此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
本日二〇一三年十月 三十日
陰暦二〇一三年九月二十六日
所思
此道(このみち)や行人(ゆくひと)なしに秋の暮
秋暮
この道を行く人なしに秋の暮
人聲や此道かへる秋のくれ
所思
此道を行人なしや秋のくれ
[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十六日の作。
第一句目は「其便」、第二句目は元禄七年九月二十三日附の窪田意専・服部土芳宛及び同月二十五日附の曲水宛書簡(これは初案と推定されるもので曲水宛には第三句目の句案も文中に出ている)、第三句目は「笈日記」、第四句目は「淡路島」に載る句形。
九月二十六日、大坂の景勝、新清水(しんきよみず)の料亭「浮瀬(うかむせ)」に於いて泥足(「其便」編者)主催になる、芭蕉・泥足・支考・游刀・之道・車庸・洒堂・畦止・素牛・其柳による十吟半歌仙の発句。
「笈日記」には(ここでは連衆を「十二人」と記す)、第三句目と第一句目を併記して、
此二句いづれをかと申されしに、この道や行ひとなしにと獨歩したる所、誰かその後にしたがひ候半(はん)とて、そこに所思といふ題をつけて半歌仙侍り。
とある。安藤次男は「芭蕉」(中央公論社)の中で、これは先に示した「去来抄」の「病鴈」「小海老」双方の句の入集(にっしゅう)を許したのと、この二句をあえて『示し「いづれをか」と一座の判に委かせた』のは『ほぼ似た心情に出るもの』とし、『まず連衆を重んじた俳諧師には、この種の自己保留はしばしばあったはずだ』と断じておられる(二五四~二五五頁)。私もその意見に賛同するものである。結果として一座は(恐らく満場一致で)「此道や」を支持したのであるが、しかし安藤は別な箇所(三〇六頁)で、連衆が「獨歩したる所、誰かその後にしたがひ候はん」と『「此道や」の方を賞めちぎったとしても、それが直ちに作者の心に適ったというわけではない。芭蕉は「人声や」の方に未練があったかもしれぬ、そう考えるのが俳諧だ』と述べておられる。これにも私は頗るつきで共感を覚えるものである。そもそも「此道や」というこの凄絶な吐露は孤高の境涯の詠歎として文字通り、「誰かその後にしたがひ候はん」までの究極の孤立した『個』なのであり、これに付句することは事実上、不可能とも言える。因みにこの半歌仙での主人泥足の脇は、
岨の畠の木にかゝる蔦
で、見たくもないほど如何にもな付である。この名句にしてそれを発句とした半歌仙が全くと言っていいほど知られていないのは、この「発句」がそもそも連衆の俳諧から限りなく遠く逸脱して、発句の体(てい)をなしていないからに他ならないと私は思うのである。]
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