明恵上人夢記 27
27
同十九日の夜、夢に云はく、新宰相殿の御前に歩行(ぶぎやう)して來らる。懌の面、近く住して、一宿を經て還り去る氣色無し。成辨、怪しみて問ひて曰はく、「是、只事と思はず、是、明神の御前か。」答へ曰はく、「尓(しか)也。申すべき事ありて來る也。」問ひて曰はく、「何事か。」答へて曰はく、「京都の邊には住せずと思ひ候也」と云々。
[やぶちゃん注:「同十九日」元久二(一二〇五)年十二月十九日。
「新宰相殿」底本注は明恵と親交のあった藤原道家か、とする。九条道家(建久四(一一九三)年~建長四(一二五二)年)のこと。摂政九条良経長男で鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経の父。京都九条通に東福寺を建立した。夢のクレジットが正しいものとすれば、彼はこの翌元久三年春の父良経の急死によって九条家を継いでおり、その後も栄進を続け、まさに飛ぶ鳥を落とす栄華の頂点にあった人物である。なお、承久の乱後は朝廷で親幕府派の岳父西園寺公経が最大実力者として君臨していたため、政子の死や頼経の将軍就任も手伝って彼は安貞二(一二二八)年には関白に任命され、貞永元(一二三二)年に後堀河天皇が践祚すると道家は外祖父として実権を掌握、摂政となった長男教実が早世したために再び摂政次いで関白となったが、次第に幕府得宗家に反意を持つようになり、寛元四(一二四六)年に執権北条時頼によって頼経が将軍職を廃されるに至って政治生命を断たれてしまった(以上はウィキの「九条道家」を参照した)。
「御前」この直近で明恵の天竺行を神託で止めたところの春日大社(奈良県奈良市)と採る。
「懌の面」「よろこびのおもて」と訓じておく。]
■やぶちゃん現代語訳
27
同元久二年十二月十九日の夜の夢。
「新宰相殿が、私が祈り籠っておる春日大社にお徒(かち)にていらっしゃった。
満面の笑みを浮かべておられ、大社のお近くにそのまま御逗留なされ、一夜をお過ごし遊ばされた後も、これ、一向に京へお還りになられる気配もない。
されば、怪しんでお訊ね申し上げるに、
「……この度のこのご逗留はただごととは思はれませぬ。……これはもしや……春日大明神の御託宣にても御座候うか?」
とお訊ね致いたところ、新宰相殿は笑みのままに、お答えになられて、
「その通りでおじゃる。そなたに申すべきこと、これ、ありて来たれるものなり。」
と仰せられたによって、私は追って問うた。
「何事にて御座いまするか。」
新宰相殿は徐ろにお応えになられるに、
「――京都の辺りには、これもう――住みとうない――と思うておじゃる。」
と仰せられた。……
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