春の暮家路に遠き人ばかり 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
春の暮家路に遠き人ばかり
薄暮は迫り、春の日は花に暮れようとするけれども、行路の人は三々五々、各自に何かのロマンチツクな惱みを抱いて、家路に歸らうともしないのである。かうした春の日の光の下で、人間の心に湧いて來るこの不思議な惱み、あこがれ、寂しさ、捉へようもない孤獨感は何だらうか。蕪村はこの悲哀を感ずることで、何人よりも深酷であり、他のすべての俳人等より、ずつと本質的に感じ易い詩人であつた。したがつてまた類想の句が澤山あるので、左にその代表的の句數篇を掲出する。
今日のみの春を歩いて仕舞けり
歩行歩行もの思ふ春の行衞かな
まだ長うなる日に春の限りかな
花に暮て我家遠き野道かな
行く春や重たき琵琶の抱ごころ
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「春の部」より。
「歩行歩行」は「あるきあるき」と読む。
「花に暮て我家遠き野道かな」は底本では「花に寢て我家遠き野道かな」であるが、これは「暮(くれ)て」の誤りであるので訂した。
この『薄暮は迫り、春の日は花に暮れようとするけれども、行路の人は三々五々、各自に何かのロマンチツクな惱みを抱いて、家路に歸らうともしない』という絵はまるでマグリット、いや、デルヴォ―の絵を思わせる慄っとする美しい同じ愁いに沈む顔の人々の群れだ。萩原朔太郎の凄さは発句評釈が本来の評釈から遙かに逸脱して、朔太郎的なシュールレアリスティックなまでにデフォルメされた自己の閉鎖された孤独世界へと読者を無意識に誘うことにある。だからこそ朔太郎は人口に膾炙し、それ故に既に鞏固な形象やイメージが形成されてしまっている虞れの高い蕪村の名句と呼ばれるもの、例えば「行く春や重たき琵琶の抱ごころ」のやうな句を、かくも掲示するに留めているのだと私は思う。]

