用は岩波新古典文学大系の「保元物語 平治物語 承久記」に載る慶長古活字本を底本とした。以下の部分は同書の「承久記上」の冒頭に現われるので、その冒頭総てを示すこととした。但し、私のポリシーに則り、漢字及び踊り字「〱」は正字化した。本文中の〔 〕は底本編者による補訂を示す(この注記は以下、略す)。
百王八十二代ノ御門ヲバ、後鳥〔羽〕院トゾ申ケル。隱岐國ニテカクレサセ給シカバ、隱岐院トモ申ス。後白河院ノ御孫、高倉院第四ノ御子。壽永二年八月廿日、四歳ニテ御即位。御在位十五箇年ノ間、藝能二ヲ學ビ給フルニ、歌仙ノ花モサキ文章ノ實モナリヌベシ。然リシ後、御位ヲ退カセマシマシテ、第一ノ御子ニ讓リ奉ラセ給ヌ。其後イヤシキ身ニ御肩ヲ双、御膝ヲクミマシマシテ、后妃・采女ノ止事ナキヲバサシヲカセ給ヒテ、アヤシノシヅニ近カセ給フ。賢王・聖主ノスナホナル御政ニ背キ、横シマニ武藝ヲ好マセ給フ。然ル間、「弓取テヨク打物モチテシタ、カナラン者ヲ、召ツカハヾヤ」ト御尋有シカバ、國々ヨリモ進ミテ參リ、又敕定ニ隨ヒテモ參ル。白河院ノ御時、北面卜云フ事ヲ始テ、侍ヲ近ク召使ハル、事アリケリ。此御時ニ又、西面ト云フモノヲ召ヲカレケリ。其比、關東へ仰テ、「弓取ノヨカラン者ヲ十人マイラセヨ」ト被ㇾ召シカバ、津田筑後六郎・賤間若狹兵衞次郎・原彌五郎・突井兵衞太郎・高井兵衞太郎、荻野三郎、且六人ヲゾ進セケル。
呉王劍革ヲ好シカバ、宮中ニ疵ヲカウブラザル者ナク、楚王細腰ヲ好シカバ、天下ニ餓死多カリケリ。上ノ好ニ下シタガフ習ナレバ、國ノ危ラン事ヲノミゾ、アヤシミケル。
以下、「北條九代記」本文に語注する。
「同年四月」承久三(一二二一)年四月。
「上皇御在位の御時」第八十二代後鳥羽天皇(治承四(一一八〇)年~延応元(一二三九)年)の在位は寿永二(一一八三)年八月から建久九(一一九八)年一月。その後を実子の土御門天皇(建久六(一一九六)年~寛喜三(一二三一)年)に譲位したが、彼は立太子もしておらず、践祚した時は満二歳であり、事実上の後鳥羽上皇による院政が敷かれた。
「この君御在位十二年の後、何の子細もおはしまさざるに、御位を下し奉りて」後鳥羽上皇は突如、土御門天皇に退位を迫って承元四(一二一〇)年十一月に異母弟である後鳥羽院第三皇子(本文にある「第二」は厳密には誤り。建永元(一二〇六)年に出家したが次男で異母兄の道助入道親王がいる)であった順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)に譲位させた。
「當腹御寵愛の故とぞ聞えし」順徳天皇の母女院藤原重子(寿永元(一一八二)年~文永元(一二六四)年)は後鳥羽天皇の寵妃であった。
「當今(とうぎん)」当代の天皇、今上天皇に同じい。順徳天皇のこと。
「西面の侍」「西面武士(さいめんのぶし)」。創設の時期は不明であるが、後鳥羽上皇がかなり早い時期(元久二(一二〇五)年以前)に置いたと推測されている院司の一つで、院の御所の西面の詰所に伺候して警固に当った武士集団の呼称。以後の諸記録中に新日吉社小五月会での流鏑馬勤仕・院中での蹴鞠奉仕・御幸の供奉等でその名が見える。当初から倒幕準備のための創設であったとする主張がある一方、「承久記」にもあるように武芸を好んだ上皇が、倒幕とは無関係に創ったものとする説もある。関東及び在京御家人を中心に構成され、西国の有力御家人や武勇に優れた武士が多く所属していた。承久の乱では上皇軍として参戦したものの一ヶ月あまりで鎮圧され、乱後は上皇の配流に伴って廃止された。]
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長く無沙汰していた「北條九代記」であるが、遂に承久の乱に突入する。
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