日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 11 中禅寺湖到着
長い、辛い、然し素晴しい徒歩旅行を終えて、我我は中禅寺湖のほとりに着いた。この湖水は径二マイル、一方をめぐるのは一千五百フィート、あるいはそれ以上の急な山々で、北には有名な海抜八千フィートの男体(なんたい)山が湖畔から突如急傾斜をなして聳えている。湖床は明瞭に噴火口であったらしい。砂浜は見えず、岸にはあらゆる大きさの火山岩石が散在し、所々に熔岩や軽石がある。男体山は日本の名山の一つで地図には Nantai とあるが、ミカドが代ると共に新しい名前をつけたことがあるので、別名も数個持っている。一八六八年の革命の後、ミカドがこれに新しい名を与え、そして古い名は、それが何であったかほとにかく、放棄されて了った。これ――即ち古い名を変えること――は我々には、不思議に思われる。例えば江戸はこの革命の後に東京――東の首都――と名づけられた。だが、我々とても、それはインディアンの名を英語の名に代えたのではあるが、同様な変更を行った。シャウムウトがボストンになり、ナウムケーグがセーラムになった如きはその例である。
[やぶちゃん注:「湖水は径二マイル」“a body of water, miles across,”。「二マイル」は約3・2キロメートル。中禅寺湖は面積11・62平方キロメートル、周囲の長さは約25キロメートルあるが、円形はしていないから「直径」というのは馴染まない。試みに、登って来て中禅寺湖が開けて見える現在の立木観音入口交差点から、湖を差し渡して真正面に見える対岸の大日崎の根の部分までを計測してみると、ズバリ3・2キロメートルである。このことから、これは「直径」ではなく、湖に臨んだ際の対岸との差し渡し(“across”)の距離であることが分かる。
「一方をめぐるのは一千五百フィート、あるいはそれ以上の急な山々」約457メートル。一見解せない数値であるが、中禅寺湖の標高自体が1269メートルで、湖畔立って南岸の峰を時計回りに見ると、半月山(1753メートル)・社山(1826メートル)・太平山(1960メートル)・シゲト山(1835メートル)・中山(1519メートル)と続いている。最も低い中山と中禅寺湖の高低差が250、最も高い太平山とのそれは691で、その平均は471メートルとなり、中禅寺湖畔に立ったモースの一番右手前によく見えたはずの半月山は、その位置との高低差が487メートルとなり、中禅寺湖から「一千五百フィート」の高さの山にほぼ一致すると言えるように思われる。
「海抜八千フィートの男体山」「八千フィート」は2438メートル。男体山の正確な標高は2486メートルで換算すると8156フィート。
「ミカドが代ると共に新しい名前をつけたことがあるので、別名も数個持っている」これは元号や社寺名(廃仏毀釈による神社仏閣名の変更)・モースも述べている維新後の地名変更のなどと混同しているように感じられる。男体山は確かに別名として二荒(ふたら)山・黒髪山・国神山という名を持つが、ここに書かれたような別名由来の事実はない。
「シャウムウトがボストンになり、ナウムケーグがセーラムになった」原文は“Shawmut became Boston and Naumkeag became Salem.”。“Shawmut”はマサチューセッツ州ボストン市のある半島の名ショーマット半島(Shawmut
Peninsula)として残る。この名は先住インディアンのアルゴンキン族の言語の“Mashauwomuk”という言葉に由来するが、この言葉の意味はよくわかっていない。この半島をさす名称として「ショーマット」が現れた最初の記録は一六三〇年であったと参照したウィキの「ショーマット半島」にはある。一方、モース所縁のマサチューセッツ州エセックス郡にあるセーラムは、古くから貿易港として栄え、十七世紀末には忌わしき魔女狩り事件でも有名になった都市であるが、ここもネイティヴ・インディアンがかつては“Naumkeag”と呼んでいた地域であった。同地の川の名や歴史的建造物にその名を残している。]
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