第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚
今日、ドクタア・マレー、彼の通訳及び私、人夫二人をつれて大森の貝塚へ行った。人夫は、採集した物を何でも持って帰らせる為に、連れて行ったのである。大森の駅からすこし歩いて現場に達すると共に、人夫達は耨(くわ)で、我々は移植鏝(こて)で掘り始めた。二時間ばかりの間に、我々は軌道に沿った深い溝を殆ど埋めた位多量の岩石を掘り崩し、そして陶券の破片その他を沢山手に入れた。泥にまみれ、暑い日盛で昼飯を食いながら、人夫に向かって、掘り崩した土をもとへ戻して置かぬと、我々は逮捕されると云ったら、彼等は即座に仕事にとりかかり、溝を奇麗にしたばかりでなく、それを耨で築堤へつみ上げ、上を完全に平にし、小さな木や灌木を何本か植えたりしたので、我々がそこを掘りまわした形跡は、何一つ無くなった。大雨が一雨降った後では、ここがどんな風になったかは知る由もない。私は幸運にも、堆積の上部で完全な甕二つと、粗末な骨の道具一つとを発見し、また角製の道具三つと、骨製のもの一つをも見つけた。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは大森貝塚の第二回のプレ発掘調査で、明治一〇(一八七七)年九月十八日(火曜)か十九日(水曜)の平日であった。なお、最初に注意しておくが、標題はこうであるが、実際、大森貝塚発掘に関わる叙述は冒頭の部分と中間部に現われる大森貝塚人プレ・アイヌ説と土器解説以外には目ぼしい「大森に於る古代の陶器と貝塚」についての叙述はないので期待されないように。それらは岩波文庫一九八三年刊の近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚――付 関連資料――」などを見るに若くはない。]
図―246
図―247
図―248
図―249
[やぶちゃん注:検証のために、右上から右下にそれぞれ249―1・2・3・4、左上から左下にそれぞれ249―5・6・7という番号を赤で当てておいた。]
図―250
[やぶちゃん注:検証のために、最上部のそれに250―1、右上から右下にそれぞれ250―2・3、左上から左下にそれぞれ250―4・5という番号を赤で当てておいた。]
図―251
[やぶちゃん注:検証のために、上部の上・下にそれぞれ251―1・2、右上から右下にそれぞれ251―3・4、左下に250―5という番号を赤で当てておいた。]
ここ数日間、私は陶器の破片の絵をかいているが、装飾様式が種々雑多であることは著しい。甕及び破片は、特に記した物以外、全部実物の半分の大きさで描いてある。図246は埋積の底で発見された。この品の内側には鮮紅な辰砂(しんしゃ)の跡が見られ、外側は黒く焦げ、その間には繩紋がある。因247に示すものは黒い壁を持つ鉢で、底部は無くなっている。図248は別の鉢で、この底部には簡単な編みようをした筵(むしろ)の形がついている。図249と250はその他の破片で、辺(へり)や柄や取手もある。図250の一番下の二つは、奇妙な粘土製の扁片と唯一の石器とを示し、図251は骨及び鹿角でつくつた器である。この事柄に大なる興味を持つ日本の好古者の談によると、このような物は、いまだかつて日本で発見されたことがないそうである。大学には石版用の石が数個あるから、私は発見したものは何によらずこれを描写しようと思う。大学は、この問題に関して私が書く紀要は何にまれ出版し、そして外国の各協会へ送ることを約束してくれた。私はこのようにして科学的の出版物をいくつか出し、それを交換の目的で諸学会へ送り、かくして科学的の図書館を建て度い希望を持っている。この材料を以て、私はすでに大学に於て、考古学博物館の発端ともいうべき小さな部屋を一つ開始した【*】。
[やぶちゃん注:「辰砂」原文“cinnabar”。硫化水銀からなる鉱物で日本では古来「丹(に)」と呼ばれて朱色の顔料や漢方薬の原料として珍重された。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。本邦では旧石器時代に使用された弁柄(べんがら 紅殻とも書く。オランダ語“Bengala”から。酸化第二鉄を主要発色成分とする赤色顔料である酸化鉄赤(Red
Iron Oxide)。名称は江戸期にインドのベンガル地方産のものを輸入したことに由来)「べんがら」と名づけられた。)に次いで、縄文中期に土器顔料と使用され始めた(使用開始時期については市毛勲氏の「要旨 日本古代朱の研究」(PDF版)に拠った)。
「全部実物の半分の大きさで描いてある」ここで私の提示している画像は原典の図の2・5倍なので、図246及び251を除いて大きさは実物よりも一回り大きくなっている。注意されたい。図246(底本の画像が一部汚れているため)と図251は、原典確認に使用している“Internet
Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machine”にあるPDF版からトリミングして画像補正を加えて示したので(英文図版指示をわざと残した)、モースの言う通り、二分の一の大きさということになる。
「私はすでに大学に於て、考古学博物館の発端ともいうべき小さな部屋を一つ開始した」及び次の注にある「現在大学にある大きな考古学博物館」というのは現在の東京大学総合研究博物館のルーツというよりは、東京大学人類学教室の濫觴に当たる部屋であろうか(現在も相当数の大森貝塚出土品は同教室に現存する)。
【追記】以下、本書の挿絵に出る二十に及ぶ大森貝塚出土の土器片及び石器片については当然のことながら明治一二(一八七九)年に東京大学理学部紀要第一号として刊行された“Shell Mounds of Omori”(「大森貝塚」)の図版中にも掲載されている(但し、こちら図はモースによるものではなく、一九八三年岩波文庫版近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚」序文によれば、日本人『画工木村氏、石版工松田氏』の手に成るより緻密なものであって、当然、完全には一致はしない)。画像「大森介墟古物編」(現画像の日本語の標題は右から左書き)を視認する限り、以下のようにこれらを同定出来るように私には思われる。一部は「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の各標本ページをリンクさせた(これを管見すると、大森貝塚の出土品はその多くが現存しているものの、必ずしも「大森介墟古物編」で紹介された総ての標本が残っている訳ではないようである)ので御自身でも検証されたい。
●図246は 「第一板」PLATE Ⅰ の「二2」(原画像では縦並び。以下同じ)図
とほぼ一致する(「大森貝塚」では縦走する二本の模様が中央位置で模写されており、この縦の二紋とダイヤ型で連続した円筒を飾るに紋様の周縁部及び上下に接触するダイヤ頂点の円紋は本図と異なり、黒く描かれている。また下の端の部分には有意な損壊の跡を示すギザギザが一様にはっきりと描かれている。これは以下のキャプションに見るように、実はこの遺物が鉢本体ではなく、何と台附の鉢の台の部分だけが出土したものを上下逆転して描いたものであるとモースは述べる。これは本書の叙述にはなく、誰もがこれを鉢本体だと思うはずである(私もこれを記している今の今までそう思い込んでいた。但し、これがモースによって発掘直後に描かれたデッサンであるとすれば、少なくともこれを描いた時のモースは、この土器を「正立」した「鉢」と認識しており、その「底部」に欠損しているがある特異な「台」を持っていた「鉢」と推理していた可能性が頗る高いのではないかと私は思うのである)。現知見でもこれは正しく、以下の「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の現存するこの標本の現在の写真画像では正しく「正立」している。これはキャプションでモースがわざわざ以下のように書いていることから見ても、画工木村某氏が鉢本体との思い込みで倒立して描いてしまった可能性が高いと考えてよい。以下、当該標本の解説を一九八三年岩波文庫版近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚」から引く(以下同じ。この注を略す)。
《引用開始》
図2 口縁端(上下逆転. 台付鉢の台)厚さ12㎜. 器体厚さ7㎜, 口径100㎜. 黒色, 底はやや上底ぎみで平滑. 紋様を四回反復. 内面に酸化第2鉄のよごれがある.
《引用終了》
「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-2 参照。そこを見ると、縄文土器後期で寸法は現高で一一センチメートル、台底径(本図の上の大きい方)が一〇・五センチメートルとある。
●図247は 「第三板」PLATE Ⅲ の「十六16」図
が最も近似する。但し、下部の台の欠損の描き方がかなり違う。思う二モースのそれは底部の台の欠損箇所がよく見えるように、上部はフラットに視認しながらそこだけを前に傾けたようにして破損面を描いているように感じられる(生物標本の模写などではしばしば見られる手法であると思う)。
●図248は一見、同一の土器片は見えないが、私は 「第一板」PLATE Ⅰ の「一1」図の高坏状をした土器の上部の一部
であると思う。まず「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-2 を参照されたい。右に石膏復元された写真画像、左にモースの報告図が載るが、モースの方の中央やや上にある縄文紋様の帯状の膨らみから上の右辺部が、実はこの土器片なのではなかろうか? 接合させた列断面は必ずしも一致はしないものの、その傾斜角はかなり似ているように思われ、なによりも、以下のキャプションの底の部分についての叙述が、この土器片と同一体であることを物語っているように私には思われるのである。
《引用開始》
図1 厚さ5-7㎜, 高さ242㎜, 口径268㎜. 上部黒く下部赤みをおびる. 底に網代圧痕.
《引用終了》
データベースには、縄文後期、口縁から胴部を復元した深鉢とし、現高は二五センチメートル、口径は二六センチメートルとある。
次に図249の同定に移る。右に四個体、左に三個体の全部で七個体の土器片が載るが、便宜上、右を上から1・2・3・4、左を上から5・6・7と振ってそれを番号とする。
●図249-1は 「第十二板」PLATE Ⅻ の「十二15」図
の取っ手様突起であると思われる。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-2 を参照されたい(但し、現在、この標本は行方不明で、リンク先にはモースの報告図のみが載る)。「大森介墟古物編」のキャプションは、
《引用開始》
図15 厚さ5㎜. 黒色.
《引用終了》
とあるだけでそっけないものの、絵は左に正面(と思われる)方向の独特の縄文と縦に粒上の紋様を転々と配する独特のデザインを写した図を、右に側面(と思われる)からの環状になった特異な突起を美事に描いて素晴らしい。岩波文庫「大森貝塚」の関連史料に載る池田次郎訳出(一部省略)の「日本における古代人種の痕跡」(平凡社一九七三年刊「論集日本文化の起源」第五巻の「日本人種・言語学」からの引用)の中に載る挿絵の“Fig. 16.”がやはりこれと同一体と思われ、そこのキャプションでモースはこの土器片について触れており、『図16は突起を環状に作り、木の把手をはめこむことができる』と記している(但し、嵌め込むことができる、のであって、実際に木を嵌め込んでいたかどうかは微妙に留保しなくてはならない。考古遺物の使用法への安易な推測による思い込みは思わぬ落とし穴を作ると私は考えているからである)。
●図249-2は 「第九板」PLATE Ⅸ の「十一11」図
であると思われる。似たものは他にもあるが、各部の紋様が殆んど全く一致するものはこれしかない。
《引用開始》
図11 厚さ8㎜. 暗い肌色. 明らかに浅い平底の鉢の破片.
《引用終了》
「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-113 を参照。そこには縄文後期とし、深鉢(口縁部) とある。
●図249-3は「大森介墟古物編」には載らないが、その紋様から現在、「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-216
と見て間違いない(リンク先の現状写真を本図と比較されたい)。そこには縄文晩期の深鉢(口縁~胴部)
とある。
●図249-4は「大森介墟古物編」には載らない。
かなり似た紋を持つものならば
「第八板」PLATE Ⅷの「六6」図
があるが(「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-93A, 93B の右)、形が全く異なるから別物である(「大森介墟古物編」のそれのキャプションには『厚さ7㎜. 黒色. 粘土が軟いうちに刻みをいれてから円みをつける』とあり、後者当該データには縄文後期の深鉢(口縁部)とある)。「大森貝塚出土標本データベース」に896ある土器片総てを現認してみたが、現在のところ見出し得ない(一件ずつ開いて画像を視認しなくてならず、しかも画像によっては暗く、紋様が見えないものもあり、撮影の配置が異なると判別がなかなか厳しい。また、単破片であったものを接合した可能性もあることから今のところは宝くじを引いているような(宝くじは飲み仲間の集団買いで生涯一度しか買ったことがないが)ものである。この迂遠な調査は続行しようとは思っている)。
●図249-5は 「第十四板」PLATE ⅩⅣ の「十三13」図
と同定してよいであろう。キャプションは、
《引用開始》
図13 厚さ8㎜. 赤みがかる.
《引用終了》
とある。「大森介墟古物編」では上方に側面から見たまさに厚い捩じれた構造が描かれている。これは先に掲げた「日本における古代人種の痕跡」の中に載る挿絵の“Fig. 15.”にも挙げられており、恐らくモース遺愛の形状であったものと私は思っている。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-210 で、縄文後期・深鉢(突起)とある。
●図249-6は 「第六板」PLATE Ⅵ の「十五15」図
である。キャプションは、
《引用開始》
図15 厚さ6-7㎜. ひじょうに明るい肌色. 乾燥後, 彫紋.
《引用終了》
とある。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-76 で、縄文晩期・深鉢(口縁部)とある。
●図248-7は 「第六板」PLATE Ⅵ の「二2」図
と同定してよいであろう(但し、この図には現存標本にはない右側の胴の部分が描かれており、「大森介墟古物編」では完全な側面図で立体感がなく、首の下の肩の部分はもっと鋭角的に尖っている。但し、その図が尖って見えるのは実は肩の部分から下が図の左右ともに著しく欠損しているためで(以下のリンク先の現存標本の現状写真を参照)、これは本来は本書の絵のように丸みを帯びた壺であったことが分かる。発掘後、本書のスケッチをした後に図の右肩の部分を著しく損壊してしまったのかも知れないし、若しくはモースが想像で壺らしく右肩部分をちょっと附けたして描いた可能性も否定は出来ない)。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-63 で、縄文晩期・壷(口縁~胴部)とある。
次に図250の同定に移る。最上部に一個体、下部右に二体(上は土器、下は石器)、左に二個体の土器片、全部で五個体が載るが、便宜上、一番上のそれを1とし、次に下部右上を2、右下の円筒状の石器を3、下部左上を5、下部左下のプレート状の土板(後述)を6と振ってそれを番号とする。
●図250-1は、よく似ているものが 「第九板」PLATE Ⅸ の「二2」図
に載るが、「大森介墟古物編」では、向かって左部分の欠損箇所の形が全く異なる点、せり上がった縁の勾配がもっと左右ともに急である点、何より下部の胴部分がもっと残存していて、本書の下部が首相当の箇所になっていてそこに細い横紋が入り、しかもさらにその下の胴部分さえも少し残って左右のその断裂箇所には表面の一部の紋が残っている点で異なってはいる(「大森介墟古物編」では右に側面図が載って壺の首部分であることが分かるように示されている)。従って「大森介墟古物編」に所収しない全く異なる標本である可能性も勿論あるが(現存標本の調査は続行する)、一つは、この図250にこの標本を配するにあたって、このウェーヴが気に入っていたモースが、しかし下部の標本を示したいが故に、本標本の下部分を省略した形で示した可能性を拭えないように思われる(無論、学術的には論外であるが、間違えてほしくないのは本書は辛気臭い学術論文ではなく、モースの随筆集なのである)。一応、キャプションを示しておく。
《引用開始》
図2 上部厚さ7㎜. 下部厚さ5㎜. 黒色.
《引用終了》
とある。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-104 で、縄文後期・深鉢(口縁~胴部)とある。
●図250-2は「大森介墟古物編」には載らない。似たものが「第四板」PLATE Ⅳ の「六6」図に載るが、全体の形状が異なる(「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-43で縄文後期・深鉢(口縁~胴部)とある)。「第二板」PLATE Ⅱ の「二2」図も似ている。しかもこれを「大森貝塚出土標本データベース」で見ると(標本 BD04-13A,
13B の左片やはり縄文後期・深鉢(口縁~胴部) とある)、備考欄に『当初モース報告の図と比べ一部欠損していたが、今回の調査で欠損部が見つかり、さらに新たな接合も確認された』とあるのはやや気になる。もしかすると、これがばらばらだった時のスケッチである可能性が出てくるからである。これについては実は既に「大森介墟古物編」のこの標本のキャプションに『図2 大破片から復原』とある。ともかくも本書のこのスケッチはかなり杜撰で、これでは「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本画像を探すのは片の形によるしかなく、至難の技である(調査は続行する)。
●図250-3は 「第十七板」PLATE ⅩⅦ の「八8」図
にある溶岩製(先に掲げた「日本における古代人種の痕跡」の中に載る挿絵のキャプションでは同じか同質のものを指して『軟質の火山岩製』と言っている)の石器と見たい。「大森介墟古物編」には『粗製の手斧』とある。このスケッチもあまりに素朴なのだが、上部の断裂部の形状と勾配が非常によく一致している。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVII-8 で、そこには磨製石斧、長五・五センチメートル、幅二・三センチメートル、厚さ一・一センチメートルとある。
●図250-4は最も近いと感ずるのが 「第十二板」PLATE Ⅻ の「八8」図
で、「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-167 である。下部の紋様位置がもっと下にしかないが、どうも本書のスケッチは上部の突起や穿孔箇所がいい加減に書かれておりしかも最上部の突起の先端が明らかに省略されていることから、一応、これに同定しておきたい(今後の調査でもっと一致するものが見つかった場合は、訂正する)。
キャプションを示しておく。
《引用開始》
図2 厚さ7㎜. 黝黒色. 粗い.
《引用終了》
「黝黒色」は「ユウコクショク」と読むか。青黒い色のこと。
●図250-5は 「第十五板」PLATE ⅩⅤ の「四4」図の三方図の右の図
に間違いない。モースはこれを「土板」と呼んでいる。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」(これは土製品・土偶・石器・骨角器・貝(土器以外)標本一覧に分類されている)にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XV-4 である。そのデータによれば寸法は縦五・五センチメートル・横三センチメートル・厚さ2センチメートルである。モースは「大森貝塚」で、同所ではこの不思議な土板が現在までに五個発見されていると書き、これらは極めて類例のないもので、これと似たものは唯一一八四一年にオハイオ州シンシナティの塚で発見された岩板のみであると述べている。そしてこれらの土板に共通する性質として、
・他の多くの土器類よりも遙かに良質なきめ細かい粘土製であること
・どれも煉瓦色などの有意に明るい色をしていて着色した痕跡はないこと
・どれも装飾が念入りで巧みであること(製法は土器同様に乾いた粘土を焼成前に削り出したか細工したもの)
・そうした堅い作りの良製品の紋様の多くが何故か摩耗して消えかかっていて且つ総て割れている(完品がない)こと
などを挙げている。モースも不思議だと述べている総てが割れている――可能性として人為的に割られている――というこの点にこそ、私は強い呪具としてこの土板を考え得るヒントが隠されているように思っている。なお、土板は現在でも用途不明とされ、神の依り代である巫(かむなき/かんなぎ:神の憑依や神と交信をするためにシャーマン)などが所持した祭儀用具、何らかの呪符、よりアクセサリー性の強い御守り(これはモースが「大森貝塚」で吊り下げるための突起・環・孔といった工夫が一例にしか認められないことを理由に問題外として否定している)・軽量の錘(モースは否定的)・貨幣(同じくモースは大きさに変化がなく、大き過ぎるとして否定)などと多様な説が出されている。なお、モースは仮説として、
・第一案 的に向けて抛ったり投げたりする輪投げに似たゲームに用いた遊具用の駒説
・第二案 携行された権威を示すところのシンボル説
・第三案 携帯された護符若しくはシャーマンの呪(まじな)い札説
を挙げている。ハンドル・ネーム
JWF(Johmon Ware Freak) 氏のサイト「縄文土器 これこそ世界遺産だ!」の「縄文のID 土板・石板」で多様なそれを見られる。そこに示されてあるように土板は主に関東から、石板は主に東北から出土する縄文後期から晩期にかけての特異な遺物で、紋様のみのもの・人面を持つもの・手形や足形を捺したものなどがある。因みに私は特に実際の子どもの手足の型押しをした最後のものにかねてより強い興味を抱いている(恐らくは主に東北から北海道で出土しているはずである)。数少ない研究によれば、それは容易に想起出来るところの死んだ子の手足を押しつけたとも思われるものもある一方、自立的に立ったり押しつけたりしたと思われるものなどもあって、死んだ子への鎮魂の意味以外にも、もしかするとこれには、健康や長寿を願うためのもっとポジティヴな呪言的意味が隠されている可能性もあって、関心は尽きないのである。モースがこの手足形押しの土板を見たら、どんなにか激しく驚き、わくわくしたことであろう。モースとは、そういう意味で素晴らしい先生であることは疑いがないのである。
次に図251の骨器(獣骨製)及び角器(鹿角製)の同定に移る。全部で四個体、上部に上下に個体、下部右に上下二個体、下部左に一個体載るが、便宜上、右を上から1・2・3・4、左を上から5・6・7と振ってそれを番号とする。
●図251-1は 「第十六板」PLATE ⅩⅥ の「七7」又は「八8」 の孰れかであるが、私は「八8」に同定
したい。これらは「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」(これは土製品・土偶・石器・骨角器・貝(土器以外)標本一覧に分類されている)にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本
XVI-7
及び XVI-8
で、「大森貝塚」のキャプションは孰れも『鹿角製の突き錐』とする。並んだ図からは、前者は凡そ前者は行方不明でモースの報告図のみが残るが、双方のモースの図を比べて見ると実物は(図の編者に拠る縮小注記を元にしたおおまかな換算なので正確ではないが)二四ミリメートル前後、後者はそれより長くて六〇ミリメートル前後であるはずである(現物が残る後者のデータも六三(長)×五(幅)×五(厚)ミリメートルとあるからこの換算にほぼ等しい)。本書では学術論文ではないから縮尺をモースは述べていないのだが、総てが同一縮尺で描かれていると考えると(学者であるモースなら少なくともこの図内では必ずそうしたはずである)、他の標本群との比較から長い方の「八8」でなくてはおかしいのである。具体的には同一プレート内ではほぼ縮尺は総て統一されている「大森介墟古物編」の「第十六板 PLATE ⅩⅥ」の中にあって「七7」は図251-5の同定候補(後述)である「七7」のすぐ左に描かれてある「五5」の全長より明らかに短いのに、「八8」はその図251-5より有意に長いからである。本書の図251-1はご覧の通り、物差しを当てずとも図251-5より長いのである。ただ翻って、リンク先のモースの図を見ると、何やらん、先端の影の書き方は、一見、XVI-7
の方がぴったりくるようにも見えるのだが、ところが、XVI-8
の現状写真を見ると嘘みたいにちゃんと先端部に陰り(摩耗したか欠けたか変色したか)が見えるのである。この同定にはかなり自信があるつもりである。
●図251-2は 「第十六板」PLATE ⅩⅥ の「一1」
である。特徴的で大きい。キャプションは、
《引用開始》
図1 鹿角の先. 使用による損耗いちじるしい. ひんぱんな使用の痕跡をのこす枝角の破片は, この貝塚によくみられる.
《引用終了》
とある。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVI-1 である。データにはただ獣骨とあり、寸法は一三四 (長)×四二(幅)×二一(厚)ミリメートルとあるが、リンク先の現状写真でも一目瞭然、備考の通り、『モース報告の図と比べて先端部及び背面の一部が欠損している』。
●図251-3は私は敢えて本文のモースの「骨及び鹿角でつくった器」に謂いに異議を唱えて 「第十七板」PLATE ⅩⅦ の「七7」図
の石器ではないかと考えており、「大森介墟古物編」のキャプションには『滑石質の板岩』とあるものである。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVII-7 である。データには、石棒・石器・長さ八・五センチメートル、幅三・〇センチメートル、厚さ二・〇センチメートルとある。この同定に関しては大方の御批判を俟つ。
●図251-4は 「第十六板」PLATE ⅩⅥ の「十九19」
である。キャプションには他の六標本と合わせて『鹿角製の用途不明の各種の道具』とあるが、私は一見、陽物崇拝のシンボルと見た。私が猥褻だからと一蹴される向きとは――もうお付き合いする気は毛頭ないと言っておく。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVI-1 である。データには、銛頭/シカ
(角)・骨角器・六〇(長)×一一(幅)×七(厚)ミリメートルとある。
●図251-5は 「第十六板」PLATE ⅩⅥ の「五5」
である。キャプションは、『両端切断の鹿角片先』とあるだけである。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVI-1 である。データには、シカ (角)・獣骨・五五 (長)×二九(幅)×二五(厚)ミリメートルとある。]
* 現在大学にある大きな考古学博物館や、すでに数多の巻数をかさねた刊行物の発端は、実にこれなのである。
* * *
【追記:藪野直史】以上は、2014年1月20日に大森貝塚出土品の同定のために大幅に注を増補した。