鉦叩き
ああっ……鉦叩きが鳴いている……
僕が鉦叩きを好むのは尾崎放哉の「入庵雜記」の「鉦たたき」に由来する。――そこで彼は、こう述べている――
「東京の郊外にも――澁谷邊にも――ちよいちよい居るのですから、御承知の方も多いであらうと思はれますが、あの、カーン、カーン、カーンと云ふ啼き聲が、何とも云ふに云はれない淋しい氣持をひき起してくれるのです。それは他の虫等のやうに、其聲には、色もなければ、艷もない、勿論、力も無いのです、それで居てこの虫がなきますと、他のたくさんの虫の聲々と少しも混雜することなしに、只、カーン、カーン、カーン………如何にも淋しい、如何にも力の無い聲で、それで居て、それを聞く人の胸には何ものか非常にこたへるあるものを持つて居るのです。そのカーン、カーンと云ふ聲は、大抵十五六遍から、二十二三遍位くり返すやうです、中には、八十遍以上も啼いたのを數へた‥ 寢ながら數へた事がありましたが、まあこんなのは例外です、そして此虫は、一ケ所に決してたくさんは居らぬやうであります、大抵多いときで三疋か四疋位、時にはたつた一疋でないて居る揚合――多くの虫等の中に交つて――を幾度も知つて居るのであります。
瞑目してヂツヽヽと聞いて居りますと、この、カーン、カーン、カーンと云ふ聲は、どうしても此の地上のものヽヽとは思はれません。どう考へて見ても、この聲は、地の底、四五尺の處から響いて來るやうにきこえます、そして、カーン、カーン、如何にも鉦を叩いて靜かに讀經でもしてゐるやうに思はれるのであります。これは決して虫では無い、虫の聲では無い、……坊主、しかし、ごく小さい豆人形のやうな小坊主が、まつい衣をきて、たつた一人、靜かに、……地の底で鉦を叩いて居る、其の聲なのだ、何の呪詛か、何の因果か、どうしても一生地の底から上には出る事が出來ないやうに運命づけられた小坊主が、たつた一人、靜かに、… 鉦を叩いて居る、一年のうちで只此の秋の季節だけを、佛から許された法悦として、誰に聞かせるのでもなく、自分が聞いて居るわけでも無く、只、カーン、カーン、カーン、……死んで居るのか、生きて居るのか、それすらもよく解らない…‥只而し、秋の空のやうにく澄み切つた小さな眼を持つて居る小坊主… 私には、どう考へなほして見ても、かうとしか思はれないのであります。
其の私の好きな、虫のなかで一番好きな鉦叩きが、この庵の、この雜草のなかに居たのであります。私は最初その聲を聞きつけたときに、ハツと思ひました、あゝ、居てくれたか、居てくれたのか‥‥それもこの頃では秋益々闌けて、朝晩の風は冷え性の私に寒いくらゐ、時折、夜中の枕に聞こえて來るその聲も、これ恐らくは夢でありませう。」