おもしろき秋の朝寢や亭主ぶり 芭蕉
本日二〇一三年十月二十五日
陰暦二〇一三年九月二十二日
あるじは夜あそぶことをこのみて、
朝寢せらるゝ人なり。宵寢(よひね)はいや
しく、朝起(おき)きはせはし
おもしろき秋の朝寢や亭主ぶり
[やぶちゃん注:元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳。同年九月二十一日の作。
前書は「まつのなみ」に拠る。「笈日記」「泊船」等には
車庸亭
と前書する。前に示した「秋の夜を打崩したる咄かな」の夜会の後、芭蕉は潮江車庸の屋敷に泊まったものらしい。その翌九月二十一日の朝の遅い目覚めを、亭主車庸自身が私以上にさらにまだ朝寝をして呉れていて、如何にも洒落た亭主の心遣いであることよ、という主人への親愛と諧謔に富んだ挨拶句である。前書の終わりの部分は、「宵の内から早々寝ると申すは、これ、燈火の油を吝(けち)るようで賤しく、早起きすると申すは、これ、世の馬車馬のような働き振りで如何にも気忙(きぜわ)しい」という風狂振りで句に合わせた洒落た額縁を成している。また、前年の元禄六年七月に書かれた「徒然草」の「あだし野の露」(第七段)や「才能は煩惱の増長せるなり」(第三十八段)などを諧謔した「閉關の説」の中でも、
初めの老いの來れること、一夜の夢のごとし。五十年六十年のよはひ傾ぶくより、宵寢がちに朝起きしたる寢ざめの分別、何事をかむさぼる。おろかなる者は思ふこと多し。
と同じ語句を持ち出し、世俗の喧騒から遠く離れた、老荘的な無為自然の「思ふこと」なき朝寝の風狂の境地を貴んでいる。
この日から芭蕉は、ほんの一週間ほどの間であったが、少し快方に向かったやに見え、九月二十三日附窪田意専・服部土芳宛書簡には、「隨分人知れずひそかに罷り在り候へども、とかくと事やかましく候て、もはや飽き果て」た大坂を「早々看板破り申すべく候」とあり(「看板破り」は店仕舞いをするの意)、「伊勢より便次第に、細翰を以て申し上ぐべく候」としていることからも、近々伊勢参宮を計画していたことが分かる。]