木造車の旅 大手拓次
木造車の旅
くらいなかに大きなテーブルがある。その上には黴(かび)の花のやうにぽつとした鱗(うろこ)が浮いてゐる。うう、ううといふ呻りごゑがして物すごい脅迫がはひ出して來る。くらいくらい此の一室のなかに飆風のやうに悽愴の氣がみなぎつた。見ると半身血みどろになつた物がうごき出した。まるで、けしの花をつけたやうに肉がただれてひらひらしてゐる。ばたりといふ音がして、それがテーブルの上にたふれた。赤い花がぱつとくづれて、黑い征矢がほとばしつた。テーブルがむくむくとしたかと思ふと、地鳴りのやうに、力強い洞あなから出る音のやうな、ぼうつとした空漠のひびきがわき出した。そして靑白い赤味をおびた焰がぐるぐるととりまいて、恰も舞踏するかの如くに見えた。妖音と怪焰とが交互に消長していつまでも絶えなかつた。
けれど、此の室は身を刺すやうな寒さであつた。
扉がぎいとあいて、一人の老婆がしづかにはひつて來た。肥つた豚の母親のやうな顏付をした老婆である。その眼ばかりが物欲しげにうごいてゐる。
餘りの寒さにはつとおどろいて身じろいた。焰のもえてるなかへ手をさし入れてその亡骸を撫でた。すると焰はおひおひに靑白く、うすぼんやりと消えて行つた。同時にひびきもしづまつた。にやにやと笑ひながら、その太い腕で血のついてる皮をいぢつてる。
それはうら若い少女の身體である。
老婆は悲しげに獨語しながら、その髮をなで、傷口をしらべ、その美しい額や掌に接吻した。さも滿足らしくあきらめの思ひがただようて見えた。ふところから小さい匣を出して、ぢつと眺めた。その匣は暗いなかにぎらぎらと光つた。老婆のふるへる手がその蓋をとつて、なかからカードのやうな黑い札を出しはじめた。その一枚がチンとテーブルの上におちて音がすると、靑白い怪火が復たもえ立ち、ぱつと急に消えた。そしてテーブルの緣がぼろぼろと缺けおちたかと思ふと、あたり一面に小さな黑ん坊が立ちはだかつてゐた。丁度手の指位の大きさの黑ん坊である。それがじりじりと老婆の手に集つてきた。老婆はそつと拂ひのけると、さらさらと金屑のやうな音がして散つてしまふ。老婆の手が少女の身體をあたためるほどになると、じりじりと黑ん坊の化生がよりはじめる。うるささうにはらひのけると、さらさらとちる。
老婆はざらつと小匣をまけると、黑い札が澤山に出た。その一枚を少女の亡骸の額に、一枚を唇に、一枚を鳩尾(みぞおち)に、一枚を腹に、又一枚づつを兩足に、兩手にのせた。それが了ると、しとやかに跪(ひざまづ)いて、長い祈禱をした。實に長い長いおいのりであつた。
その間黑ん坊の化生はテーブルの緣に復歸してしまつてゐた。
長い熱心な祈禱が了ると、その神樣の札を匣のなかへもどし、安堵したやうにうやうやしくおじぎをして、そろそろと此の室を去つた。
老婆が去ると、またあとに焰がもえはじめた。初のは以前のやうに黑くただれたやうに廻轉したが、それもしばらくの閒で、今度は美しいばら色に變化した。それと共に、室はあかるく、はなやかに、はればれしくなつた。そのばら色の焰のなかには、をりをり神々しい瞳がうつつた。
「幸(さち)あるものよ、迷ふなかれ。」一つの聲がいつた。
「世はすすむなり、さざめきつつ、くるめきつつ、」ほかの聲がいつた。
薔薇色の焰はいろいろの物の形にもなる。
ばらの花、裸體、紅の盃、男の姿。
時として劍をたづさへた古の騎士ともなる。
「力なき美のなきがらよ、さむるなかれ、
歌はいましの魂を飾らんず、
行け、ともしびの國、いのりの國」
ささやかな遠い聲が呼んだ。
餓ゑたるものは鐵壁をも破壞し、凛々とつきざる河床をつくつて流れる。しかも、その希望はうづくまり、命はうたたねに耽り、情熱は瀕死の吐息をもらしてゐる。つめたい夜の香をあふつて渦卷をなし、懶惰に伸びてゆく乳白色の魂を惑はし、欺き、抱擁の墓標の頂きに置き去りにする。うゑたる者は輾轉として盲目の世界のなかへ突き進んでゆく。
永遠の調べよい面帕(かほきぬ)は妖言(およづれ)の囃子につれて空といはず、地といはず、闇といはず、明るみといはず飜りとぶ。雨のうろつきもの、風の道化者、凡ての生物は恐ろしい期待の笑を交して端坐してゐる。典麗の亡魂はまだ暮れやらぬ秋の凋落を拾ひつつ野をあるき、山をたどり、谿をあさり、とどまりなく欲念の襲ひにかられてゐる。
餓ゑたるものは涙もなく佇んでゐる。
暴風は帆舟(ほぶね)をからんでさわいでゐる。
嘴の折れた鳥は水の上に狂亂して落ちて來た。
海の怒號は萬象を席捲して十重二十重にうねりをうつ。變幻極まりない長嘯と呻吟とがとこしなへの微動をあらはす。
[やぶちゃん注:「間」と「閒」の混在はママ。
「飆風」は飄風とも書き、急に激しく吹く風で、旋風(つむじかぜ)・疾風(はやて)の謂い。音は「へうふう(ひょうふう)」であるが、ここは「つむじかぜ」か「はやて」と読んでいるようには感じられる。
「面帕(かほきぬ)」被(かず)きで、私はここは死者の面(おもて)を蔽う、顔かけ・面布・打(ち)覆いなどとも呼ぶ白布をイメージした。
なお、この詩は思潮社版では後半に有意に大きな異同がある(特に一行空きと表現の大きな違い一箇所と、最後の三行の消失である)。本詩での表記に準じて正字化して全詩を示し、ルビの有無も含め、異なる箇所(最低で単語単位)に下線を引いた(欠損部の場合はその欠損のある一文全体に引いた。「閒」は「間」で揃えた。なお、こちらでは直接話法の頭が明らかに一字下げになっているのも異なる)。
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木造車の旅
くらいなかに大きなテーブルがある。その上には黴の花のやうにぽつとした鱗が浮いてゐる。うう、ううといふ呻りごゑがして物すごい脅迫がはひ出して來る。くらいくらい此の一室のなかに飆風のやうに悽愴の氣がみなぎつた。見ると半身血みどろになつた物がうごき出した。まるで、けしの花をつけたやうに肉がただれてひらひらしてゐる。ばたりといふ音がして、それがテーブルの上にたふれた。赤い花がぱつとくづれて、黑い征矢がほとばしつた。テーブルがむくむくとしたかと思ふと、地鳴りのやうに、力強い洞あなから出る音のやうな、ぼうつとした空漠のひびきがわき出した。そして靑白い赤味をおびた焰がぐるぐるととりまいて、恰も舞踏するかの如くに見えた。妖音と怪焰とが交互に消長していつまでも絶えなかつた。
けれど、此の室は身を刺すやうな寒さであつた。
扉がぎいとあいて、一人の老婆がしづかにはひつて來た。肥つた豚の母親のやうな顏付をした老婆である。その眼ばかりが物欲しげにうごいてゐる。
餘りの寒さにはつとおどろいて身じろいた。焰のもえてるなかへ手をさし入れてその亡骸を撫でた。すると焰はおひおひに靑白く、うすぼんやりと消えて行つた。同時にひびきもしづまつた。にやにやと笑ひながら、その太い腕で血のついてる皮をいぢつてる。
それはうら若い少女の身體である。
老婆は悲しげに獨語しながら、その髮をなで、傷口をしらべ、その美しい額や掌に接吻した。さも滿足らしくあきらめの思ひがただようて見えた。ふところから小さい匣を出して、ぢつと眺めた。その匣は暗いなかにぎらぎらと光つた。老婆のふるへる手がその蓋をとつて、なかからカードのやうな黑い札を出しはじめた。その一枚がチンとテーブルの上におちて音がすると、靑白い怪火が復たもえ立ち、ぱつと急に消えた。そしてテーブルの緣がぼろぼろと缺けおちたかと思ふと、あたり一面に小さな黑ん坊が立ちはだかつてゐた。丁度手の指位の大きさの黑ん坊である。それがじりじりと老婆の手に集(たか)つてきた。老婆はそつと拂ひのけると、さらさらと金屑のやうな音がして散つてしまふ。老婆の手が少女の身體をあたためるほどになると、じりじりと黑ん坊の化生がよりはじめる。うるささうにはらひのけると、さらさらとちる。
老婆はざらつと小匣をまけると、黑い札が澤山に出た。その一枚を少女の亡骸の額に、一枚を唇に、一枚を鳩尾(みぞおち)に、一枚を腹に、又一枚づつを兩足に、兩手にのせた。それが了(をは)ると、しとやかに跪いて、長い祈禱をした。長い長いおいのりであつた。
その間黑ん坊の化生はテーブルの緣に復歸してしまつてゐた。
長い熱心な祈禱が了ると、その神樣の札を匣のなかへもどし、安堵したやうにうやうやしくおじぎをして、そろそろと此の室を去つた。
老婆が去ると、またあとに焰がもえはじめた。初めは以前のやうに黑くただれたやうに廻轉したが、それもしばらくの間で、今度は美しいばら色に變化した。それと共に、室はあかるく、はなやかに、はればれしくなつた。そのばら色の焰のなかには、をりをり神神しい瞳がうつつた。
「幸(さち)あるものよ、迷ふなかれ。」一つの聲がいつた。
「世はすすむなり、さざめきつつ、くるめきつつ」ほかの聲がいつた。
薔薇色の焰はいろいろの物の形にもなる。
ばらの花、裸體、紅の盃、男の姿。
時として劍をたづさへた古の騎士ともなる。
「力なき美のなきがらよ、さむるなかれ、
歌はいましの魂を飾らんず、
行け、ともしびの國、いのりの國」
ささやかな遠い聲が呼んだ。
餓ゑたるものは鐵壁をも破壞し、凛凛とつきざる河床をつくつて流れる。しかも、その希望はうづくまり、命はうたたねに耽り、情熱は瀕死の吐息をもらしてゐる。つめたい夜(よる)の香をあふつて渦卷をなし、懶惰に伸びてゆく乳白色の魂を惑はし、欺き、抱擁の墓上の女標の頂に置き去りにする。うゑたる者は輾轉として盲目の世界のなかへ突き進んでゆく。
永遠の調べよい面帕(かほきぬ)は妖言(およづれ)の囃子につれて空と云はず、地と云はず、闇と云はず、明るみと云はず飜りとぶ。雨のうろつきもの、風の道化者、凡ての生物は恐ろしい期待の笑を交して端坐してゐる。典麗の亡魂はまだ暮れやらぬ秋の凋落を拾ひつつ野をあるき、山をたどり、谿(たに)をあさり、とどまりなく欲念の襲ひにかられてゐる。
餓ゑたるものは涙もなく佇んでゐる。
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私は「女標」という単語を不学にして知らない。識者の御教授を乞うものである。――抱擁した墓の上の女を、その墓の墓標(しるべ)の頂きに置き去りにする」と読むのかい?……しかしそれは美事な悪文以外の何ものでもないし、大手拓次が使う詩語ともおもわれないがね……]