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2013/10/01

恋重荷 世阿弥

戀重荷 世阿彌

 

[やぶちゃん注:底本としては国立国会図書館近代デジタルライブラリー版の大和田建樹著「謡曲評釈 第六輯」(博文館明治四〇(一九〇七)年~四一(一九〇八)年刊)の「戀重荷」を視認したが、一部の表記を漢字化し、送り仮名の一部を本文に出し、読みの一部を省略、句点の多くを読点化、踊り字は総て正字化した。また「地」を「地謠」、「後シテ」以降の「シテ」も総て「後シテ」とし、謠の部分の『「』を『〽』に変えてある。但し、以上の変更は主に先行公開した部分抜粋の梗概「綾鼓」と対照させるための仕儀あって他意はない。なお、同底本の頭書については前・中入・後に電子化した(変更は本文に準じ、引用部を「 」で括った。但し、字配りは再現していない)。更に最後に私の補注を附した。]

 

〔頭書1〕

   戀重荷

 

貴女を戀慕せし賤吏の、其れが爲め苦役を受けて遂に空しくなりたる事を作る。此の一曲は忝くも後花園天皇の御作なるを、觀世太夫第二世の結崎世阿彌元淸に賜はりて一番の能とせしめられしよし、同家の家傳にあれど、信僞は知らず。

    前

   ワキ 官人

   狂言 下人

   シテ 山科莊司

    後

   ワキ 前に同じ。

   ツレ 女御

   シテ 莊司の靈

    〇

   地は 京都

   季は 雜

 

〔本文〕

 

ワキ詞「抑(さて)も是れは白河の院に仕へ奉る臣下なり。さても我が君、菊を御寵愛あつて、毎年數多(あまた)の菊を植ゑ育てられ候。又ここに山科(やましな)の莊司(しやうじ)とて賤しき者の候。いつも菊の下葉(したば)を取らせられ候ふ間、申し附けばやと存じ候。又承り候へば、彼の者、如何なる折りにか、忝くも女御の御姿(おんすがた)を拜み申し、勿體(もつたい)なくも戀と爲(な)りたる由(よし)承り候ふ間、彼の者を召し出し尋ねばやと存じ候、いかに誰(たれ)かある。

狂言「御前(おんまへ)に候。

ワキ「山科の莊司に此方(こなた)へ來(きた)れと申し候へ。

狂言「畏つて候。いかに山科の莊司の渡り候ふか。

シテ詞「誰(たれ)にて渡り候ふぞ。

狂言「急ぎ御參りあれとの御事にて候。

シテ「畏つて候。

ワキ「いかに莊司、何(なに)とて此の間は御庭(おには)をば淸めぬぞ。

シテ「さん候、此の程所勞(しよらう)仕り候ひて、さて怠り申して候。

ワキ「尤もにて候。さて汝(なんぢ)は戀をするといふは誠(まこと)か。

シテ「さやうの事をば何(なに)とて知ろし召されて候ふぞ。

ワキ「いやいや、はや色に出でてあるぞとよ。さる間、此の事を忝くも女御聞こし召し及ばれ、急ぎ此の荷を持ちて御庭(おには)を百度千度(ももたびちたび)まはるならば、其の間に御姿(おんすがた)を拜ませ給ふべきとの御事なり。なんぼう有り難き御諚(ごぢやう)にてはなきか。

シテ「何と此の事を聞こし召し及ばれ、其荷を持ちて御庭を百度千度まはれとかや。百度千度とは、百度(ひやくど)も千度も持ちて廻(めぐ)らば、其間に御姿を拜まれさせ給ふべきと候ふや。

ワキ「げによく心得てあるぞ、なんぼうあり難き御事にてはなきか。

シテ「さらば其荷を御見(おんみ)せ候へ。

ワキ「此方(こなた)へ來り候へ、これこそ戀の重荷よ、なんぼう美しき荷にてはなきか。シテ「げにげに美しき荷にて候、たとひ叶はぬ業(わざ)なりとも、仰せならばさこそあるべけれ、ましてや是れは賤しき業(わざ)、さのみは隔てじ名を聞くも、

地謠〽重荷なりとも逢ふまでの、逢ふまでの、戀の持夫(もちぶ)に爲(な)らうよ、

シテ〽誰(たれ)踏み初(そ)めて戀の路、

地謠〽巷(ちまた)に人の迷ふらん、

シテ〽名も理(ことわ)りや戀の重荷。

地謠〽げに持ちかぬるこの身かな。

シテサシ〽夫れ及び難きは高き山、思ひの深きはわたづみの如し、

地謠〽何(いづ)れ以つてたやすからんや、げに心さへ輕(かろ

き身の、塵の浮世にながらへて、よしなく物を思ふかな。

ロンギ地謠〽思ひやすこし慰むと、露のかごとを夕顏の、黄昏時(たそがれどき)も早や過ぎぬ、戀の重荷を持つやらん、

シテ〽重くとも、思ひは捨てじ唐國(からくに)の、虎と思へば石にだに、立つ矢の有るぞかし、いかにも輕く持たうよ、

地謠〽持つや荷前(のざき)の運ぶなる、心ぞ君が爲めを知る、重くとも心添へて、持てや持てや下人、

シテ〽よしとても、此の身は輕し徒(いたづ)らに、戀の奴(やつこ)に成り果てて。亡き世なりと憂(う)からじ、

地謠〽なき世に爲(な)すもよしなやな、げには命ぞ唯賴め、

シテ〽しめぢが腹立ちや、

地謠〽よしなき戀を菅筵(すがむしろ)、伏して見れども寢らればこそ、苦しや獨寢(ひろりね)の、我が手枕(たまくら)の肩替(かたか)へて。持てども、持たれぬ、そも戀は、何(なに)の重荷ぞ、

シテ〽哀れてふ、言(こと)だに無くは何をさて、戀の亂れの、束(つか)の緒(を)も絶え果てぬ、

地〽よしや戀ひ死なん、報はばそれぞ人心(ひとごころ)、亂戀(みだれごひ)になして、思ひ知らせ申さん。

 

 

――中入――

 

 

〔頭書2〕

「たとひ叶はぬ」云々 力に及ばずとも勅命ならば是非も無きに。賤者が力役は手に入りたるものなればとの意。

「さのみは隔てじ」 親しく手に取りて運ばんとの意。

「戀の持夫」 戀を重き物體見なして云ふ。持夫は持ち運ぶ人夫。

「ちまたに人の」 街は道あまた出合ふ處にて人の迷ひ易ければ云ふ。千々色々にの意をも兼ねたり。

「わたづみ」 海なり。

「露のかごとを」 かごとは恨みをいふ。人のつれなきを恨むなり。

「夕顏の」云々 かごとを「いふ」に言ひ掛く。光源氏の黄昏時に夕顏の宿を訪ひし事、源氏物語夕顏の卷にあり。

「唐國の虎と思へば石にだに」 今昔物語に、「もろこしに李廣と云ふ人あり。一の虎李廣が母を害せり。人ありて李廣に告ぐ。李廣弓矢を取りて、虎のあとを尋ねて山野に追ひ至りて見るに、虎臥たり。李廣喜びて之を射る。見れば虎に似たる石なり。李廣が念力強き故に石に矢の立ちたるなり。」とある古事。

「いかにも輕く」  精神一到せば輕く持たれぬ事はあるまじの意。

「持つや荷前の運ぶなる」  荷前とは諸國の貢米の初荷を奉るるの意にて、年の終りに十陵八墓とて、天皇の御先祖方の御陵墓に、幣帛を奉らるる事あり。之を携へ行く勅使を荷前使と稱へて、十二月十三日に定めらるるなり。又其幣帛は箱に入れたる故に、「箱」を「運ぶ」に言ひかけたり。

「戀の奴」  戀の爲めに心身の使役せらるるを云ふ。萬葉集に此の詞あり。

「亡き世なりと憂からじ」  我が身は死亡しても恨みなしとの意。

「唯たのめ」云々  淸水觀音の御歌なりと云ふ歌に、「ただ賴めしめぢが原のさしもぐさ、我が世の中にあらん限りは」とあるを引きて、しめぢが「原」を「腹」立ちやに言ひ掛く。

「原立ちや」  成功もせられぬ戀を思ひ立ちたるが、我と我が身を恨むなり。

「よしなき戀」  分も分からぬ戀の意。

「菅莚」  戀を「す」ると言ひ掛け、莚より「伏して」を呼び起す。

「寢らればこそ」  眠られずとなり。

「肩替へて」  手枕の肩をかふると。重荷の肩をかふるとを兼ぬ。

「あはれてふ」云々  古今集戀の部に、よみ人しらず、「あはれてふ言ふだになくは何をかは、戀の亂れの束ね緒にせん。」とあり。戀に亂に亂れたる心を慰むるに足るものは、ああかはいそうなと先方の人が一言いうてくれるにありとの意。「亂れ」と云ふによりて、衣類などの事に取りなして、束緒もて其れをつくろはするよしに云へり。

「報はばそれぞ人心」  我怨靈の女御に取りつかば、其れこそ自業自得よとなり。恨みの極度を述ぶる詞。

「亂れ戀になして」我が戀ゆゑに亂るる心を移して、先方の心をも狂はして見せんの意。

 

 

ワキ詞「何と莊司が空しくなりたると申すか。言語道斷近頃不便なる事にて候ふぞや。總じて戀と申す事は、高き賤しき隔だてぬ事にて候へどもさりながら、彼の者の戀の心を止どむとの御方便(ごはうべん)にて、重荷を作つて上を綾羅錦繡(りようらきんしう)を以つて美しく包みて、いかにも輕(かろ)げに見せて持たせなば、彼の者思はんには、かほど輕げなる荷なれども、戀のかなふまじき故に持たれぬぞと心得、戀の心や止(と)まるべきとの御事にて候ふ處に。、賤しき者の悲しさは、是を持ち御庭を廻らば、御姿をまみえさせ給はん事を悦び、勢力を盡し候へども、もとより重荷なれば持たれぬ事を怨み、嘆きてかやうに身を失ひ候ふ事、返す返すも不便にこそ候へ。此の由を申し上げうずるにて候。いかに申し上げ候。山科の莊司重荷を持ちかねて、御庭にて空しくなりて候。かやうの賤しき者の一念は恐しく候、何か苦しう候ふべき、そと御出(おんい)であつて、彼の者の姿を一目御覽ぜられ候へ。

ツレ「戀よ戀、我が中空になすな戀、戀には人の、死なぬものかは。無慙の者の心やな。ワキ詞「これは餘りに忝なき御諚(ごぢやう)にて候。はやはや立たせおはしませ。

ツレ「いや立たんとすれば磐石(ばんじやく)に押されて、更に立つべきやうもなし。

地謠〽報いは常の世の習ひ。

後シテ〽吉野川岩(いは)切(き)り通(とほ)し行く水の、音(おと)には立てじ戀ひ死(し)にし、一念無量(むりやう)の鬼となるも、唯よしなやな誠(まこと)なき、言緣妻(ことよせづま)の空(そら)だのめ、

地謠〽げにもよしなき心かな、

シテ〽浮寐(うきね)のみ、三世(さんぜ)の契りの滿ちてこそ、石の上にも坐すといふに、我はよしなや逢ひ難き、嚴(いはほ)の重荷持たるるものか、あら恨めしや、葛の葉の、玉襷(たまだすき)、畝傍の山の山守も、

地謠〽さのみ重荷は。持たればこそ、

シテ〽重荷といふも思ひなり、

地謠〽淺間の煙(けぶり)あさましの身や、衆合(しゆがふ)地獄の重き苦しみ、さて懲り給へや懲りたまへ。

地謠〽思ひの煙(けぶり)立ち別れ、いなばの山風吹き亂れ、戀路の闇に迷ふとも、跡弔(と)はばその恨みは、霜か雪か霰か、終には跡も消えぬべし、是れまでぞ姫小松(ひめこまつ)の、葉守(はもり)の神となりて、千代の影を守らんや、千代の影をも守らん。

 

〔頭書3〕

「戀よ戀」云々  作者は詳ならざれど、當時おこなはれたる和歌なりべし。戀を一つの人間と見なして、やよ戀なる者よ、我中途半端にて捨てらるるようなる戀にしてくれりなよ、失戀のために死ぬる事は多き例なるぞとの意。莊司の靈が附きて言はするなり。

「報いは常の世の習ひ」  因果應報は世の常理ぞとなり。

「吉野川岩切り通し行く水の」  下の句は「音には立てじ戀ひは死ぬとも」にて、古今集戀の部に出でたるよみ人しらずの歌。岩切り通しは急流の形容。「行く水の」は「音」を呼び出すまでにて「立てじ」まではかからず。水の如く音に立てては人に知らしすまじとの意。

「言よせ妻」  言葉を寄する妻の意。重荷を寄せたるを云ふ。もとは萬葉集より出でたる詞なれど用法は違ひたり。

「空だのめ」  賴みにせし事のかひなきを云ふ。重荷を持たば見られんと思ひし女御の遂に見られずして止むみしを云ふ。

「恨めしや葛の葉の」  葛の葉は風に裏返りて裏を見すれば、「裏見」を「恨み」に言ひかけて常に用ふるより、「恨めしや」よりも續けたり。葛の葉の若葉が蔓に並びて出そめたるを、玉卷く葛など形容して歌によみたれば、「玉」の字に言ひ掛く。

「玉だすき」  畝傍の枕詞。

「畝傍の山守も」  是れは別に故事あるに非ず、常に薪を負ひて山路を登り下りする山守の如き力役者にてもの意。「葛の玉」「玉だすき畝傍」「畝傍の山守」「山守も重荷は」と、謂はゆる尻り取り文句にて一つ一つ續けたるまでなり。

「重荷といふも思ひなり」  戀の思ひが重荷となりたるといふを、重き火の心に掛けていふ。故に淺間の烟とつづけたり。

「衆合地獄」  地獄の一つ。兩山の間に挾まれて身をつぶさるるといふ苦界。

「衆合地獄」  兩山の間に挾みつぶされ、巖にて押し碎かれなどする地獄の名。[やぶちゃん注:ダブっているのはママ。表現が異なるので生かした。]

「立ちわかれ」云々  行平の歌を引く。煙の立つと言ひ掛く。「吹き亂れ」を云はん爲めなり。

「跡弔はば」云々  詩語を佛事もて弔ひ賜はらば、其の功德にて前世の罪業は消え失すべしとの意。此に於いて初めて迷ひを翻へしたり。

「是れまでぞ姫小松の」  さらば姫君よの意。女御は姫ならねど小松につづける故の詞としるべし。

「葉守の神」  木々を守る神を云ふ。我は前世の御庭守なれば、以後も又松の守護神と爲りて千代の陰を守り、合はせて君の千年を守り奉らんとなり。一念迷ひを去りて悟りしかば、恨み變じて、君を祝ひ奉る心となりたるなり。

 

 

□やぶちゃん補注

 まず最初に私が分からない能楽用語を「the能ドットコム」の「能楽用語事典」を参照にして注しておく。

・「サシ」能の構成要素の小段の名称の一つ。シテの登場や「クセ」(シテに関わるで主に地謠によって謡われるパート)の前にあることが多く、風景や心の内などが謠われる。複雑な節はなく、拍子に合わせずに、さらさらと謠う。

・「ロンギ」能の構成要素の小段の名称の一つ。役(多くはシテ)と地謠又は役と役が一問一答の形で掛け合って謠う。脇能物や鬘物の多くはロンギがあり、「クリ・サシ・クセ・ロンギ・中入」の順が定型になっている。仏教儀式の「論義」の形式を取り入れたともいわれ、「論義」と表記されることもある。拍子に合わせて謠われる台詞。

 

 さて、本作は「綾鼓」が原拠とした世阿弥以前の作である「綾太鼓」から生み出された別解釈の一曲である。中入り後をお読みになれば分かる通り、ここでは憤死した老人の霊の憤怒と絶望はみるみるうちに変容し、「綾鼓」の呪詛の鬼神は、ここでは葉守の神となって女御を守る守護神となるという、頗る対照的な結末となっている。増田正造氏は「能百番」(平凡社一九七九年刊)の「恋重荷」の項で、『「彼は初めから恋の奴(やっこ)になり果てて亡き世なりと憂からじと観念していただけに、一念無量の鬼となっても、また転心も早いのである」とする人もあり、「結末は不自然だが、ただの成仏ではなく、妃の守り神となる決心をするのが男心というわけか」、「世阿弥は、自分のコンプレクックスから脱け出せなかった人間の敗北を描きたかったのではないか」、「人間の作った階級の前で、人間それ自体が無慚に抑圧され、殺される姿を、綾鼓とは別に書きたかったのではないか。このシテは世阿弥の分身」との諸説があり、自然の精霊といったものに、老人の霊が昇格して行きつつあるとの解釈もある』と、百花斉放の所説を紹介なさった上で、『古作「綾の太鼓」が一方では「綾鼓」の直截さに継承され、世阿弥はそのテーマを、恋の重荷という和歌の言葉のような優雅さに包みつつ、この新しい能を書いた。別の主張だったのである』(「恋の重荷」は底本では傍点「ヽ」)と述べておられる。

 私は残念なことに両者ともに能舞台を見たことがないので孰れをも評する資格を持たない。持たないが、どうもこの極端に異なる二作には強い興味がある。いつの日か両者実見の砌り、じっくりと考えてみたいと思っている。

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