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2013/10/19

ブログ・カテゴリ 松尾芭蕉 始動 / 病雁の夜さむに落て旅ね哉

ブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」を創始する。
僕にとって芭蕉はローツェ南壁である。
永く芭蕉を記すことに、ある種の奇妙な畏怖に基づく忌避を感じてきたことを告白しておく。
また、多くの芭蕉という高峰を目指す方は多く、僕の登攀は有象無象の無名者の一人に過ぎないし、そこにオリジナリティを帯びさせることは難しい。が、一つ、芭蕉がそれぞれの句を詠んだであろう時間に対し、シンクロニティを以ってブログにそれらを示すことは、僕にとっては個人的にある意味を持って迫るものがあるようには感じられるのである。

以下、陰暦の期日を示し、その句が当該日若しくはその直近に詠まれたことを資料で附記検証しながら、芭蕉の景観と感慨を共時的に辿る旅を始めようと思う。

提示する句の底本は正字表記である中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波書店刊)を用いた。
期日同定等には新潮古典集成の「芭蕉句集」「芭蕉文集」その他を参考にした。

――私は数えで五十七歳――芭蕉より六年も永く生き継いでしまったことに、何か、内心忸怩たるものを感ずる今日この頃である――


本日二〇一三年十月十九日
陰暦二〇一三年九月十六日

  堅田(かただ)にて

病雁(びやうがん)の夜さむに落(おち)て旅ね哉

病雁(やむかり)のかた田におりて旅ね哉

[やぶちゃん注:元禄三(一六九〇)年、芭蕉四十三歳。この年の九月十三日から二十五日まで、当時、大津にあった芭蕉は門人千那(せんな)らのいた琵琶湖西岸の堅田に滞在した。堅田滞在中、芭蕉は「拙者散々風引き候而(て)、蜑(あま)の苫屋に旅寢を侘び」(九月二十六日附茶屋与次兵衛宛書簡)たと記している。前者は「猿蓑」所収の、後者は「枯尾花」所収の句形。因みに私は前句を、

病雁(やむかり)の夜寒(よさむ)に落(お)ちて旅寢哉

と詠みたくなる部類の人間である。因みに、畏るべき芭蕉の碩学安藤次男氏は「芭蕉」(昭和五四(一九七九)年中央公論社刊)の中で(私は正直言うと彼、安藤次男以外の、有象無象の芭蕉の評釈に対しては、これ実は舌を巻いて驚いた経験は殆んどないといってよい)、「病雁」の読みについて実に四頁近く(これが蕪村の句ならが「鴈」を「ガン」と読む方がその風土に叶う、という補説も含めるなら六頁近く)に亙った考証を示しておられる。その鋭い洞察は当該書をお読み戴くとして、彼はその一つの理由として『私自身、この句をむかしはビョウガンと読んでいて、いまはヤムカリと読みたい気持ちがある。その理由は』『年齢と、一方また関西に育ち、成年になってかりに東京に住みついて、齢四十を超してときどき故郷のことを考えたりもするようになった人間の心情の微妙な変化にも関わっている。人はしらず私にあっては、ビョウガンは青年のきおいだった。のみならず、この吟、以後の芭蕉の運命を予感させるような孤独感に充ちているだけに、かえってそうよみたくなる心理が、私にはある。それは作者自身にもなかったとはいいきれまい』と述べておられる(この「孤雁」の章は昭和四〇(一九六五)年二月の『文学』が初出で、当時、安藤は四十六歳であった。因みに安藤はこの後にそこから引き出されるところの主智的な風土性からの論証も示しているが、ここでの私にはそれは不要であると感じられるが故に省略する。やはり原書に必ず当たられたい)。この部分を読んだ当時の私(二十二歳)が、やはり全く同じように「やむかり」と読みたかったから大いに共感したことを思い出すと同時に、齢四十六の安藤氏が『人はしらず私にあっては』と限定し、『のみならず……かえってそうよみたくなる心理が、私にはある』と言った気持ちが、今の私(五十六歳)にも『かえってそうよみたくなる心理が、私に』もある、と書き添えずにはおられぬのである。]

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