琅玕の片足 大手拓次
琅玕の片足
私は過去を顧る。私は抑壓せられて、苦しい殘虐の中から、暗い星穴の過去へ逃れた。過去を抱かうとしたが、過去も亦ちぢれちぢれの蜘蛛の絲にからまれてゐる。褐色の煤が玉をなしてゐる。
その過去は細つたなりをしてふらふらと宙に迷つてゐる。私はそれを死人の手のやうな力のない鉤(かぎ)で搔き寄せようとしてゐる。私は決して過去を讃美しようとはしない。むしろそんな芳烈な香の無い過去をしげしげと嫌つてゐた。その過去を引きよせて、その中に慰めを求めようとする今の心は、目もあてられないほどに腐爛してゐる。悲しみは古い沼のなかに浮く靑い藻のやうに陰氣に温かい。嫉妬の白い鬼はいぶかしく坐つてゐる。
紫藍色の車はせはしく過去へきしる。
わたしの過去は醜い蟹のやうにあゆんでゐる。折れて曲つた足にはいろんな物がくつついてゐる。
過去は香箱のなかにうたたねをしてゐる。
こはれ易いその飾りのなかに果敢ない私語をもらしてゐる。
[やぶちゃん注:「琅玕」は「らうかん(ろうかん)」と読み、
暗緑色または青碧色の半透明の硬玉の名。転じて美しいものの譬えにも用い、色がその鉱物に似るところから青々とした美しい竹の謂いでもあるが、無論ここはその鉱物、英語で“Imperial Jade”(インペリアル・ジェイド)と呼ばれる最高級品の翡翠のことを指す。思潮社版「大手拓次詩集」では第一段落の「ちぢれちぢれの蜘蛛の絲」を、
過去を抱かうとしたが、過去も亦ちぎれちぎれの蜘蛛の絲にからまれてゐる。
とし(「絲」は底本では「糸」)、「紫藍色の車はせはしく過去へきしる。」の後の一行空きはなく、しかも、最後の二つの段落は変則的に二字下げとなってしかも「私語」に「ささやき」のルビを振っている。
過去は香箱のなかにうたたねをしてゐる。
こはれ易いその飾りのなかに
果敢ない私語(ささやき)をもらしてゐる。
この部分の詩形が異様に異なるので、思潮社版の全詩を再度本テクストの正字表記に準じて表示しておく。
琅玕の片足
私は過去を顧る。私は抑壓せられて、苦しい殘虐の中から、暗い星穴の過去へ逃れた。過去を抱かうとしたが、過去も亦ちぎれちぎれの蜘蛛の絲にからまれてゐる。褐色の煤が玉をなしてゐる。
その過去は細つたなりをしてふらふらと宙に迷つてゐる。私はそれを死人の手のやうな力のない鉤(かぎ)で搔き寄せようとしてゐる。私は決して過去を讃美しようとはしない。むしろそんな芳烈な香の無い過去をしげしげと嫌つてゐた。その過去を引きよせて、その中に慰めを求めようとする今の心は、目もあてられないほどに腐爛してゐる。悲しみは古い沼のなかに浮く靑い藻のやうに陰氣に温かい。嫉妬の白い鬼はいぶかしく坐つてゐる。
紫藍色の車はせはしく過去へきしる。
わたしの過去は醜い蟹のやうにあゆんでゐる。折れて曲つた足にはいろんな物がくつついてゐる。
過去は香箱のなかにうたたねをしてゐる。
こはれ易いその飾りのなかに
果敢ない私語(ささやき)をもらしてゐる。
個人的には散文詩である以上、「ささやき」のルビ以外、思潮社版詩形を私は支持しない。]