日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 2 日光東照宮へ
落ついた所で我々は村落を見廻し、雄大な山の景色を楽しむのである。我々の背後で轟々(ごうごう)と音を立てる川は、私にカリゲイン渓流を思わせた。翌朝我々はこの島帝国に現在建っている最大の寺院、日光山の諸寺院に向けて出発した。これ等の寺院は第一の将軍と第三の将軍との埋葬地と関係がある。第一の将軍は二百五十年前に死んだ。我々は面白い形をした橋を渡ったが、この橋に近く並んでもう一つ、朱の漆を厚く塗った橋がかかっている。この橋は両端近くで、激流からそそり立つ高さ十五フィート直径二フィートの大きな石柱で支持されている。横木は石で、垂直の柱に枘(ほぞ)穴にして嵌(は)めてある。橋の両岸には高い柵があって、何人も渡ることを許されない。過去に於て只将軍だけがこの橋を渡れたのであって、参詣に来た大名ですら渡ることを許されなかった。
[やぶちゃん注:「カリゲイン渓流」原文は“Carrigain Brook”。ニューハンプシャー州ホワイト・マウンテン国立森林公園の中央に位置するキャリガン山近くの渓流を指すか。
「第一の将軍と第三の将軍との埋葬地と関係がある」日光東照宮は元和三(一六一七)年に江戸幕府初代将軍徳川家康を祭神とした神社。元和二年四月に駿府城(現在の静岡県静岡市)で亡くなった家康の遺体は直ちに久能山に神葬されたが、遺言によって一年後にこの地に移され、東照社として鎮座、その後の正保二(一六四五)年になって宮号を下賜されて東照宮と呼称されるようになったものであり、また、寛永一三(一六三六)年、現在の主な荘厳を極める社殿群が三代将軍家光によって大造替され、家光が慶安三(一六五〇)年に亡くなった後、遺骸がやはり遺言により寛永寺から日光東照宮輪王寺に葬られた事実を含めて述べたものである。
「面白い形をした橋」神橋の下流に架けられていた一般参賀用の日光橋。
「高さ十五フィート直径二フィート」神橋の石脚の寸法であるが、高さ約4・7メートル、橋脚支柱の直径が約61センチメートル。前に簡単に触れたこの神橋の構造(特に古形を保存している橋脚部)及び橋の沿革については増渕清司氏のサイト「栃木県の土木遺産」の「神橋」を参照されたい。]
* この橋に関係のある面白い事実が一つ。グラント将軍が一八七九年世界一周の途次、日光を訪れた時、この柵を取りはらって彼が渡れるようにしたが、謙遜な将軍はこの名誉を断った。
[やぶちゃん注:「グラント将軍」南北戦争北軍の将軍として知られ、後に第十八代アメリカ合衆国大統領となったユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant 一八二二年~一八八五年)は大統領職二期目を終えた(一八七七年三月)後に二年間に亙って世界旅行しており、その途次、明治一二(一八七九)年六月に国賓としてアメリカ合衆国大統領経験者で訪日を果たした初の人物として日本を訪れている。グラントは浜離宮で明治天皇と会見、増上寺で松を、上野公園では檜を植樹している。また、ここに示されたように日光東照宮を訪問した際には天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなった(以上はウィキの「ユリシーズ・グラント」に拠る)。因みに、この年の九月三日に第二次の来日から帰国の途についたモースの乗船した船には、実はグラントも同船していたのであった。磯野直秀「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には既に同年七月三日の上野精養軒での同人の歓迎会出席して面識があったが、実はこの時、モースはグラントに対して何か反感を抱いていたらしい。ところが対面してみて、その非を悟るや、慌てて自宅に戻って既に寝込んでいた息子ジョンを連れて再度戻り、グラントに会わせたというエピソードが綴られている。してみればこの注はそうした亡き(本書の刊行はグラント死去の三十二年後の一九一七年)グラント将軍(実際に大統領としての評価は多くのスキャンダルと汚職によってアメリカ最悪の大統領の一人とされている)へのオマージュでもあるのかも知れない。]
これ等の寺院や墳墓は実に驚嘆すべきものである。精巧、大規模、壮麗……その一端を伝えることすら私には全然出来ないことを、ここに白状せねばならぬ。見ること二時間にして、私は疲れ果てた。私はこれ等の寺院の小さな写真数葉を持っているが、それ等はこまかい装飾や、こみ入った木ぼりや、青銅細工や、鍛黄銅(しんちゅう)細工や、鮮かな彩色や、その他記録され難い百千の細部の其の価値を殆ど現わしていない。かかる驚く可き建造物の絵も従来一つとして出来ていない。一つの門を日本語で「日暮門(ひぐらしもん)」という。その緻密な彫刻の細部を詳しく見るのに、一日かかるからである。
[やぶちゃん注:「かかる驚く可き建造物の絵も従来一つとして出来ていない。」原文は“No drawings have yet been made of these marvelous structures.”――如何なる絵も未だ嘗て(ここにはモースのスケッチも含めての謂いであろう)一枚としてこれらの驚くべき構造を描いてはいない、描き出すことは不可能だ、というのであろう。
「日暮門」原文は“whole day gate”。モースが語る通りの由来を持った陽明門の別称。]