日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 25 湯元温泉にてⅡ
道路に沿って浴場が数軒ある。屋根の無いのもあれば、図87のように小屋に似た覆いがあるのもある。地面から多量の湯――文字通り煑(に)えくり返る泉で一秒間も手を入れていることが出来ぬ――がわき出ているのは実に不思議な光景だった。一つの温泉に十分間鶏卵を入れて置いたら、完全に茹って了った。これ等の温泉は、すべて同じ様な硫黄性の臭気を持っているらしく思われたが、而も村の高官の一人が我々の通訳に教えた所によると、それぞれ異った治療的特質を持っている。ある温泉は胸や脚の疼痛(いたみ)に利くことになっている、もう一つ別なのは胃病によろしく、更に別なのは視力の快復に効能があり、また別なのは脳病に、この温泉は何々に……という訳で、それぞれ異る治病効果を持っていることにされている。
ドクタア・マレーが手帳を持ち、私がかかる浴場に一つ一つ入っては、桶の隅に立って出口から流れ出る湯の方に寒暖計をさし出し、後には我々が何をするかと不思議に思ってついて来る老幼男女を随えて道路を歩いたのは、実に並外れな経験であった。ついて来る人達は入浴者を気にかけず、入浴者はついて来る人達を気にかけなかったが、これは全くしかあるべきである。それほ実に礼節と単純さとの絶頂であって、この群衆の間には好色な猫っかぶりなどはいない。浴場にはそれぞれ二人乃至八人(あるいはそれ以上)の入浴者がいて、中には浴槽の縁に坐っているのもあったが、若い娘、中年の婦人、しなびた老人等が、皆一緒の桶で沐浴する。私は率直に且つ明確に、日本の生活のこの一面を説明した。それはこの国民が持つ特に著しい異常の一つだからである。我々に比して優雅な丁重さは十倍も持ち、態度は静かで気質は愛らしいこの日本人でありながら、裸体が無作法であるとは全然考えない。全く考えないのだから、我々外国人でさえも、日本人が裸体を恥じぬと同じく、恥しく思わず、そして我々に取っては乱暴だと思われることでも、日本人にはそうでない、との結論に達する。たった一つ無作法なのは、外国人が彼等の裸体を見ようとする行為で、彼等はこれを憤り、そして面をそむける。その一例として、我々が帰路についた時、人力車七台(六台には一行が乗り、一台には荷物を積んだ)を連ねて、村の往来をガラガラと走って通った。すると一軒の家の前の、殆ど往来の上ともいう可き所で、一人の婦人が例の深い風呂桶で入浴していた。かかる場合誰しも、身に一糸もまとわぬ彼女としては、家の後にかくれるか、すくなくとも桶の中に身体をかくすかすることと思うであろうが、彼女は身体を洗うことを中止せずに平気で我々一行を眺めやった。人力車夫たちは顔を向けもしなかった。事実この国三千万の人々の中、一人だってそんなことをする者はないであろう。私は急いでドクタア・マレーの注意を呼び起さざるを得なかった。するとその婦人は私の動作に気がついて、多少背中を向けたが、多分我々を田舎者か野蛮人だと思ったことであろう。また央際我々はそうなのであった。
[やぶちゃん注:この段もすこぶる好きなシークエンスである。そして翻って今の日本を思う時、何とも言えない不思議な淋しさを感ずるのである。
「この国三千万の人々」ウィキの「国勢調査以前の日本の人口統計」によれば、この明治一〇(一八七七)年1月1日現在でその当時の人口(推定)は、既に
男性 18,187,000人
女性 17,683,000人
合計 35,870,000人
であった。]
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