栂尾明恵上人伝記 64 俗僧無益のこと
或る人光臨の時、上人語りて宣はく、寺院知行の所領相違せしむる時、萬方祕計の條然るべからず、其の故は、古(いにしへ)さるべき緣に依(より)て得たり、今亦さるべき緣に依りて失(しつ)ず、會者定離(ゑしやぢやうり)の理、始めて驚き・始めて歎くべきに非ず。田園を貯ふる事は佛の遺誡(ゆゐかい)なり。然れば自然(じねん)に如來の金言に契(かな)へり。豈幸に非ずや。又、有る時は有るに隨ひて益を施し、無き時は無きに任せて樂しむべし。何の煩しき事かあらん。然るに剩へ僧形たりながら此の訴訟の爲に公務の門に望み、義衆(ぎしゆう)の場に走る。若干の猛惡・謀計・欲情・奸曲を先として、群集せる訴論人の中に交はりて、此の緣の角(すみ)、彼の廊の邊(ほとり)に、或は坐し・或るはたゝずみ徘徊せる、誠に見苦しく目をも洗ひぬべし。心ある俗人傍に有りて此の有樣を見て云ふやう、家を出で財を投げ、親を捨て親を離れて、一筋に無欲・淸淨(しやうじやう)の菩提の道に入るは僧なり。而るを又立ち歸り囂塵(げうじん)に交(まじ)りて、利を貪り欲に耽りて乞ひ諂(へつら)へる有樣、頗る師子身中(しゝしんちゆう)の蟲なるべし。見るに堪へず悲しむに餘りありとて、爪彈(つまはじ)きをせずと云ふ事なし。人をして比丘を疎(うと)ましめ、法を謗(ばう)する便(たよ)り、何事か是にしかん。爰に或る人の云はく、是れ身の爲にするに非ず、伽藍の興隆・僧法(そうはふ)繁昌の爲と云々。若し此の儀ならば、倒(さかさま)に心得たり。佛法の盛なると云ふは、面々樹下石上(せきじやう)に坐すと雖も、各如法(によはふ)に行(ぎやう)じ、如法に悟り、如法に證するを云ふなり。塔を立て、堂を造り、佛像を安置し奉ると雖も、破戒無慙なる僧つゞき居て道行をすると雖も、名聞利養の爲、又はいしき定、地獄に落ちじ、餓鬼にならじなんど思ふ、我が身を度(ど)し心に住して、かゝはりがましく、商ひがましき心にて欲深き訴訟打ち交りて、心に浮かぶ事とては、自身の依怙(えこ)あらん事を廻らし、口に云ふ事とては、貴賤の上を誹謗して、明けぬ暮れぬと過ぎ行くこそ、佛法破滅の處なれ。されば、心ある人は持ちたるをだにも、態(わざ)と捨つる類(たぐひ)も有るぞかし。まして自ら傍(そば)より人の取らんをば、さる時刻到來しにけりと知つて、功德ながらに其の人に廻向して、是三寶の御憐れみにこそと思ひて、何(いづ)くの山の片陰(かたかげ)にも閉ぢ籠り、或は正知識の爲に頭目身命をも惜しまず、隨逐(ずゐちく)給仕して、一筋に諸の有所得(うしよどく)の心を離れて、淸淨の道行を勵ますべし。或る物の中に云はく、摩竭陀國(まかだこく)の城の中に僧あり、毎朝、東に向ひては常に悦びの勢(せい)を成して禮(らい)し、北に向ひては嗟歎(さたん)の聲を出して涙を拭(ぬぐ)ひけり。人恠(あや)しみて此の謂れを問ふに、答へて云はく、東に當て城外に山あり、乘戒倶急(じやうかいぐきう)の僧樹下に坐して、既に證する事を得て年久し、是れ佛法の隆(さかん)なる故に、我れ毎朝是を禮す。北に當て城内に練若(れんにや)あり、數十の塔婆甍を並べ、佛像經卷金銀を鏤(ちりばめ)たり、爰に百千の僧侶住して、飮食(をんじき)・衣服(えぶく)・臥具(ぐわぐ)・醫藥として乏しき事なし。然りと雖も如來の正法眼(しやうはふげん)を究めたる比丘なし。此の所すでに佛法破滅せり。故に毎朝嗟歎すと云々。是れ其の證に非ずや。大方(おほかた)智ある人は、檀方(だんがた)の施す處をだにも更に受けざらん事を欲す。豈強ひて訴訟する事あらんや。其の故は戒行も缺け、内證も明らかならずして受くる處の信施(しんせ)は、物々頭々(もつもつづゝ)罪業の因に非ずと云ふ事なし。三途に沈まんこと疑ひ有るべからず。かく振舞たまひては、經を誦し陀羅尼を滿(み)てゝ消さん事を用ゐれども、其の驗(しるし)ありがたし。喩へば病者の諸の氣味ある毒藥を與ふるを、一旦快き儘に取り食ひて後、一々に祟りをなして苦痛轉倒し、臟腑破れて、良藥を服すと云へども、驗なくして死するが如し。有德の人は金銀珠玉を取ること瓦礫土石(どしやく)の如く、萬物を見ること夢幻(むげん)の如くして、受くれども受くる想(おもひ)もなく、用ふれども用ふる想もなし。凡慮を以て計る所にあらず。此の如くの人は尤も檀那の福を増長(ぞうぢやう)せんが爲、三寶興行の方便の爲に、施する所の庄園・財寶に隨ひて德を施すべし。凡そ國王大臣となり、或は高位高官に登り、或るは國城・田園に飽き、微妙(みめう)の珍寶に滿ちて、百千の壽命を保ち、藝能人に超え、才覺優良に、面貌(めんめう)美麗に、何事も思ふ樣なること、皆佛法の恩德より出でずといふことなし。されば富めるは富めるにつき、貧しきは貧しきに付て、佛法を崇敬(そうきやう)し財寶を施し、心を致して供養して、敢て輕慢(きやうまん)すべからず。此の世にかく豐かに榮ゆるは、先世に戒を持ち、寺院を造り、僧に布施し、貧しきに寶を與へ、佛像經卷を莊(かざ)り、此の如くの善を修せし報なり。若し此の法の種子(しゆうじ)なくは、先づ人界(にんかい)に生を受くべからず。況んや又いふ所の如くの樂しみあらんや。若し此の度またさきの如く善を修せずんば、何を以てか當來の福因とせん。喩へば、去年よく作りし田畠の作毛を以て、今年豐なりと雖も、今年豐なるに耽りて、明年の爲めに田畠を耕作せずは、次の年は餓死せんこと疑ひあるべからず。
[やぶちゃん注:「義衆の場」裁判官のいるところ。
「囂塵」現代仮名遣「ごうじん」で、騒がしい俗世の穢れの意。「囂」は「喧々囂々」の如く、やかましいこと、五月蠅いこと。
「爪彈(つまはじ)き」排斥すること。
「いしき定」「いしき」は形容詞「美(い)し」で、立派な、素晴らしい、美事なの意で、「美しい立派な禅定」(を得たい)の謂い。
「かゝはりがましく」物に執着し、拘泥するさまをいう。
「依怙」自分だけの利益。私利。
「頭目身命」「頭目」は「づもく(ずもく)」で頭と目で大事な身命と同義。
「随逐」あとを追い、従うこと。随従。それに専心することをいう。
「有所得」こだわりの心をもつこと。対語は「無所得」。
「摩竭陀國」古代インドにあった国の一つで仏陀が悟りの境地に至ったブッダガヤがある仏教誕生の地。現在のインドの東北部の端ビハール州。
「練若」蘭若に同じい。寺院。
「物々頭々」それぞれ各々が、の意。
「陀羅尼を滿てゝ消さん事を用ゐれども」「滿つ」は~をし遂げる、し終えるで、陀羅尼(経文の内で梵文(ぼんぶん)を翻訳しない短い文句で、それを暗誦していれば正法を離れず、心身を清浄に正しく保つことが出来るとされる真言)を誦して罪過を消そうとしても、の意。]