生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 四 芽生 ヒドラ
四 芽生
單爲生殖では、たゞ卵細胞だけから子が出來るのであるが、これは卵細胞と精蟲とが揃うてあるべき筈の所を一方が缺けて居るといふわけであるから、やはり雌雄兩性の區別のある範圍を出ない。それ故、雌雄による生殖でも單爲生殖でも、雌雄が同體であつても異體であつても、皆これを有性の生殖と名づける。これに反して雌雄兩性の別とは全く無關係の生殖法も生物界には隨分行はれて居る。例へば一個體から芽が生じ、その芽が生長して新しい獨立の一個體となることもある。また一個體が分かれて二片となり、各片が生長して終に二個の完全な個體となることもある。かやうな芽生または分裂などによる生殖を總稱して無性生殖と名づける。有性生殖と無性生殖とは、その模範的の例を比べて見ると、全く互に無關係の如くに思はれるが、種々の異なつた例を殘らず集めて見ると、いづれの組に屬するか判斷に苦しむやうなものもあるから、決してその間に明瞭な境界を定め得べきものでない。「自然は一足飛びをなさず」といふ古諺は、この場合にもよく當て嵌るやうである。
[やぶちゃん注:「芽生」(Budding)現在は「出芽」という表現が一般的。
「自然は一足飛びをなさず」これは恐らくライプニッツの「連続律」(lex continui)の考え方である“natura non facit sultum”「自然は飛躍しない」が最も古いものかと思われる。総ての現象は系列の中にあってその系は間断なく連続していて飛躍がなく、それらを構成する個別な対象にあってもその状態は恒常的連続的に変化して飛躍はないという主張である。リンネの「植物学原理」や、またしばしば誤解されるが、ダーウィンの進化論にあっても語られている内容である。ダーウィンはこの「自然は跳躍しない」を引き、進化は漸進的であると主張し、進化は小さな遺伝的変異の蓄積によって起きる。その結果として体節数の変化といった大きな形態的変化が起きる可能性はあるものの、目や脳といった高度な組織や器官が一世代で出来ることはないとした。但し、ダーウィンの強力な支援者であったトマス・ハクスリーはこの主張には疑問を呈し、跳躍的な進化を先験的に排除すべきではないとして跳躍説を支持、これが後の突然変異説発見の基盤ともなった(以上の進化論部分はウィキの「進化論」の記載を一部参考にした)。]
淡水に産する「ヒドラ」といふ小さな蟲については已に前の章でも述べたが、夏この蟲を金魚鉢に飼うて「みぢんこ」などを食はせて置くと、圓筒形の身體の側面の處に小さな瘤の如き突起が現れ、つぎに瘤が延びて短い横枝となり、枝の末端には口が開き、口の周圍には細い絲のやうな觸手が何本か生じて、二三日の中に丸で親と同じ形の子が出來上がる。但し體の内部はまだ親と連絡して居るから、親の食つたものも子の食つたものも消化してしまへば互に相流通する。その中に親の身體からは更に別の方角に芽が生じ、子の身體からは小さな孫の芽が生じて、暫くは小さな樹枝狀の群體を造るが、子は稍々大きくなると親の身體から離れて獨立するから、永久的の大きな群體を造るには至らぬ。「ヒドラ」の芽生によつて蕃殖する有樣を明に説明するために、假にこれを人間に譬へていふと、まづ親の横腹に團子のやうな腫物が出來、これが次第に大きくなり横に延び出し、いつとはなしに頭・頸・胴などの區別が生じ、頭には眼・鼻・口・耳などが漸々現れ、肩の邊からは兩腕が生じて終に親と同じだけの體部を具へた一人前の子供となる。子供は最初の間は親の身體に繫がり、親から滋養分の分配を受けて居るが、小學校を卒業する位の大きさに達すると親から離れて隨意な場處に移り行き、親も子も共に芽生によつて更に繁殖する。かやうに想像して見たら「ヒドラ」の生殖法が如何なるものか明に知ることが出來よう。
[やぶちゃん注:「ヒドラ」「第四章 寄生と共棲」の「五 共棲」(直リンクはブログ「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(1)」)で詳細既注済み。]