中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(14) 最後の決定的な禁断の恋情の哀傷詩篇
君がつぶらの ひとみ故
われははるばる 海に來て
ひねもす君を想ふなり
君が愛しき なさけ故
われはケビンに よもすがら
いねもやらずて 嘆くなり
誰が賜ひけむ この傷手
海の息吹も いやしえじ
汐の香も 何ならむ
今は面影 偲びつゝ
沖のみなはと 消えてまし
君知りまさじ わが想ひ
[やぶちゃん注:これらは表記通り、総て二字下げで一頁の中に書かれており、本歌は和歌ではなく、詩想からも四連からなる七五調定型文語詩一篇の体裁を備えている(が、詩想の強烈な連関性から短歌拾遺に採らずんばならず)。なお、第四連は別案として、
君の面影 偲びつゝ
沖のみなはと 消えてまし
君知りまさじ わが想ひ
を復元出来る。
この一篇、明らかに前の年、昭和十一(一九三六)年三月下旬の小笠原行をそのロケーションとしているとしか読めない。しかも「君がつぶらの ひとみ」をその恋を懐旧する彼の、詩語として散りばめた「はるばる」「ひねもす」「よもすがら」及び、その恋情の苦悶を表わす「いねもやらずて 嘆くなり」「誰が賜ひけむ この傷手」「今は面影 偲びつゝ」、そして何より「いやしえじ」「何ならむ」「消えてまし」、極めつけの追懐たる「君知りまさじ わが想ひ」という絶唱部が意味するものは、この恋が小笠原行の直近の出来事ではなかったことを意味するものと私は断定するものである。則ち――中島敦の秘かなる禁断の恋は――昭和十年よりも前であることを意味する。しかも彼にそうしたアバンチュールを許し得る状況があったのは――たかと結婚した昭和七年三月以降、妻子を呼び寄せて同居が始まる昭和八年十一月よりも前の一年七ヶ月の間が最も自然である。――しかもその出逢いが以前に示したように、その相手が横浜高等女学校生徒であったと仮定するならば――敦が同校に赴任した昭和八年四月以降同年十月までの約半年間の間(この間、四月二十八日には長男桓が出生している)のめぐり逢いではなかったろうか――と私は深く疑うものである。……この一篇を最後に同手帳には和歌や詩篇の記載はない。……]
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