耳嚢 巻之七 仁義獸を制する事
仁義獸を制する事
或人正月の支度迚、麻上下(あさかみしも)あたら敷制置(しくせいしおき)けるを、鼠付(つき)て肩を喰破(くひやぶり)しを、妻子抔は心に掛(かけ)、其家從抔は怒り罵り、憎き鼠の仕業かな鼠狩せんとて、或は舛落(ますおと)し、わななどひしめきけるを、あるじ堅(かたく)制し、鼠はのり有(ある)物は喰ひうちなり、喰事(しよくじ)をあてがわざるゆへかゝる事もなしなん、更に心に掛(かく)べき事にあらずと、今より食事あたへよと切に申付(まうしつけ)、夢々鼠狩抔せじと堅く申付、
つゞれさす虫にも恥よよめが君
と一句なしける也。かゝる仁義の德なるゆへ無程(ほどなく)仕合(しあはせ)も宜敷(よろしく)、又鼠もかゝるわる事なさゞると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:徳義心で連関。一種の発句絡みの技芸譚とも言える。
・「舛落し」鼠取りの仕掛けの一つ。枡を斜め下向きにして棒で支えておき、枡内下に餌を置いて鼠が触れると枡が落ちて捕らえられるようにした罠のこと。
・「喰ひうち」「うち」は近世俗語表現の接尾語で動詞の連用形に附いて、~しがち、~するのが当然の意を現わす(因みに他にも、~しなれていること、及び、~するのは勝手であることなどの意にも用いた)。食いがち。
・「つゞれさす虫にも恥よよめが君」「つゞれさす虫」とは蟋蟀(こおろぎ)のこと。古人がその鳴き声を「肩刺せ裾刺せ綴れ刺せ」と、冬へ向かう季節柄、着物の手入れを促していると聞きなしたことに由来する。「よめが君」は鼠の忌み言葉で、特にこのシークエンスのように正月三が日に用いることが多い(地方では現在でも日常的に「お嫁さん」と呼ぶ)。家鼠は人の生活の近くに居り、食害などで嫌われる一方、大黒様の使いとされ、親しまれてもいた。正月には「鼠の年取り」として米や餅や正月料理を少量供える地方もある。語源説としては鼠は「夜目」が利くことから「夜目が君」と呼ばれ、それが鼠に対する信仰と重なり、家に来る福の神という意味で嫁が君と呼ぶようになったと言われる(「夜目」自体が邪眼として忌詞であったこととも関係があろうか)。句意は、
――しとやかな嫁という名を負うているのに着物を破るとは、接ぎを刺す(当てる)という名の蟋蟀にさえもお前は恥じるがよい――
といった感じか。
■やぶちゃん現代語訳
仁義が畜生をも制するという事
ある御仁、正月の支度とて、麻裃(あさかみしも)を新しく調えおいたところが、鼠がついて肩を食い破ってしまっていたがために、妻子などは縁起でもないとしきりに心配致し、家中の家来下僕なんどはもう怒り罵って、
「憎っくき鼠の仕業じゃ! 鼠狩り致しましょうぞ!」
とて、或いは枡落しじゃ、罠じゃ、と集まっては大騒ぎとなって御座ったところが、主人(あるじ)、それを堅く制して、
「鼠は糊気(のりけ)のある物を食らいがちなものじゃ。普段より鼠害に用心致いておればこそ、ろくな餌をも宛がってやらなんだゆえ、かくなる仕儀をもしでかしたのであろ。こと、目出度き正月も近きことなればこそ、これ以上騒ぎ立つるは、却ってもの騒ぎじゃ。嫁が君にもすぐに食事を与えてやるがよかろうぞ。」
とたって申しつけられ、
「ゆめゆめ、鼠狩りなんどを致いてはなるまいぞ。」
と再度、堅く申し付けられた後、
つゞれさす虫にも恥よよめが君
と一句、ものされたとのこと。
このような徳義心の徳あればこそか、ほどのぅ、この御仁、運が向いて出世昇進もよろしく、しかもまた、御家中にては不思議に鼠も、これとんと、悪さを致さず相い成ったとのことで御座った。
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