中島敦短歌拾遺(5) 「南洋日記」(昭和16(1941)年9月10日―昭和17(1942)年2月21日)より(3) 南洋にて……そして……恐らくは現存する中島敦最後の和歌……
あめつちの大きしづけさやこの眞晝珊瑚礁干潟に光足らひつ
大き空が干潟の上にひろごれり仰げばしんくと深き色かも
蟹むるゝリーフ干潟の上にしてつややけきかもよ蒼穹の靑は
搖れ光る椰子の葉末を行く雲は紗の如き雲鞠の如き雲
○汐招き汐を招くと振りかざす赤羅鋏に陽はしみらなる
○汐招き鋏ひた振り呼ぶめれど汐は來ずけり日は永くして
○人無みと汐招きらがをのがじしさかしらすると見ればをかしゑ
○日を一日いそはき疲れ呆けゐる夕自演の汐招きどち
○汐招き鋏休めつ暫しくを夕汐騷(ざゐ)に耳澄ましゐるか
○汐招き鋏ふりつゝかにかくに一日は暮れぬ海鳥の聲
○汐招きが赤き鋏の乾く見れば干潟に晝は聞けにけらしも
ひそやかに過ぐる音あり風立ちて砂の乾きて走るにかあらむ
○パラオなるアルコロン路の赤山の許多章魚の木忘らえぬかも
[やぶちゃん注:「アルコロン」現在のパラオ共和国の州名ともなっている地域。パラオの主島であるバベルダオブ島の最北端のくびれて突出した地域に位置する。ここにある古代遺跡バドルルアウには巨石柱(ストーン・モノリス)が辺り一帯に点在し、他にもコンレイの石棺など多くの遺跡が残されている地域である(以上は主にウィキの「アルコロン州」に拠った。
「許多」「あまた」と訓じていよう。数多。]
○海へ崩(く)ゆる赤ら傾斜(なだり)に章魚の木が根上りて立つ立ちのゆゝしも
禿山の〈パン〉たこの木どもがをのがじしたこの實持ちて立てるをかしさ
○夕坂を海に向ひてたこの木が何やら嗤ひ合唱(うた)へる如し
○たこの木がたこの木毎に顏扮(つく)り、夕べの坂に我を威すはや
たこの木ほたこの木らしき面をして夕べの顏風に吹かれてゐるも
○葉は風に枯れ裂けたれど、たこの木も、實をもてりけり、あはれたこの實
○たこの木がたこの木み抱くとをのがじし、たこの木さびて立てるをかしさ
[やぶちゃん注:以上の短歌群は日記の掉尾昭和十七(一九四二)年二月二十一日(土)のクレジットの日記本文の後に一行空けて記されているものである。取消線は抹消部を示し、その内の〈 〉は抹消部の内、先だって抹消されていることを示す。以下に日記本文を示す(取消線は抹消を示す)。
二月二十一日 (土)
朝、公學校觀察。生徒の體操行進。佐野氏と落合ふ。波止場迄トロッコに乘つて行く。九時半出帆。何時迄も帽子を振る見送人。直ちにベンタウを喫し、臥して、船の搖るゝを待つ。忽ち船上にてよりカマスを釣れ上ること數尾、午頃、そのカマスを刺身にして喰ふ。旨し。
チャモロの一家傍にあり。仔豚。米を拾ふ。佐野氏と竝んで臥したるまゝコロールに着く。午後二時半頃なり。
《ここに歌群が入って、最終歌の後に一行空きで以下のメモが入って本日記は終わっている。三つのアスタリスク「***」の部分には大きな「{」が一つ附されて、二単語が孰れもリーフの縁を意味する語であることを示している。この三つの単語の覚書きは恐らくミクロネシアのピジン・イングリッシュのそれかと思われる。》
*Errmolle
* リーフ緣、
*Aermoole
{Kerekell 淺瀨
中島敦は、この日記の書かれた翌三月十七日、東京へ出張(参照した底本年譜によれば『おそらくは東京轉勤の意を含めた出張のため』とある)、厳しい寒さの中で肺炎を発症して世田谷の父田人の家で療養し六月に回復するも、八月末に南洋庁へ辞表を提出、九月七日附で官を免ぜられた(この間の七月、妻子を実家に帰している間に多量の手稿・ノート類を焼却している)。十月中旬より喘息の発作が激しくなり、心臓が衰弱、十一月中旬に世田谷の岡田病院に入院、十二月四日午前六時、宿痾の喘息のために同医院にて死去、多磨墓地に葬られた(奇しくも偶然のこと乍ら私藪野直史の遺骨も献体解剖終了後はこの墓地にある慶応大学医学部合葬墓に入ることになっている)。
最後に。
最後の二首。
この歌群は少なくとも現存する中島敦の最後の短歌である。
――葉はすっかり潮風に打たれて枯れて裂けてしまっているけれど
――こんな章魚の木も「実」を持っているではないか!
――ああっ! 「実」よ!
――章魚の木が章魚の「実」を抱いている!
――それを眺めていると自然
――それが「確かな」章魚の木という「実在」として屹立していることが分かるんだ!
――ああっ! この世は面白い!
……たった三十三年を馬車馬のように狂走して駆け抜けた中島敦という一人の男の爽やかな詠唱の声が……私には聴こえてくるような気がする。……]
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