北條九代記 承久の乱【二】 後鳥羽院、仁科盛遠子息太郎を勝手に西面の武士とするも、義時の勘気に触れて盛遠は領地を没収される
信濃國の住人仁科(にしなの)二郎平盛遠とて、弓馬を嗜むものあり。子息太郎をば、十五になる迄元服せさせず、宿願の事ありて、子息を召連(めしつれ)熊野へ參籠致しけり。其折節一院も熊野に詣でさせ給ひしが、道にて參り合ひ奉る。「誰(たれ)ぞ」と御尋あり、しかしかと申す。最淸(いときよ)げなる童なれば召使はれんとて、西面にぞなされける、子共(こども)の召されて京都に伺候申す事は面目なりと思ひて、父盛遠も同じく參りて、仙洞に伺候致す。右京〔の〕權〔の〕大夫義時、この事を傳承(つたへうけたまは)り、關東御恩の侍(さぶらひ)、其免(ゆるされ)もなくて院中の奉行頗る心得ずとて、關東御恩の二ヶ所を沒收(もつしゆ)せらる。仁科盛遠深く歎き申す間、返遣(かへしつかは)すべき由院宣を下さる〻といへども、義時更に用ひ奉らず。
[やぶちゃん注:〈承久の乱Ⅱ 後鳥羽院、仁科盛遠子息太郎を勝手に西面の武士とするも、義時の勘気に触れて盛遠は領地を没収される〉底本頭書『承久亂源(二)仁科の領地沒收の事』
「承久記」(底本の編者番号11のパート)の記載。
其比、鎌倉ニ右京權大夫兼陸奧守平義時ト云フ人アリ。上野介直方二五代ノ孫、北條遠江守時政ガ二男ナリ。ケン威重クシテ國中ニアフガレ、政道タヾシウシテ王位ヲカルシメ奉ラズ。雖ㇾ然、ハカラザルニ勅命ニ背キ朝敵トナル。其ヲコリヲ尋レバ、信濃國ノ住人仁科二郎平盛遠ト云フヲノコアリ。十四・十五ノ子ドモ未元服モセサセズ、シユク願アルニヨリテ熊野へ參リケル。折節、一院御熊野マウデアリケルニ、道ニテ參アヒヌルニ、「誰ソ」ト御尋アリ。「シカシカ」ト申。「キヨゲナルワラハベナレバ、召仕レン」トテ西面ニゾナサレケル。子共ガ召ルヽ間、面目ノ思ヲナシテ、盛遠モ同ジウ參リケリ。權大夫此事傳承リテ、「關東御恩ノ者ノ、ユルサレモナクテ院中ノ奉公不二心得一」トテ、關東御恩二箇所〔沒〕シュセラレヌ。盛遠嘆キ申間、返シアタフベキ由、院宣ヲ被ㇾ下トイへ共、不ㇾ奉ㇾ用。
「仁科盛遠」(?~承久三(一二二一)年)は信濃仁科氏の祖。以下、ウィキの「仁科盛遠」によれば、桓武平氏平繁盛の末裔という(近年では、奈良時代に古代豪族阿倍氏または安曇氏が信濃国安曇郡に定住し、その支族が伊勢神宮の御領「仁科御厨」を本拠としたことを起源とする説や、奥州安倍貞任の末裔とする説もある)。仁科盛義(この西面の武士となった「太郎」か)の父。信濃国安曇郡仁科荘に住して仁科氏を称するようになった。後に後鳥羽上皇に仕えて北面武士となったが、後鳥羽院への臣従が鎌倉幕府に無断でなされたために所領を没収された(「承久記」本文の叙述とは微妙に齟齬するが、息子が西面の武士になった以上は彼が北面の武士に抜擢されるのは頗る自然ではある)。承久の乱が起こると後鳥羽上皇を中心とする朝廷方に付き、北陸道に派遣されて越中国礪波山で北条朝時の幕府軍と戦い、敗死した。]
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