中島敦短歌拾遺(6) 書簡より / 中島敦短歌拾遺 了
[やぶちゃん注:以下、昭和十四(一九三九)年四月二十六日附山本開藏宛書簡より。この人物(不詳。有名な海軍軍人に同姓同名がいるが違うだろう)宛てのものは一通。何か人(冒頭に『牧野さんのことなどでわざわざ御禮なんか仰有つて頂きましては却つて恐縮に存じます』とある)を介した出来事への先方からの御礼に対する返信(葉書)で、先方からの来信(若しくは同封)に山本氏自身の短歌詠があったものと思われ(三首目の末尾参照)、その礼儀的な返しとして――仕方なく――記したものと思われる。消息文末尾に『御歌拜見致しました とりあへず即席のお返しを迄に、』として以下の歌を並べてある。内容からはさる人物の逝去に関わる追悼歌(若しくはその未知の故人の知人の傷心を汲んだもの)であるが、敦の消息文からは山本なる人物自身の(少なくとも直近に於ける)肉親の死ではないように思われる(山本へのお悔みの文句などが全く見当たらないからである)。実は管見する限り、中島敦の旧全集に載る書簡の中に載る短歌はたったこの三首のみなのである。というよりも現存する書簡類で彼は如何なる自作詩歌もそこに記していない。これはそれまでの例えば芥川龍之介などの文人書簡と比して極めて特異な感じを受ける。彼にとっての和歌は自己の大切な――そしてある時は秘やかな――内なる情念の発露としてあったもののように私には思われるのである。]
老いましてこの寂しさに堪へ給ふ人の涙を見るが悲しき
ちゝのみの父の嘆かす涙なれば、黄泉なる人も應へざらめや
女々しとて何かは嗤はむ俤をしぬびてわれも泣かむとするを(女々しとて云々の御歌に、)
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