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2013/11/30

北條九代記 伊賀到官光季討死 承久の乱【六】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――京都守護伊賀光季、倒幕計画を察知し鎌倉へ急報、後鳥羽院の召しに応ぜず。同京都守護大江親広及び西面の武士佐々木広綱は召しに応じて官軍に組みす

      ○伊賀到官光季討死

伊賀判官光季、佐々木左衞門〔の〕尉廣綱、大江親廣(おほえのちかひろ)入道等(ら)を召しけるに、光季(みつすゑ)は北條義時が妻の弟なり。近き緣者なれば、この事を聞くよりして、關東に飛脚を遣し、軍の用意を致しける所に、急ぎ參るべき由御使ありければ、光季御返事申すやう、「京中何とやらん申す沙汰の候。某(それがし)關東の御代官として一方の防(ふせぎ)にも罷り向ふべき身にて候へば、子細をも承らず、卒爾(そつじ)には参り候まじ」とぞ申返しける。佐々木大江は疾(とく)參りて、一院の御前にして、直(ぢき)の勅を承り、遁るゝ所なくして、起請文を書きて、御味方となりにけり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【六】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――京都守護伊賀光季、倒幕計画を察知し鎌倉へ急報、後鳥羽院の召しに応ぜず。同京都守護大江親広及び西面の武士佐々木広綱は召しに応じて官軍に組みす〉

以下、以前のようにパートごとに分割して示す。前と同じように実際の本文は改行なしで連続している。

「承久記」(底本の編者番号16のパート)の記載。この伊賀光季討死のシーンは詳細を極める。

 

 平九郎判官胤義ヲ被ㇾ召テ、「親廣法師・伊賀判官、是等ヲバイカヾスベキ」ト被ㇾ仰ケレバ、胤義申ケルハ、「親廣ハ被ㇾ召バ參候ハンズ。光季ハ權大夫ニ緣者ニテ候へバ、被ㇾ召共參リ候ハジ。如何樣ニモ先兩人ヲ被ㇾ召候テ、參リ候ハズハ、其時コソ討手ヲモ被差遣候へ」ト計ラヒ申セバ、「尤可ㇾ然」トテ、少輔入道ノ許へ御使ヲ被ㇾ遣。即チ五十綺計ノ勢ヲ相具シテ參ケルガ、伊賀判官ノ許へ使ヲツカハス。「賀陽院殿へ被ㇾ召候間、參候。其へハ御使ハコヌカ」ト云ケレバ、「是へハ末御使モ見エ候ハズ。縱ヒ御使候トモ、承旨候程ニ、左右ナク參候マジ」トコタヘケリ。少輔入道是ヲサトラズ賀陽院へ參リタレバ、殿上口へ被ㇾ召テ、院直ニ被仰下ケルハ、「義時ガ方ニ有ンズルカ、又御方ニ可ㇾ候カ、只今申キレ」トゾ仰ケル。直ノ敕定ニテハアリ、兎角可ㇾ申トモ不ㇾ覺、「御方ニコソ候ハンズレ」ト申ケレバ、「サラバ、只今起請ヲ書テ進ラセヨ」ト被レ仰。難ㇾ遁カリケレバ、居ナガラ起請ヲ書テ進ラセケリ。サテコソ御所中ニハ候ケレ。

 ヤガテ、「伊賀判官メセ」トテ被ㇾ召クレバ、「畏テ承ハリヌ。無左右可ㇾ參候へドモ、京中ニ何トヤランノ、シル事ノ候。光季ハ未不ㇾ承候。カタノ樣ニ候へドモ、關東ノ御代官トシテ、カクテ候ニ、如何ナル御事ニテ候トモ、先承候ハントコソ存候ニ、今始テ勅定ニアヅカリ候へバ、參マジキニテ候」トゾ申ケル。押返シ、「別ノ儀ニ非ズ。直ニ可ㇾ被仰下旨アリ。急ギ參レ」ト被ㇾ仰ケレバ、「子細ヲ承テ一方へモ罷向ハン、御所へハ無左右參リガタフ候」ト申セバ、「サテハ此事、ハヤ、知テケリ。胤義ガ申狀不ㇾ違。サラバウテ」トテ、討手ヲ被ㇾ向。承久三年五月十四日ノ事也。今日ハ日暮ヌトテ、被ㇾ留ヌ。

 

「平九郎判官胤義」三浦義村の弟で検非違使判官であった三浦胤義(既注済み)。

「親廣法師」大江親広(ちかひろ 生没年不詳)は幕府御家人。幕府重臣大江広元長男。公卿源通親の猶子となって源親広と称したが、建保四(一二一六)年に父の大江復姓(元は養家の中原姓を名乗っていた)に合わせて大江姓に戻った。父が幕府の実力者であったことから実朝に寺社奉行として重用され、北条氏からも執権義時の娘婿として厚い信任を受けていた。建保七(一二一九)年一月、実朝が公暁に暗殺されたため、出家して蓮阿と号し、同年二月に伊賀光季とともに京都守護に任じられて上洛していた。承久の乱では後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与し、近江国にて幕府軍と戦ったが、敗れて京都に戻り、その後の消息は不明。一説に出羽国に隠棲したともされる。また、乱後に離別させられた正妻竹殿(北条義時娘)は、後に通親の子土御門定通の側室となっており、定通の甥にあたる後嵯峨天皇の即位と深く関わることになる(以上は主にウィキの「大江親広」を参照したが、没年は未詳に変えた)。

「伊賀判官」伊賀光季(?~承久三(一二二一)年)は幕府御家人。伊賀朝光長男。母は二階堂行政娘。北条義時の後妻伊賀の方は姉妹で北条氏外戚として重用された。この時、大江親広とともに京都守護として上洛していた。

「權大夫」北条義時。当時、右京権大夫。

「承旨候程ニ」お懼れながら伝え聞いて御座いまする(不審の)義が御座いますれば。

「少輔入道」大江親広蓮阿入道。当時、民部少輔(しょうゆう/しょう)。

「申キレ」「まうしきる」で自己尊敬(卑小語)の「申す」に、「きっぱりと~する」「決定する」の意の「切る」の命令形が附いたもの。

「子細ヲ承テ一方へモ罷向ハン、御所へハ無二左右一參リガタフ候」の伊賀の奏上は「北條九代記」本文「京中何とやらん申す沙汰の候。某(それがし)關東の御代官として一方の防にも罷り向ふべき身にて候へば、子細をも承らず、卒爾には参り候まじ」(どうも京の内に何やらん、非常に不穏な噂が流布して御座います。我ら、関東より京都守護職を命ぜられた身として、帝を守るとともにこの不穏な状況から一方の、幕府の防衛のためにも不測の事態に対応して出陣致さねばならぬ身でも御座いますれば、お召しの具体的な御理由を拝聴申し上げぬ限りは、俄かに、また、御前に軽率に参上致す何度と申すことは、これ畏れ多く、とても出来そうも御座いませぬ)で非常に分かり易く言い換えられてある。光季の迂遠で慇懃なぬらりくらりとした応答は小気味よい。

 

 以下、「北條九代記」本文を注する。

「佐々木左衞門尉廣綱」佐々木広綱(?~承久三(一二二一)年)は近江源氏で頼朝側近であった佐々木定綱の嫡男。当初、在京御家人として幕府に仕えていたが、次第に後鳥羽上皇との関係を深め、西面武士となった。承久の乱では以下に見るように京極高辻の館の伊賀光季を討ち滅ぼし、その館を賜っている(五月二十二日に幕府軍が進発するが、そこには彼の弟(定綱四男)で後の「宇治川の戦い」のシーンに登場する佐々木信綱がいた)。六月三日卯の刻、関東方を迎え討つべく京を進発、同四日、尾張川に至り、大手の将軍として藤原秀康・盛綱・高重・三浦胤義らとともに一万余騎を率いて摩免戸(まめど)の渡し(現在の各務原市前渡(まえど))を守って翌五日に鎌倉方と戦うが、官軍は他と合わせても二万余で敵の半数(北条泰時・時房率いる東海道軍は凡そ十万騎)にも満たず、敗れて帰洛、同十二日には軍を率いて宇治を守ったが、先陣を切った弟信綱の働きで十四日に幕府軍が勝利し逃れたが、後に捕らえられ、乱平定直後の七月二日に梟首された。彼の四男勢多加丸(後鳥羽上皇第二子の御室道助法親王の寵童)は捕らえられたものの、未だ年少の美少年であったため泰時は助命しようとした。ところが、広綱の弟信綱の要求によって彼に引き渡されて七月十一日に彼の手で斬首された。佐々木氏は後に信綱が継ぐ事となった。「承久記」の諸本はその哀話を詳しく語っているが、何故か「北條九代記」はそれを全く記さない。「北條九代記」という幕府史の正統から外れ、戦記物張りのリズムにも合わないと考えたものかも知れないが、かなり残念な気が私はする(以上はウィキの佐々木広綱及び「承久記」底本の人物一覧も参照した)。

 なお、「承久記」慈光寺本を見ると、広綱と伊賀光季は「相舅(あひやけ)」(光季の息子判官次郎寿王が広綱の娘を妻としていた)であって親しく、まさにこの五月十四日の昼には光季誅伐の情報を耳にした広綱が伊賀に伝えようと彼を自邸に招いて酒宴を開いたとする。そこで光季はいつになく寛いで、

「この頃、都に数多の武士が集うて御座るとお聞き致す。一体、何事かと合点がいき申さぬ。過日の夜の夢に、宣旨の使者が三人参って私の張り立てておいた弓を取り上げ、その柄(つか)を七つに折りしだくという夢を見申したによって、何事も不安で、世も何にとなく面白うなく存じて御座った。今日の、この交遊は、まさに生涯の思い出とまりましょうぞ。」

と述べた。広綱は彼に迫った危機を告げようとしたが、後に後鳥羽院は、内通したのは広綱に違いない、と思うに決まっていると躊躇しつつも、それとなく、

「院は一体、何をお考え遊ばされておらるるものやら……。おっしゃる通り、都の中にもの騒がしき不穏な気配が確かに御座る。無常のこの世の習いなれば……ただ他人の上に何かが起ころらんとすることか……いや、もしや……我が身の上にこそ起こらんとすることか……もしものこと……これあるであろう時には……どうか、お頼み申しまするぞ。……また……同じごと――我らがことを頼みと――なさるるがよろしゅう御座る。……」

と言ったという。その後、日暮れになって自邸へ帰った光季は、その夜もそのまま白拍子の名人春日金王(かすがのかなおう)を招いて、夜もすがら、園遊を催したそうである。……「承久記」、なかなか面白い。]

朗らかな 日   八木重吉

いづくにか
ものの
落つる ごとし
音も なく
しきりにも おつらし

鬼城句集 秋之部 杉の實

杉の實   杉の實や鎖にすがるお石段



これを以って「鬼城句集」の「秋之部」を終わる。

2013/11/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 7 元祖肩揉み機 / 紙幣のこと


M253
図―253

 

 先日私は曲げた竹の一端に、大きな木の玉をつけた、奇妙な品を売っているのを見た。どう考えても判らぬので、売っている男にそれが何であるかを聞くと、彼は微笑しながら鸞曲線を肩越しに持ち、それを前後に動して、玉で文字通り自分の背中を叩いて見せた(図253)。このたたくことは、リューマチスにいいとされている。そして私は屢々、小さな子供が両方の拳固で、老人の背中を叩いているのを見る。この簡単な工夫によって、人は自分自身で背中を叩くことが出来、同時にある程度の運動にもなる。

 

 紙幣を出す時、その辺(へり)が極めて僅かでも裂けていると、文句をいわれる。その結果、裂けた紙幣はごく少ししか流通していない。事実、折目の所がちょっと裂けたのを除いては、皆無である。用紙は我々のよりも厚く、もっとすべっこいように思われ、そして幾分よごれはしても必ず無瑕(むきず)で、我国の紙幣のように、すりへらされた不潔な状態を呈したりしない。これは下層民が、紙幣というような額の大きい金銭を取扱わぬからかも知れないが、日本人が奇麗好きだということも、原因しているであろう。

[やぶちゃん注:明治一〇(一八七七)年に一般に流通していた紙幣は「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 3 旅つれづれ」の注を参照されたい。但し、今回調べて見ると、これとは別に明治一〇年当時は「国立銀行紙幣」というものが同時に使用されていたことが分かった。これは政府紙幣の回収と殖産興業資金の供給を図るために、民間に高まった銀行設立の機運に合わせて政府が民間銀行から明治六(一八七三)年八月から発行させた金貨と兌換出来る兌換銀行券を指す。但し、「国立銀行」と言うものの、これはアメリカの制度に倣って明治五年に制定された「国立銀行条例」に基づいて設置された民間銀行を指す。こうした国立銀行は当初四行が設立され、その後明治九(一八七六)年の条例改正により事実上、不換紙幣の発行が認められたことに伴って、銀行数は急増、明治一二(一八七九)年末には全国で百五十三行を数えるに至った。これらの各銀行の発行した国立銀行紙幣は、総て同形式で発行者名のみが異なったものであった。なお、紙幣の原画は日本で作成したが、印刷はアメリカに依頼している。券種は一円・五円・十円・二十円であった。この国立銀行紙幣の部分はChigasaki WS氏のサイト「近現代・日本のお金」の明治(2)」に拠った。リンク先では実際に紙幣の画像や詳細データが見られる。]

耳嚢 巻之八 座頭の頓才にて狼災を遁し事

 座頭の頓才にて狼災を遁し事

 下野(しもつけ)の者日光道中筋へ用ありて出(いで)しに、日も暮に及ぶ頃茶屋によりて酒抔始(はじめ)けるが、木挽體(こびきてい)にて大鋸(おほが)を腰にさし候者一人、座當一人一同茶屋に休み、彼是の雜談致(いたし)、右の内木挽と座頭は、是非けふの内、先き方へいかざればならずとて立出んとせしを、彼(かの)茶屋の者押止めて、此程は右道筋に狼多く出て害をなすと聞ければ、夜中行給ふこと不可然(しかるべからず)、迷惑ながら此茶屋に一宿なし給へと申(まうし)けれど、木挽座頭共誠に無據(よんどころなき)事にや、いなみけるに、彼野州(やしふ)の旅人も、三人同道に侯はゞ狼も害なかるべしとて終に立出しに、程なく日暮て野道にかゝりしに、あんに違はず狼一疋見えしが、其脇を拔(ぬけ)て事なく行違(ゆきちが)ひしに、また向ふを見れば狼數十疋群れ居て、或は吠え、又は物を搜す體(てい)にて中々通りがたく、こなたへ向ひ來(きた)る樣子ゆゑ、手頃なる木へ登りて三人ともうづくまり居しが、右狼たちさる體(てい)にも見へずと申合(まうしあひ)けるに、座頭木挽に向ひ、御身の腰にさし給ふ由の鋸(のこぎり)をかし給へとかり請(うけ)て、己が喜勢留(きせる)を持(もつ)て右大鋸を烈敷(はげしく)たゝきければ、かまびすしき音限(かぎり)なし。右音に驚(おどろき)しや、集りし狼いづちへ行けん、みな散り失(うせ)て難なく三人共志す所へ通りしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。ここで最初に出た狼は索敵の先遣であったことが分かる。狼の頓才も恐るべしである。
・「頓才」その場その時に応じて自在に働く知恵。臨機応変の才。気転(機転)の利く才。頓知の才。
・「酒抔始けるが」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『酒など給(たべ)けるが』で誤写が疑われる。
・「大鋸」「おが」とも読む。板挽き用の大形の鋸(のこぎり)。古く、二人挽きの縦挽き用のものが室町時代に中国から伝来し、江戸時代には一人で挽く前挽き大鋸(おおが)が出来て普及していた。
・「座當」僧体の盲人で琵琶・三味線などを弾いて語り物を語ったり、また、按摩・鍼などを生業とした「座頭」であるが、その場合は「ざとう」でこの表記では「ざたう」となってまずい。後に正しく「座頭」と書いており、誤写である。

■やぶちゃん現代語訳

 座頭の機転にて狼の災いを遁れた事

 下野(しもつけ)の者、日光街道の道中筋へ用のあって旅して御座った。
 日も暮れに及ぶ頃、茶屋に寄って酒なんどを飲み始めたところが、そこへ木挽(こびき)職人体(てい)の大鋸(おおが)を腰にさして御座る者一人、さらに座頭一人が加わって、両三人一同揃って、少し長めにその茶屋にて休むことと相い成った。
 かれこれと雑談致いて、さてもその三名の内、木挽と座頭は、これ、是非とも今日のうちに先き方へ赴かずばならぬと申したによって、されば三人にてともにと、茶屋を立り出でんと致いたところが、その茶屋の主人が、これを押し止(とど)めて、
主人「……実はこの頃、この先の道中筋に……狼が、これ、多く出でて人に害をなすと聴いて御座いますれば……夜中にそこを行きなさると申すは、これ、よろしゅう御座いませぬ。……茅舎なればご不快とは存じますが……どうぞ、是非、この茶屋に一宿なさるるがよろしゅう御座いましょう。……」
と、申した。
 ところが木挽と座頭はともに、よほど、よんどころなき事情があったものか、
座頭「――ご好意は有り難く存じますが、これ、どうしても参らずんばなりませぬでのぅ。」
木挽「――儂(わし)もじゃ。」
と断ったによって、かの下野から参った旅人も、
旅人「三人同道にて御座れば、狼も、これ、容易には襲って参るまいぞ。」
と申し、結局、三人して茶屋を立った。
 ほどのう、日も暮れて野道にかかったところが、案に違わず一疋の狼が現われた。――が、両三人、その脇を難なく抜けて行き違(ちご)うて御座った。
 ところが――暫く致いて、また先を見ると――今度は狼が――数十疋も群れて御座った。
 あるものは、おどろおどろい吠え声を、夜空に向かって細ぅ永(なご)ぅ叫び上げ続け……
 またあるものは、涎を垂らし目を爛々と輝かせて、何やらん、物を捜さんとするさまにて素早く左右を徘徊して御座った。……
 されば、恐ろしゅうてなかなかに通り抜くるに難(かた)く、両三名、道の真ん中に凍ったように立ち竦んで御座った。
 ところが……そのうち……明らかにその狼の群れが……こちらへ向って来る気配なればこそ――近くにあった相応に大きなる木へ三名ともに登って、枝の股に蹲って震えて御座った。
 ところが、狼どもはその木の下へと群がると、頻りに幹を登らんとし、また兇悪なる吠え声を立てては、不気味な眼を光らせてはうろつくばかり。さらに狼の数も増えてゆくようで御座った。
旅人「……い、一向に……こ、これ……」
木挽「……立ち去る様子は……ねえ、な……」
座頭「……そうで御座いますなぁ……」
と互いに木の上で言い合って御座ったところが、
座頭「――木挽きのお方。先におん身が腰にお差しになっておらるると申された、その鋸(のこぎり)……それを少しの間、拝借できませぬかのぅ。」
と申したによって、木挽きは鋸(のこ)を鞘から抜き、樹上で座頭へと手渡した。
 座頭は借り受けると、幹に体をぴたりと寄せて、木の枝に跨って落ちぬように体を落ち着かせると、左手にて鋸(のこ)の柄を握り、それを暗天へ差し上げ、右手に自分の金煙管(かなぎせる)を持って、
――グヮン! グヮン! グヮン! グヮン! グヮガガ! グヮン!
……と、その大鋸(おおが)を激しく、しかもまた異様な乱拍子で叩き始める!
――グヮガ! ガン! グヮン! ガン! グヮガ! ガンガン!
……その喧騒!
――グヮン! グヮン! グヮン! グヮン! グヮガ! ガガ! ガン! グヮン!
……この世のものとも思われぬ奇音にして怪音!
――グヮラン! グヮラン! ガン! グヮヮン!…………
……さても暫く致いて、旅人と木挽が、ふと下を覗いて見たところが――このおぞましき音に驚いたものか――無数に集(つど)って御座ったはずの狼ども――これ、一体、何処へ行ってしもうたものやら――皆々、散り散りに、闇の彼方へ逃げ去ってしもうた後で御座ったと申す。
 されば座頭と木挽と旅人の両三名、難なく、それぞれの志す所へと無事、その街道を抜けて行った申す。

中島敦 南洋日記 十月二十八日から十一月二日まで 又は 十一月一日の日記に禁断の恋人の面影が去来した瞬間を捉えた!

        十月二十八日(火) 晴

 朝授業二時間見學。ここの教員補は仲々しつかり者と見 ゆ。午後、コウイチなる島民(支廳のボーイ)を案内に、江の島に渡る。初めてカヌーに乘りたり。江の島一巡、アイヴォリ・ナット・パイナップル多し。眺望よし。島民に子安貝二個を貰ふ。教會あり。沖繩人の春島より移轉し來るに遭ふ。島民の家にて紅茶をよばれ、三時頃、月曜島に戻る。夜、校門前に椅子を出して涼む。月已に明るく、亭々たる椰子樹は楓々の音を立て、大いに快し。時に、白砂路を島民共通りかゝり、慇懃に頭を下げて、「コンバンハ」といふ。

[やぶちゃん注:「アイヴォリ」単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科スズラン亜科ドラセナ属ドラセナ・コンシネ・アイボリー(ホワイト・アイボリー) Dracaena concinna のことかと思われる。ドラセナ属の原種及び分布はアフリカ全土・ギニア北部を中心とした亜熱帯地域で、リュウケツジュ(竜血樹)属ともいう。この属の植物の中には、葉が美しく観葉植物として栽培されるものが多くある(以上はウィキの「ドラセナ属」に拠った)。Dracaena concinna は細い幹の先に細長い葉が花火のような流線形で広がり、葉はやや褪せた明緑にアイボリーのラインが入っている(グーグ画像検索「Dracaena concinna)。

「月已に明るく」当日は九夜月で月齢七・五。]

 

        十月二十九日(水) 晴

 朝食後、前々日訪ねしツーペル女史が教會を越えて、彼方の砂濱迄散歩す。人通とて無き、白砂と珊瑚屑と椰子樹とのみの寂しき海岸なり、貝若干拾ひて歸る。桓と共に富岡の海岸に貝殼を拾ひしことを思出づ。校長瀧野氏に、昨年二月生れの男兒あり。雞を追ひかけ、芝生を歩き廻る。格のことを思ひて、堪へ難し。但し、ここの兒は格の如き種々の藝はなさざるが如し。十時伊達丸に乘船、十二時過夏島着。航空合社に聞けば、我が便乘豫定の飛行機は來月四日發となるべしと。山城丸に間に合はざれば、支廳に到り、地方課へ電報にての問合せ方を依賴す。偶然、南拓の島田氏、寺田屋にあり。ポナべに長逗留の後、又々此處にて飛行便を待ちつゝありと。月曜島のコウイチに貰ひし小型椰子果の水、頗る美味。

[やぶちゃん注:「富岡」現在の横浜市金沢区富岡にあった富岡海岸。かつては白砂青松の砂浜海岸で、明治初期には横浜居留地の外国人らが海水浴を楽しんだ日本初の海水浴場であった。昭和四十年代から五十年代にかけての高度成長期に大規模な埋立が行われ現在は見る影もない。

「南拓」南洋拓殖株式会社。九月二十八日の書簡注に既注。]

 

        十月三十日(木) 晴

 朝食後、椰子水二個分。コプラもうまし。床屋に行き、貝屋を素見(ひやか)し、堀君への禮物を購む。午後一時公學校に行き、諸訓導と夏島一周に出立つ。但し、クツワは前囘に行きたれば省く。總村長夏雄の二階屋。グラウンドあと。南拓農場の茄子苗。サルヴィヤ。葉雞頭。到る所、工事、工事、人夫、人夫、人夫小舍、レール、トロッコ、ハッパ、赤土崖、椰子の實は盡く無し。漸く、公學校生徒の家に憩うて、椰子水を飮む。アンペラ。卒業證書。

 南興水産を經て過ぐれば、日既に秋島の上に落ちんとす。海上の飛行機、數臺。帆船、汽艇。一望の下にあり。五時近く歸宅。

 道順――ラーラ、メセーラン、オソペイペイ、パータ、トロフ、ネーチャップ、ツン、ポレ(南興)、ヌクラ、ヌーカン、サブン、サボロン

[やぶちゃん注:「購む」「もとむ」と訓じているものと思われる。

「アンペラ」アンペラの茎を打って編んだ筵。アンペラはイネ目カヤツリグサ科アンペライ属 Machaerinaの多年草。湿地に生え、葉は退化して鱗片状をなし、高さは〇・五~二メートル。茎の繊維が強い。熱帯地方原産。アンペラ藺(い)。呼称はポルトガル語“ampero”又はマレー語“ampela”に由来する。

「南興水産」昭和六(一九三一)年に静岡県焼津の庵原市蔵氏が南方鰹鮪漁業を目的とする南洋水産企業組合を設立し、パラオのマラカル島に基地を設けて操業を開始したことに始まる南洋方面を主体とした水産会社。後に南洋興発の傘下に入り、昭和一〇(一九三五)年に鰹漁業・鰹節製造業・製氷冷蔵業を事業目的とした南興水産株式会社として設立された。パラオに本社を置き、サイパンついで翌昭和一一(一九三六)年にトラック島夏島、ポナペ島コロニアに営業所が開設された。事業の進展に伴って資本金の増加が必要となった際、南洋拓殖株式会社が増資新株式を引き受けることによって同社の経営権を取得した(以上は「社団法人 太平洋諸島地域研究所」公式サイト内の同研究所理事長小深田貞雄南洋群島時代の水産業の記載に拠った)。]

 

        十月三十一日(金) 晴

 朝食中瀨君より電話あり、本廳より「最近の飛行便にて一先づ歸任せられたし」の電報ありたりと。航空合社に問合すに、一日横濱發の豫定なれば、三日トラック發となるべしといふ。島田氏、餘程無聊に苦しむと見え、二度迄訪ね來る、今日は終日外出せず、夜、飛行士と將棋、月漸く明るし、怪しげなる洗濯石鹸を買ひ洗濯をなす。鰯臭くして堪へ難し。

[やぶちゃん注:「鰯臭く」イワシを搾って得たイワシ油を原料とした石鹸。]

 

        十一月一日(土)

 昨夜、月明の街路を人々右往左往するを聞く。今朝、聞けば、夜這が見付けられ、隣組の出動となりたるなり。しかも夜這は二件ありし由。飛行機は今日も横濱を出でざりし模樣。南洋は己に天候定まりたれど、小笠原邊に低氣壓あるものと見えたり。九時頃公學校へ行き稻氏と伊豆の温泉のことなど語り合ふ。同氏は御殿場在の人。曾て一夏を過せし御殿場二枚橋の勝又正平氏は同氏の親戚なりと。郵便局に寄り、宮野氏に、ポナペ割愛の電報を打つ。

 午後高橋氏方に行き林檎と椰子水の馳走に預かる。夜八時頃、島田氏とトラック神社迄散歩す。月明の下、港灣の艦船の燈、靜かに瞬くを見る。なり

 田島への手紙。

[やぶちゃん注:……この日、彼は間違いなく、禁断の恋の相手――教え子小宮山靜――との胸掻き毟る追懐に苦しんだと考えてよい。この公学校の稻校長が「御殿場在の人」であり、かつて昭和一〇(一九三五)年八月、敦が一夏を過した「御殿場二枚橋の勝又正平氏は同氏の親戚」だと聞いたからに他ならない。「一夏を過せし御殿場」には――小宮山靜との秘密の邂逅があった――と私は睨んでいるからである。この勝又正平所有の貸家(印象からは離れのようなコテージ・タイプのものと思われる)は、実は小宮山家の紹介によって敦が借りたものであること、この昭和十年八月の折り、小宮山静がそこに敦を訪ねた可能性が極めて高いこと、いや、同じ家でないにしても同じ御殿場の直ぐ近くに彼女も避暑で(いや、避暑を口実に敦と密会するために)滞在していたことを深く疑わせるからである。これらについては私の中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見したを参照されたい。

「田島」呼び捨てにしているところから高い確率で敦の友人高橋(旧姓田島)晴貞氏かと思われる。底本の「來簡抄」の解題に『著者とは一高時代以來の親友で、音樂の才に長けてゐた。東大農學部を卒業後應召されて、それまでの頻繁な行き來が一時とだえることとなつた。が、著者のひとり言には何時も田島氏の名が擧げられて、「どうして僕ひとりを殘して行くのか」と呟くことが屢〻だつたといふ。書簡にも見えるやうに數年にわたる役人生活を經たのち、現在は足利工業大學教授として、經營經濟學を擔當して』おられる由の記載がある。同全集書簡類にはこの往信も田島氏からの来信も載らないが、この解題で述べている後の昭和一七(一九三二)年二月十七日附の心の籠った書簡が読める。後にここでも電子化する。]

 

 

        十一月二日(日)

 又々飛行機出發延期の由。朝七時半頃より島田氏來談。洗濯。九時より運動會を見に行く。狹き運動場に觀衆雜沓す、午後高橋氏の所に椰子水を飮みに行く、夕食は稻氏の招待。春島の渡邊氏と共に久しぶりの豚肉にありつく。夜九時半歸る、月良し。

[やぶちゃん注:「月良し」当日は小望月で月齢 一二・五.]

非論理的性格の悲哀 萩原朔太郎

  非論理的性格の悲哀 

 

 白でないものは黑である。もし白でも黑でもないものは、中間の灰色でなければならない。これが論理の原則であり、我々の推理の方式は、いつでもこの前提の上に組みたてられる。

 しかしながら多くの事實は、いつも人間の推理を裏切つてゐる。具體的なるすべての事實は、決して論理的であり得ない。特に我々の人格ほど、非論理的なものはないであらう。人格の實相は、實に矛盾そのものである。たとへばドストイエフスキイの著るしい特色は、變質者に特有なる非倫的・惡魔主義的の性向である。然るに彼の一面は、聖僧のやうに高潔で、處女のやうに純眞なる人道的な特質を有してゐる。故にこの一の人格は、惡でなく善でなく、白でもなく黑でもない。しからば善惡の中間たる、あいまいな灰色人物であるだらうか? 否、ドストイエフスキの人格は、神と惡魔の著るしい對立から成立してゐる。そこには北極と南極とがある。そして兩極の調和たるべき、温帶地方といふものが全くない。即ち彼の人格は、白にして同時に黑、黑にして同時に白である。神と惡魔とは、いつも一の氣質の中に、或るふしぎな樣式で入り混みながら生棲してゐる。兩者は決して調和をせず、また妥協をもしてゐない。彼は白でなく黑でなく、また灰色の人物でもない。

 同樣なる非論理的事實が、トルストイやニイチエや、その他の多くの藝術的天才に就いて觀察される。實に藝術家の本質的性格は、論理的矛盾の標本である。しかして偉大なる作家の性格ほど、より著るしい矛盾の對照を示してゐる。――げにあらゆる藝術的なものは、非論理的である。――やや平凡な作家と雖も、藝術家的氣質を有する限りには、多少の非論理性をもたないものはないであらう。ただ反省的の偏質をもたない限り、人は自ら自己の矛盾に氣がつかない。しかしてそれに氣のつくとき、人は決して幸福であり得ない。何となれば吾人の意志が、人格の合理的完成を欲して止まないから。トルストイの晩年に於ける悲壯な生活など、その著るしい例であろう。

 

 ここに或る一人の人間が、いかに性格の矛盾にみたされ、且つ不斷にその反省で苦しんでゐるかといふことを、私の讀者に告げることも、あながち無意味ではないと思ふ。況んやその男は、多少文藝の才能を有してゐて、同情すべき人柄の男であるから。かりに私は、その人の名をSと名づけておく。もし讀者の中に、多少彼と共通する性格の人を發見し得ば、Sはいかに自ら慰められるであらう。

 

 Sの生れたのは、田舍の或る小さな町であつた。彼の物質的環境は、比較的に平和で幸福であつたけれども、宿命的に生れついた偏質性が、早くから彼を不幸な人生に導いた。彼の長い生涯を苦しめてる、著るしい性格悲劇の發端は、實にその小學校の生活に始まつてゐる。小學校時代の思ひ出! それは多くの人にとつて、無上に樂しい甘美な追懷であるだらうが、獨りSにとつては反對であり、耐えがたき憎惡に價するほど、暗く苦々しいものであつた。何故ならばSの生涯を誤らした、不吉な厭人的情操や病鬱的精神や、その他のもろもろの惡しき苗は、その學校生活の小社會的環境によつて、ひとへに育ぐくまれたものであるから。

 しかし私は、ここでSの傳記を書かうと思ひ立つたのでない。實を言へば、環境が彼を惡くしたのでなく、彼の性格そのものが始めからこの種の社會的環境と調節できなかつたのであつたらう。Sの性格は、既にその頃から調和できない矛盾であつた。或る教師は、Sに就いて次のやうな批評を下した。「極めて善良で、内氣で、正直で從順な模範的學生。」然るに別の教師は、常に反對な意見をもつてゐた。彼はSに對し、憎惡の感情をもつて言つた。「横着で、生意氣で、高慢で、反抗好きの不良兒童。」と。そして兩方の觀察とも、Sには適切に當つてゐた。

 Sの學校の子供等は、その氣質や性癖やの著るしい對象によつて、二派のはつきりした黨派に別れてゐた。學業の成績から言ふならば、一方は「優等組」で、一方は「劣等組」であつた。性癖から言へば、一方は「温良組」で、一方は「不良組」であつた。またこの同じ對象を、氣質上から觀察すると、前者は「貴族派」と言ふべきで、後者は「平民派」と言ふべきだつた。即ち優等組・温良組に屬する生徒等は、人品的に氣位が高く、趣味が上品で、一般に高踏風の氣風をもつてゐた。これに對して劣等組・不良組の一派に屬する子供等は、人品が野卑で、ざつくばらんで、卒直ではあるが賤しげだつた。

 貴族組と平民組と、この二つの黨派に屬する生徒等は、互に敵視してにらみ合つてた。彼等の關係は、表面全く沒交渉のやうであつたが、内心では夫々對手の子供等を輕蔑し、氣質的に肌の合はない憎惡な感情をかくしてゐた。Sの學校の子供等は判然とこの兩派に別れてゐて、互に口を利き合ふこともしなかつた。然るに獨りSだけは、その兩黨のいづれにも屬しなかつた。ただ内氣の彼は、他から誘惑されるままに、或は貴族組の子供と遊び、或は平民組の子供と遊んだ。しかしSが貴族組の子供に混つて遊ぶとき、彼はたちまち孤獨を感じて、皆から仲間はづれになつてしまつた。何となればSの性癖には、どこかその連中と調和できない、もつとざつくばらんで野卑な氣持ちがあつたから。彼が何か發言するとき、いつもその仲間の子供たちが顏をしかめた。つまりSの性癖にまで、何かの貴族組らしからぬ、肌の合はないものがあつたのである。

 しかしながらSが、平民組の子供等と遊ぶときは、それよりも尚一層不幸であつた。或る種の惡戲をしたり、教師に反抗したり、思ひ切つた卒直の氣分を露出したりすることで、時に仲間らしい共鳴を感じてゐながら、氣質のどこかの隅に於て、全く肌の合はないものを感じてゐた。それ故平民組の子供等と一所に居る時、Sはいつも貴族組の子供の氣品をしたつてゐた。そして貴族組と遊んでゐるとき、平民組の子供の野性的な氣風にこがれてゐた。かくしてSは、あらゆる生徒中での仲間はづれであり、どんな氣質の子供とも親しめなかつた。彼の不幸は、單に孤獨であつたばかりでなく、氣質の毛色變りのために、理由なく憎まれて、迫害されたことである。即ち貴族組の子供は、彼等一流の傲慢な態度によつて、皮肉らしくSを嘲笑し敬遠した。そして平民組の子供等は、烏が旅鴉をいぢめるやうに、腕力によつて亂暴になぐりつけた。實際Sは立場が無かつた。學校の社會そのものが、彼には呪ふべき最惡であり、その殺風景なる建物は、彼を苦しめる牢獄の如く思はれた。

 

 宿命的悲劇とも言ふべき、Sのこの非論理的性格は、彼が成長するにしたがつて、益々著るしく多角的になつてきた。氣質のあらゆる方面、趣味の至る所の傾向に、互に矛盾し反對する二つのものが、全然不調和に對立してゐることをSは明らかに自覺してきた。元來Sの體質は、膽汁質に屬してゐるため、氣質的に憂鬱の傾向をもつてゐるのに、その趣味は反對に陽快のものに向つてゐた。音樂でも、美術でも、演劇でも、すべてSの好きなものは、陽氣で、賑やかで、明るい氣分と色彩に充ち、多分の健康性をもつたものに限られた。暗く陰氣なものは、じめじめした暗鬱の氣分のものは、本能的に厭ひであつて、見向くことさへもイヤであつた。この氣質と趣味との、實に著るしき矛盾から、彼の個性的情操には、一種ふしぎなる色を生じた。たとへば彼の時々作る敍情詩は、思想的には憂鬱の内景をもちながら、言語の感覺や氣分の上では、むしろ陽快に近く明るい感じのものであつた。

 Sの性格は、一方に全く哲人的のものであつた。彼は冥想を愛して、俗界の感覺的生活を賤しむ如き、超俗的高邁の氣風を持つてる人物である。しかも同時に、Sは純粹の俗物であり、感覺の快樂を追つて精神を顧みない、一の現實的人間主義者の如く思はれる。この前の性向が、彼に哲人の見得をあたへ、この後の性向が、彼に近代的藝術家の見得をあたへた。しかも彼の本質は、その何れでもないのである。そして勿論、また兩者の中間的調和でもない。ただ彼のいたづらに書く藝術が、ふしぎにその非論理な情操を表出してゐる。即ち「心靈的な内容」と「感覺的な氣分」とが、一の作品の中に竝立してゐた。

 Sの趣味性の本體には、實の洗煉を悦ぶところの、高踏的、唯美派的の氣位がある。しかるにSの性的氣質は、卒直な野生を愛し、典雅を排して直情の流露を悦ぶ所の、眞の自由主義者なのである。この高踏的精神と野性的氣質。唯美主義と自由主義との、全く互に容れない矛盾が、いかにして一の人格中に同居してゐるだらうか? そはやはり彼の藝術によつて語られてる。その藝術品は、或る高踏派的な情操をもちながら、形式は極めて野生的、民衆的のものであり、最も平易にして大膽なる自由主義の表現に訴へてある。

 

 かくの如く、要するにSの性格は、徹頭徹尾矛盾にみちてる。二の反對する兩極が、いつも彼の中に對立して、非論理的なる情操を形象してゐる。このふしぎなる情操は、その非論理的なるにもかかはらず――否、非論理的なる故に――彼の藝術品の特殊な個性を構成してゐる。しかしながら統一は、ただ藝術品に於てのみ。生活上に於けるSの人生は、實に支離滅裂たるものである。彼のあらゆる性格悲劇が、いつもその點から出發してゐる。その性格悲劇は、彼の人生を破産しようと試みてゐる。彼の運命は、いつも弟子に裏切られ、愛人に怨恨され、世人に誤解され、しかして友人からは少しも理解されないのである。

 

 讀者よ! この非論理性格の所有者、Sの何人たるかは、既に諸君の推察したであろう如く、正に私自身である。今や私は、一個の貧しき文人として生活してゐる。しかも詩壇における私の地位、社會における私の地位は、かつて昔、小學校に於て經驗したる如く、全くそれと同樣であり、人生の初學に始めて知つた環境は、ずつと今日に至るまで、さらに少しも變つてゐない。私をして、常に永遠の敵と孤獨の中に生かしめよ! 私をして白でなく、黑でなく、またその中間色にも屬しない。一の斷然たる個性として生かしめよ!

 

[やぶちゃん注:『改造』第七巻第十一号・大正十四(一九二五)年十一月号に所載された。底本は筑摩版全集第八巻に拠ったが、一部を初出表記に代えた。但し、初出は明らかな誤植が多く、本文読解を妨げるような著しい誤植(例えば私は「あらう」を「あろう」とする、「率直」を「卒直」とするような当時の他の作家もしばしば行った慣用的誤用はそれに含めていない)は底本校訂本文を採用した。なお、太字「同時に」は底本では傍点「〇」である。]

哀しみの 火矢(ひや) 八木重吉

はつあきの よるを つらぬく

かなしみの 火矢こそするどく

わづかに 銀色にひらめいてつんざいてゆく

それにいくらのせようと あせつたとて

この わたしのおもたいこころだもの

ああ どうして

そんな うれしいことが できるだらうか

鬼城句集 秋之部 柳散

柳散    柳ちるや板塀かけて角屋敷

2013/11/28

春晝 萩原朔太郎

 

 春晝
       ――叙情小曲――

 

うぐゐすは

金屬(きんぞく)をもてつくられし

そは畔(ほとり)の暗(くら)きに鳴(な)き

菫(すみれ)は病欝(びやううつ)の醫者(いしや)のやうに

野(の)に遠(とほ)く手(て)に劇藥(げきやく)の

鞄(かばん)をさげて訪(おと)づれくる。

ああすべて惱(なや)ましき光(ひかり)の中(なか)に

桃(もゝ)の笑(ゑ)みてふくらむ

情慾(じやうよく)の一時(じ)にやぶれて

どくどくと流れ出てたり。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月十一日附『東京朝日新聞』に掲載された。底本筑摩版全集第三巻「拾遺詩篇」より。「うぐゐす」はママ。最終行は同全集校訂本文では「どくどくと流れ出でたり。」と訂されてある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 6 モースの自室


M252


図―252

 

 図252で私は私の部屋の写生を示す。これは長い、素敵な部屋で、事実長さ三十フィートの応接間であり、この後は畳み扉でしきられて食堂になっているが、私は寝室に使っている。学生洋燈(ランプ)の乗っている卓(テーブル)または机で、私は日記や手紙を書き、次の机は雑物置として使用するのだが、どうした訳やら、他の卓もそれ等に属さぬいろいろな品物をのせて了う。一番遠方の丸い卓は、貝塚に関する仕事と、その問題に就ての若干の記銀との為に保留してある。隅にある机は、私の科学的の覚書全部と、腕足類に関して私がやっている特別な研究とを含有しているので、私は必要に応じて洋燈を一つの卓から他へと持って廻る。この部屋では毎夜、全然訪問者に邪魔されることなしに書き続ける。戸外は完全な平和と静寂とが支配する。事実、耳に入る唯一の物音は、いささか酒に酔って、景気のよくなった男の歌う、調子の高い音が、遠くから響く丈である。日本人は酒に酔うと、アングロ・サクソンやアイルランド人、殊に後者が、一般的に喧嘩がしたくなるのと違って、歌い度くなるらしい。

[やぶちゃん注:図252の左手の壁をご覧になられたい。ここに掛けられているのは間違いなく「第八章 東京に於る生活」の後半(ブログ標題「第八章 東京に於る生活 16 驚愕の籠細工)で彼が手に入れた籠細工の図213のバッタ、図214のトンボ、図215のキノコである!

「三十フィート」九・一四メートル]

中島敦 南洋日記 十月二十二日から二十七日まで

        十月二十二日(水)

 堀氏と打合せ、月曜島に行かんとて、七時迄に棧橋に行きしも、風強くして、船を出す能はず、空しく歸る。後に雨も加はり些か荒模樣なり。午後、公學校に行き、補習科讀本の檢討。夜に入つて風雨益々加はる。

 

        十月二十三日(木)

 雨は霽れしも風尚強く、便船出でず、朝(小學校訪問)支廳、午後、公學校にて、昨日の續き、補習科讀本を終る。(又、饅頭。出が)航空會社にて聞くに、二十七日發豫定のものは、未だ横濱を出でず、恐らくは廿九日以後のトラック發となるべしと、

 

        十月二十四日(金)

 今日も、船出ず、八時より公學校に赴き、學藝會を見る、島民少年はハモニカの演奏に長ずるものゝ如し、一年生の唱歌は仲々可愛ゆし、

 

       十月二十五日、(土)

 堀君と打合せ、七時半迄に棧橋に到りしも、結局、出ず、船は伊達丸とて、最近沈沒し、引揚げられ、修理されて之が修理後の初航なりと。船長の大事をとるも無理なし。午後に至り風稍收まる。十二時半より、公學校にて、海軍慰問演藝會を見る、沖繩踊多し、面白きものも少からず。――讀みにくき踊の名――口説(クドチ)。谷茶前(タンナヤメエ)。花風(ハナフウ)川平(カビラ)節。等、四時に終る。

[やぶちゃん注:日附の後の読点はママ。因みに、底本旧全集で『南洋からわが子へ(昭和十六七月―十月)』の副題を持つ「書簡Ⅱ」の掉尾にある十月中の日附不明のそれ(書簡番号五十)をここに示す。ここに配した理由は書簡中の「今は夏島にゐるけれど、もうぢき、水曜島や月曜島に行きます。冬島と秋島とは、もう行つて来ました」という記載が、この日を最下限とするからである。
   *
〇十月?日(トラックにて)
   「ウニモル山」
 むかし、トラックの水曜(すゐえう)島に、アッカードプとニェバーヌといふ二人(ふたり)の大男(おほをとこ)がありました。二人は、なにごとにつけても、きやうさうをしてゐました。
 あるとき、アッカードプはニェバーヌにむかつて、
「おれとおまへと、どつちが力(ちから)が強(つよい)か、山つくりのきやうさうをしてみよう。」
 といひました。
 ニェバーヌも、まけぬ氣(き)で、
「よろしい。やつてみよう。こんど十五やの月が出るまでに、山をつくるのだぞ。」
 といひました。
 それから、二人は、いつしやうけんめいに山をつくりました。
 とうとう十五やの月が出ました。二人は、それぞれじぶんのつくつた山の上に立つて、高さをくらべました。
「どうだ。どつちが高いか。」
「あゝ、ざんねんだ。すこしまけたよ。」
 ニェバーヌがつくつたウニモル山がすこし高かつたので、ニェバーヌが肝ちました。
 アッカードプは、ざんねんでたまらないので、
「ニェバーヌ、こんどは山けりのきやうさうをしてみよう。おまへは、そのウニモル山をけつてみろ。」
 といひました。
 ニェバーヌは、
「うん、よろしい。」
 といつて、からだぢゆうの力をこめ、
「えい。」
 とかけごゑをかけて、ウニモル山のてつぺんをけりました。
 すると、その土(つち)が、とほく海の上にとんで行つて、トラックの島々になりました。
 アッカードプも山をけりました。しかし、そのけつた土は小さい島にしかならなかつたので、またまけてしまひました。
 今でもウニモル山の上が平たいのは、そのときニェバーヌがけつたからだといひます。

 桓に。
 これは、ぼくの今ゐるトラックの「むかしばなし」です。トラックには、島がたくさんありますが、水曜島が一ばん大きいのです。その水曜島のウニモル山のてつぺんがひらたくなつてゐるので、こんなはなしができたのですね。
 お父ちやんは、十一月のはじめごろまでトラックにゐます。今は夏島にゐるけれど、もうぢき、水曜島や月曜島に行きます。冬島と秋島とは、もう行つて来ました。
 水曜島や月曜島や春島や冬島や夏島などを、みんなあはせてトラック島(たう)といひます。

   *

南洋諸島の創世神話としてすこぶる興味深い採話である。]

 

        十月二十六日(日)

 今朝は漸く船出づ。七時少し過出發、富樫氏同船、搖れ甚し。月曜島、火曜島を經て、十二時水曜島に着き、國民學校の岩崎氏宅に入る。食後、新教牧師ノーマイエル氏を訪ねんと、教會及、神學校に行きたれど、月曜島に行きたりとて不在。目下神學校は生徒三名に過ぎざる由、歸途公學校に寄る。小丘上にあり、見晴らし佳し。校長官舍にて富樫氏と語る。教員補頻りに、軍夫等の亂暴を訴ふ。富樫氏のレグホーンも喰はれ、バナナ、パイナップルの類大方は荒されたりと。岩崎氏方の夕食には、雞の他、此の地に産するの鰻の蒲燒あり。島民は鰻を決して喰はず、此の地の邦人亦、之を忌む由なれど、味は、内地のものと大差なし。たゞ些か、脂乏しきに似たり。八時、村吏事務所に到り就寢。

[やぶちゃん注:「鰻」条鰭綱新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科 Anguillidae に属する一属十五種といわれる種の殆んどは、インド洋から西部太平洋にかけての熱帯・温帯域が分布の中心で、特にインドネシア周辺での多様性が顕著である。西部太平洋にはフィリピン・インドネシア・オーストラリア・ニューギニア島およびニューカレドニアを中心に約十四種が知られている(ウィキウナギ科」に拠る)。]

 

 

        十月二十七日(月)(晴)

 未明海岸を散歩す。退潮の干潟に魚貝を漁る者多し。あさりの如き貝を名産とする由。ウリボート山の突兀たる姿、宜し。

 朝、教員補の授業を見て後、九時乘船。十一時過、月曜島着、直ちに公學校に行く。晝食後、瀧野氏の案内にて、ミッション女學校に行き、ツーペル女史と語る。女史は英語堪能なり。にして頗る上品なる老婦人なり。バーデンの人、初めて南洋に來りしは一九〇九年といへば、我が誕生の年なり。爾後二度国に歸り、一九三六年此の地に又、來りしといふ。島民語、島民食の生活なりと。ハイデルベルヒ、ネッカー、ゲーテ、ウィーラント等について少し語る。同席に、昨日水曜島より來りしノーマイヤー氏あり。同氏は日本語をやゝ操れども、英語を餘り解せず。一時間ばかりにして辭去す。後にオレンヂを贈らんといふ。夕食の時果して、寄贈のオレンヂあり。美味。トラック在來種のオレンヂとは異るらし。八時就寢、此の島は、甚だ蚊多し。

[やぶちゃん注:「ハイデルベルヒ」これはドイツの作家 Wilhelm Meyer-Förster(ヴィルヘルム・マイヤー=フェルスター)の書いた五幕の戯曲「アルト・ハイデルベルク」(Alt-Heidelberg:古き(良き)ハイデルベルク)か? フェルスター自身が一八九八年に発表した小説「カール・ハインリッヒ」(Karl Heinrich)を基にした戯曲で、一九〇一年にベルリンで初演された。若い王子カール・ハインリッヒと彼が学生として借りた宿屋の年配の女給ケーティの恋のエピソードを主軸とする青春純愛劇。日本での初演は明治四五(一九一二)年に有楽座で文芸協会が行ない、松井須磨子がケーティ役であった。その後は滝沢修・山本安英・杉村春子らが、大正十三(一九二四)年、昭和元・大正十五(一九二六)年、昭和九(一九三四)年に築地座・築地小劇場で出演している(昭和九年の上演なら満二十五歳であった敦も観劇している可能性がある)。二十世紀前半において最も数多く上演されたドイツの演劇作品の一つで、ハイデルベルクの名を世界的に有名にし、日本では明治時代にはドイツ語を学ぶ学生にとっては必読書になった(詳しくは参照したウィキアルト・ハイデルベルク」をご覧になられたい)。

「ネッカー」これはドイツ中南部の流域を流れるライン川の支流ネッカー川(Neckar)か? この流域には中世の吟遊詩人所縁のネッカー・シュタイナッハ、ヘルダーリンの生まれ故郷であるラウフェン、大学都市テュービンゲンなどが並ぶ古来からドイツ文学の源泉となった場所である。

「ウィーラント」(Christoph Martin Wieland 一七三三年~一八一三年)はドイツの詩人・小説家。レッシングと並ぶドイツ啓蒙主義の代表者。叙事詩「オーベロン」、小説「アガトン物語」など。これらの話を遙かに年上のドイツ人女性と親しく英語で交わしたという辺り、ドイツ文学思潮への深い理解と敦の英語力には圧倒される。]

白い枝 八木重吉

白い 枝

ほそく 痛い 枝

わたしのこころに

白い えだ

耳嚢 巻之八 堀越御所の事

耳嚢 巻之八

 

 堀越御所の事

 

 伊豆國下田より北二里半程隔(へだ)て、堀の内村あり。則(すなはち)堀越(ほりごえ)御所舊跡なり。御所跡は田畠になり、堀の内村かたはらに法本寺と云(いふ)寺ありて、堀越の御所追福供養を今以(もつて)年々時日を極(きは)め執行なすとかや。法官怠りぬれば疫病等流行なすと、土俗申習(まうしなはら)しける由。右堀越御所と申は足利將軍の氏族政知(まさとも)堀越の初代にて、其子義通は將軍を相續せしともいふ、其子茶々丸北條早雲に被追(おはれ)、堀の内村の紅花畠(べにばなばたけ)の内(に隱れし右紅の中)より鷄の飛(とび)出るを見て、北條の追手疑ひ茶々丸を尋(たづね)出し害せられたるによりて、今に右村にては鷄を不飼(かはず)、紅花を不作(つくらざる)由。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

但茶々丸は政知の子とも義通の子ともいふ。茶々丸は、代々名右の通りに名乘りし也。又は次男にても有(あり)し也(や)、中古治亂記といへる書には、茶々丸は北條の勢に追(おは)れて、山の本の寺にて自害すといへり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「耳嚢 巻之七」掉尾との連関はない。氏神信仰などでしばしば見られる禁忌譚で、そこが根岸の関心の主眼であったものと思われる。現在もこの禁忌が当地で行われているかどか、いささか興味深い。久々の歴史古跡検証物で、格調高く、巻首に配するにふさわしいものだが……鎌倉絡みとはいえ、また、以下殆んどが資料参照によるものの、いささか注するに疲れた、というのが本音ではあった。

・「堀越御所」享徳三(一四五五)年十二月二十七日、第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を御所に招いて暗殺したことに端を発した享徳の乱は、室町幕府方と山内・扇谷両上杉方、更に鎌倉公方(古河公方)方が長期に亙る反目抗争と無数の合戦を繰り返し、これが関東地方一円に拡大して関東の戦国時代幕開けの遠因となったが、その幕府方の一方の雄がここに出る足利政知(永享七(一四三五)年~延徳三(一四九一)年)である。彼は室町幕府第六代将軍足利義教の次男で、第七代将軍義勝の異母弟で第八代将軍義政の異母兄であった。後の第十一代将軍足利義澄の父である(十一代以降の将軍はこの政知の家系から続いた)。彼は弟らの母が権勢を誇った日野家の出であったために兄であるにも拘わらず「弟扱い」とされ、幼少の頃より僧として天龍寺香厳院主となり清久(せいきゅう)と名乗っていたが、異母弟(一つ下)将軍義政の命によって還俗、長禄元(一四五七)年十二月二十四日に二十三歳で、幕府公認の鎌倉公方として鎌倉へ京を出立させられた(但し一旦、近江園城寺に留まり、実際には翌長禄二(一四五八)年の五月以降に改めて関東へ下向している)。ところが享徳の乱の真っただ中、この当時は幕府と敵対状態にあった足利成氏(但し、彼自身はこの二年前の康正元(一四五五)年六月十六日に幕府方今川範忠軍に敗北した際、下総古河(現在の茨城県古河市)に退去して古河公方を名乗っていた)の勢力が鎌倉御府周辺域に於いて強大であったために、鎌倉に入ることが出来ず(政知には山内上杉家の他に関東探題渋川義鏡(よしかね/よしみ)や上杉教朝(後に関東執事)などが配下として従っていたものの、実権は完全に幕府に握られていたため、当地周辺の関東武士団からの支持協力が全く得られなかったことが大きな理由の一つとされる)、六月か八月頃に伊豆堀越で足止めを食らい、結局ここに留まることとなった。これ以降、「堀越公方」「堀越御所」と呼ばれるようになった。義政は政知の派遣と前後して奥羽・甲斐・信濃など関東周辺の大名・国人衆に出陣を命令、政知を大将とする大規模な成氏討伐計画を進めていたが、関東出兵を命ぜられた越前・尾張・遠江守護斯波義敏が義政の命令に従わず、内紛(長禄合戦)の鎮圧のため越前に向かってしまい更迭されたために斯波波軍の出陣は中止となり、同年十月の太田庄の戦いでは関東の幕府軍が成氏軍に敗北してしまったため、成氏討伐計画が頓挫しただけでなく、幕府への諸大名の信用も失墜、政知は自前の軍事力がない中途半端な状態のまま伊豆に留め置かれることになった。この後、三つ巴の一進一退が延々と二十年も繰り返され、折しも幕府方は応仁の乱によって兵力の投入もままならず、両上杉家も長尾景春の乱による内紛を抱えてそれぞれの陣営が疲弊、膠着状態に陥った。結局、両上杉家が和睦を考えるようになり、成氏と幕府との和睦の仲介を約束して成氏と和睦、景春の反乱鎮圧後の文明一四(一四八三)年十一月に成氏と幕府の和睦が成立して享徳の乱はとりあえず終結した。結果、堀越公方は和睦で伊豆一国のみの支配者と決まり、政知はこの和睦に同調した関東執事上杉政憲(教朝の子)と伊豆国人衆に不満を抱くようになった。後、長男茶々丸を廃嫡、三男潤童子(じゅんどうじ)を後継者と定め、この廃嫡を諌めた政憲を自害させている。一連の動きは管領細川政元と連携して第十代将軍足利義材(よしき:後に義稙(よしたね)と改名)の廃立を目的とした計画の一環であって、これは自身の次男清晃を次期将軍に擁立し、潤童子を堀越公方にして、再度、成氏討伐を開始する狙いがあったが、延徳三(一四九一)年に自身が病いに倒れ、四月三日に伊豆で病死したことで頓挫した。墓所は静岡県三島市宝鏡院内の足利義詮塚の傍らにある。以上、主に参照にしたウィキの「足利政知」には最後に、彼の死から三ヵ月後、堀越公方の跡継ぎを巡って茶々丸と潤童子の間で内紛が勃発、茶々丸が潤童子を殺害して堀越公方になったが、二年後の明応二(一四九三)年には政元が明応の政変で義材を廃位して清晃を擁立、第十一代将軍として義澄と改名した清晃(よしとお)から茶々丸討伐を命じられた伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵入を招いた。茶々丸はやがて宗瑞に敗れて自害、堀越公方は僅か二代で終わったが、義澄の子孫は代々将軍を輩出していくことになった、とある。なお、迂遠な注になったが「堀越御所」跡と伝えられるものはウィキの「伝堀越御所跡」によれば、現在の静岡県伊豆の国市寺家に国指定の史跡として残る。字名にはないものの地元ではこの付近を「堀越(ほりごえ)」と呼んでいる。但し、発掘調査が徹底しておらず、かつて池の跡が認められたのみで、建物跡などは不明とあり、『「伝堀越御所」としているように、「ここが堀越御所であった」という確証は得られていないようで』、近くには、鎌倉得宗家滅亡後、北条高時の母覚海円成が一族の女性らとともに移り住んだという韮山の北条邸跡や、同尼が北条一族の菩提を弔うために建立した『円成寺跡があり、その関係も考えられないわけではない。とくに室町時代には円成寺が近接することになる』とある。ところが、これは現在の伊豆長岡駅の西直近であって、以下に出る「堀の内村」は本文にも「下田より北二里半」(約九・八キロメートル)とあり、これは下田市堀之内伊豆急行線稲梓(いなずさ)駅の東約一キロ地点に相当する。底本鈴木氏の注によれば、下田を『流れる稲生沢の中流。堀の内は一般に城郭のある所をいう地名。深根城址がある。『改訂豆州志橋』に、堀之内村の殿屋敷というのは、山上に古井が残って居り、土塁があり、二筋の小渓に挿まれた所。延徳年間』(一四八九年から一四九二年。政知の死の前後当たる)『ここに関戸播磨守吉信がいた。当時足利茶々丸が北条の堀越御所から逃れて、この城を頼ったが、攻められて落城して自殺したと。興聖寺というのに御所墓と称する墓があると』(下線やぶちゃん)と注されておられる。静岡県田方郡函南町塚本(長岡の御所跡から韮山を挟んだ北北西凡そ三キロの地点)に興聖寺という寺があるがこれか? さて、この深根城についてはヨシ坊氏の「深根城」に詳しいが、そこには延徳三 (一四九一) 年、伊勢新九郎(北条早雲)が堀越御所を襲ったが、一説に『関戸吉信は伊勢新九郎の軍勢襲来の際に新公方となった茶々丸を伴って御所を脱出所領地である深根城に籠ったと伝えられ』(下線やぶちゃん)、この深根城に早雲の軍勢が迫ったのは明応七(一四九八)年とあって、『二千の軍勢は西伊豆松崎に上陸、松崎街道を東進して深根城を襲った。早雲勢は付近の民家を壊して堀を埋め、城内に斬り込んだ』。『多勢に無勢、関戸吉信は自決した茶々丸の首を抱えて城を脱したが梨本(河津町)で自刃したという。吉信の妻尉奈の前(じょうなのまえ/上杉憲実の娘)も自刃して夫の後を追った。そして、城兵と城内にいた老若男女すべてが早雲勢によって殺され、その首は城の周囲に晒され、悲惨を極めた』という話を記されておられる。ともかくも以上の記述を綜合すると、どうもこの――「堀の内村」=「堀越御所」説という根岸の記載は地名の類似性から生じた誤伝なのではあるまいか――という疑いが生じてくるのである(但し、底本鈴木氏及び岩波版長谷川氏注ではこの「堀越御所」跡を韮山町四日町(韮山駅直近)とする)。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。

・「法本寺」諸注、報本寺の誤りとする。臨済宗婆娑羅山報本寺は下田市加増野(下田市堀之内の深根城址の西直近)に現存する伊豆八十八ヶ所霊場四十八番札所(創建時は真言宗)。訳では訂した。位置から見ても、後記の「山の本の寺」も同寺を指すと考えてよい。

・「堀越の御所追福供養」これは以下に注する事蹟や位置から考えると、代々の堀越御所の「追福供養」を名目に、御霊になる条件を十全に備えた茶々丸の「追福供養」を指しているように思われる。

・「義通」諸本、義遐(よしとお)の誤りとする。これは政知の次男で先に出た清晃(よしとう)、幕府第十一代将軍足利義澄(文明一二(一四八一)年~永正八(一五一一)年)のこと。堀越公方足利政知の次男として伊豆に生まれたが、初め、長男茶々丸が後継者とされたために天竜寺香厳院の喝食として清晃と称したが、明応二(一四九三)年三月に将軍足利義稙が親裁権の強化を目指して河内出陣を強行したことから、細川政元はクーデターによって義稙を廃立(明応の政変)、清晃が足利家督に擁立された。直ちに還俗して義遐(後に義高から義澄と変えた)と改名、翌年末に将軍に任官した。しかし義澄は幕政を壟断する政元の傀儡に過ぎず、永正四(一五〇七)年六月に政元が暗殺されると幕政は再び混乱の呈をなし、翌年、義稙の再入洛により義澄は近江に逃亡、その三年後に近江九里城で病死した。細川氏の専制、つまり戦国大名化により圧迫された悲劇の将軍といえる(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。訳では訂した。

・「茶々丸」足利茶々丸(?~延徳三(一四九一)年/明応二(一四九三)年/明応七(一四九八)年とも)は足利政知長男。以下、ここまでの注との比較のためにウィキの「足利茶々丸」より引用しておく。『「茶々丸」は幼名で正式な元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は伝わっていないとされている』。『嫡男であったが素行不良の廉で父・政知の命により土牢に軟禁され、代わりに弟の潤童子が後嗣とされた。一説には、潤童子の実母(茶々丸にとっては継母)の円満院が政知に讒言したためであるという。執事の上杉政憲は政知による茶々丸の廃嫡を諌めたが聞き入れられず、自害させられたという』。延徳三(一四九一)年四月の政知の死後は継母円満院に虐待され、同年七月に『牢番を殺して脱獄し、堀越公方に決まっていた潤童子と継母を殺して、事実上の公方となった』。『しかし、奸臣の讒言を信じて、筆頭家老で韮山城主の外山豊前守、秋山新蔵人などの重臣を誅するなどしたことから、旧臣の支持を失い、内紛は伊豆国内に波及』、明応二(一四九三)年十月、『興国寺城にいた伊勢宗瑞(北条早雲)が混乱に乗じて伊豆に攻め入ると、新将軍・義澄の母(円満院)を殺した反逆者と見なされ、求心力が低下した堀越公方はたちまちに滅亡した』。『従来説では、この時点で宗瑞に敵せず、伊豆韮山の願成就院において自刃したとされていたが、実際は、』明応四(一四九五)年に『宗瑞によって伊豆国から追放され、山内上杉氏や武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたことが近年の研究で明らかとなって』おり、明応七(一四九八)年八月に『甲斐国(伊豆深根城とも)で宗瑞に捕捉され、自害した』というのが定説のようである。本文「其子」というのは後記と文脈から見ると茶々丸を義遐の子と誤認した伝承を伝えるものと思われる。ここは伝承であり後記もあるので訂せず、そのまま示した。

・「北條早雲」(永享四(一四三二)年~永正一六(一五一九)年)は小田原北条氏(後北条氏)初代。早雲は庵号で、北条を称したことはなく、一般にいうこの呼称は俗称である。正しくは伊勢を氏、新九郎を通称とし、入道の後は自ら早雲庵宗瑞と記している。文明八(一四七六)年に駿河守護今川義忠の家督相続を巡って、その子氏親を支持し、相手方の小鹿範満を支持する太田道灌と共に事態の収拾に当たったというのが正確な資料の初見とされる。道灌の没した年の翌長享元(一四八七)年、早雲は範満を討って氏親を名実ともに今川家の家督とし、この功により駿河の富士下方十二郷を与えられ、興国寺城主となった。 延徳三(一四九一)年には伊豆に侵攻してこれを平定、韮山城に拠った。大森藤頼の小田原城を攻略、関東進出の第一歩を印したのは明応四(一四九五)年九月のことであった。山内上杉・扇谷上杉両氏の抗争を巧みに利用しながら支配地を拡大、永正三(一五〇六)年には既に小田原付近で検地を実施、新しい基準による貫高(かんだか:中世の土地の面積表示の方法。その土地から徴収できる年貢の量を貫文(銭)で表したもの。)の採用など、新たな領国支配体制の基礎が固められている。同七年頃からは相模の征服を開始、同九年八月には三浦義同(よしあつ)の岡崎城を陥して住吉城に敗走させ、初めて鎌倉の土を踏んでいる。同年には玉縄城(今の私の正面に展開する山城)を築き、翌十年には義同の反撃を退けて、さらに新井城まで追い詰め、同十三年七月、その子義意(よしおき)とともに討ち滅ぼして相模を征服した。同十五年には家督を子氏綱に譲ったとみられ、翌年に韮山城で死去した。平生から「太平記」を愛読、倹約家であったことでも有名である。道灌の器量を見抜いて一目置いており、戦国大名北条氏発展の基礎を築いた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「(に隱れし右紅の中)」底本にはこの( )部分は尊経閣本によって補った旨の右注がある。

・「中古治亂記」は正しくは「中古日本治乱記」。雑史。百巻。山中長俊著。慶長七(一六〇二)年序(岩波版長谷川氏注に拠る)。訳では訂した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 堀越御所の事

 

 伊豆国下田より北へ二里半ほど隔てて、堀の内村というところがある。

 これが則ち、堀越(ほりごえ)御所旧跡とのことである。

 御所跡は田畠となり、堀の内村の傍(そば)に報本寺と申す寺が御座って、堀越の御所追福供養を、今以って年々時日を決め、執行致いておるとか申す。

 僧がうっかり供養儀式など、怠ったりすることがあれば、たちどころに疫病なんどが流行(はや)ると土俗にては言い伝えておる由。

 この堀越御所と申すは、足利将軍の氏族で御座った政知(まさとも)を堀越の初代として、その子義遐(よしとお)は将軍を相続したと史書に伝える。

 その義遐の子茶々丸は北条早雲に追われ、堀の内村の紅花畠の内に隠れたが、驚いた鶏がその紅花の中より飛び出だいたを見て、北条の追手は疑いを持ち、そこに潜んでおった茶々丸は捜し出だされてしまい、そのままそこで殺害されたと申す。

 されば、今にこの村にては、鶏を飼わず、また、紅花を作らざる由。

   *  *  *

【後記】

  但し、茶々丸は政知の子とも義遐の子とも伝える。

  茶々丸は、古来より名を右の通りに呼ばわってお

  るとのことである。または彼は政知の次男ででも

  あったものか。「中古日本治乱記」と申す書には、

  茶々丸は北条の軍勢に追われて、山の麓の寺にて

  自害したと記されてある。

鬼城句集 秋之部 蓮の實飛ぶ

蓮の實飛ぶ 蓮の實のたがひ違ひに飛びにけり

[やぶちゃん注:「蓮の實飛ぶ」蓮の実が硬くなり、花托から水に零れ落ちること。蓮には花が咲くときにポンと音がするという流言同様、実が飛び出すと信じている向きも多いようだが、弾け飛ばすような機能は蓮の実や花托の辺縁器官には存在しない。単に風などによって花托が揺れ、実が本来の位置から抜け落ちて「空間を移動して落下する」ことを「飛ぶ」と言っているに過ぎない。]

2013/11/27

カテゴリ 八木重吉「秋の瞳」 始動 / 序 / 息を 殺せ

カテゴリ『八木重吉「秋の瞳」』を創始する。底本は私の所蔵する昭和五八(一九八三)年日本近代文学館刊「名著復刻詩歌文学館 紫陽花セット」を用いた。冒頭の加藤武雄の「卷首に」は本文完成後にテクスト化する。本ブログ版では底本のポイントの違いは無視し、ルビは( )で表示する。――遠い昔の可憐なとある少女の思い出に――



詩集 秋の瞳   八木重吉

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[やぶちゃん注:表紙・背・裏表紙。]

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詩集 秋の瞳   八木重吉

[やぶちゃん注:扉。]



[やぶちゃん注:ここに加藤武雄の「卷首に」(四頁)が入る。]



   序

 私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私

には、ありません。この貧しい詩を、これを、讀んでく

ださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友

にしてください。

[やぶちゃん注:一行字数を底本と同一にした。]



[やぶちゃん注:ここに「目次」が入る。]



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詩集 秋の瞳   八木重吉

[やぶちゃん注:標題紙。]




    息を 殺せ

息を ころせ

いきを ころせ

あかんぼが 空を みる

ああ 空を みる

北條九代記 德大寺殿諫言 付 西園寺右大膳父子召籠めらる 承久の乱【五】

      ○德大寺殿諫言  西園寺右大膳父子召籠めらる

一院愈(いよいよ)御心猛くならせ給ひ、公卿殿上人を召して、巴(ともゑ)の大將を討(うた)ばやとぞ仰出(おほせいだ)されける。西園寺右大將藤原公經、同子息中納言實氏卿は、關東に親しくおはします故に、先(まづ)この父子を討つべしと企て給ふ。當座の諸卿(しよきやう)色を失ひ、互に顏を見合せて、物申す人もなし。德大寺の左大臣申されけるは、「西園寺〔の〕右大將は、關東將軍家の外祖として、攝政道家公の舅(しうと)なり、義時に付きても親(したし)き人にて候へば、討果(うちおほ)せ給はば、思召立ち給ふ事輕(かろ)く、若(もし)又討漏さば御大事重かるべし。彼人はさせる弓矢取る者にても候はず。子細あらば靜(しづか)に計はせ給へかし、大形(おほかた)この度思召し立ち給ふ御事は、然るべしとも覺え候はず。其故は、故法皇の御時、木曾義仲勅命を背きしを、賴朝に仰せては亡されずして、壹岐判官知康が勸に付かせ給ひて、院中に兵を召れ合戰候ひしかば、淺ましき事共出來して候。東國には武士多く候。御味方の兵は千が一にも及(および)難く候、御本意を遂られん事、定(さだめ)て希に候はん。善々(よくよく)御思惟あるべきにて候」と申されければ、一院以の外に御氣色損じて後(うしろ)の障子を荒(あらゝか)に開けさせ給ひて、入らせられたりければ、「後には思召合せられんもの」と、呟きながら、德大寺殿は退出し給ひけり。西園寺右大將は、この事夢にも知り給はず。仙洞よりの召(めし)によりて、父子共に出立ちて、嘉陽門の御所に參られける所に、小舅(こじうと)二位法印尊長(そんちやう)出向ひて、父子ながら馬場殿に押籠參せけり。「是は如何に」と宣ひけれども、本院の仰(おほせ)なりとて、一言の子細にも及ばざりけり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱Ⅴ 藤原公継(きんつぐ)、後鳥羽院に諫言するも聴き入れず、親幕派の西園寺公経(きんつね)・実氏(さねうじ)を軟禁させる〉

「承久記」(底本の編者番号14の途中から15のパート)の記載。

 

一院彌御心タケクナラセ給フテ、「先、トモヱノ大將ヲウタバヤ」ト被ㇾ仰ケレバ、公卿・殿上人閉口シテ物モ不ㇾ被ㇾ申。德大寺ノ大臣被ㇾ去るケルハ、「カノウタレテ候ハヾ、思召立セ給ン事輕ク、若ウタレ候ハズハ、御大事ノ重クナラセ可ㇾ給ニテ候。サセル弓矢取者ニテモ候ハズ。子細候ハヾ、閑ニ御計ヒ候へカシ」ト、「大カタ今度ノ御謀叛間、〔公〕繼可ㇾ然トモ不ㇾ覺候。其故ハ、故法皇ノ御時、木曾義仲勅命ヲ背テ振舞ケルヲ、頼朝ニ仰ラレテ不レ被ㇾ亡シテ、壹岐判官知康ト申イクヂナシガスヽメニツカセ給ヒテ、院中ニ兵ヲ被ㇾ召合戰候シカバ、淺猿キ事共出來タリキ。大カタ、日本國ヲ蘆原ノ國ト申ハ、葦ノ葉ニ似タル故ニテ候。其フクロハ東國ニ相當リ、武士本ヨリ多クシテ、隨へサセ給ハン事、フヂヤウノ次第ニ候。御カタノ兵、千ガ三モ難ㇾ及候。能々御思惟可ㇾ有候ハン」ト申サレケレバ、一院、以外ノ御氣色ナリケレ共、後ニ定テ思召合ラレケントゾ覺シ。トモヘノ大將忽チニ被ㇾ失べカリシヲ、德大寺ノ被ㇾ申候ニヨリテ、思召ナダメラレテ、「サラバ召籠ヨ」トテ被ㇾ召ケル。

 大將、賀陽院へ被レ參ケル。主税頑ナガヒラヲ使ニテ伊賀判官ノ本へ仰セラレケルハ、「賀陽院メサルヽ程ニ參候。城南寺ノヤブサメソロヘト聞へシガ、其儀ナクテ、寺ノ大衆靜メラルべシトモ聞ユ。如何樣ニモ世中ヲダシカルベシ共不ㇾ覺候。御邊被ㇾ召共、無左右參リ給フベカラズ。子細ヲ重テ被ㇾ仰候ハンズラン」トテ、賀陽院へ被ㇾ參タレバ、小舅ノ二位法印尊長、大將ノ直衣ヲ引テ、馬場殿ニ奉押籠。子息ノ新中納言、同ク被召籠ヌ。

 

「フクロ」不詳。アシの円錐花序に密集している花を包む芒の部分を言うか。識者の御教授を乞うものである。

 以下、「北條九代記」本文の注を示す。

「巴の大將」=「西園寺右大將藤原公經」は既に注済であるが補訂して再注しておく。藤原(西園寺)公経(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)は府第四代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇中宮姞子の祖父であり、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・幕府第五代将軍藤原頼嗣曾祖父となった稀有な人物で、姉は藤原定家の後妻で定家の義弟にも当たる。源頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから鎌倉幕府とは親しく、実朝暗殺後は、外孫に当る藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されたが(「承久記」の底本にしている古活字本(流布本)には前に掲げた通り、院は当初、公経の誅殺を目論み、また、小舅の尊長(そんちょう:後注)にも命を狙われたとする)。事前に乱の情報を幕府に知らせて幕府の勝利に貢献、乱後は幕府との結びつきを強め、内大臣から従一位太政大臣まで上りつめ、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。『関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり、公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く』、『その死にのぞんで平経高も「世の奸臣」と日記に記している』(平経高は婿道家の側近であったが反幕意識が強かった)。『なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった』(引用を含め、ウィキの「西園寺公経」の他、「承久記」底本の人物一覧も参照した)。

「同子息中納言實氏卿」藤原(西園寺)実氏(建久五(一一九四)年~文永六(一二六九)年)は公経の長男。母は前に示した通り、頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子。叙爵後に遠江介・近江介などの国司を務めた後、左近衛中将・従三位参議・権中納言左衛門督・従二位右近衛大将を歴任、父とともに幕府と親しい公家として知られ、実朝が暗殺された鶴岡八幡宮右大臣拝賀の儀にも参列し、惨劇を体験した。「承久記」の底本にしている古活字本(流布本)には、その帰途に、

  春の雁の人に別れぬならひだに歸る空には鳴てこよゆけ

という哀傷歌が載る。承久の乱後は内大臣・右大臣となって従一位、さらに太政大臣となり、続いて幕府の推挙により関東申次を勤め、院評定衆にもなって権勢を揮った。晩年、出家して常盤井(ときわい)入道相国と称した。女の姞子(大宮院)が後嵯峨天皇中宮となり、後の後深草・亀山両天皇を産み、大宮院の妹の公子も後深草天皇に入内して皇后となっている。「続後撰和歌集」「続古今和歌集」「続拾遺和歌集」には和歌が載る。(ウィキの「西園寺実氏」の他、「承久記」底本の人物一覧も参照した)。

「德大寺の左大臣」藤原公継(きんつぐ 安元元(一一七五)年~嘉禄三年(一二二七)年)。後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇・仲恭天皇・後堀河天皇の五朝に亙って仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。叙爵後、侍従・備前介・右近衛少将・右近衛中将・参議公卿と累進、建久六(一一九五)年に後鳥羽天皇の中宮九条任子の中宮大夫となった。伊予権守・権中納言・左衛門督・検別当などを経て、建仁二(一二〇二)年中に皇太子守成親王(後の順徳天皇)の春宮権大夫・中納言となる。その後、権大納言・大納言・春宮大夫・右近衛大将・正二位内大臣・右近衛大将から、建暦元(一二一一)年に右大臣となり、建保三(一二一五)年に辞職したが、承久三(一二二一)年に更任、承久の乱後の貞応三(一二二四)年、一上(いちのかみ:筆頭の公卿。通常は左大臣。)となって次いで左大臣に任じられている。嘉禄元(一二二五)年に従一位に叙され、同三年に薨じた。以上は主にウィキの「藤原公継」に拠ったが、この叙任から分かる通り、この承久の乱勃発時の彼は、本文にある「左大臣」ではなく「右大臣」であったから、これは誤りである。「承久記」底本の人物一覧によれば、「承久記」の慈光寺本には北条義時が幕府軍総大将として上洛する長男泰時に公継の近辺での狼藉を慎む旨述べている記述があり、本文の諌言といい、幕府方が一目置いていた人物であることが分かり、また『新古今集以下の勅撰歌人』で、『琵琶などの音楽的才能もあった』とあり、更にウィキでは最後に、「古今著聞集」成立に関わる情報源として、この公継のサロンが大きく関わっていたとも言われている、とある。

「討果せ給はば、思召立ち給ふ事輕く」うまく誅殺遊ばされたとしても、如何なる口実を設けられたと致しましても、幕府方は倒幕の意図を、京へ兵を侵攻させるに決まっております。されば、その思し召しは失礼ながら御軽薄と申し上げざるを得ず。

「若又討漏さば御大事重かるべし」万一、誅殺に失敗なされましたならば、必ずや幕府方は即座に苛烈な報復攻撃を開始し、日本国中を巻き込んだ戦乱となることは目に見えておりまする。されば孰れに致しましても、大きな戦さに発展することは必定で御座いましょう。

「一院以の外に御氣色損じて後の障子を荒に開けさせ給ひて、入らせられたりければ」「承久記」にはない、頗るうまい演出である。

「小舅二位法印尊長」(?~安貞元・嘉禄三(一二二七)年)は一条能保の子。法印、法勝寺執行、出羽国羽黒山総長吏。延暦寺の僧であったが、その智謀と武芸を認められ、後鳥羽上皇の側近となった。院近臣に加えられて法勝寺と長淵荘を始めとする同寺寺領の支配を任された。上皇の鎌倉幕府打倒計画には首謀者の一人として参加、ここに見るように義兄弟ながら、西園寺公経父子の逮捕・監禁に当たるなど、上皇の片腕として行動した。幕府軍との戦闘においては芋洗方面の守備に就いたが、敗戦が明らかになると脱走し、行方不明となった。六年間十津川などに潜伏していたが、嘉禄三年六月、京において謀反を計画しているところを発見され、六波羅探題北条時氏の近習菅十郎左衛門周則(ちかのり)によって自害しようとしたところを逮捕、誅殺された(ここは「吾妻鏡」嘉祿三年六月十四日の条で確認した)。因みに参照したウィキの「尊長」によれば、「明月記」によると、『捕縛された際に自殺し損なった尊長は、「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫び、問いつめる武士たちに「今から死ぬ身であるのに、嘘など言わん」とも述べたという。その3年前における前執権北条義時の死去がその室伊賀の方による毒殺であったとの発言であり、このことは現在、義時死後に起こった伊賀氏の変において尊長の兄弟である一条実雅が将軍候補とされていたことと、関連づけて語られることが多い』とある。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(14)

  游江島   牧野履〔字履御號鉅野〕

天女降孤島。

龍宮閟古墟。

地隨波下上。

淵與月盈虛。

危木千年外。

斷崖百丈餘。

蜃樓臨島道。

鮫室雜僧廬。

苔蝕秦碑字。

雲封禹穴書。

鵬圖堪極目。

鼈背欲褰裾。

求藥雨晴後。

探珠潮落初。

自疑吾骨化。

稍覺世情疎。

窈窕窺仙窟。

飛揚迫帝居。

從來霊異境。

無客不躊躇。

 

[やぶちゃん注:「辱樓」底本は「辱樓」。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。「牧野鉅野(きょや)は儒学者で詩人。

 

  江の島に游ぶ   牧野 履〔字は履御、號は鉅野。〕

天女 孤島に降り

龍宮 古墟を閟(とざ)す

地は波に隨ひ 下し上し

淵と月と 盈虛たり

危木 千年の外

斷崖 百丈餘

蜃樓 島道に臨み

鮫室(かうしつ) 僧廬に雜(まぢ)る

苔は蝕む 秦碑の字

雲は封ず 禹穴の書

鵬圖(ほうと) 目を極めて堪へ

鼈背(べつはい) 裾を褰(かか)げんと欲す

藥を求む 雨ふりて晴るるの後

珠を探す 潮の落ちたる初め

自から疑ふ 吾が骨の化(け)するを

稍(やや)覺ゆ 世情に疎きを

窈窕たる仙窟を窺ひ

飛揚して帝居に迫る

從來(もとより) 霊異の境

客(かく) 躊躇せざる無し

 

「盈虛」通常は月が満ちたり欠けたりすることであるが、ここは潮の干満も含む。

「鮫室」鮫人(中国で南海に棲むという人魚に似た想像上の異人。常に機を織り、しばしば泣くが、その涙が落ちると玉になるという)の水中の居室。

「鵬圖」「鼈背」はそれぞれの思いとか背部というよりは、「鵬」や「鼈」を指すものと読む。

「自から疑ふ 吾が骨の化(け)するを」訓読に自信なし。

「窈窕」美しくしとやかなさま、上品で奥ゆかしいさまであるが、語順に不審がある。

「帝居」天帝の住むところ。]

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 四 芽生 群体類の芽生


Aksanngo


[赤珊瑚の群體]

 

 「ヒドラ」は芽生をしても、子が暫時の後に親から離れ去るから、群體をなすに至らぬが、珊瑚の類などでは出來ただけの個體が皆相繫がつたままで離れぬから、種々の形の大きな群體が出來る。そし群體を支へ各個體を保護するために、石灰質の堅い骨骼を分泌するから、死んだ後まで群體の形はそのまゝに殘る。價の高い裝飾用の赤珊瑚はかやうにして生じた珊瑚蟲の群體の骨骼である。樹木にもそれぞれ枝ぶりに相違がある如く、動物の群體にも芽の出方によって苔狀に擴がるもの、竹のやうに直立するもの、丸い塊になるもの、鳥の羽の形に似たものなどが出來る。赤珊瑚の群體は樹枝狀になつて居るから、珊瑚樹とも書き、昔は西洋の博物學者もこれを植物と思つて居た。概して固着生活を營む動物には芽生によつて群體をつくるものが多い。これは運動する動物とは違つて、數多くの個體が相繫がつて居ても生活上差支が生ぜぬためと、群體をなして居た方が個體の食物の過不及を平均して全體として生存上に利益が多いからであらう。苔蟲類・群生「ほや」類などはかやうな仲間で、到る處の海岸の岩石の表面などに盛に繁茂している。

[やぶちゃん注:「赤珊瑚」刺胞動物門花虫綱八放サンゴ(ウミトサカ)亜綱海楊(ヤギ)目骨軸(石軸/サンゴ)亜目サンゴ科 Paracorallium 属アカサンゴ Paracorallium japonicum。硬く赤い軸骨をもった宝石珊瑚(古来、珊瑚と呼称されたのはこの宝石として使われる珊瑚類に限る)・貴重珊瑚の一種。四国・九州・小笠原諸島付近の水深一〇〇~三〇〇メートルの海底の岩上に着生する。高さ三〇~五〇センチメートルになり、枝を一平面状に出して樹枝状群体を形作る。枝には表と裏とがあり、通常個員のポリプは表側に多く、末端になるほど細かく枝分れしている。外皮は薄く暗赤色でポリプの底部から石灰質小骨片が生じ、これらが炭酸カルシウムによって膠着されて軸骨が形成されている(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。附図はハレーションのようにとんでしまっているので補正を加えた。

「動物の群體にも芽の出方によって苔狀に擴がるもの、竹のやうに直立するもの、丸い塊になるもの、鳥の羽の形に似たものなどが出來る」代表例を以下に挙げる。なお、以下、画像を視認できるようにリンクを張ったが、群体性動物の場合は視覚的な強烈さを持つものがあるので閲覧には注意を要する)。

「苔狀に擴がるもの」はまさに苔虫で、外肛動物門 Bryozoa のコケムシ類、特に最も目にすることの多い裸喉綱唇口目チゴケムシ科 Watersipora 属チゴケムシ Watersipora suboboideaなどが想起されるが(グーグル画像検索「チゴケムシ」)、実際には外肛動物の群体は山型・扇型・小枝型・球型(後注参照)など様々な形態をとる。

「竹のやうに直立するもの」刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱海楊(ヤギ)目角軸(全軸)亜綱ムチヤギ科ムチヤギEllisella rubra グーグル像検索「ムチヤギ」)やその仲間、同花虫綱海鰓(ウミエラ)目定座(ウミサボテン)亜目ウミサボテン科ウミサボテン Cavernularia obesa の夜間伸長時など(グーグル画像検索「ウミサボテン」)。

「丸い塊になるもの」コケムシの仲間である外肛動物門掩喉(えんこう)綱掩喉目オオマリコケムシ科オオマリコケムシ Pectinatella magnifica は寒天質の驚くべき巨大なボール状を呈する(グーグル画像検索「Pectinatella magnifica」)。

「鳥の羽の形に似たもの」刺胞動物門ヒドロ虫綱花水母目ハネウミヒドラ科ハネウミヒドラ Halocordyle disticha や(グーグル画像検索「ハネウミヒドラ」)、ヒドロ虫綱有鞘(軟クラゲ)目ハネガヤ科 Aglaopheniidaeに属するドングリガヤGymnangium hians・シロガヤ Aglaophenia whiteleggei・クロガヤ Lylocarpia nigra などが私には想起される(グーグル画像検索「Aglaopheniidae)。なお、これらの種は総て、素手で触れると刺され、特にガヤ類はひどい炎症を起こすことがあるので注意が必要である。

『群生「ほや」類』脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱 Ascidiacea に属するホヤの内、例えばマボヤ目イタボヤ科イタボヤ Botrylloides violaceus やその仲間などの群体性ホヤを指す(グーグル画像検索「Botrylloides violaceus)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 5 家屋や店のこと

 一階建の家屋が構成する一郭に、正面の入口が道路に向って開いた住宅が、四つ五つあるというのは、日本では新しい思いつきである。一八六八年の革命までは、このような家の形式は無かった。市中の住宅は、いずれもヤシキのように、内側に面して四角に建てられ、儀式の時にだけ開かれる大きな門が一つあり、その両側の小さな入口から人々は毎日出入した。我々が現に住んでいる加賀屋敷には、堂々たる門があるが、これは開いたのを見たことが無く、すこし離れた所に小さな入口があり、それに接した小さな部屋に住んでいる門番が、夜になるとこれを閉める。門番は内に住む人々を知っているので、夜更には門をあけて我々を入れてくれる。現在の建築様式の方が余程経済的であるから、将来はこれになるであろう。各家には、軽い竹の垣根にかこまれた、小さな庭がある。

 

 東京市の一部分には、外国人の為に特定した小さな一区域があり、政府の役人でない外国人は、この場所以外に住むことは出来ない。帝国大学は政府が支持しているので、教師達は政府の役人と見られ、従って市中どこにでも住む権利を持っている。外人居留地から四マイル以上も離れた加賀畳敷にいる我我は、純然たる日本の生活の真中にいるのである。

私は屢々ヤシキの門(そこには常に門番がいる)から出て、大通りをぶらぶらしたり、横丁へ入ったりして、いろいろな面白い光景を楽しむ――昼間は前面をあけっぱなした、小さな低い店、場合によっては売品を持ち出して、地面に並べたりする。半日も店をあけて出かけて行ったかも知れぬ店主の帰りを、十五分、二十分と待ったこともよくある。また、小さな、店みたいな棚から品物を取上げ、それを隣の店へ持って行き、そこの主人に、私がこれを欲したことを、どこかへ行っている男に話してくれと頼んだこともある。小さな品をポケットに一杯入れて逃げて了うことなんぞは、実に容易である【*】。

[やぶちゃん注:「外人居留地から四マイル以上も離れた加賀畳敷」当時の東京市の外国人居留地は築地鉄砲洲にあった。ウィキ外国人居留地によれば、『東京は開港場ではないが、開市場に指定されたため、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地を設けた。今日の中央区明石町一帯である。しかし、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため、青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院の発祥地となっている。また外国公館も多く、1875年にアメリカ合衆国公使館が設置され、1890年に現在の赤坂に移転するまで続いた。築地居留地も1899年の治外法権撤廃で廃止されている』。因みに西暦一八九九年は明治三二年。「四マイル」は約6・4キロメートルで東大構内から築地鉄砲洲までの実歩行距離に一致する。]

 

 

* このような正直さは、我国の小村では見られるが、大都会では決して行われぬ。然るに、何度もくりかえしたかかる経験は、東京という巨大な都会でのことなのである。日本人の正直さを示す多くの方面の中の一つに関連して、我々は、我々の都市では、戸外の寒暖計はねじ釘で壁にとめられ、柄杓は噴水に鎖で結びつけられ、公共の場所から石鹸やタオルを持って行くことが極めて一般的に行われるので、このようないやしい、けちな盗みから保護する可く、容器を壁に取りつけた、液体石鹸というようなものが発明されたことを忘れてはならぬ。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 4 ダーウィン進化論事始

 この前の月曜日に、私は進化論に就て力強い講義をした。今や私の学級は、この間題の課程を持ちたくて、しびれを切らしているが、来春アメリカから帰って来る迄は、それを準備する時間が無い。今日、別の級にいる学生が一人、私の講義を聞く許可を受けに来た。今迄のところ学生達は、非常な興味を持っているらしい。確かに学生達が、より深い注意を払ったことは、従来かつて無ったが、これは彼等が外国語の、而も幾分速口に喋舌(しゃべ)るのに耳を煩けているのだから、自然であろう。
[やぶちゃん注:モースによって日本で初めて公式にして本格的なダーウィンの進化論の講義が行われたこの記念すべき日は、明治一〇(一八七七)年九月二十四日(月曜)で予備門向けの講義の中でであった。ダーウィンの“The origin of Species”(「種の起源」)の出版の一八五九年一月から十八年後のことである。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、前出の田中館愛橘には学生時代の日記が残されているが、普段はそっけなく『「出席」としか記さない田中館が』、『「モース博士、進化論を講義。非常に説得力あり」(原文は英文』)と『感想をわざわざ加えたのは、よほど印象的だったのだろう』と述べておられる。この後、モースは授業とは別に進化論の特別公開講演(英語・通訳なし)を東京大学講堂で行っているが、それはまた本文で示される。ともかくもモースという大のキリスト教嫌いの生物学者によるダーゥイニズムへの接触を享受出来た日本及び日本人は頗る幸いであったと言わねばなるまい。]

死蠟と靑猫 萩原朔太郎 (「石竹と靑猫」初出形)

 死蠟と靑猫

みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體はねむる
その黑髮は床にながれて
手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあほむいてゐる。
この密室の幕のかげを
ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎの情慾
そはむしかへす麝香になやみ
くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。
ああ いま春の夜の灯かげにちかく
うれしくも屍蠟のからだを嗅ぎてもてあそぶ
やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。
そはひとつのさびしい靑猫。
君よ 夢魔におびえて このかなしい戯むれをとがめたまふな。

[やぶちゃん注:『日本詩人』第二巻第七号・大正一一(一九二二)年七月号に掲載された。「あほむいて」「戯むれ」(新字に近く(へん)は実際には「虛」)はママ。「うれしくも屍蠟のからだ」の「蠟」は底本では「臘」であるが、標題の正字から見ても誤植と断じて訂した。後に詩集「蝶を夢む」(大正一二(一九二三)年七月新潮社刊)に再録する際、標題を「石竹と靑猫」と大きく改変した。微妙な部分で異なるので、掲げておく。

 石竹と靑猫

みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る
その黑髮は床にながれて
手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあふむいてゐる。
この密室の幕のかげを
ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎの情慾
そはむしかへす麝香になやみ
くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。
ああいま春の夜の灯かげにちかく
うれしくも屍蠟のからだを嗅ぎてもてあそぶ
やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。
そはひとつのさびしい靑猫
君よ夢魔におびえて このかなしい戲れをとがめたまふな。

私は標題を含め、断然、初出の方がよいと思う。]

おもいで 萩原朔太郎

 

 おもいで

 

遠い海岸の、

病院の長廊下で、

月がきつすをする、

まつ白い寢臺のすみで、

眞鍮のこほろぎ、

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集第二巻「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」より。「おもいで」は原稿のママ。]

浪と無明 萩原朔太郎

 浪と無明

 無明は浪のやうなものだ。生活の物寂しい海の面で、寄せてはくだけくだけてはまたうち寄せ來る。ああまた引き去り高まり來る情慾の浪、意志の浪、邪念の浪、何といふこともない暗愁の浪、浪、浪、浪、浪。げにこの寂しい眺望こそは、曇天の暗い海の面で、いつも憂欝に單調な響を繰りかへす。されば此所の海邊を過ぎて、かの遠く行く砂丘の足跡を踏み行かうよ。佛陀の寂しい時計に映る、自然の、海洋の、永遠の時間を思惟しやうよ。いま暮色ある海の面に、寄せてはくだけ、くだけてはまた寄せ來る、無明のほの白い浪を眺める。しぜんに悲しく、憂ひくづるる濱邊の心ら。

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第一放射線」より。「74」のナンバーを持つ。「思惟しやうよ」の「や」はママ。後に後、詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)に再録された際に、
邪念の浪、→邪念の浪。
思惟しやうよ。→思惟しようよ。
となり、更に掉尾が、
しぜんに悲しく、憂ひくづるる濱邊の心ら。→もの皆悲しく、憂ひにくづるる濱邊の心ら。
と大きく改変された。]

中島敦 南洋日記 十月二十一日

        十月二十一日(火) 晴後雨

 已に熱去れるが如し。朝、高橋氏のボーイ椰子七箇持參。直ちに二箇喫す。後、公學校に到り、「過去の我が南洋」(長谷部言人)を借覽す。面白し。

 クバリイの傳記(小説的)を書き度しと思ふ。夜九時、本廳より電報あり。二十七日發の飛行便にてサイパンに赴き十一月四日發山城にて歸任せよ、と。ポナペ割愛は甚だ殘念なり。

[やぶちゃん注:『「過去の我が南洋」(長谷部言人)』長谷部言人(はせべことんど 明治一五(一八八二)年~昭和四四(一九六九)年)は東京生まれの人類学者・解剖学者。理学博士(東京大学にて学位論文は「石器時代日本犬」)。明治三九(一九〇六)年、東京帝国大学医科大学卒業後、京都帝国大学にて肉眼解剖学と人類学を専攻。新潟医学専門学校(現在の新潟大学医学部)教授、大正四(一九一五)年、ミクロネシア文部省調査隊員として参加、大正九(一九二〇)年に東北帝国大学教授、昭和一三(一九三八)年、東京帝国大学理学部教授に就任すると人類学に理化学的研究法を導入して理学部に人類学科を創設した。昭和六(一九三一)年に考古学者直良信夫(なおらのぶお 明治三五(一九〇二)年~昭和六〇(一九八五)年)が兵庫県明石市西八木海岸で発見した左腰骨の石膏模型を後に研究、それを原人の骨として「明石原人」と命名した。また石器時代人日本人説を唱え、明治大正時代以来有力であったアイヌ人説を否定、昭和二(一九二七)年の『人類学雑誌』に発表した論文で『陸奥・羽後・北海道の石器時代遺跡から出土する円筒土器によって代表される文化の担い手を、短頭に近い頭形をもち、関東人に比べてやや高身長である現代奥羽人の祖先とみなし、石器時代人を同地域に居住する現代人の直接の先祖である』と断じた。人類学の碩学鈴木尚(すずきひさし 明治四五(一九一二)年~平成一六(二〇〇四)年)は彼の高弟である(以上は主にウィキ長谷部言人に拠った)。「過去の我南洋」は昭和七(一九三二)年岡書院刊。私は未見。

「クバリイ」ポナペ島(現在名はポンペイ島)のナン・マトール遺跡(Nan Madol)を調査したドイツの医官のことと思われる。ナン・マトール遺跡は十三世紀から十五世紀にかけて建造された巨石構築物群で、「ナン・マトール」とは「天と地の間」という意。総面積四十平方メートルの九十二もの人工島から構成されており、伝承によると行政・儀礼・埋葬などそれぞれの島で機能分担していたとされる。伝承や遺物の検証からは政治・宗教の拠点となった水上の城塞であったと考えられている。その中のナン・タワシ(ナン・ダワシ)と呼ばれる墓(宮殿)は、シャウテロール朝最後の王シャウティモイの王墓であると伝えられてきた。この遺跡については現在でも謎が多く、不明な点が多い。島には柱状の黒褐色玄武岩を縦横交互に積み重ねた囲壁が築かれている。玄武岩は付近のジョカージ島から運ばれたが、その玄武岩は自然に五角形または六角形に割れるため、加工が少なくて済む(遺跡部分はウィキナン・マトール遺跡に拠った)。「クバリイ」については、「神戸大学付属図書館」公式サイト内の「新聞記事文庫 東南アジア諸国」にある『時事新報』大正一〇(一九二一)年四月~六月の連載の伊藤生なる記者の記事南洋諸島の姿四十回)の「(十八) 戦争に生死せる時代相」の中に、本城塞(そこでは「ナンマタール大城塁」と表記)を『ナンマタールの古城は慥に一見の値はある。秀吉が大阪城を造るよりも大なる辛苦が、築城者に依って嘗められたことは疑いない。島の大きサと、人の智識と、材料難の三点から考えると、此古城は偉大であると言い得る。独逸のクバリイと云う医官は、熱心に此残塁を踏査して精巧なる縮図を引いた。外国人は一般に這んな事が好きだ、夫れは今も守備隊に備え付けてある』とあるのを根拠とした。

「山城」日本郵船の貨物船山城丸。南洋諸島方面の航路を受け持った。南洋諸島の範囲内のほかセレベス島マナドにも寄港し、諸島内の生活や開発に欠かせない航路となっていた。幾度かの航路の修正が行われたが、昭和一六(一九四一)年十二月八日の太平洋戦争勃発後は翌年に設立された船舶運営会に「山城丸」「近江丸」「サイパン丸」など使用船舶ともども移管され、運航は不定期になって輸送船団を構成することが義務付けられたものの、航路自体は従前どおり維持された(昭和一七(一九四二)年八月五日に「パラオ丸」が、十二月二十八日に姉妹船「近江丸」がそれぞれ戦渦により沈没している)。昭和一八(一九四三)年九月十六日、「山城丸」は横浜を出港して父島二見港に向かい、九月二十一日には輸送船「両徳丸」とともに三九一六船団を構成、特設掃海艇「第二文丸」の護衛で二見港を出港してサイパン島に向かった。しかし、二日後の九月二十三日朝、同船団はアメリカ海軍潜水艦トラウトの雷撃を受け、同日八時三十分、「両徳丸」(乗員百五十一名)の船尾にトラウトからの魚雷が命中、間もなく「山城丸」の中央部にも命中、両船は操舵困難となって一時は衝突しそうになった。「山城丸」は左に大きく傾いた後、八時四十八分、船尾から沈没していった。「山城丸」及び「両徳丸」の乗員は「第二文丸」や別の哨戒艇に大部分が救助され、サイパン島行きを希望した遭難者は「第二文丸」でサイパン島に向かい、残りは父島に戻った。山城丸の乗員は当直の機関士四名が殉職した以外は日本に全員生還した(以上はウィキ山城丸」に拠る)。]

鬼城句集 秋之部 蓼

蓼     犬蓼の花にてらつく石二つ

2013/11/26

萩原朔太郎二十二歳の和歌二首

心臟に匕首たてよシヤンパアニユ栓拔ごとき音のしつべし

拳もて石の扉を打つごとき愚(おろか)あへて君ゆゑにする

[やぶちゃん注:『スバル』第一年第十一号・明治四二(一九〇九)年十一月の「昴詠草」欄に掲載された二首。萩原咲二名義。未だ満二十二歳の朔太郎の詠唱。]

「耳嚢 巻之七」(全)サイト版公開

「耳嚢 巻之七」(全)サイト版を公開した。

何時もながら、HPビルダーの勝手な書き換えに悩まされた。残り300話。命あるうちにオリジナル訳注版1000話――少し完成出来そうな気はしてきたよ。

耳嚢 巻之七  彦坂家椽下怪物の事 / 「耳嚢 巻之七」了 700話迄完結!

 彦坂家椽下怪物の事

 文化三年小普請支配なりし彦堺九兵衞駿府御城番被仰付(おほせつけられ)、彼(かの)地へ引越(ひつこす)とて家内取込居(とりこみをり)たりし折節、或日椽下(えんのした)より奇怪の者出ける由、頭は鼬(いたち)の如(ごとく)、足手はなく惣身(そうみ)は蛇の如く、大(おおい)さ弐尺廻り程にてしゆろの如き毛惣身に生ひて長さ三丈斗(ばかり)もあるべし。椽下より出て庭の内を□りて暫く過(すぎ)、又椽の下へ入(いり)しと也。何と申(まうし)者にや知る者さらになしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。UMA譚。何らかの蛇と推定するにはサイズ、デカ過ぎ。縁の下にまた入ちゃったって、そのまま? 後に入る人はおとろしけない!(富山弁で「恐ろしい」の意) これって、そうした後の入居者をビビらせるための、悪戯っぽい都市伝説の臭いがする。底本「耳嚢 巻之七」掉尾第百話。
・「文化三年」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。
・「彦堺九兵衞」底本鈴木氏注に彦坂忠篤(ただかた)とする。寛政六(一七九四)年御先弓頭、文化三年六月駿府城番、とある。
・「大さ弐尺」太さ約六十一センチメートル弱。これじゃ、丸太やがね!
・「しゆろの如き毛」蛇類の脱皮後の殻が付着したままだとこんな風には見えないことはないけど……サイズがぶっとんどるがね! だちかん!(富山弁「ダメ!」)
・「長さ三丈斗」長さ約九メートル。山ん中の蟒蛇ならまだしも、江戸でしょうが? 現生蛇類でもこんな長いのおりやせんぜ!
・「□りて」底本では右に『(蟠カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『輪になりて』。

■やぶちゃん現代語訳

 彦坂家の縁の下の怪物の事

 文化三年、小普請支配であった彦堺九兵衛殿、駿府御城番を仰せつけられ、かの地へ引越すということで、数日に亙って屋敷内の片付けに取り込んで御座った、ある日のこと、縁の下より奇怪なる物が出現致いた由。
 頭は鼬(いたち)のようで、足や手はなく、惣身(そうみ)は蛇に似ており、その胴部の太さはたっぷり二尺ほどもあって、棕櫚(しゅろ)の如き毛が惣身に生えており、全長は有に三丈ばかりもあろうかという奇体なシロモノで御座った。
 縁の下より出でて、庭の内をぐるぐるととぐろを巻いて暫く這いまわったかと思うたら、また縁の下へずるずるっと入り込んだ、とのことで御座る。
 何と申す生き物であるか、知る者は全くいなかった、とのことで御座る。

以上を以って「耳嚢 巻之七」を終了、「耳嚢」1000話の内、オリジナル訳注を700話まで達成した。

耳嚢 巻之七 了簡を以惡名を除幸ひ有事

 了簡を以惡名を除幸ひ有事

 前に印、本町伊勢屋へ來りし乞喰女(こつじきをんな)は、息子の馴染て一旦妻にもなせし女の由を聞(きき)、殊に容儀も其外殘る所なければ、是を以(もつて)娘せんと思ひしに、此比(このころ)有徳成(いうとくなる)町家より娵(よめ)を貰ひ候積りにて相談せしに、しるしも取(とり)ぬれば今更引替(ひきかえ)離緣も成り難し。如何はせんと媒(なかうど)をも呼(よび)て彼是相談なせしに、一向あからさまに此事を語りて舅へ了簡を賴(たのみ)、離緣なし貰わんと申けるにぞ、右の舅の方へ至りかくかくの事にて遠國より來りし心底を、無息(むそく)になさんも哀れの事也、いかさまにも存寄(ぞんじより)にまかせべけれども、離緣一條は承知給はれとなげきければ、彼(かの)舅はあつぱれ才覺了簡有(ある)おの子にて、委細口上の趣(おもむき)承知せり、乍去(さりながら)此儀は假初(かりそめ)の事ならねば、押付直々罷越可談(おつつけぢきぢきまかりこしだんずべし)と有(あり)ける故、聟(むこ)の兩親はいか成(なる)事を來り申(まうす)やらんと、手に汗を握り待居(まちゐ)たりしに、彼舅無程駕(ほどなくかご)をつらせ來りて、さて時の挨拶濟(すみ)て、委細先刻御申越(おんまうしこ)しの趣、無據一埓(よんどころなくいちらつ)故承知致度候得共(いたしたくさふらふえども)、一旦婚姻の上は格別只今離緣と申(まうす)儀は、無疵(きずなき)娘に疵付(きづつけ)候事ゆへ、何分承知難成(なりがたく)、彼是手間取(とる)も色々の沙汰も是あれば明日婚姻可爲致(いたさせべく)候、此段何分承知給はるべしと、其代りには彼長崎の女は我方へ貰度(もらひたし)迚、無理無躰(むむりたい)に彼(かの)長崎女を貰ひ連歸りける故、聟の方にても驚きしが、何れも舅存寄に違(たが)ひてもあしかりなんと明日輿入(こしいれ)を待(まち)しに、無程(ほどなく)時刻輿入有之(これあり)、輿を出(いで)、丸わたを取(とり)に至りて見れば彼長崎の女也。娘を通しけるとて聟入舅入(むこいりしうといり)も致、目出度(めでたく)事濟けるが、いつとなく彼舅が質才を聞及(および)し者有(ある)や、實娘は猶初(なほはじめ)に增(まさ)る棟高き方へ貰われ婚儀無滯(とどこほりなく)、娘兩人持し心、喜びの上家富榮(とみさかえ)けると也。我元へ來りし者咄しける。

□やぶちゃん注
○前項連関:前話の後篇。形は気に喰わぬものの、この後段、なかなかええ話やなあ。――
・「了簡を以惡名を除幸ひ有事」は「れうけんをもつてあくみやうをのぞきさいはひうること」と読む。
・「印」底本には右に『(記)』と訂正注がある。
・「是を以娘せん」底本には「娘」の右に『(嫁カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『是(これ)を娵(よめ)にせん』とある。
・「無息」岩波版長谷川氏注に『無にすること』とある。
・「まかせべけれども」底本には右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『任すべけれども』。
・「駕をつらせ」岩波版長谷川氏注に『駕を従えて』とある。
・「一埓」「いちらち」とも読む。ある事柄の一部始終。ある事柄に関する一通りの事情のこと。一件。
・「聟入」婚礼後に夫が妻の実家に初めて行く儀式。
・「舅入」婚礼後に舅が婿の家を初めて訪れる儀式。
・「質才」これでも通らぬではないが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『賢才』で、こっちの方が分かりがよいので訳は「賢才」とした。

■やぶちゃん現代語訳

 第二部 格別の思慮分別を以って悪名を除き幸いを齎した事

 前段に記した、日本橋本町(ほんちょう)伊勢屋の息子の元へ、はるばる長崎より来たった乞食(こじき)に身をやつした女性(にょしょう)は、息子の馴染みにして、一度は妻にも致いた女で御座った由を聞き、伊勢屋は、殊にその容姿振舞い。言うに及ばず、心映えその他、これっぽっちも不足のない女子(おんなご)なれば、これを以って嫁と致さん思うたが――ところが――ちょうどこの少し前、実はさる有徳(ゆうとく)なる町家より、息子の嫁を貰ひ受けるつもりで、すっかり話が進んで御座って、もう既に結納の儀も取り交わして御座った。
「……今更、嫁を取り換えるによって破談と申すは……これ、どう考えても理の通らぬことじゃ。……如何致いたらよかろうのぅ……」
と、伊勢屋は媒酌人(なかうど)をも呼び招き、あれこれ相談致いたが、結局は、
「……かくなった上は、正直に一切合財、あからさまに、この度のことを先方へお語りになられ、あちらの舅どのへ格別のご配慮をお頼み申し、理を曲げて、この度の縁はなかったことにして戴く外、御座るまい。……」
と決したによって、伊勢屋はかの舅の方へと参り、
「……まっこと、許されることとも思いませぬが……かくかくしかじかのことにて……かの遠国長崎より狂女の体(てい)に身をやつして、はるばる愚息を慕(しと)うて参りましたその心底……これ、無にするは、如何とも……あはれなことと存じまする。……無論、そちらさまのお怒りお嘆きも御座いますればこそ、如何様(いかよう)なるご処置もご条件も、これお考えのままに任せ、なんなりと致さんずる所存。……なれども……どうか――離縁破談の一条だけは――どうか一つ、ご承諾下さりませ。……」
と涙ながらに訴えて御座った。
 するとかの舅は、あっ晴れ、才覚了簡のある男子(おのこ)であったものか、
「……相い分かり申した。……只今、承ったる委細口上の趣き、確かに承知致いた。……さりながらこの度の婚姻の儀は仮初(かりそめ)のことにては御座らねばこそ、我らに考えが御座る。……おっつけ、我ら直々にそちらへ罷り越し、ご相談申さんと存ずる。……」
との返答で御座ったによって、伊勢屋はその時は喜んで、そのまま帰った。
 ところが、帰ったはみたものの、妻にそれを話すそばから、
「……しかし……一体……如何なることを……参られて望まれんとするもの……か……」
と思うと、何やらん、慄っとし始め、手に汗を握って夫婦して待って御座ったところが、かの舅、ほどなく空駕籠(からかご)を従えて伊勢屋にやって参り、一通りの挨拶が済んだところで、
「……委細、先刻お申し越しの趣き、よんどころなき一部始終、大方の事情は、これ、お聴き申した。……ここはその女性(にょしょう)の確かな情愛に免じ、承知致したくは思う……思うが……一旦、婚姻への手筈を踏んだ上は、これ、格別に今日只今、ここであっさり離縁破談と申す儀は――これ、無垢純白の娘に汚点を附け――疵ものに致すに他ならぬ――さればこそ何分にもやはり承知し難きことじゃ。――かれこれ手間取るのも、色々と面倒、また何かとうるさい世間の目(めえ)もこれ、御座る。――されば、ここは一つ――明日、我ら娘と婚姻の儀をこれ、致させんと存ずる。……この段、何分、ご承知給はりたく存ずる。……それから、我らが娘を嫁に出だす代わりに……その長崎の女子(おなご)――これは我らが方へ貰い受けとう存ずる。……よろしいな?……伊勢屋さん、先程は確かに『如何様(いかよう)なるご処置もご条件も、これお考えのままに任せ、なんなりと致さんずる所存』と申されたは―嘘では御座るまい、な?……」
と申したかと思うと、口籠って石のようになった伊勢屋を尻目に、無理無体に、かの長崎の女子(おなご)を貰い受けると、さっさと連れ帰ってしもうた。
「承知と申されたが、かくも引き換えるとは……」
と呆然自失の伊勢屋。されど確かに、無理無体の懇請を致いたは、こちらも同じ……。
 息子も思わぬ成り行きに驚いたが、一体全体、先方が何を考え、何をせんと致いて御座るものかさっぱり見当がつかぬ。
 つかざれども、父も息子も孰れも、離縁を許諾してくれた先方の思いを違えてはまずかろうと、ともかくも、どうかることか分からぬながら、まずは明日の輿し入れを待というということになった。
 翌日、日の高いうちに早々と輿し入れの儀が行われた。
 新婦が輿を出ずる。
 新婦の綿帽子が取らるる。
 その手を伊勢屋主人(あるじ)がとる。
――と
――見れば
――それはかの長崎の女子(おなご)で御座った。…………
「――さても我らが娘をそちらさまの嫁御としてお通し申しまする――」
と先方の主人が声高く呼ばわり、その後もそのままことものぅ、聟入りや舅入りの儀も何事もなく行われ、めでたく婚儀はすんで御座ったと申す。…………
   *
 いつとなしに、この相手方の舅の粋な賢才を聞き及んだ者があったので御座ろう、かの者の実の娘は――ほどなく――なお伊勢屋に優る棟高き豪家へと貰われて参り――この度も婚儀滞りなく執り行われたとのこと。舅の彼は、
「――いや、娘を二人持てた! この今の気持ちは格別じゃて!」
と殊の外に喜んだと申す。
 この舅の商家は今も、富み栄えておるとのことで、御座る。
   *
 私の元へ来たる、とある者の話で御座った。

耳嚢 巻之七 女の一心群を出し事

 女の一心群を出し事

 いつの比(ころ)にや、本町(ほんちやう)に伊勢やといへる相應の町人有しが、一子甚放蕩者にて親族の異見を不用(もちひず)、やがて親元を欠落(かけおち)して、長崎奉行の供をして崎陽へ至り、彼地にて持病の止(やみ)がたく、同所の藝者といふべき女子に深くなじみ、如何せし哉(や)、主人交代にも暇を取、彼地に殘(のこり)、借屋をかり少しの家業なして彼藝者を妻となしけるが、一兩年も立ぬれば頻りに江戸表へ歸り度、いにしへの不屆(ふとどき)をも後悔なし、兎角に歸り度思へど妻を連(つれ)ては長崎をも出がたく、如何なすべきやと思ひしが、思ひせまりて彼(かの)妻を置去(おきざり)にして夜に紛れ長崎を立出で、所詮女の身にて遠國波濤參りがたきと江戸表へ下りける。妻は跡にて我も跡追缺(おひかけ)て行(ゆか)んと、乍去(さりながら)道中非人にならでは所詮ゆかれじと、少し氣違(きちがひ)の樣子になし、いろいろ道中難儀してとふとふ江戸へ來りし。彼本町いせ屋といへるを兼て聞し故尋(たづね)て門(かど)に立(たち)ければ、いせ屋の若き者、見苦敷(みぐるしき)非人物もらひの所爲(しよゐ)なるやと咎めしかば、若旦那に御目に懸り度(たき)よし申しける故、いよいよ手代ども憤り、其方如き非人に若旦那の知る人有べきやと叱りければ、おん目に掛りさへすればわかる事也とて何分不立去(たちさらず)。夫よりたゝけ抔罵り物騷ぎ成りし故、彼息子兼て親類の侘にて親元へ立歸り、古しへに替(かはり)をとなしく成り、彼非人を見れば長崎にてめとりし妻たる故に大きに驚き、今は隱すべき樣なければ、兩親へしかじかの譯語りければ、かく深切の情有(ある)女ならば先(まづ)ひそかに勝手の方へ呼入(よびいれ)よとて、勝手の方へ廻し尋(たづね)ければ、長崎を立出(たちいで)、千辛萬苦(せんしんばんく)を凌ぎ慕ひ來りしと言ゆへ、先(まづ)湯をつかひ髮取(とり)あげさせければ、爰(これ)も息子の迷ふも斷(ことわり)、絶世の美人といふべき。父母も彼ㇾが樣子、且(かつ)心底の切なるを感じ大きに悦びけるが、爰(ここ)に一ツの六ケ敷(むつかしき)一段有しが、次のケ條に記(しるす)。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。連続した話を前後篇二話分で九十八、九話というのは、最後の最後、ちょっと汚いよ、鎮さん!
・「本町」岩波の長谷川氏注に、『中央区日本橋本町』とする。ウィキの「日本橋本町」によれば、この地域は徳川家康の江戸入府以前には福田村ともまた洲崎とも呼ばれていたが、天正一八(一五九〇)年に町地として開発されて以降、寛永の頃には既に京・大坂より大店が進出、商業地域として大いに発展を遂げた。本町という町名は江戸の中で最初に造られた大元(おおもと)の町という意味。江戸時代には『薬種問屋や呉服屋をはじめとして色々な種類の商店が多く集まった。戯作者の式亭三馬は当時の本町二丁目に住んでいて本町庵と号し、戯作を書くかたわら商売を営んでいた』。幕末から明治初期にかけて活躍した歌舞伎作家三代目瀬川如皐(じょこう)も本町四丁目の呉服屋出身である、とある。
・「主人交代」本話柄の年代は特定出来ないが、「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年以前のそれほど遠くない時と考えるなら、長崎奉行は定員二名で、その内、一年交代で江戸と長崎に詰め、毎年八月から九月頃に交替した。

■やぶちゃん現代語訳

 第一部 女の一心が群を抜いて祈願を成就させた事

 何時の頃のことで御座ったか、日本橋本町(ほんちょう)に伊勢屋と申す相応の町人が御座った。ところがその一子、これ、はなはだ放蕩息子にて、親族がしきりに異見するをも顧みず、勝手気儘のやりたい放題、遂には親元を出奔致いて、長崎奉行の供なんどになって崎陽へと至り、かの地にて、また放蕩の持病、これ、止み難く、同所の芸者の如き女子(おなご)に深く馴染んでしまい――果てはどうしたものか――附き従って御座った主人長崎奉行殿の交代となった日には、暇まを乞い請け、かの地に残って、借屋を借り、ちょっとした家業なんどをなして、かの芸者を妻と致いたと申す。
 ところが一、二年も経たぬうちに、頻りに江戸表へ帰りとうなり、かつての放蕩無頼をも後悔致いて、兎も角も帰りたい、帰りたいと思うように相い成った。
 しかし妻を連れては長崎をも出で難く、
「……さても……一体……どうしたら、ええもんか……」
と思い悩んでおったが、望郷の念、思い迫り、遂には、かの妻を独り置き去りにしたまま、夜陰に紛れて長崎を立ち出で、
「……所詮……女の身なれば……遠国の……荒木波濤を越えたる地には……とても参らるるものにては……これ……御座るまい……」
なんどと、得手勝手な納得など致いて、江戸表へと下ったと申す。
 さても妻は、夫の行方は常日頃の様子より察して御座ったによって、
「――妾(わらわ)も後を追うて駈けて参ります!」
と、走り出でた。が、
「……さりながら遙かなる道中、これ、非人にでもならいでは、とてものことに江戸へ辿りつくこと……叶(かの)うまい……」
と、少し風体や言動、これ、狂女の体(てい)となして……いや、もう、道中、難儀に難儀を重ねて……とうとう江戸へと辿りついたと申す。
 かねてより、かの夫が家は日本橋本町伊勢屋という聞いて御座ったゆえ、そこを尋ねて辿りついた、その門(かど)――これ、大層、立派なるお店(たな)――に立った。
 店先の掃除を致いて御座った伊勢屋の若き者が、
「こりゃあ! 見苦しの非人! 物貰いにでも来よったかっ! しっし!」
と見咎めたところ、ザンバラ髪で襤褸(ぼろ)を纏ったこの女乞食、あろうことか、
「――こちらの若旦那さまに――お目にかかりとう存じまする!」
と申したによって、それを聴きつけた店内の手代どもまで表に出でて、以ての外に憤り、
「こら! その方のごとき賤しい穢い非人が、若旦那さまの知ろうお人であろうはずが、あるまい! 帰れ! 帰れ!」
と叱りつけた。ところが、今度は、
「――一目……一目お目にかかりさえすれば……分ることにて御座いまする!」
と懇請して、いっかな、動こうとせぬ。
「気違いもここまでくると、呆れてものが言えねえ!」
「ちょいと懲らしめてやりやしょう!」
「そうさ……ちょいと脳天に喰らわしたって、正気を戻してもらおうかの!」
と、それより、
「われ! ホンマに小突くぞッ!」
なんどと罵って寄ってたかって脅したによって、店先は騒然となって御座った。
 さて、かの息子はといえば――江戸へ戻ると、かねてより好意を持って呉れて御座った親類の者に頼み込んで、本家へ丁重な詫びを入れたによって、やはり実の一人子なればこそ親も可愛いく、結局、親元へと立ち帰って、かつてとはうって変わって従順となり、その日も、店の外回りの仕事を終えてちょうど、お店(たな)へと戻って参ったところで御座った。
 と、店先でさんざんに小突き回されておった穢いなりのその非人を――よくよく見れば――これ、なんと!
――長崎にて娶ったかつての妻じゃ!
さればこそ大きに驚き、その風体の哀れに感ずればこそ、今となっては隠しようも御座いない、手代どもにはともかくも店端の軒下に休ませるように言いつけ、店へ飛び込むと、奥に御座った両親へしかじかの訳を、これ、正直に語って御座ったと申す。
 すると父母は、
「……かの長崎から女子(おなご)独りで追って参ったとは……それほどまでに切なる情を持ったる女子(おなご)ならば……まあ、まずは人目を避けて、勝手口の方(かた)より呼び入るるがよい。……とくと逢(お)うてみようぞ。……」
と申した。
 されば勝手の方へと回し、屋敷内へと導くと、女は、地べたに三つ指をつき、
「……長崎を立ち出で……千辛萬苦(せんしんばんく)を凌ぎ……お慕い致いてここまで参り越しまして……御座いまする。……」
と殊勝な挨拶を致いたによって、父母は、
「……さあさ! まずは湯を遣い、髪を結い直しなど致いてから……」
と下女に命じ、湯を沸かすやら、髪結を呼び寄せるやら……
……さてもかくして落ち着いたるその女子(おなご)を見たる父母は、これ、言葉も出でぬ!
――これは!
――息子の迷うたも理(ことわ)りじゃ!
――いや、もう! 絶世の美人ともいうべき女性(にょしょう)!
なので御座った。
 かくして父母も、この女性(にょしょう)の風情はもとより、何よりも心底(しんてい)の切なる、我が子への愛憐(あいりん)の情を汲み取り、これまた大きに悦んで御座ったと申す。……
 ただ、ここに一つの、難しき事態が出来(しゅったい)致いた――という更なる一段が御座るが――これはまた――次の箇条に記すことと致そう。(続く)

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 3 男と女

 私は往来を歩く若い男が、父親が小さな娘を連れている以外には、決して若い娘を伴うことがない事実に、何度も気がついた。娘は必ず一人でいるか、他の娘と一緒にいるか、母親と一緒にいるかである。青年が異性の一人に向ってお辞儀をしているのを見ることさえ稀である。私は福井氏に向って、あなたの知人の中に若い娘が何人いるか、一緒に博覧会を見に行こうと招待する位よく知っている娘は何人位かと、あけすけに質問した。すると彼はこんな思いつきを笑った上で、若い娘なんぞは只の一人も知らないと白状した。私には容易にそれが信用出来なかったので、我国では、青年どもが娘の友達を馬車遊山、ピクニック、音楽会、帆走、その他へ招待することを話したら、彼は驚いていた。まったく彼は卒直に吃驚して、そのような社会的の風習は、日本では知られていないといった。友人を訪問する時、何かの都合で姉妹なり娘なりがその場に居合せば、彼が子供の時の彼女を如何によく知っていたとしても、彼女は丁寧にお辞儀をして座を外し、また往来で偶然出合えば、娘は日傘なり雨傘なりを低く傾け、彼は顔をそむける。これは下級のサムライの習慣で、上級のサムライだと同様の場合、丁重にお辞儀をするのだと、福井氏がいった。

 

 その後外山教授に、彼の経験も同じであるかを質ねたら、彼もまた福井氏のいった事を総て確証した。「自分は、若い淑女は只の一人も知らぬ」と、彼はいった。夫と妻とが並んで往来を歩くようになったのも、ここ数年来のことで、而もそれは外国風をよろこぶ急進論者が稀にやるばかりである。夫婦で道を行く時、十中八、九、細君は五フィート乃至十フィート夫に後れて従い、また夫婦が人力車に相乗りするということは、極りの悪い光景なのである。「自分がこんな光景に接すると、その夫は顔を赤くする。若し夫が赤くならなければ、自分の方が赤くなる」と、外山教授はいった。彼は更に、このような男は「鼻の中の長い毛」を意味する言葉で呼ばれるといった。鼻の穴の中に長い毛を持つ男は、細君に引き廻されることになっているので、つまり我我の所謂 henpecked 〔牝鶏につつかれる。嬶天下〕なのだが、この言葉は、彼等の henpecked を意味する言葉が我々にとって不思議であると同様、彼等にとって不思議に思われる。

[やぶちゃん注:「五フィート乃至十フィート」約1・5~3メートル。

「鼻の中の長い毛」“long hair in the nose”は恐らく女が自分にべた惚れの男を透かさず見抜いて思うように弄ぶことを意味する「鼻毛を読む」「鼻毛を数える」であろう。

henpecked」ここでは底本での石川氏の割注をそのまま出しておいた。“henpeck”の“hen”は雌鶏で、“peck”は、つつく・啄むであるが、この“hen”は女性の譬えであって、意味としては「女性が男に口喧しく文句を言っては支配する、困らせる、苦しめる」「妻が夫をいいなりにする」「夫を尻に敷く」という意になる。その形容詞化である。]

 

 私にこの話をしてくれた日本人は二十二歳であるが、結婚する意志があるのかと質問したら、「勿論だ」と答えた。「然し」、私はまた質問した、「君の知人の間に娘の友人が無いのに、君はどうして細君を見つけることが出来るのか」、すると彼は、それほ常に友人か「仲人」によって献立されるといった。ある男が結婚したいという意志を示すと、彼の家族なり友人なりが、彼の為に誰か望ましい配偶者を見出してくれる。すると彼は、娘の家族と文通して、希望を述べ、且つ訪問することの許可を乞い、そこで初めて、或は将来自分の妻になるかも知れぬ婦人と面会する。彼等が見た所具合よく行きそうだと、その報道が何等かの方法によって伝えられ、そして彼は結婚の当日まで彼女に会わない。私はそこで、「然し君にはどうして、彼女が怠者だったり、短気だったり、その他でないことが判るのだ」と聞いた。彼は、それ等の事柄は、婚約する迄に、注意無く調べられるのだと答えた。更に彼は、「この問題に近づくのに、米国風にやると、娘は必ず真実の彼女と違ったものに見える。彼女は男の心を引くように装い、男を獲るような行為をする。我々が遙かによいと思う我々の方法によれば、これ等は感情をぬきにした、双方の将来の幸福を考える、平坦な経路を辿る」とつけ加えた。この方法は我々には如何にも莫迦(ばか)げていて、またロマンティックで無いが、而も離婚率は我国に比べて遙かに低い。私の限られた観察によると、日本では既婚者たちが幸福そうにニコニコして、満足しているらしく見える。このように両性が社交的に厳重に分離されている日本では、青年男女が、非常に多くの無邪気で幸福な経験を知らずにいる。我国のピクニックや、キャンディ・パーティその他の集会や、素人芝居や、橇(そり)や、ボートや、雪すべりや、その他の同様な集りを思い浮べると、この点に関する社会的のやり方は、娘達にとってさえも、我国の方がずっといいような気がする。もっとも、いろいろなことに関する私の意見は、この国に於る経験に因って、絶えず変化するから、ハッキリしたことはいえない。

[やぶちゃん注:「私にこの話をしてくれた日本人は二十二歳である」やや誤読しがちであるが、ここは前段の文学部教授外山正一のことを指していない。外山は嘉永元(一八四八)年生まれで当時は既に二十九歳である。従ってここでモースが指しているのは福井氏である。とすると、この私が通弁であると推定する彼は安政三(一八五六)年生で、明治維新の時は十二歳であったことが分かる。幕末の動乱期でこの少年が前に述べたような、公開の斬首刑を見たとして、その印象は強烈なものであったろう。

「キャンディ・パーティ」底本には直下に石川氏の『〔若い男女が集まって、砂糖英子等をつくる会合〕』という割注が入る。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 2 斬首刑 / 日本刀の目利き

 昨夜福井氏が私の絵を見に来た。私は日本の習慣に就て彼と長い間話をした。彼は私の聞いたことは何事にまれ、出来得るかぎり説明して呉れ、私はいろいろと新しいことを知った。サムライの階級――彼もそこに属していた――は、各地方の主なるダイミョーの家来であった。彼等は最高の階級を代表し、数年前までは二本の刀を帯(おび)ることを許されていた。その短い方は、腰をめぐる紐の内側の褶(ひだ)に、長い方ほ外側の常にさし込まれるのであった。帯刀は勅令によって禁止されたが、君主に対する忠誠から、この勅令に従った際の犠牲が如何に大なものであったかは、西洋の国民には全然見当もつかないのである。両手で使う大きな刀は、敵と戦う為のもので、小さい刀は、大きな刀のした仕事を仕上げる為のものである。福井氏は私に、封建時代の死刑について話してくれた。彼は、そのあるものを目撃したことがある。職業的斬首刑吏は、最低社会階級なる特別の階級――事実、追放された人々――(政府は最近この区別を撤廃した)から選ばれた。斬首刑吏は犠牲者の着衣を貰うことになっていたので、非常に注意探くそれを首から押し下げ、膝から引き上げた。これは、処罰される者が、首を前方につき出して坐っている時、鋭い刀は電光石火、首をはねるはかりでなく、膝さえも切るので、斬首刑吏が配慮しなければ、着衣は役に立たなくなるからである。

[やぶちゃん注:「福井氏」不詳。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の人名索引にも出ない。本書では前に「福井」姓の人物は登場しない。しかし、モースは如何にも親しげであり、しかも以下の話、福井氏は直接モースに英語で語っているように見受けられる。さすれば、この福井氏とは日光などに追随した通弁だったのではなかろうか? 識者の御教授を俟つものである。

「封建時代の死刑について話してくれた。彼は、そのあるものを目撃したことがある」斬首刑は明治十五(一八八二)年一月一日の刑法改正を以って廃止されたので、実際には未だ当時法的に有効で実際に行われていた(実際、この二年後の明治一二(一八七九)年一月三十一日に強盗殺人で逮捕されていた稀代の毒婦と噂された高橋お伝の死刑が八代目山田浅右衛門の弟吉亮によって行われたが、これが日本で公的に最後の斬首刑であった。因みにお伝の遺体からは性器が剔抉され、現在の東京大学法医学部の参考室で犯罪類型研究のためにアルコール保存されていたから、明治十二と十五年に来日の際に彼がその標本を見た可能性もある)が、無論、モースのような外国人がそれを見る機会はまずあり得ず、福井氏もその残虐な刑が未だに存在していることは言い辛かったのであろう。

「職業的斬首刑吏は、最低社会階級なる特別の階級――事実、追放された人々――(政府は最近この区別を撤廃した)から選ばれた」やや誤解を生む記述で、ここでいう「職業的斬首刑吏」とは首切り浅右衛門で知られる幕府の死刑執行人であった山田家当主(山田家のルーツや、当主が幕下の公式な職務でありながら身分は旗本でも御家人でもなく浪人であったこと、山田家は刑死後の死体から肝臓・脳・胆嚢・胆汁等を採取して、それを原料に労咳に効くとされた「仁胆」などと称する丸薬を製造して莫大な収入を得ていたこと、また遊女が恋慕する男を騙すための約束用として死体の小指を売却することなどもあった、などという興味の尽きない話はウィキの「山田浅右衛門」に詳しい)を指すものではなく、処刑介添えや断罪の後始末を任された下級刑吏である穢多・非人を指している。不当な身分差別は「穢多非人ノ称ヲ廢シ身分職業共平民同樣トス」という明治四(一八七一)年八月に明治政府が行った穢多非人等の称や身分の廃止などの旨を記した太政官布告によって名目上は撤廃されたが、今もそのレイシストの亡霊がしこたま生き続けていることは言うまでもない。]

 

 サムライは、一年に一度、彼等の刀身を検査する目的で集合した。刀作者の名前は刀身の、柄の中に入り込む部分にきざんであり、柄は小さな木製の釘でとめてある。これ等の会合は、事実、あてっこをする会なので、刀身の作者の名は刀身、即ち鋼鉄の色合、反淬(やき)の探さ、やわらかい鉄へ鍛鉄した、鋼鉄の刃の合一によって出来る、奇妙な波のような線等を検査することによってのみ、決定されねばならぬ。すべての人々が彼等の推定を記銀し終ると、刀から柄を取外して署名を読む。刀身を取扱う時には、外衣の長い袖の上にそれをのせ、決して手で触らず、また鞘から抜く時には、必ず刃を手前にする。福井氏は、「サムライの魂」と呼ばれる刀に関する多くの礼式を話してくれたが、私はそれ等を記録に残す程明瞭に了解しなかった。

[やぶちゃん注:「サムライは、一年に一度、彼等の刀身を検査する目的で集合した」というのは不審。まさに「明瞭に了解しなかった」モースの聞き違えか。

「反淬(やき)」製鉄用語で焼き戻しのこと。焼き入れをした金属を焼き入れ温度より低い温度で再加熱する操作。鋼を粘り強くするために行った。]

中島敦 南洋日記 十月二十日

        十月二十日(月)

 昨夜、夜半より下痢、微かに惡感あり、ビオフェルミンと、クレオソート服用、朝來、依然微熱。キニーネ服用。懷爐を用ふ。終日、熱去らず。

◎先日所見の黄色塗料タイク(テイク)に就いて――原料は姜黄(Curcuma longa)の根。土語にてラン(黄の意)と呼ぶ。之を珊瑚岩で擦り下し、篩にかけ、一晝夜水に浸して沈澱した粉を椰子殼の型に移して乾し固め、バナナの葉を割いて之を卷き、佛桑華の葉に包む。使用に際しては椰子油に和すと。上等品は赤味を帶ぶ、之を塗るは、裝飾の外に、蚊、蠅を拂ふ效ありといふ。

◎トラックの踊について、

 パンの實の熟する季節に酋長が、神(アヌ)の告によつて主催するを、パリク(新果祭) といふ。この時頗る大規模の踊の會る。り。グルグル踊は棍棒(グルグル)を持つ男の踊。アウアヌ踊は性的なる尻振ダンス、エペゲクは男のみの立踊。

◎先日聞きし土民歌謠の一曲の譜、ミクロネシア民族誌に錄されてあり、次の如し。

[やぶちゃん注:「姜黄(Curcuma longa)」この学名は単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン Curcuma longa 、アキウコン(秋鬱金)、カレーでお馴染みのターメリックを指すが、「姜黄」(キョウオウ)と言った場合は漢方生薬を指、厳密には同属のハルウコン(春鬱金)Curcuma aromatic の根を指す。前者はオレンジ色を呈するのに対し、後者は黄色であるから、ここで敦の言っているものは記載された「(Curcuma longa)」ではなく、後者のハルウコン(春鬱金)Curcuma aromatic と考えた方が自然であるように思われる。但し、Suyap 氏のブログ「ミクロネシアの小さな島・ヤップより」の「第三回ヤップ・カヌー・フェスティバル(3日目)陸上編」には、『ターメリックの根は装身用(うこん)として、あるいは薬用や食用(春うこん)として、太平洋の島々の暮らしには今でも欠かせないアイテムだ』と混在併記されており、そこではウコン Curcuma longa を装身用、ハルウコン(春鬱金)Curcuma aromatic を食用としてある識者の御判断を俟つ。

「佛桑華」既注済み。ブッソウゲ Hibiscus rosa-sinensis はハイビスカス。

「ミクロネシア民族誌」既注済み。十月十八日の注を参照。]

Gakuhu


鬼城句集 秋之部 葉鷄頭

葉鷄頭   虫ばんで古き錦や葉鷄頭

2013/11/25

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 1 大森貝塚第二回発掘

 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚

 

 今日、ドクタア・マレー、彼の通訳及び私、人夫二人をつれて大森の貝塚へ行った。人夫は、採集した物を何でも持って帰らせる為に、連れて行ったのである。大森の駅からすこし歩いて現場に達すると共に、人夫達は耨(くわ)で、我々は移植鏝(こて)で掘り始めた。二時間ばかりの間に、我々は軌道に沿った深い溝を殆ど埋めた位多量の岩石を掘り崩し、そして陶券の破片その他を沢山手に入れた。泥にまみれ、暑い日盛で昼飯を食いながら、人夫に向かって、掘り崩した土をもとへ戻して置かぬと、我々は逮捕されると云ったら、彼等は即座に仕事にとりかかり、溝を奇麗にしたばかりでなく、それを耨で築堤へつみ上げ、上を完全に平にし、小さな木や灌木を何本か植えたりしたので、我々がそこを掘りまわした形跡は、何一つ無くなった。大雨が一雨降った後では、ここがどんな風になったかは知る由もない。私は幸運にも、堆積の上部で完全な甕二つと、粗末な骨の道具一つとを発見し、また角製の道具三つと、骨製のもの一つをも見つけた。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは大森貝塚の第二回のプレ発掘調査で、明治一〇(一八七七)年九月十八日(火曜)か十九日(水曜)の平日であった。なお、最初に注意しておくが、標題はこうであるが、実際、大森貝塚発掘に関わる叙述は冒頭の部分と中間部に現われる大森貝塚人プレ・アイヌ説と土器解説以外には目ぼしい「大森に於る古代の陶器と貝塚」についての叙述はないので期待されないように。それらは岩波文庫一九八三年刊の近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚――付 関連資料――」などを見るに若くはない。]

M246

図―246

M247

図―247

M248

図―248

M249

図―249

[やぶちゃん注:検証のために、右上から右下にそれぞれ249―1・2・3・4、左上から左下にそれぞれ249―5・6・7という番号を赤で当てておいた。]

M250

図―250

[やぶちゃん注:検証のために、最上部のそれに250―1、右上から右下にそれぞれ250―2・3、左上から左下にそれぞれ250―4・5という番号を赤で当てておいた。]

M251

図―251

[やぶちゃん注:検証のために、上部の上・下にそれぞれ251―1・2、右上から右下にそれぞれ251―3・4、左下に250―5という番号を赤で当てておいた。]

 

 ここ数日間、私は陶器の破片の絵をかいているが、装飾様式が種々雑多であることは著しい。甕及び破片は、特に記した物以外、全部実物の半分の大きさで描いてある。図246は埋積の底で発見された。この品の内側には鮮紅な辰砂(しんしゃ)の跡が見られ、外側は黒く焦げ、その間には繩紋がある。因247に示すものは黒い壁を持つ鉢で、底部は無くなっている。図248は別の鉢で、この底部には簡単な編みようをした筵(むしろ)の形がついている。図249と250はその他の破片で、辺(へり)や柄や取手もある。図250の一番下の二つは、奇妙な粘土製の扁片と唯一の石器とを示し、図251は骨及び鹿角でつくつた器である。この事柄に大なる興味を持つ日本の好古者の談によると、このような物は、いまだかつて日本で発見されたことがないそうである。大学には石版用の石が数個あるから、私は発見したものは何によらずこれを描写しようと思う。大学は、この問題に関して私が書く紀要は何にまれ出版し、そして外国の各協会へ送ることを約束してくれた。私はこのようにして科学的の出版物をいくつか出し、それを交換の目的で諸学会へ送り、かくして科学的の図書館を建て度い希望を持っている。この材料を以て、私はすでに大学に於て、考古学博物館の発端ともいうべき小さな部屋を一つ開始した【*】。

[やぶちゃん注:「辰砂」原文“cinnabar”。硫化水銀からなる鉱物で日本では古来「丹(に)」と呼ばれて朱色の顔料や漢方薬の原料として珍重された。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。本邦では旧石器時代に使用された弁柄(べんがら 紅殻とも書く。オランダ語“Bengala”から。酸化第二鉄を主要発色成分とする赤色顔料である酸化鉄赤(Red Iron Oxide)。名称は江戸期にインドのベンガル地方産のものを輸入したことに由来)「べんがら」と名づけられた。)に次いで、縄文中期に土器顔料と使用され始めた(使用開始時期については市毛勲氏の「要旨 日本古代朱の研究」(PDF版)に拠った)。

「全部実物の半分の大きさで描いてある」ここで私の提示している画像は原典の図の2・5倍なので、図246及び251を除いて大きさは実物よりも一回り大きくなっている。注意されたい。図246(底本の画像が一部汚れているため)と図251は、原典確認に使用している“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback MachineにあるPDF版からトリミングして画像補正を加えて示したので(英文図版指示をわざと残した)、モースの言う通り、二分の一の大きさということになる。

「私はすでに大学に於て、考古学博物館の発端ともいうべき小さな部屋を一つ開始した」及び次の注にある「現在大学にある大きな考古学博物館」というのは現在の東京大学総合研究博物館のルーツというよりは、東京大学人類学教室の濫觴に当たる部屋であろうか(現在も相当数の大森貝塚出土品は同教室に現存する)。

 【追記】以下、本書の挿絵に出る二十に及ぶ大森貝塚出土の土器片及び石器片については当然のことながら明治一二(一八七九)年に東京大学理学部紀要第一号として刊行された“Shell Mounds of Omori”(「大森貝塚」)の図版中にも掲載されている(但し、こちら図はモースによるものではなく、一九八三年岩波文庫版近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚」序文によれば、日本人『画工木村氏、石版工松田氏』の手に成るより緻密なものであって、当然、完全には一致はしない)。画像「大森介墟古物編」(現画像の日本語の標題は右から左書き)を視認する限り、以下のようにこれらを同定出来るように私には思われる。一部は「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の各標本ページをリンクさせた(これを管見すると、大森貝塚の出土品はその多くが現存しているものの、必ずしも「大森介墟古物編」で紹介された総ての標本が残っている訳ではないようである)ので御自身でも検証されたい。

 

●図246は 「第一板」PLATE Ⅰ の「二2」(原画像では縦並び。以下同じ)図

 

とほぼ一致する(「大森貝塚」では縦走する二本の模様が中央位置で模写されており、この縦の二紋とダイヤ型で連続した円筒を飾るに紋様の周縁部及び上下に接触するダイヤ頂点の円紋は本図と異なり、黒く描かれている。また下の端の部分には有意な損壊の跡を示すギザギザが一様にはっきりと描かれている。これは以下のキャプションに見るように、実はこの遺物が鉢本体ではなく、何と台附の鉢の台の部分だけが出土したものを上下逆転して描いたものであるとモースは述べる。これは本書の叙述にはなく、誰もがこれを鉢本体だと思うはずである(私もこれを記している今の今までそう思い込んでいた。但し、これがモースによって発掘直後に描かれたデッサンであるとすれば、少なくともこれを描いた時のモースは、この土器を「正立」した「鉢」と認識しており、その「底部」に欠損しているがある特異な「台」を持っていた「鉢」と推理していた可能性が頗る高いのではないかと私は思うのである)。現知見でもこれは正しく、以下の「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の現存するこの標本の現在の写真画像では正しく「正立」している。これはキャプションでモースがわざわざ以下のように書いていることから見ても、画工木村某氏が鉢本体との思い込みで倒立して描いてしまった可能性が高いと考えてよい。以下、当該標本の解説を一九八三年岩波文庫版近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚」から引く(以下同じ。この注を略す)。

   《引用開始》

図2 口縁端(上下逆転. 付鉢の台)厚さ12㎜. 器体厚さ7㎜, 口径100㎜. 黒色, 底はやや上底ぎみで平滑. 紋様を四回反復. 内面に酸化第2鉄のよごれがある.

   《引用終了》

「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-2 参照。そこを見ると、縄文土器後期で寸法は現高で一一センチメートル、台底径(本図の上の大きい方)が一〇・五センチメートルとある。

 

●図247は 「第三板」PLATE Ⅲ の「十六16」図

 

が最も近似する。但し、下部の台の欠損の描き方がかなり違う。思う二モースのそれは底部の台の欠損箇所がよく見えるように、上部はフラットに視認しながらそこだけを前に傾けたようにして破損面を描いているように感じられる(生物標本の模写などではしばしば見られる手法であると思う)。

 

●図248は一見、同一の土器片は見えないが、私は 「第一板」PLATE Ⅰ の「一1」図の高坏状をした土器の上部の一部

 

であると思う。まず「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-2 を参照されたい。右に石膏復元された写真画像、左にモースの報告図が載るが、モースの方の中央やや上にある縄文紋様の帯状の膨らみから上の右辺部が、実はこの土器片なのではなかろうか? 接合させた列断面は必ずしも一致はしないものの、その傾斜角はかなり似ているように思われ、なによりも、以下のキャプションの底の部分についての叙述が、この土器片と同一体であることを物語っているように私には思われるのである。

   《引用開始》

図1 厚さ5-7㎜, 高さ242㎜, 口径268㎜. 上部黒く下部赤みをおびる. 底に網代圧痕.

   《引用終了》

データベースには、縄文後期、口縁から胴部を復元した深鉢とし、現高は二五センチメートル、口径は二六センチメートルとある。

 

 次に図249の同定に移る。右に四個体、左に三個体の全部で七個体の土器片が載るが、便宜上、右を上から1・2・3・4、左を上から5・6・7と振ってそれを番号とする。

 

●図249-1は 「第十二板」PLATE Ⅻ の「十二15」図

 

の取っ手様突起であると思われる。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-2 を参照されたい(但し、現在、この標本は行方不明で、リンク先にはモースの報告図のみが載る)。「大森介墟古物編」のキャプションは、

   《引用開始》

図15 厚さ5㎜. 黒色.

   《引用終了》

とあるだけでそっけないものの、絵は左に正面(と思われる)方向の独特の縄文と縦に粒上の紋様を転々と配する独特のデザインを写した図を、右に側面(と思われる)からの環状になった特異な突起を美事に描いて素晴らしい。岩波文庫「大森貝塚」の関連史料に載る池田次郎訳出(一部省略)の「日本における古代人種の痕跡」(平凡社一九七三年刊「論集日本文化の起源」第五巻の「日本人種・言語学」からの引用)の中に載る挿絵の“Fig. 16.”がやはりこれと同一体と思われ、そこのキャプションでモースはこの土器片について触れており、『図16は突起を環状に作り、木の把手をはめこむことができる』と記している(但し、嵌め込むことができる、のであって、実際に木を嵌め込んでいたかどうかは微妙に留保しなくてはならない。考古遺物の使用法への安易な推測による思い込みは思わぬ落とし穴を作ると私は考えているからである)。

 

●図249-2は 「第九板」PLATE  の「十一11」図

 

であると思われる。似たものは他にもあるが、各部の紋様が殆んど全く一致するものはこれしかない。

   《引用開始》

図11 厚さ8㎜. 暗い肌色. 明らかに浅い平底の鉢の破片.

   《引用終了》

「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-113 を参照。そこには縄文後期とし、深鉢(口縁部) とある。

 

●図249-3は「大森介墟古物編」には載らないが、その紋様から現在、「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-216

 

と見て間違いない(リンク先の現状写真を本図と比較されたい)。そこには縄文晩期の深鉢(口縁~胴部) とある。

 

●図249-4は「大森介墟古物編」には載らない。

かなり似た紋を持つものならば

「第八板」PLATE Ⅷの「六6」図

があるが(「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-93A, 93B の右)、形が全く異なるから別物である(「大森介墟古物編」のそれのキャプションには『厚さ7㎜. 黒色. 粘土が軟いうちに刻みをいれてから円みをつける』とあり、後者当該データには縄文後期の深鉢(口縁部)とある)。「大森貝塚出土標本データベース」に896ある土器片総てを現認してみたが、現在のところ見出し得ない(一件ずつ開いて画像を視認しなくてならず、しかも画像によっては暗く、紋様が見えないものもあり、撮影の配置が異なると判別がなかなか厳しい。また、単破片であったものを接合した可能性もあることから今のところは宝くじを引いているような(宝くじは飲み仲間の集団買いで生涯一度しか買ったことがないが)ものである。この迂遠な調査は続行しようとは思っている)。

 

●図249-5は 「第十四板」PLATE ⅩⅣ の「十三13」図

 

と同定してよいであろう。キャプションは、

   《引用開始》

図13 厚さ8㎜. 赤みがかる.

   《引用終了》

とある。「大森介墟古物編」では上方に側面から見たまさに厚い捩じれた構造が描かれている。これは先に掲げた「日本における古代人種の痕跡」の中に載る挿絵の“Fig. 15.”にも挙げられており、恐らくモース遺愛の形状であったものと私は思っている。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-210 で、縄文後期・深鉢(突起)とある。

 

●図249-6は 「第六板」PLATE Ⅵ の「十五15」図

 

である。キャプションは、

   《引用開始》

図15 厚さ6-7㎜. ひじょうに明るい肌色. 乾燥後, 彫紋.

   《引用終了》

とある。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-76 で、縄文晩期・深鉢(口縁部)とある。

 

●図248-7は 「第六板」PLATE Ⅵ の「二2」図

 

と同定してよいであろう(但し、この図には現存標本にはない右側の胴の部分が描かれており、「大森介墟古物編」では完全な側面図で立体感がなく、首の下の肩の部分はもっと鋭角的に尖っている。但し、その図が尖って見えるのは実は肩の部分から下が図の左右ともに著しく欠損しているためで(以下のリンク先の現存標本の現状写真を参照)、これは本来は本書の絵のように丸みを帯びた壺であったことが分かる。発掘後、本書のスケッチをした後に図の右肩の部分を著しく損壊してしまったのかも知れないし、若しくはモースが想像で壺らしく右肩部分をちょっと附けたして描いた可能性も否定は出来ない)。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-63 で、縄文晩期・壷(口縁~胴部)とある。

 

 次に図250の同定に移る。最上部に一個体、下部右に二体(上は土器、下は石器)、左に二個体の土器片、全部で五個体が載るが、便宜上、一番上のそれを1とし、次に下部右上を2、右下の円筒状の石器を3、下部左上を5、下部左下のプレート状の土板(後述)を6と振ってそれを番号とする。

 

●図250-1は、よく似ているものが 「第九板」PLATE Ⅸ の「二2」図

 

に載るが、「大森介墟古物編」では、向かって左部分の欠損箇所の形が全く異なる点、せり上がった縁の勾配がもっと左右ともに急である点、何より下部の胴部分がもっと残存していて、本書の下部が首相当の箇所になっていてそこに細い横紋が入り、しかもさらにその下の胴部分さえも少し残って左右のその断裂箇所には表面の一部の紋が残っている点で異なってはいる(「大森介墟古物編」では右に側面図が載って壺の首部分であることが分かるように示されている)。従って「大森介墟古物編」に所収しない全く異なる標本である可能性も勿論あるが(現存標本の調査は続行する)、一つは、この図250にこの標本を配するにあたって、このウェーヴが気に入っていたモースが、しかし下部の標本を示したいが故に、本標本の下部分を省略した形で示した可能性を拭えないように思われる(無論、学術的には論外であるが、間違えてほしくないのは本書は辛気臭い学術論文ではなく、モースの随筆集なのである)。一応、キャプションを示しておく。

   《引用開始》

図2 上部厚さ7㎜. 下部厚さ5㎜. 黒色.

   《引用終了》

とある。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-104 で、縄文後期・深鉢(口縁~胴部)とある。

 

●図250-2は「大森介墟古物編」には載らない。似たものが「第四板」PLATE Ⅳ の「六6」図に載るが、全体の形状が異なる(「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-43で縄文後期・深鉢(口縁~胴部)とある)。「第二板」PLATE Ⅱ の「二2」図も似ている。しかもこれを「大森貝塚出土標本データベース」で見ると(標本 BD04-13A, 13B の左片やはり縄文後期・深鉢(口縁~胴部) とある)、備考欄に『当初モース報告の図と比べ一部欠損していたが、今回の調査で欠損部が見つかり、さらに新たな接合も確認された』とあるのはやや気になる。もしかすると、これがばらばらだった時のスケッチである可能性が出てくるからである。これについては実は既に「大森介墟古物編」のこの標本のキャプションに『図2 破片から復原』とある。ともかくも本書のこのスケッチはかなり杜撰で、これでは「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本画像を探すのは片の形によるしかなく、至難の技である(調査は続行する)。

 

●図250-3は 「第十七板」PLATE ⅩⅦ の「八8」図

 

にある溶岩製(先に掲げた「日本における古代人種の痕跡」の中に載る挿絵のキャプションでは同じか同質のものを指して『軟質の火山岩製』と言っている)の石器と見たい。「大森介墟古物編」には『粗製の手斧』とある。このスケッチもあまりに素朴なのだが、上部の断裂部の形状と勾配が非常によく一致している。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVII-8 で、そこには磨製石斧、長五・五センチメートル、幅二・三センチメートル、厚さ一・一センチメートルとある。

 

●図250-4は最も近いと感ずるのが 「第十二板」PLATE Ⅻ の「八8」図

 

で、「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 BD04-167 である。下部の紋様位置がもっと下にしかないが、どうも本書のスケッチは上部の突起や穿孔箇所がいい加減に書かれておりしかも最上部の突起の先端が明らかに省略されていることから、一応、これに同定しておきたい(今後の調査でもっと一致するものが見つかった場合は、訂正する)。

キャプションを示しておく。

   《引用開始》

図2 厚さ7㎜. 黝黒色. 粗い.

   《引用終了》

「黝黒色」は「ユウコクショク」と読むか。青黒い色のこと。

 

●図250-5は 「第十五板」PLATE ⅩⅤ の「四4」図の三方図の右の図

 

に間違いない。モースはこれを「土板」と呼んでいる。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」(これは土製品・土偶・石器・骨角器・貝(土器以外)標本一覧に分類されている)にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XV-4 である。そのデータによれば寸法は縦五・五センチメートル・横三センチメートル・厚さ2センチメートルである。モースは「大森貝塚」で、同所ではこの不思議な土板が現在までに五個発見されていると書き、これらは極めて類例のないもので、これと似たものは唯一一八四一年にオハイオ州シンシナティの塚で発見された岩板のみであると述べている。そしてこれらの土板に共通する性質として、

・他の多くの土器類よりも遙かに良質なきめ細かい粘土製であること

・どれも煉瓦色などの有意に明るい色をしていて着色した痕跡はないこと

・どれも装飾が念入りで巧みであること(製法は土器同様に乾いた粘土を焼成前に削り出したか細工したもの)

・そうした堅い作りの良製品の紋様の多くが何故か摩耗して消えかかっていて且つ総て割れている(完品がない)こと

などを挙げている。モースも不思議だと述べている総てが割れている――可能性として人為的に割られている――というこの点にこそ、私は強い呪具としてこの土板を考え得るヒントが隠されているように思っている。なお、土板は現在でも用途不明とされ、神の依り代である巫(かむなき/かんなぎ:神の憑依や神と交信をするためにシャーマン)などが所持した祭儀用具、何らかの呪符、よりアクセサリー性の強い御守り(これはモースが「大森貝塚」で吊り下げるための突起・環・孔といった工夫が一例にしか認められないことを理由に問題外として否定している)・軽量の錘(モースは否定的)・貨幣(同じくモースは大きさに変化がなく、大き過ぎるとして否定)などと多様な説が出されている。なお、モースは仮説として、

・第一案 的に向けて抛ったり投げたりする輪投げに似たゲームに用いた遊具用の駒説

・第二案 携行された権威を示すところのシンボル説

・第三案 携帯された護符若しくはシャーマンの呪(まじな)い札説

を挙げている。ハンドル・ネーム JWF(Johmon Ware Freak) 氏のサイト「縄文土器 これこそ世界遺産だ!」の縄文のID 土板・石板」で多様なそれを見られる。そこに示されてあるように土板は主に関東から、石板は主に東北から出土する縄文後期から晩期にかけての特異な遺物で、紋様のみのもの・人面を持つもの・手形や足形を捺したものなどがある。因みに私は特に実際の子どもの手足の型押しをした最後のものにかねてより強い興味を抱いている(恐らくは主に東北から北海道で出土しているはずである)。数少ない研究によれば、それは容易に想起出来るところの死んだ子の手足を押しつけたとも思われるものもある一方、自立的に立ったり押しつけたりしたと思われるものなどもあって、死んだ子への鎮魂の意味以外にも、もしかするとこれには、健康や長寿を願うためのもっとポジティヴな呪言的意味が隠されている可能性もあって、関心は尽きないのである。モースがこの手足形押しの土板を見たら、どんなにか激しく驚き、わくわくしたことであろう。モースとは、そういう意味で素晴らしい先生であることは疑いがないのである。

 

 次に図251の骨器(獣骨製)及び角器(鹿角製)の同定に移る。全部で四個体、上部に上下に個体、下部右に上下二個体、下部左に一個体載るが、便宜上、右を上から1・2・3・4、左を上から5・6・7と振ってそれを番号とする。

 

●図251-1は 「第十六板」PLATE ⅩⅥ の「七7」又は「八8」 の孰れかであるが、私は「八8」に同定

 

したい。これらは「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」(これは土製品・土偶・石器・骨角器・貝(土器以外)標本一覧に分類されている)にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVI-7 及び XVI-8 で、「大森貝塚」のキャプションは孰れも『鹿角製の突き錐』とする。並んだ図からは、前者は凡そ前者は行方不明でモースの報告図のみが残るが、双方のモースの図を比べて見ると実物は(図の編者に拠る縮小注記を元にしたおおまかな換算なので正確ではないが)二四ミリメートル前後、後者はそれより長くて六〇ミリメートル前後であるはずである(現物が残る後者のデータも六三(長)×五(幅)×五(厚)ミリメートルとあるからこの換算にほぼ等しい)。本書では学術論文ではないから縮尺をモースは述べていないのだが、総てが同一縮尺で描かれていると考えると(学者であるモースなら少なくともこの図内では必ずそうしたはずである)、他の標本群との比較から長い方の「八8」でなくてはおかしいのである。具体的には同一プレート内ではほぼ縮尺は総て統一されている「大森介墟古物編」の「第十六板 PLATE ⅩⅥ」の中にあって「七7」は図251-5の同定候補(後述)である「七7」のすぐ左に描かれてある「五5」の全長より明らかに短いのに、「八8」はその図251-5より有意に長いからである。本書の図251-1はご覧の通り、物差しを当てずとも図251-5より長いのである。ただ翻って、リンク先のモースの図を見ると、何やらん、先端の影の書き方は、一見、XVI-7 の方がぴったりくるようにも見えるのだが、ところが、XVI-8 現状写真を見ると嘘みたいにちゃんと先端部に陰り(摩耗したか欠けたか変色したか)が見えるのである。この同定にはかなり自信があるつもりである。

 

●図251-2は 「第十六板」PLATE ⅩⅥ の「一1」

 

である。特徴的で大きい。キャプションは、

   《引用開始》

図1 鹿角の先. 使用による損耗いちじるしい. ひんぱんな使用の痕跡をのこす枝角の破片は, この貝塚によくみられる.

   《引用終了》

とある。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVI-1 である。データにはただ獣骨とあり、寸法は一三四 (長)×四二(幅)×二一(厚)ミリメートルとあるが、リンク先の現状写真でも一目瞭然、備考の通り、『モース報告の図と比べて先端部及び背面の一部が欠損している』。

 

●図251-3は私は敢えて本文のモースの「骨及び鹿角でつくった器」に謂いに異議を唱えて 「第十七板」PLATE ⅩⅦ の「七7」図

 

の石器ではないかと考えており、「大森介墟古物編」のキャプションには『滑石質の板岩』とあるものである。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVII-7 である。データには、石棒・石器・長さ八・五センチメートル、幅三・〇センチメートル、厚さ二・〇センチメートルとある。この同定に関しては大方の御批判を俟つ。

 

●図251-4は 「第十六板」PLATE ⅩⅥ の「十九19」

 

である。キャプションには他の六標本と合わせて『鹿角製の用途不明の各種の道具』とあるが、私は一見、陽物崇拝のシンボルと見た。私が猥褻だからと一蹴される向きとは――もうお付き合いする気は毛頭ないと言っておく。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVI-1 である。データには、銛頭/シカ (角)・骨角器・六〇(長)×一一(幅)×七(厚)ミリメートルとある。

 

●図251-5は 「第十六板」PLATE ⅩⅥ の「五5」

 

である。キャプションは、『両端切断の鹿角片先』とあるだけである。「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の標本 XVI-1 である。データには、シカ (角)・獣骨・五五 (長)×二九(幅)×二五(厚)ミリメートルとある。]

 

 

* 現在大学にある大きな考古学博物館や、すでに数多の巻数をかさねた刊行物の発端は、実にこれなのである。



*   *   *

【追記:藪野直史】以上は、2014年1月20日に大森貝塚出土品の同定のために大幅に注を増補した。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 17 鋤と鍬について / 第九章 了

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図―244

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図―245

 図244では、二種の鋤(すき)と耨(くわ)とが示してある。断裁端が僅か内側に彎曲しているので、地面を掘る時に草の板を確実に切断するが、我々が使用する鋤や耨は、そこが反対にまるくなっているから、ともすると板が横にすべって了う。鋤の木の柄は、我国の物のように鋲で止めはせず、金属部の溝の中へ入り込んでいる。図245は道路で使用する便利な耨の一種を示す。柄は長さ約三フィートの、軽くて丈夫な竹で、籠細工の胴体は鉉(つる)で柄とつらなり、鉄の縁がついている。労働者は掘ったり搔いたりする時、鉉をしっかりと希望の角度に押え、そして塵埃のかたまりは、鉉から手を離すと同時に、ドサンと落ちる。籠細工だから非常に軽い。
[やぶちゃん注:「三フィート」約91センチメートル。]



以上を持って「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事」を終了した。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 16 第一回内国勧業博覧会の超絶技巧の工芸品群

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図―238

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図―239

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図―240

 博覧会が開かれてから、私は都合七回見に行き、毎回僅かではあるが、写生をして来ることが出来た。図238は、娘が髪を結っている所である。これは等身大で、木から高浮彫で刻み出し、纏衣(きもの)は着色してあって、極めて優雅であった。群衆のまん中で写生をするのは困難であったが、その群衆とても米国の同様な博覧会群衆にくらべれば、平穏な海である。花、或は植木を入れる物(図239)は、器用な細工であるが、製作には多少の困難が伴う。一番下の桶を構成する桶板の中の三枚が延びて、上にある三個の小さい桶の構造中に入り込み、これ等の三個からまた桶板が一枚ずつ延びて、同じ大さの桶を上方につくっている。木材がまことに白くて清潔なので、この作品は完全そのものであった。図240は花を生ける桶である。前者に比して遙かに小さいが、構造の思いつきは同じである。高さは二フィート位で、この上もなく華奢(きゃしゃ)に出来ていた。右側にある小さい桶は楕円形である。また磁器でつくった長さすくなくとも三フィートの植木鉢の、側面に藍色で横に松を措いた物に、倭生の松樹を植えたのは目立って見えた(図241)。この会の一隅には、私には全く目新しい、不思議な物が展観してあった。大きな竹の枠に、二枚の非常に細い網かモスリンか、とにかく向うが透いて見える一種の布が張ってあった。これ等は一インチばかり離れていて、一枚には暗い木立の前景と、遠方の丘の中景とが描いてあり、他の一枚には、あの雄大な富士の、力強い写生が描いてある。これは、網をすかすことによって遠く見えるようにしてあるのだが、その幻惑は完全であった。かかる驚くべき、額縁入りの装飾品の一つを、私は写生することが出来たが、それは図242である。これは腐った虫喰の杉の底部につくられ、木理が明かに見え、実によく出来ていた。長さは三フィート半で、濃紅色の額縁に入っていた。模様はある木の幹か、或は恐らく葡萄の葉だけを見せている。これは竹で出来ていて、緑色をしているが、多分これは漆を塗ったのであろう。帆だけを額縁の上に出した三肢の船は、みな浮彫細工で、それぞれ骨か象牙と、真珠と、青銅或は青銅漆かで出来ていた。帆は細い布をかがってつくるのであるが、そのかがり目が、実にこまかく彫ってあり、全体の意匠が、日本の芸術家の意想をよく現していた。また細工のこまかい漆塗りの簞笥(たんす)もあった。これには引出が三つあり、意匠としては最も不思議な主題、即ち象牙で彫った車輪が、渦を巻いて流れる水に、半分沈んでいる、というものがついている(図243)。写生図で見える通り、車輪は完全に丸くはない。これは、水の流れが甚だ急であるとの感を強める為である。車輪の轂(こしき)は、引出しを引張り出すに用いる鈕(つまみ)になっているが、簞笥の引出しの装飾に、ひん曲った車輪が半分水に浸ったのを使用するというような事は、日本人ならでは誰が思いつこうか? 世界をあげて、日本の装飾芸術に夢中になるのも当然である。ここで私は書かねばならぬが、日本の俗伝や神話に就ては、私はまだ何も学んでいない。私は現代のものに心を奪われていて、過去を振返る余裕が無いのであるが、我々にとって、かくも神秘的に見える装飾の主題の、全部とは行かずも多くは、疑もなく、日本のよく知られた物語か神話かに関連しているのであろう。

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図―241

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図―242

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図―243

[やぶちゃん注:今、何処であったか思い出せないのだが、この流れに沈む車輪の図柄を持ったこの工芸品に非常によく似たものを実見したことがある気がする。
「纏衣(きもの)」原文は“the drapery”で、これは主にイギリスで服地・呉服のことを指す単語である。
「二フィート位」約61センチメートル。
「三フィート」約91センチメートル。
「向うが透いて見える一種の布」ごく薄い紗であろうか。
「一インチ」2・54センチメートル。
「三フィート半」1メートル60センチ強。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 15 学生たち

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図―235


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図―236

 図235は、私の特別学生の一人が、標本を選りわけている所の写生図である。頭髪がモジャキジャしているのは、日本人が理髪という簡単で衛生的な方法を採用する迄は、頭のてっぺんを剃り、丁髷(ちょんまげ)をつけていた結果なのである。何年も何年も剃った後なので、髪毛は容易に分れず、また適当に横にすることも出来ない。私は、文章では示すことが困難な日本の衣服を見せるために、この写生をした。これでも見えるように、袂は半分縫ってあるが、これが彼の持つ唯一のポケットなので、両方の袂に一つずつある。彼は外国風の下着を着ているが、これが無ければ腕はむき出しである。柏木氏の話によると、三百年前の日本人は我々と同じような、せまい袖を着ていたし、二百年前でさえも、袖は非常にせまかったそうである。スカートは、実のところ、横でひらいた、ダブダブなズボンで、後には直立する固い部分があり、サムライだけがこれを着る権利を持っている。サムライの娘たちも、学校へ行く時は、いく分かの尊敬を受けるために、これを身につける。図236と図237とは、予備校へ行っている少年たちを写生したものである。彼等はここで、大学へ入る前に英語をならう。私はよく実験室の窓から彼等を見るが、まことに眉目(みめ)麗しく雄々しい連中で、挙動は優雅で丁寧であり、如何にも親切そうにこちらを見るので、即座に同情と愛情とを持つようになる。悪意、軽蔑、擯斥等の表情は見受けないような気がする。私は日本人がかかる表情を持っていないというのではない。只、私はそれ等を見たことが無いのである。

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図―237

[やぶちゃん注:「擯斥」「ひんせき」と読む。退けること。除け者にすること。排斥。原文は“disdain” 軽視・指弾・軽蔑・潔し・侮蔑などの意を持つ。しかし、この箇所の三つの単語は“malice, contempt, or disdain”で、表情の差を出そうとするなら、“malice”は「悪意」よりは「害意」又は「恨み」が、“contempt”は「軽蔑」より「侮辱」又はこの「擯斥」を用い、“disdain”を「軽蔑」「侮蔑」とした方が――害意、擯斥、軽蔑等の表情は見受けないような気がする――よいように思われる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 14 祭囃子?

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図―234

 我々が上野のお寺へ行った日には、お寺へ通じる道に沿っていくつかの舞台が建てられ、その上では男達が大小の太鼓と、鈴と、横笛とで音楽を奏していた。彼等はすこしも疲れたらしい様子を見せず、何時問でも続けてやる。私は、我々が音楽と思う所のものの曲調を捕えようとして、一生懸命に耳を煩けたが、結局それは無駄で、私は絶望して断念した。私には音楽が分らなかったばかりでなく、舞台を立てて一体何をやっているのか、そのこと全体も同様に分らなかった。図234はかかる音楽家達の外見を示している。一人の男は、頭の上に、ボネットに似たように畳んだタオルをのせている。
[やぶちゃん注:これは先の九月十七日の上野東照宮の神嘗祭のシーンであるが、これらはその神嘗祭の、民間の祭囃子であろうか? 識者の御教授を乞うものである。
「ボネット」原文“bonnet”。底本では直下に石川氏による『〔前部がつば広の婦人帽〕』という割注が入る。これは吉原被(よしわらかぶ)りのこと。手拭いのかぶり方の一つで、二つ折りにした手拭いを頭にのせ、その両端を髷(まげ)の後ろで結んだもの。古くは遊里の芸人や物売りなどが多く用いた。図234の左端の鉦らしきものを叩いている男性の被り物である。]

耳囊 卷之七 天理に其罪不遁事

 

 天理に其罪不遁事

 

 築土白銀町(つくどしろがねちやう)に多葉粉や次助と言(いへ)る者、年比(としのころ)三十歲餘にて五六年以前より追々に仕出し、近比は切子(きりこ)の三四人も差置(さしおき)て夫婦暮しにてありしが、文化二年の比、次助いさゝか煩ふて身まかりしに、妻も程なく果て其鄽(みせ)も仕舞(しまひ)、家財は店請(たなうけ)の方へ引取(ひきとり)し由。同町に三四郞といふ同在所の者なるが咄しける。右次助は勢州の者にて、三四郞とは同所の者也。十年以前友達と喧嘩をして相手へ疵付(きずつけ)、藤堂和泉守領分ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、領主にて入牢(じゆらう)なしけるが、吟味中内濟(ないさい)とか事濟(すみ)て、次助は領分拂ひに成りしが、其時節相手は相果たり。領分拂(はらひ)に不成(ならず)ば下死人(げしにん)にも成(なる)しが、仕合成(しあはせな)る者と人の噂せし事也。然ども理不遁哉(のがれざるや)、夫婦共同時同樣に相果(はて)、其跡は望人もなきと語りぬ。

 

□やぶちゃん注


○前項連関:特になし。

・「天理に其罪不遁事」「てんりにそのつみのがれざること」と読む。

・「築土白銀町」旧新宿津久戸町から白銀町、現在の新宿区白銀町附近。現在は白銀町の北東が筑土八幡町で、ここには築土八幡・築土明神社地があった。

・「切子」煙草の葉を刻む職人。

・「店請」店請け人。店子(借家人)の身元保証人。

・「藤堂和泉守」明和七(一七七〇)年に第九代藩主となった藤堂高嶷(たかさと/たかさど 延享三(一七四六)年~文化三(一八〇六)年)の通称。

・「内濟」表沙汰にせずに内々で事を済ませること。

・「領分拂ひ」津藩領外への追放。

・「下死人」解死人又は下手人とも書き、「下手人(げしゅにん)」の音変化したもの。「下手」は物事に手を下す意で、原義は直接手を下して人を殺した者、殺人犯を指す。そこから、江戸時代に庶民に適用された斬首刑をも指すようになった。当時の死刑の中では軽いもので、財産の没収などは伴わなかった。

・「望人」ママ。後を継ぐことを望む人の謂いか。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『弔ふ人』とあり、書写の際、判読を誤ったものののようにも思える。訳はバークレー校版を採った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 天理から罪は遁れられぬという事

 

 築土白銀町(つくどしろがねちょう)に、煙草屋次助と申す者、年の頃、三十歳余りで、五六年以前より追々繁昌し始め、近頃では切子(きりこ)の三、四人も雇い入れて夫婦で暮しして御座ったが、文化二年の頃、次助、聊か患ろうて身罷ったところが、妻もほどのう相い果てて、そのお店(たな)も仕舞い、家財も店請(たなうけ)の方(かた)が引き取った由。

 さて以下は、同町に住まう三四郎と申す――次助とは同じ在所の出で御座った――者の話である。

 

……かの次助は伊勢国の出で、我らも同所の生まれで御座いましたによって、よう知っておりまする。

 次助は十年以前、在所にて友達と喧嘩をし、相手を傷つけて、藤堂和泉守高嶷(たかさと)殿の御領分で御座いましたゆえ、領主支配の牢獄に入牢(じゅろう)と相い成ったので御座いますが、ご吟味の最中に、何故か内済(ないさい)とかでこと済み、軽(かろ
き領分払いで済んで御座いましたが、丁度、次助が追放と相い成りました、その直後、喧嘩で傷つけた相手は結局、その傷が元で相い果て御座いました。在所にては、

「……あのまま……領分払いにならなんだらな……今頃、人を殺(あや)めたかどで、下死人(げしにん)のお裁きが下ったに違いないわ。……よおけ、幸せ者(もん)やなぁ……」

と皆、噂致いてもので御座いました。……

……しかし天理は遁れざるものなの御座いましょうか……かくも夫婦(めおと)揃うてて殆ど同時同様に……これ、相い果ててしまい……その跡は弔(とむろ)う人とても御座いませぬ……」

 

鬼城句集 秋之部 ずず玉

ずゝ玉   ずゝ玉を植えて門前百姓かな

 

[やぶちゃん注:「ずゝ玉」私の好きな懐かしいイネ目イネ科ジュズダマ Coix lacryma-jobi。水辺に生育する大型のイネ科植物の一種で熱帯アジア原産。一年草で、背丈は一メートルほどになる。根元で枝分かれした多数の茎が束になり、茎の先の方まで葉をつける。葉は幅が広い線形でトウモロコシなどに似ている。花は茎の先の方の葉の付け根にそれぞれ多数つき、葉鞘から顔を出した花茎の先端に丸い雌花が、その先から雄花の束が伸びる。雌花は熟すると、表面が非常に固くなり、黒くなって表面に光沢がある。熟した実は根元から外れてそのまま落ちる(これは正しくは「実」ではない。この表面は実は苞葉の鞘が変化したもの、花序の基部についた雌花(雌小穂)をその基部にある苞葉の鞘が包み、それが硬化したものである)。脱落した実は乾燥させれば長くその色と形を保つので、古くは数珠を作るのに使われた。中心に花軸が通る穴が空いているため糸を通すのも容易である。古来より「じゅずだま」のほか「つしだま」とも呼ばれ、花環同様にネックレスや腕輪など、秋から冬の女子の野遊びとして作られた。なお、健康茶などで知られるハトムギ(Coix lacryma-jobi var. ma-yuen)はジュズダマの栽培種で、全体がやや大柄であること、花序が垂れ下がること、実がそれほど固くならないことが原種との相違点である(以上はウィキジュズダマに拠る)。

「門前百姓」江戸時代、祭儀や戦乱等の際に寺院に協力する義務を負う一方で、通常の年貢が免除された大寺院の門前に住した百姓。「お布施以外門前百姓採り放題」などと呼ばれた。本句もちゃっかり、ジュズダマを数珠の代わりに、というニュアンスをもたせた俳味を利かせているように思われる。]

2013/11/24

臨時休業

からうじて世間的な自由を得たる以上 僕はこれより 畫面の夢魔に「さよなら」をし 半日 鎌倉を一人の美麗なる十八の少女――教へ子夫婦の娘なり――と散策せんとす 惡しからず 心朽窩主人敬白

母 萩原朔太郎

       母

 

 今日の家庭に於て、母は完全の「他人」である。その良人とも、その子供とも、彼等は精神上に別居してゐる。そこで彼等は、その獨りぼつち(アインザーム)を感ずることから(即ち一種の友情からして)しばしば子供等と共感し、子供等の父に叛逆する。一つの家族聯盟から、いつも父だけが取り殘される。父は皆に憎まれる。しかしながら父だけが、今日に於て唯一の責任感を持つてるモラリストである。彼等は自己の敗戰を意識しながら、しかも家族制度の責任者として、人倫の最後の要塞(とりで)を守らうとして苦戰してゐる。父の戰さは悲壯である。

 

[やぶちゃん注:『改造』第十八巻第十一号・昭和一一(一九三六)年十一月号に掲載。太字「父は皆に憎まれる」は底本では傍点「◎」。傍点後、昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」に所収された。その際、「戰さ」は「戰」に改められた。

「アインザーム」“einsam”(ドイツ語・形容詞)独りの、孤独な、淋しい、人里離れた、辺鄙な。因みに名詞形ならば“einsamkeit”(アインザームカイト)。

 「母」という標題を掲げながら、朔太郎得意の「父は永遠に悲壮である」ことを語り切るという内容の齟齬が、同時に朔太郎の内実に於ける父なるもの乃至は母なるもののトラウマ(心傷)とスティグマ(聖痕)を見透すことが出来、彼の芥川龍之介に比して如何にも退屈なものが多いアフォリズムの中でも逆に目を引くものだと私は思う。]

鬼城句集 秋之部 コスモス

コスモス  コスモスの花に蚊帳乾す田家かな

 

[やぶちゃん注:「田家」「でんか」と読む。田舎の家。いなかや。

  花幻(はなまぼろし)秋櫻(コスモス)混沌(カオス)母逝けり

 拙句。]

O' Helga Natt - Håkan Hagegård

2013/11/23

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 13 モース先生、芸者遊びに辟易する / 「ネイチャー」誌への大森貝塚初期発掘報告論文の事

 一人の友人と共に、私は三人の日本の舞妓を見た。この三人は前から約束しておいたので、一人はまったく美しく、他の二人は非常に不器量だった。我々は襖を外して二間を打通した部屋を占めた。蠟燭が娘たちに光を投げるように塩梅されて置かれ、二人の娘がギターに似た物を鳴らし続ける間に、一人が舞踊をした。踊り手は、単調な有様で歩きまわり、身体をゆすり、頭、腕、脚はいろいろな形をした。舞踊には各名前がついているらしく、身振は、舟を漕ぐこと、花をつむこと等を示すのを目的としている。各種の態度に伴う可く、扇子はねじられたり、開かれたり、閉じられたりした。衣服は美麗な縞の縮緬(ちりめん)である。これをやっている最中に、この家の女中が、我々三人のために、ゆで玉子を十六持って来、続いて、十二人の腹のすいた人々にでも充分である位の、魚、海老(えび)、菓子、その他を持って来た。我々は晩飯を腹一杯食ったばかりなので、勿論何も食うことが出来なかった。そして私は内心、やる事がいくらもあって時間が足りぬ位なのに、こういう風にして大切な刻々を失うことを思って坤吟した。それで、この見世物が終った時にはうれしかった。もっとも、人頬学的見地からすれば、この展覧会は甚だ興味があった。
[やぶちゃん注:「日本の舞妓」原文“Japanese dancing girls”。
「縮緬」原文“crape”。
「もっとも、人頬学的見地からすれば、この展覧会は甚だ興味があった。」原文は“though ethnologically the exhibition was very interesting.”。モース先生、ちょっと意地悪。
 この後、底本・原本ともに一行空けがある。前の箇所もそうだが、どうもこれらは、当時の日記からほぼそのままに引き写したという感じを読者に示すものであるらしい。]

 九月二十二日。今日と昨日は、大森の貝塚のことを書き、そこで発見した陶器の絵を書くのに大勉強をした。この辺には、参考書が至ってすくないので、科学的の性格のものを書くのに困難を感じる。
[やぶちゃん注:ということは、“前の段落注で示した投稿(E.S.Morse, Nature, Vol.17, p.89 (1877))は、まさにこのような状況によって実際にはクレジットの翌日以降に脱稿したことが分かる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 12 青果市場にて

 九月二十一日。市場は追々果物で一杯になって来る。柿の一種で、鮮紅色をしたのは美味である。葡萄も熟して来る。梨は、見た所未熟だが、常緑木(ときわぎ)の葉を敷いた洗い桶の中に、三角形に積まれて奇麗に見える(図233)。市場にあるものは、すべて奇麗で、趣味深く陳列してある。実に完全に洗いこするので、葱(ねぎ)は輝き、蕪(かぶ)は雪のように白い。この国の市場を見た人は、米国の市場へ持って来られる品物の状態を、忘れることが出来ない。

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図―233

[やぶちゃん注:「九月二十一日」金曜日。なお、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは未だ二回のプレ発掘であったが、この日附で『イギリスで出版されている世界的に著名な科学雑誌『ネイチャー』にいち早く投稿、石器が少ないとの指摘を含めて、それまでの成果を報告している』とある。]

鬼城句集 秋之部 秋大根

秋大根   ひげなくて色の白さや秋大根

[やぶちゃん注:「秋大根」晩夏から初秋に種を播き、晩秋から初冬にかけて収穫する大根で、品質・収量ともによい。本邦産のダイコン(双子葉植物綱ビワモドキ亜綱フウチョウソウ目アブラナ科ダイコン Raphanus sativus var. longipinnatus)の品種には春大根・夏大根・秋大根・冬大根と季節に合わせた品種があり、前二者は辛みが強く、後二者は甘みが増す。それぞれの品種には以下のような系統がある。

・春大根~亀戸系・二年子系(二年子・時無し・若春)

・夏大根~美濃早生系

・秋大根~宮重系(宮重総太・丸尻)・練馬丸尻(秋づまり・大倉・高倉)

・冬大根~練馬中太系(都・三浦・新三浦)

 参考にした「金沢市中央卸売市場」公式サイトの「青果雑学及びウィキの「ダイコン」に拠れば、原産地は地中海地方や中東と考えられ、古代エジプト(紀元前二二〇〇年)で今のハツカダイコン(Raphanus sativus)に近いものがピラミッド建設の労働者の食料とされていたのが最古の栽培記録とされ、その後、ユーラシアの各地へ伝わった。日本には中国から弥生時代には伝わっており、「古事記」『古事記』の仁徳天皇の歌垣に(歌謡番号五二。引用は角川文庫武田祐吉訳注版を用いた)、

 つぎねふ 山背女(やましろめ)の

 木鍬(こくは)持ち 打ちし大根(おほね)

 根白(ねじろ)の白腕(しろただむき)

 纏(ま)かずけばこそ 知らずとも言はめ


と既に女性の美しい白い腕に譬えられている(大根を「だいこん」と発音するようになったのは室町中期でそれまではこの「おほね」が呼称であった)。平安時代中期の「和名類聚抄」巻十七菜蔬部には、園菜類として「於保禰(おほね)」があげられている。ちなみにハマダイコン(Raphanus sativus var. longipinnatus)またはノダイコン(ダイコンの野生種とさえるが前者ハマダイコンと同種ともする)と見られる古保禰(こほね)も栽培され、現在のカイワレダイコン(穎割れ大根・貝割れ大根:ダイコンの発芽直後の胚軸と子葉を食用とするもの)として用いられていた。江戸時代には関東の江戸近郊である板橋・練馬・浦和・三浦半島辺りが特産地となり、その中で練馬大根は特に有名であった。本邦では古来から、貴重な米を補うために主食の分野にまで大根が進出しており、明治後期の日本人は現在の三倍の量の大根を摂取していたとされる。当時は「食べる薬」として重視した野菜でもあり、現在でも作付面積・収穫量・消費量ともに世界第一位である。鬼城の句は言わば、「古事記」を濫觴とする女性性のシンボルとしてうまく諧謔化していると言える。]

2013/11/22

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 11 日本の祭り

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図―230
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図―231

 今夜、何かの祭礼がある。私は一時間あまりも往来に立って、特に一時的に建設された舞台の上で行われる無言劇を、陽気に見ている群衆を見た。これを楽んでいる問に、色の淡い提灯を持った子供達が車を二台、引張って来た。車は、乱暴に板でつくり上げた粗末な二輪車で、子供ならではやらぬ調子で太鼓を叩き、叫び、笑う子供達で一杯つまっていた。その上部の枠組は、紙の人形、色布、沢山の提灯(ちょうちん)等で、念入りに装飾してあった。車が人波にもまれて過ぎ行く時、私は辛じて、その外見の概念丈を得ることが出来た(図230)。大人も数名、車をしっかりさせる為か、方向をつける為かについて行った。子供が蟻のように群れ、人が皆笑い叫んでいる光景は、まことに爽快であった。日本はたしかに子供の天国である。そして、うれしいことには、この種の集りのどれでも、また如何なる時にでも、大人が一緒になって遊ぶ。小さな子供も、提灯で小さな車をかざり立て、大きな車の真似をしてそれを町中引き廻し、そして彼等のマツリ、即ち祭礼をする。図231は、子供がマツリ車をつくろうとした企てを写生したものであるが、彼等はこれで、あたかも大きな車を引いているのと同様、うれしがっていた。竹竿からさがっている提灯は、非常に奇麗な色の紙で出来ていて、この車を引いて廻ると、すべての物が踊り、そしてビョコピョコ動いた。また、先端に紙を切りぬいてつくつた大きな蝶々をつけた、長い竹竿を持った子供もいた。子供が風に向って走ると、蝶はへらへらするように出来ている(図232)。

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図―232

[やぶちゃん注:先の神嘗祭(九月十七日)と次の段の冒頭、「九月二十一日」に挟まれていることが一つのヒントになる。私は祭りが苦手(好きでない。そういう人間も世の中にはいるとごろうじろ)ので如何ともし難く、ネット上の情報から類推するしかないのであるが、まず、冒頭でモースが「私は一時間あまりも往来に立って……群衆を見た」とあることから、宿舎である加賀屋敷(東大敷地内)から程遠くない位置であると推理出来る。そこで本郷周辺の祭礼を調べて見ると、この日時で、山車(だし)が出る(それも子供用のものが出る以上は、本格的な山車が出る)という大きな祭りは、東京大学の敷地北に位置する根津神社の、江戸三大祭の一つとされる九月例大祭神賑(しんしん/かみにぎわい)行事 ではないかと推理した。現在、この祭礼は通常、九月十七日から十八日にかけて行われてもいるからである(明治十年にこの時期に行っていたかどうかは確認出来ない)。私の推理が間違っているならば、祭り好きのお方は直にお分かりになるであろう。ご連絡をお待ち申し上げる。
 なお、この後に一行空けがある。原文でも同様。]

耳囊 卷之七 夢中鼠を吞事

 

 夢中鼠を吞事 

 

 文化三年の夏の比(ころ)、番町邊布施金藏成よし、御番衆晝寢して足腰を小僧にもませ、とろとろと眠りし夢に、魂(たましひ)口より出ると見て大きに驚き、つかみ捕へて口へ押込呑(おしこみのみむ)と思ひしが、咽喉(のど)のあたりかきさばく如く甚(はなはだ)苦るしければ、人を呼(よび)しに下女抔來り、いかゞなし給ふやとさゞめきしに、湯を乞(こひ)、漸く落付し樣子ゆへ家内、如何なし給ふやと尋(たづね)ければ、かくかくの夢を見て大きにくるしみしに、去(さ)るにても小僧は如何なしけるやと叱り尋ければ、小僧は次の間に住居(すみゐ)たりける故、いかなる事哉(や)と尋ければ、人より南きん鼠を貰(もらひ)寵愛せしに、旦那の腰を打寢給ふ故、側にて取出し放し慰(なぐさめ)し處、旦那枕元へ右鼠至りしを、無悲に旦那とらへて吞み給ひぬゆへ歎く由申(まうし)けるにぞ。扨は魂と思ひ吞(のみ)しは鼠なるか、いづれも驚(おどろき)、一笑なしぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:異類奇譚(こちらは寧ろ動物ご難の珍譚であるが)で軽く関連。――「夢中」で鼠を呑む――この標題は洒落ででもあるだろう。

 

・「文化三年の夏」鈴木棠三氏が本「卷之七」の執筆推定下限を文化三(一八〇六)年夏とする根拠の一つ。

 

・「御番衆」ここは広義の武家に於いて宿直警固などに当たる武士。

 

・「小僧」雑用に使役するために雇った少年。

 

・「南きん鼠」南京鼠。哺乳綱ネズミ目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミMus musculus 。参照したウィキハツカネズミによれば、本邦では江戸時代から愛玩動物として『白黒まだらのハツカネズミが飼われていた。この変種は日本国内では姿を消してしまったが、ヨーロッパでは「ジャパニーズ」と呼ばれる小型のまだらマウスがペットとして飼われており、DNA調査の結果、これが日本から渡ったハツカネズミの子孫であることがわかった。現在は日本でも再び飼われるようになっている』とある。体色は変異に富み、白色・灰色・褐色・黒色とあるが、辞書で「南京鼠」を引くと、ハツカネズミの飼育用白変種で実験用・愛玩用とある。ここはやはり「こゝろ」の先生ではないが、「純白でなくっちゃ」。

 

・「無悲に」底本には右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『むざんにも』(無惨にも)とする。こちらで訳した。

 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 夢中で鼠を呑む事 

 

 文化三年の夏の頃、番町辺りに住もう布施金蔵(ふせきんぞう)とか申す者の話。

 

 御番士の一人が、当直(とのい)明けなればとて、昼寝をし、足腰を小僧に揉ませ、とろとろと眠りかけたその夢に……

 

……魂(たましい)が口より出づると見えた……されば……夢中にあって大いに驚き……無我夢中で摑み捕え……やっとのこと、口の中へと押し込んで……ゴックン!……と呑んだ……

 

……と思うたら――咽喉(のんど)の辺り――何やらん、内側より出でんとして掻き毟る如く!――以ての外に苦るしゅう御座った……

 

と、ここで目が醒めて御座ったれど、いっかな、咽喉(のんど)の、

 

――グワッフ! グワッフ! ググ! グワッフ!

 

として、一向に治まらざるによって、人を呼んだところが、下女なんどの参って、

 

「如何なされましたかッ?!」

 

と訊ぬるも、兎も角も声も出でず、慌てうろたうるばかり。

 

 やっと御番士の湯を乞う手真似に合点致いて、下女がすぐに白湯(さゆ)を呑ませたところ、漸く落ち付いて御座った様子なれば、家内、集まって参った他の家士ら、

 

「……一体全体、如何なされた?」

 

と質いたところ、

 

「……い、いや、もうかくかくの夢を見申し、いや、大きに苦しみまして、の……いや……それにしても……我らの傍におったはずの小僧は……これ、さて……何処にどうしておったものかッ?……」

 

と、どなり散らして捜いたところが、小僧はすぐ次の間にちんまりと坐って、何やらん、しくしくと泣いて御座ったゆえ、

 

「如何が致いたのじゃッ?!」

 

と糺いたところが、

 

「……先(せん)にさるお人より……南京鼠を貰(もろ)うて可愛がっておりましたに……旦那さまのお腰をお揉み申しておりますうち、お眠りになられたゆえ……側に鼠を取り出だして放っては遊んでおました……ところが……旦那さまの枕元へ……その鼠が……ととととっと……走って参りましたところが……無惨にも……半眼になった不気味な旦那さまは……鼠をむんずと摑むと……そのまま……ぱくっと……お呑みなさってしまわれた……さればこそ…鼠の哀れで……泣き悲しんでおるの御座います……」

 

と申した。

 

 かの御番士、茫然と致いて、

 

「……さ……さては魂(たましい)と思い込んで呑んだは……これ……ね……鼠なるかぁ?…………」

 

と周囲の者ども、孰れも驚き、いや、大笑い致いて御座った。

 

中島敦 南洋日記 十月十九日 東條内閣成立翌日

        十月十九日(日) 晴、後雨、

 午前中、珍しく碧空を見る。堀君の所に行き、指導者(福田淸人)を借りて讀む。政變の噂を始めて聞く。すでに二三日前のことの由。浮世離れしたるものかな。午後、高橋氏宅に行きバナナと椰子水を馳走さる。俄かに豪雨となる。四時半頃ビショ濡れとなつて歸る。五時半より床に入る。あと二日の闇夜なり。

[やぶちゃん注:「指導者(福田淸人)」福田が昭和一〇(一九三五)年に書いた短篇「脱出」に、連作「指導者」「胸像」を加えて長篇「指導者」として第一青房よりこの昭和一六(一九四一)年刊行した小説(私は未見なれば内容不詳)。

「政變の噂」「二三日前」とああるが前日昭和一六(一九四一)年十月十八日の東條内閣成立を指す。

「あと二日の闇夜なり」この日は月齢二七・九、翌二十日が新月で二十一日月齢〇・五、二十二日に月齢一・五の繊月(せんげつ)となった(ページ」による産出)。]

岩魚――哀しきわがエレナにさゝぐ―― 萩原朔太郎



 岩魚
    ――哀しきわがエレナにさゝぐ――

 

瀨川ながれを早み、

 

しんしんと魚らくだる、

 

あゝ岩魚(いはな)ぞはしる、

 

谷あひふかに、秋の風光り、

 

紫苑はなしぼみ、

 

木末(こずゑ)にうれひをかく、

 

えれなよ、

 

信仰は空に影さす、

 

かならずみよ、おんみが靜き額にあり、

 

よしやこゝは運くとも、

 

わが巡禮は鈴ならしつゝ君にいたらむ、

 

いまうれひは瀧をとゞめず、

 

かなしみ山路をくだり、

 

せちにせちにおんみをしたひ、

 

ひさしく手を岩魚(いはな)のうへにおく。

 

        ――一九一五、八、八―― 

 

[やぶちゃん注:太字「えれな」は底本では傍点「ヽ」。初出は『異端』創刊号(大正三(一九一四)年九月号であるが、掲載誌は筑摩書房版全集第三巻「拾遺詩篇」初版時は入手出来ず、残っている筆写データから起こされたものである。にも拘わらず、校訂本文は「おんみが靜き額にあり、」を「おんみが靜けき額にあり、」とし、「よしやこゝは運くとも、」を「よしやこゝは遠くとも、」と訂している。後者は判るが、前者は肯んじ得ない。

 

 朔太郎永遠の憧れの人「エレナ」(彼女の後の洗礼名。受洗は大正三(一九一四)年五月十七日)は、朔太郎の妹ワカの友人で本名馬場ナカ(仲子とも 明治二三(一八九〇)年~大正六(一九一七)年五月五日)。朔太郎が十六歳の頃に出逢い、十九で恋に落ちた。後、ナカは明治四二(一九〇九)年に高崎市の医師と結婚して二人の子も儲けたが、結核に罹患、転地療養の末に没した。朔太郎の大正二(一九一三)年四月製作の自選歌集「ソライロノハナ」を捧げたヒロインである。彼がエレナを見舞って平塚の病院を訪れた時、エレナは一と月前に既に天に召されていた。その折りの一篇「平塚ノ海」(「ソライロノハナ」所収)は既に掲げた(但し、「ソライロノハナ」のクレジットは馬場ナカの死との大きなタイム・ラグがある。則ち、「エレナ」とは昇華された馬場ナカの朔太郎だけのファム・ファータルなのである。]

鬼城句集 秋之部 秋海棠/木犀/畦豆

秋海棠    大掃除

      石灰を秋海棠にかくるなよ

 

      秋海棠の廣葉に墨を捨てにけり

 

木犀    木犀や月の宴の西の對

 

      木犀やあはれ目しひて能役者

[やぶちゃん注:「しひて」の最初の「し」は「志」の崩し字。]

 

畦豆    畦豆に鼬の遊ぶ夕かな

[やぶちゃん注:「畦豆」は田の畦に植えた枝豆。一般には歳時記でも「あぜまめ」と読むようだが、畦は「くろ」とも読むことから、植えたものが黒豆でなくても「くろまめ」とも読み、私は語幹からはここは「くろまめ」と読みたい。四月から六月に植付時期が広がり、畦は水気があるので肥料をやらなくても大きく育ち、六月中旬から九月が収穫期となる。田の畦に豆を植えた理由は一つには、かつて畦に植えたものには年貢がかからなかったことによるらしい(一部を個人ブログ「大人の田んぼ塾」の豆」を参照した)。]

振賣の雁あはれなりゑびす講 芭蕉

本日二〇一三年十一月二十二日

陰暦二〇一三年 十月 二十日

 

  神無月二十日(かんなづきはつか)、ふか川にて即興

振賣(ふりうり)の雁(がん)あはれなりゑびす講

 

[やぶちゃん注:元禄六(一六九三)年芭蕉五十歳同年十月二十日の作。]

「炭俵」より。「藤の実」(素牛編)では

 雁

と音読みしていることをわざわざ示し、同書その他では前書を、

 深川獨座

とする。

深川芭蕉庵での四吟歌仙「金屏風の松」の巻の発句。連衆は野坡・孤屋・利牛(この四人は「炭俵」(元禄七年六月板行)の撰者であり、その撰者揃い踏みの運座はこれしか残されていない)。因みに野坡はこの発句に、

 

 降てはやすみ時雨する軒

 

と脇をつけている。

「ゑびす講」正しい歴史的仮名遣では「えびす講」である。恵比須講は旧暦十月神無月に出雲に赴かない留守神と考えられた恵比須神(夷・戎・胡・蛭子・恵比寿・恵美須などとも表記)乃至竈神(かまどがみ)を祀って一年の無事を感謝し、五穀豊穣や大漁、商売繁盛を祈願する講(地縁的祭祀結社)の祭り。特にここでは商家に於いて当日恵比須を祀って親戚や御得意様を招いて酒食でもてなして商売繁盛を祈願したり、稲や根菜類の収穫や麦播きなどの農繁期が一段落した百姓を主な顧客として冬に備えた商品や秋物一掃といった祭事に名を借りた商業戦略でもあった(百姓向けの商業戦略部分は伊藤洋氏の「芭蕉DB」の本句の解説に拠る)。

安東次男「芭蕉百五十句」によれば、野坡・孤屋・利牛の三人は実は『いずれも越後屋(今の三井・三越の前身)の』モラルや節制を厳しく問われた住込手代であったらしいとあり、『いかなるときも木綿で通し、勝負ごとや金銭の貸借はむろんのこと、遊芸や無断外出も禁じ』られていた。そうした彼らが『隅田川を越えて深川まいりをするのは、並の物好ではなかった』。そうした『店や朋輩の義理を欠いてまで、抜出してきた』彼らへの『ねぎらいがまず芭蕉にはある。そういえば今日は君たち商人にとって特別な日だったなあ、という心の寄せかたが次にある』とする。ここからが安東の真骨頂の評釈で、『借・仮をよろこばぬ商人の祝いの日に、択りに択って』「雁(かり)の振(ふり)賣」『など縁起でもあるまい。知恵のある行商人ならこの日だけはむしろ市中を避ける、というところに深川で聞く』しがない振売の声の『あはれがある』。『そこに商人道からはずれた風狂者を迎える滑稽のたねがあるようだ』と読む。則ち、『君たちがわざわざ深川くんだりまで振売をする気があるなら、私は君たちの手に握られた獲物になろう、というところまで興は伸びる。その獲物に、そうは簡単に売れてはくれぬ仕掛を施したところが、俳諧の俳諧たるゆえんだ。因に野坡が付けた脇』句の『「降ては」に振ってはを掛け、道中休み休み来ましたが、商売のたねにするには先生は重すぎると言いたいらしい。「やすみ」の意味を二重に利かせている』とある。ぶら下った雁こそ芭蕉であるというところなどとても私など連想に及ばぬ禅機の面持ちを感ずる部分である。更に、『もしかすると、この雁はまだ生きていたかもしれぬ。それなら白楽天の「旅雁ヲ放ツ」が句の恰好の地色になるだろう』として、『この詩は元禄三年堅田での』(私の本「芭蕉」ブログカテゴリで最初に掲げた)『「病雁(やむかり)の夜さむに落て旅ね哉」にも一役買っているものだ』と附言している。ここで安東が言う白居易の詩は、次の詩である。

 

 放旅雁

九江十年冬大雪

江水生冰樹枝折

百鳥無食東西飛

中有旅雁聲最饑

雪中啄草冰上宿

翅冷騰空飛動遲

江童持網捕將去

手攜入市生賣之

我本北人今譴謫

人鳥雖殊同是客

見此客鳥傷客人

贖汝放汝飛入雲

雁雁汝飛向何處

第一莫飛西北去

淮西有賊討未平

百萬甲兵久屯聚

官軍賊軍相守老

食盡兵窮將及汝

健兒饑餓射汝吃

拔汝翅翎為箭羽

 

  旅雁を放つ

 九江 十年冬 大いに雪ふり

 江水 冰(ひやう)を生じ 樹枝 折れたり

 百鳥 食無く 東西に飛ぶ

 中に旅雁有りて 聲 最も饑(う)ゑたり

 雪中に草を啄(は)み 冰上に宿(やど)り

 翅は冷えて 空に騰(のぼ)れども飛動すること遲し

 江童 網を持(じ)して 捕へ將(も)ち去り

 手に攜(さ)げて市に入り 生きながらにして之を賣る

 我は本(もと) 北人 今 譴謫(けんたく)せらる

 人と鳥と 殊なると雖も 同じく 是れ 客(かく)

 此の客鳥(かくてう)を見ては 客人を傷ましむ

 汝を贖(あがな)ひ 汝を放ち 飛びて 雲に入らしむ

 雁や 雁や 汝 飛びて 何處(いづく)にか向ふ

 第一に 飛びて 西北に去ること莫かれ

 淮西(わいせい)に賊有り 討つも未だ平げず

 百萬の甲兵 久しく屯聚(とんじゆ)す

 官軍と賊軍と  相ひ守りて老(つか)れ

 食 盡き 兵 窮まりて 將に汝に及ばんとす

 健兒は饑餓して 汝を射て吃(くら)ひ

 汝が翅翎(しれい)を拔きて箭羽(せんう)と為さん

 

この詩は朝臣武元衡暗殺事件に絡んで犯人逮捕を上奏したことが越権行為とされ、人道上の誹謗中傷も加わって、江州司馬に左遷された折りの元和十(八〇五)年冬の三十三歳の作で、白居易の悲憤慷慨が色濃く出た七言古詩である(因みにこの詩は二〇一一年の東京大学前期入試に出題されている)。「淮西に賊有り 討つも未だ平げず」とは淮西節度使呉元済が蔡州を占拠し、朝廷に抵抗した反乱を指す(憲宗から全権委任されて討伐の指揮を執っていたのが暗殺された武元衡で、暗殺事件の刺客は朝臣の中に潜んでいた呉元済派の指嗾によるものであった)。

安東は評釈の最後で、わざわざ芭蕉が「雁」を「ガン」と読ませたことについて触れ、『空も飛べぬあわれな鳥が、歌に親まれた名ではおかしいし、カリでは声の勢いも現われまい』とある。

因みに安東は途中で珍しく、この句をかつて誤読していたことを告白して次のように述べてもいる。『当時の深川は殆んど寺と下屋敷で占められていて、まだろくに町割もできていなかった。句には、孤愁もあれば人恋しさもある。市中嘱目などであろうはずがない。所も人もお構いなしに説くと迷を取る。現に私自身、かつては、品物に法外な値をつけ取引の真似もする夷講の屋内の賑と、寒空の下を振られる雁のあはれさを対照的に詠んだ句と思い、そう書いたこともある』とし、『句の余情はそのとおりでもこれは解釈としてはまずい』と述べている。やや負け惜しみ的謂いではあるが、首肯出来る。私はかつて一度も、この句に恵比須講の賑いを聴いたことはないからでる。なお、安藤の「芭蕉百五十句」には安東らしい巧妙な仕掛けがあって、目次だけでこの句の評釈だけを見ていると、安藤の広角の(というより超広角である魚眼レンズに比してもよい。辺縁部に普通は見えない一八〇度若しくはそれ以上の隠された景観が変形して――ここが安東的なニクいところである――見出せるという点に於いて)写真は見えてこない。このタイプの評釈本は買った当初しか通読することはなく、それさえしないでいると、永く最後に載る解説など読まずに過ぎることが(少なくとも私には)ままある。この本も(というかこの本は妻の独身時代の所持品であった)そうで、先日、ふと解説を読んでみて「やられた!」という感を強くしたのであった。この本の掉尾には「解釈ということ――解説にかえて――」という安東自身の、昭和五七(一九八二)年六月に四回に渡って読売新聞に連載された「古典と私」という文章が附されているのだが(私が持っている文春文庫版「芭蕉百五十句」の親本「芭蕉発句新注」は筑摩書房から昭和六一(一九八六)年に刊行されている。但し、文庫版は十四句の評釈が新しく追加された増補版でもある)、何と、その大半は安東のこの「振賣の」の句及びその連句の評釈変遷史と、そこから得た俳言への漸層的な安東の意識に於ける解釈変化遷移を連綿と語ったものであるからである。そこには四度に亙る本句についての驚くべき相違点を持った評釈が、そのまま引用されていて頗る興味深いのである。普通のアカデミズム系の凡百の文学者や自らを俳人と標榜してやまない厚顔無恥な輩は、まず、例外なくこうした自己の解釈の深浅をさらけ出すことを極端に嫌がる。だからこそいつまでたっても昔の浅い誤った解釈に拘ることとなる。悪循環と言わざるを得ない。ここにさらに引用したいぐらいであるが、そこは当該書を是非、お読みになることをお薦めする。連句評釈の鰻のねどこのような延々持続する晦渋さに比べれば、この本は安東の芭蕉本のなかでも頗る附きで読み易い作品であることは請け合う。

以上を綜合して、改めて句に向かってみると、この行商人の持つ雁が『北を指して長い旅路の途中に病雁となって大地に下りたところを捕らえられたもの』(伊藤評釈)であると考えてよく、それを捕えて売っているこの男は行商を本業とするというよりも、江戸近縁の百姓であって、市中の恵比須講のセールに行くには、まさにこの雁を売らねばならぬほどに切「羽」詰った、零細な「尾羽」打ち枯らした貧民の後ろ姿と声が浮かび上がってくるように私には感じられる。「あはれ」を誘うのは、まず、雁であり、次にしがない振り売りであり、そうしてそうした声と姿を心眼で黙視する芭蕉の孤独な後ろ姿でもある、という仕掛けなのである。]

2013/11/21

耳嚢 巻之七 狐即座に仇を報ずる事

 狐即座に仇を報ずる事

 

 石川阿波守とて御留守居を勤ける比(ころ)、右家へ立入し茶師(ちやし)山上源兵衞といへる者有(あり)し。狐寢たるを驚かしける事有し由。或日阿波守坊主若侍共、座敷の切戸(きりど)庭抔掃除なし居たるけるが、ひとつの狐築山(つきやま)の陰より出て、築山の脇に露次を出て無程(ほどなき)山を、源兵衞に化(ばけ)て表の方へ廻るを各見付(おのおのみつけ)、あれ狐が源兵衞に化たるぞ、表より來りなば捕へて正躰(しやうたい)を顯(あらは)せとて、棒箒抔引提(ひつさげ)内玄關へ廻りしに、誠の源兵衞中の口より例の通り上りけるを、夫(それ)狐よ迚打こらしけるゆへ、源兵衞はさ爲し給ひそと斷(ことわり)を述(のべ)けれど、曾て不聞入(ききいれず)、大きに難儀なせしを、重き老役人出て漸取鎭(やうやくとりしづめ)けるとなり。石川家の家來幾右衞門語りけり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。三つ程前の二つの妖猫譚と異類奇譚と連関。

・「石川阿波守」底本鈴木氏注に石川総恒(ふさつね)とする。岩波長谷川氏注によれば、『書院番頭・大番頭を経て天明元年(一七八一)年御留守居。寛政二年(一七九〇)致仕』とある。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、少し前の都市伝説である。

・「茶師」茶葉の選定と合組(ごうぐみ:現在でいうブレンド調合のこと)を行って茶を商った商人。

・「切戸」潜り戸のことで、門扉などの脇に設けた、潜って出入りする小さい戸口を普通はいうが、ここは屋敷の庭に面した座敷のある位置であり、しかも総出で掃除をしているということは庭中に茶室があり、その躙(にじ)り口の戸をかく称していると読みたい。主人公が茶師であることからもその方が映像的にしっくりくる。

・「中の口」屋敷の玄関と台所口の間にある入り口。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐が即座に仇を報じた事

 

 石川阿波守総恒(ふさつね)殿が御留守居を勤めておられた頃、かの御屋敷へ出入り致いて御座った茶師(ちゃし)で山上源兵衛と申す者が御座った。

 この源兵衛、ある時、同御屋敷近くの山裾にて、うとうとと致いておった狐を、

源兵衛「コラッツ!」

と、驚ろかして御座った。

 狐は尾を巻いて、小山の上の方へと韋駄天走りに逃げて御座ったと申す。

 さて、その数日後のことで御座る。

 阿波守殿御屋敷の茶坊主や若侍どもが、座敷に面した庭、その茶室の切戸(きりど)やら庭なんどを念入りに掃除して御座ったところが、一匹の狐が、庭に拵えた築山(つきやま)の蔭より脇の細き露地を出でて、石川殿が庭の借景となさっておられる屋敷裏近くの例の小山へと走ると見た――

――と!

――そこで!

――かの源兵衞に化けた!

――そのまま山裾を屋敷表の方(かた)へと悠然と歩いて行く源兵衛!

と……そこの御座った茶坊主から若侍らは皆、これを漏らさず見て御座った。

若侍一「あれ! 狐が源兵衛に化けたるぞッ!」

若侍二「おう! 確かに拙者の見た!」

茶坊主「私も、た、確かに見申したッ!」

若侍三「表より参ったならば、これ、捕えて正体(しょうたい)を暴いてやろうぞッ!」

若侍四「合点! 承知ッ!」

と、皆々、棒切れやら箒やらを引っ提げ、内玄関の方へと韋駄天の如く走る――

……と……そこに正真正銘の源兵衛が、数日前に石川殿より頼まれて合組(ごうぐみ)致いた茶(ちゃあ)を持って、表の切り戸を抜け、中の口よりいつもの通り、入らんとしたところが……

――血走った眼の若侍衆に入口のところで取り囲まれ、

若侍四「それッ! 狐よオウ!」

と声をかけられたかと思うと、もう、棒や箒でめった打ち!

源兵衞「……そ、そのような御無体……な、なさいまするな!……な、何故に!……かくも……」

と這いつくばって身を守りながら、しきりに抗議致いたものの、者ども、いっかな、聴き入れる耳なく、ただただ、地べたに丸うなるしか御座ない。

若侍三「早よ、尻尾を出せ!」

若侍一「皆、お見通しじゃッ!」

茶坊主「何を丸まって寝たふりしとる! この畜生がッ!」

若侍二「厨(くりや)から焼け火箸、持ってくるかッ?!」

と、全く手を附けられぬ狂乱の体(てい)なればこそ、源兵衛、一時は死をも覚悟致いたと申す。

 幸い、そこへ騒ぎを聴きつけた老御重役の方が奥方より出でて参られ、何とか、とり鎮められて、ことなきを得た、とのことで御座った。

 石川家御家来、幾右衛門殿の物語りで御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 10 人前でキスをしない日本人

 人々が、屢々手をつなぎながら、一緒に歩いているのは、見ても気持がよい。婦人や子供は通常手をつないで歩く。大きくなった娘と、彼女のお母さんなりお祖母さんなりは、十中九まで手をつないで行く。お父さんは必ず子供と手をつなぎ、何か面白いことがあると、それが見えるように、肩の上に一向くさし上げる。日本人は一体に表情的でないので、我我は彼等に感情が無いと想像する。彼等は決して接吻(キス)しないものとされている。お母さんが自分の子に接吻するのさえ珍しいが、それとても、鼻を子供の首にくっつける位である。私は外山教授に人々、あるいは恋人同志が接吻するかどうか、正直に話して

呉れと頼んだ。すると彼は渋々、「うん、それはするが、決して他の人のいる所や、公開の場所ではしない」といった。私が彼から聞き得た範囲によると、日本人にとっては、米国人なり英国人なりが、停車場で、細君に別れの接吻をしている位、粗野で、行儀の悪い光景はない。これは、我々としては、愛情をこめた訣別か歓迎か以上には出ないのである。我我は、単に我々の習慣のあるもの――例えばダンスの如き――が、彼等にどんな風に見えるかを実認しさえすれば、彼等の同様に無邪気な風習が、我々にどんな風に思われるかを了解することが出来る。外山の話によると、彼がミシガン大学へ入学すべく米国へ行った時、最も不思議に思ったのは、停車場で人々がさよならをいっては接吻して廻り、学校の女生徒たちがお互に飛びついて行くことであったが、男がこんな真似をするに至っては、愚の骨頂だと思ったそうである。

[やぶちゃん注:私はこの外山の感覚と同様のものは、今も多くの日本人に残存している。そして私はそれを優れた我々の美意識であると真面目に思っている。

「彼がミシガン大学へ入学すべく米国へ行った時」既に注したが、外山正一(とやままさかず 嘉永元(一八四八)年~(明治三三(一九〇〇)年)は旗本幕府講武所歩兵指南役外山忠兵衛正義の子として江戸小石川に生まれ、十三歳で蕃書調所で英語を学び、文久四・元治元(一八六四)年には十六歳で開成所教授方になった神童であった。勝海舟の推挙により慶応二(一八六六)年に幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学んだが、幕府の瓦解により明治二(一八六九)年帰国、一時東京を離れて静岡で学問所に勤めていたが、抜群の語学力を新政府に認められて明治三(一八七〇)年に再度、外務省弁務少記に任ぜられてアメリカに渡った。明治四(一八七一)年には現地の外務権大録になったが、直ちに辞職、ミシガン州アンポール・ハイスクールを経てミシガン大学に入学、折しも南北戦争の復興期であったアメリカで哲学と科学を専攻して、モース来日の前年である明治九(一八七六)年に帰朝したばかりであった。帰朝後は官立東京開成学校で社会学の教鞭をとっていたが、この明治一〇(一八七七)年に同校が東京大学に改編されると、日本人初の教授(文学部。心理学及び英語担当)となっていた(以上は主にウィキ外山正一に拠る)。彼がミシガン大学に入学した時は、それでも満二四、五歳であった。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 9 子どもの遊びと女らしい国民

 町で遊んでいる子供達の習慣や行為は、見れば見る程、我国の子供達のと似て来る。最初、変った着物を着、奇怪な有様で頭の毛を剃り落し、木製の草履(ぞうり)をはいてヒョコヒョコ不思議な足どりで歩いているのを見ると、子供ということは判るが、地球以外の星からでも来たように思う。彼等は紙鳶(たこ)をあげ、独楽(こま)を廻し、泥で菓子をつくり、小さな襤褸(ぼろ)の人形をつくる。襤褸人形には、実に妙な格好をしたのがある。私は一人の子供が別の子供の後にかけ寄り、両手を目の上にかぶせ、正しく言いあてる迄は手を離さないのを見た。お互に背負い合ったり、羽根をついたり、我々のジャックストンスに似た遊技をしたりする。私は、彼等がマーブルスをやっているのは、見たことがない。マーブルスが無いからである。また鞠(まり)も、我々がやるようにしては遊ばず、何度弾ねかえすことが出来るかを見る為に、地面に叩きつけて遊ぶ。もっとも彼等は、数えながら取り出す各種の遊びや目かくしや、その他並んだり、一列になって進行したりする遊戯はする。お母さんは、我々と同じようにして子供と「むずむず鼠」をして遊ぶが、只これは鼠でなくて狐である。彼等は大きな木の根元で遊んだり、砂に小さな路をつくったり、これは家だ、お寺だ、橋だ等といって、小さな物を地面につき立てるのが、特に好きらしい。私は屢々、人の家で、水を満した大きな浅い皿の中に、小さな植物がすこし生えた古いこんがらかった木の板を入れた物を見た。それには小径がうねっており、渓谷には橋がかかり、そこここに玩具の家が建っている。これ等は組になっているのを買うので、老幼を問わず、この、簡単な小さい風景を楽しむらしく思われる。このような、見受ける所如何にも子供らしい遊びを楽しむことが、我々に、日本人は本質的に女らしい国民だという観念を与えた。而も台湾の土民との戦や、最近の薩摩の謀反で、彼等は最も激烈な勇気と戦闘心とを示した。

[やぶちゃん注:盆景を好む(私は以前に申し上げた通り、実は盆景が大好きであった)「日本人は本質的に女らしい国民だという観念を与えた」というのは面白い感想である。そうするとタルコフスキイなんぞを見たらモース先生は頗る女性らしい映画だ、というのであろう。

「木製の草履」原文“wooden sandals”。ぽっくり下駄と思われ、草履の主材質は合皮・革・布・畳(竹皮など)などであるから、ここは「下駄」と訳した方がよいように感じる。

「ジャックストンス」原文“jackstones”。底本では直下に石川氏の『〔お手玉に似たもの〕』という割注が入る。ウィキジャックス道具)」を見ると、一般的にはジャックス(六本の棒が立体的に飛び出た小さな駒)十~十五個とゴムボールを使用し、まずジャックスを宙に放り投げて手の甲で受け止め、最も多くの数を受け止めた方が先攻となる。先攻はジャックスを平らな地面に投げ捨てる。ボールを地面に打ち付けて弾ませ、ボールが地面に落ちる前にジャックスを一個拾い、ボールを受け取る。これを繰り返し、落ちているジャックスをすべて拾うことが出来たら、次は一度に二個ずつ拾う。同様に、三個、四個と増やしていき、ボールが落ちるか指定数のジャックスを拾えなかった場合は後攻に交代する。より多くのジャックスを拾えた方が勝ちとなる。以上が基本的な遊び方とされているが、実際には様々なルールが存在し、片手だけで行うこともあれば両手を使うこともあってその時々で異なる、とある。

「マーブルス」原文“marbles”。底本では直下に石川氏の『〔大理石、硝子(ガラス)等の玉を地面の穴へころがし込む遊技で、今はやっている〕』という割注が入る。所謂、ビー玉遊びであるが、英文ウィキの“marble”の“marbles game”にはその原型は大理石の玉を用いたことが分かる。ウィキビー玉」には、詳細な本邦での様々な遊び方・ルールが紹介されている。因みに愚鈍な私は、幼少の頃、一度としてビー玉に勝った記憶がない。

「むずむず鼠」原文“creepy mouse”。動画を見ると、眼から鱗。但し、この幼児相手の指遊びをお狐さまとするというのは私は初耳である。識者の御教授を乞う。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 8 海軍軍楽隊の演奏批評

 この物珍しい経験の後に、我々はすぐ近くにある産業博物館を、また見に行った。日本人ばかりで成立っている海軍軍楽隊は、西洋音楽を練習し、我々と同じ楽器を持ち、同じ様な制服を着ていた。顔さえ見なかったら、我々は彼等を西洋人だと思ったことであろう。日本人の指揮者は、遠慮探く指揮棒をふって指揮し、楽員の全部に近くが、殆ど目に見えぬ位の有様で、足で拍手をとっていた。君は、私が彼等の奏楽をどう考えたか知り度いであろう。我々のとはまるで違う楽界と音楽とを持つ日本人が、これ程のことをなし得るという驚く可き事実が、我々をして彼等の演奏を、どうしても贔屓目(ひいきめ)で見るようにして了う。大喇叭(ラッパ)の揺動と高音とは、よしんば吹きようが拙劣でも、必ず景気のいいものだが、而も批評的にいうと、演奏の十中八、九までは、我国の田舎のあたり前の楽隊が、簡単な音楽をやるのに似ていたといわねばならぬ。音楽の耳を持たぬ者には、これは非常によく思えたであろう。とにかく空中に音が充ちたのだから。然し、音楽を知っている者は、不調音を聞き、間違った拍子に気がつくことが出来た。小喇叭の独奏は、感心してもよい程の自由さを以て演奏された。彼等は、ちょいちょい急ぎ過ぎたが、やがてうまい具合に調子を合わせた。「バグダッドの酋長」の序曲で、調子が高く高くなって行く場所は、実に完全だった。私は日本へ来てから、まだ一度も、我々の立場から音楽といい得る物を聞いたことが無いので、日本人が西洋音楽をやるということは、私にとっては北米インディアンが突然インネスかビヤスタットを製作し得たと同様に、吃駕すべきことであった。演出曲目の中には、あの奇麗なダニユーブ・ワルツ、マイエルベールの「ユグノー」のグランド・ファンタジア、グノウの「ファウスト」の選曲、その他同じようなものがあったが、いずれも最も簡単に整曲してあった。

[やぶちゃん注:「君は、私が彼等の奏楽をどう考えたか知り度いであろう。」原文“You will wonder what my opinion was of their playing.”。ここまで読んできて二人称で問いかける叙述はなかなか清新な印象を与える。

「大喇叭」「小喇叭」当初、私は前者がチューバで後者がトランペットと勝手に読み換えていたが、原文を見ると前者は“trumpet”で、後者は“bugle”とある。ウィキビューグルには『小型でバルブを持たないナチュラル・ホルンの一種で』、『ビューグルという語はラテン語の būculusbōs 雄牛の指小形)に由来し、中英語ではビューグル・ホーン(bugle horn)と呼ばれていたことからも分かる通り、雄牛の角で作った角笛がそのルーツである』とする。更にこれは所謂「軍隊喇叭」であるから、軍楽隊には欠かせないということでも腑に落ちた。

「バグダッドの酋長」“Calif of Bagdad”。フランスの作曲家フランソワ・エイドリアン・ボイエルデュー(Operas by François-Adrien Boieldieu 一七七五 年~一八三四年)のオペラ。ペルカヤオ青年演奏が気に入った。

「インネスかビヤスタット」底本ではこの直下に石川氏による『〔George Innes, 18251894, Albert Bierstàdt, 18301902. いずれも米国の風景画家〕』という割注が入っている。但し、原文は“Bierstadt”と英文表記である。ジョージ・イネスは同日本語ウィキによればハドソン・リバー派、バルビゾン派、スウェデンボルグの神学に影響を受けたアメリカの画家で「アメリカの風景画の父」と呼ばれるとあり(グーグル画像検索「George Innes)、アルバート・ビアスタットは同日本語版ウィキによれば、ドイツ出身のアメリカの画家で、広大な西部の自然を描いた風景画で知られるハドソン・リバー派の代表的画家とある(グーグル画像検索「Albert Bierstadt)。

「ダニユーブ・ワルツ」“Danube Waltz”。言わずもがな乍ら、ヨハン・シュトラウス二世によって一八六七年に作曲されたワルツ「美しき青きドナウ」(原題:An der schönen blauen Donau”)。

『マイエルベールの「ユグノー」のグランド・ファンタジア』“Grand Fantasia of Meyerbeer's "Huguenots,"”。ユダヤ系ドイツ人作曲家ジャコモ・マイアベーア(Giacomo Meyerbeer 一七九一年~一八六四年)の五幕のグランド・オペラ“Les Huguenots”(ユグノー教徒 一八三六年初演)。私はオペラに興味がないので、どの部分かは不明。因みに参照したウィキジャコモ・マイアベーアの当該曲の乱には『「バスカヴィル家の犬」で、最後にホームズがワトスン博士を観劇に誘っている』とある。粋な注だね。

『グノウの「ファウスト」の選曲』“selections from Gounod's "Faust,"” フランスの作曲家シャルル・フランソワ・グノー(Charles François Gounod 一八一八年~一八九三年)の代表作とされる、ゲーテの「ファウスト」第一部に基づいて作曲したオペラ。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 7 上野東照宮神嘗祭を真直に見るⅡ

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図―229

 楽師その他すべての人々が坐っているので、我々も、脚は恐しく痛かったが、出来るだけうまく、坐るような風をしていた。然しこの光景は、たしかに興味が深かった。式が済むと、外廊にいた会衆は立ち上って、寺院の床を横切り、階段を下りて通路へ行った。神官は丁寧な態度で、我々に従えと招いた。寺の外側には細長い卓子(テーブル)があり、その上には四角い常に四角いお盆が乗った、軽い木の物置台が置いてあった。お盆の中には、各種の食品のお供物を入れた、釉薬をかけぬ皿があり、その前には、地面の上に、より大きなお盆があった。この、美しい漆器をつくる国で、白木の盆、机、その他の家具を見ると、まことによい感じを与えられる。この、絵具も漆も塗らぬ木と、釉薬をかけぬ陶器を使用するというのが、神道の法式なのである(図229)。神官が我々各各に酒を一杯呉れたが、それは今迄私が飲んだ酒の中で一番美味だった。盃は素焼の陶器で、中心に徳川家の紋章が浮き上っている。また、これも徳川の紋を捺した紅白二枚の煎餅も貰った。徳川家は、この寺院の保護者なのである。かくて我々は、神道の信仰の聖餐拝受につらなった。キリスト教の宣教師たちは、我我が偶像崇拝をやっていたと考えることであろうが、神官が我々を招き入れた程に寛裕であった以上は、我々も彼等同様に、宗教的の頑迷固陋から自由であり得る。
[やぶちゃん注:モースのキリスト教嫌い炸裂!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 7 上野東照宮神嘗祭を真直に見るⅠ


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図―224

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図―225

 

 九月十七日(月曜日)は国祭日で、大学も休みだった。私はこの日の変った経験を、ベンと鉛筆とで記銀することが出来たら、どんなにかよいだろうと思う。私は学生達に、何か面白いことがあるのかと尋ねたが、はっきりしたことは何も確め得なかった。だが、私は、この日諸寺院で、ある種の重要な祭典が、音楽入りで挙行されるということを見出した。上野公園にある美しい寺院は、我々にその祭礼を目撃する機会を与えるだろうというので、我々は群衆にまざってぶらぶらしながら、人々を眺め、そして新奇な光景が沢山あるので、短気を起すことすら忘れていた。この大きなお寺の音楽は、十時に始った。ドクタア・マレー、チャプリン教授、及び日本人の通弁と一緒に、私は集って来た大群衆と共に赫々たる太陽をあびて立った。上野のお寺は日光のお寺に似ている。あれ程壮麗ではないが、極めて美しい。内部は日光同様な鍍金(めっき)と装飾とで光り輝いている。そしてあけはなしてあるので、内部でやっていることはすべて外から、明瞭に見える。私は自然、神官の神仕えよりも、音楽の方に興味を持っていたので、楽師たちが見える段々の上の方の端に、いい座席を占領した。私は学生から、お寺には各々教区、換言すれば教会の会員連があり、そしてその各々が寺院の一つに属する信仰を誓約しているということを聞いた。外廊はかかる信仰者の座席らしく、彼等はみな脚を身体の下に折り曲げて坐っていた。広々としたお寺の床は、神官達の奉仕や儀式のために留保してあったので、三、四十人集った信仰者達は、どっちかといえば我々の眼界を邪魔した。十時になると、大きな太鼓が鳴り始め、最初はゆっくりしていたが、段々速さが増すと、群衆は寺の前庭に群がり入り、広い階段の下で御祈禱をいい、両手をすり合わせ、そしてお寺の前に必ず置いてある大きな木の箱に、銭を投げ入れた。献金箱を廻すというようなことは、決して行われない。その代用をするものは、長さ四フィート、あるいはそれ以上の大きな箱で、廊下か地面に置かれ、角のある横木何本かが蓋になっているから、投げた銭は必ず箱の中にすべり込む。これが昼夜を通じて使用される。往来を行く人が、信心深い祈りをささげ、十フィート以上もはなれた所から銭を投げ、そして過ぎ去って行く。銭が常に入らぬこともよくあるので、価格の低い銅銭が、廊下の附近にちらばっているのが見られる。我々と同じ服装をした非常な老人が、日本人がお祈りをする時によくやるように、懇願的な態度で両手をすりあわせながら、熱心に祈禱している有様は奇妙だった。ドクタア・マレーは、通訳に一ドル持たせて寺の裏へやり、寺の当事者に我々を内側へ入れることを許させ得るかどうかをためして見た。彼は間もなく、入ってもいいという許を得て帰って来た。そこで我々は寺の後へまわり、靴をぬいで、反対側に楽師達が坐っている場所に相当する所へ通された。ここには教区の会員達でさえ来ていない。何百人という日本人が、このような場所に三人の野蛮人が、いやに目立って坐っているという新奇な光景を、好奇心深く外から見つめるのには面喰った。紫、緑、その他の縞の寛衣を清らかに着た、ハキハキした利口そうな神官達は、荘厳な儀式を行いつつあった。お寺の床は、磨いた黒漆塗りの板を敷きつめたもので、鏡のように光を反射していた。如何に熱心に私がありとあらゆることを注視したことよ! 楽師は、私に多大の興味を持たせた。横笛が一つ、小さな竹笛が一つ、それから、楕円形の底部から、何本かの竹管が、垂直に立っている不思議な形の楽器が二つあった。この楽器は「ショー」と呼ばれ、写生図にある通り、両手で持って横から息を吹き込む。別々に各々四本の支持物の上に立つ、大きな太鼓と、小さな太鼓と、枠に入った平べったい鐘とがあった。図224は楽師達を写生したものである。曲節も旋律も、呑み込むことが出来なかった。音楽は薄気味悪く、壮重に聞えた。室は、僅かに変化する継続的な音調(というよりも、むしろブーンブーンいう音)を立て続け、他の楽器は、時々それに入り込んだ。この寺院の平面図は、図225で示してある。それは主要な広間と、短い階段を下った所にある短い廊下と、この廊下の他端の、短い階段を上った所にある、内部の広間とから成っている。かかる非凡な寺院の内部の、彫刻や、手のこんだ装飾や、繊美な細部を記叙することは出来ない。私とても、それを試みようとは思わぬ。写生図で

1は内部の広間で、そこにある机には食物の奉納品を置き、2は二列にならんだ神官の位置を示し、3は我我の位置で、4は楽師、5は御維新までは偉い大名であった神官の首領の子息を表し、外廊の小さな点は儀式につらなる会員達を示している。楽師達が長い間努めた後、今まで坐っていた神官の列が立ち上り、一番位の高いのが二人、厳かな足取りで内部の寺院へ入り、別の二人が短い階段を下りて通路に立ち(6)、更に二人が今迄神官が坐っていた所に、また別の二人が我々の背後に立った。彼等が頭にいただく物には、二種類あった。一つは儀式用の、黒い綿でつくった袋に似た品で、両側が平であって、これは位の低い老がかぶり(図226)、他は(図227)大名がかぶった儀式用の品である。これは横側に平べったくした、黒い漆塗りのもので、後の方をつき出してかぶる。儀式というのは、死んだ将軍のために、食物のお供物をのせたお盆を運び入れるのであった。入れる前に、神官は白い紙の帯を鼻と口との上にむすんで、お供物に息がかからぬようにする。お盆は、いう迄もないが、色を塗らぬ軽い木で出来ていて、浅く、四隅を削り落した四角形である。これ等は釉薬をかけぬ、淡赤色の陶器の台の上にのっている。食品のお供物は、米をひらたい球にしたもの二つを重ねたもの、魚、野菜、煎餅その他から成っていた。これはお盆を支える台と同じ陶器の洗い皿に入っている。台の高さは六インチか八インチ位である(図228)。これ等は以下のようにして運び入れられる――先ず広間の神官の一人が、両手でそれを持って来て、他の神官に近づくと、この神官は非常に低くお辞儀をしてから、それを受取る。すると最初の神官はそこで同じ様なお辞儀をする。次に第二の神官がそれを第三の神官へ持って行くと、彼は同様に恭々しくお辞儀をし、それを受取ると交互にお辞儀をする。第四の神官は受取ると、ゆっくりした、整然たる歩調で、階段を下りて通路へ行き、そこに立っている神官に、他の人々と同じような鹿爪らしいお辞儀をして、それを渡す。で、最後の神官は階段を上って、内陣の机に近くいる神官に渡すと、この神官はそこにいる別の神官に渡し、この神官に至って、ようやく御供物を机の上に或る位置で置く。神官の最後の二人は、以前は大名であった。お供物はすくなくとも二十あり、それに一々同じ様な厳かで恭々しい会釈(えしゃく)が伴うのだから、この儀式は、徹頭徹尾、興味はあったが、長い時間を要した。その間中、楽師達は気味の悪い神秘的な音楽をつづけ、外にいる群衆は、儀式と、好奇心に富んだ然し熱心な野蛮人とに、注意をふり分けるらしく思われた。

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図―226[やぶちゃん注:上の図。]

図―227[やぶちゃん注:下の図。]

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図―228

 

[やぶちゃん注:「九月十七日(月曜日)は国祭日で、大学も休みだった」これは戦前の神嘗祭(かんなめさい)の祝祭日。明治六(一八七一)年十月十四日に太政官布告三三四号によって施行された(実際の休日になったのは以下のウィキのデータでは翌年からか)。神嘗祭は他に「かんなめのまつり」「かんにえのまつり」とも読む。宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納する儀式が行われる。かつては旧暦九月十一日に勅使に御酒と神饌を授け、旧暦九月十七日に奉納した。明治五(一八七二)年以降は新暦の九月十七日に実施となったものの、新暦では稲穂の生育が不十分な時期に当ってしまうために明治一二(一八七九)年以降、十月十七日に実施されるようになった。古来より神嘗祭には皇室から伊勢神宮で儀式へ幣帛使が派遣されたが、応仁の乱以降は中断も多かった。しかし、正保四(一六四七)年に幣帛使発遣が復活して以降は中断なく派遣が行われている。明治四(一八七一)年以降は皇居の賢所でも神嘗祭の儀式が行われた。神嘗祭の儀式に先立って、天皇は宮中三殿の神嘉殿南庇で神宮を遥拝する。明治四一(一九〇八)年九月に制定された「皇室祭祀令」では大祭に指定された。同法は昭和二二(一九四七)年五月に廃されたが、以降、現在も宮中および伊勢神宮では従来通りの神嘗祭が行われている。「神嘗」は「神の饗(あえ)」が変化したものと言われ、「饗え」は食べ物でもてなす意。伊勢神宮ではこの時を以って御装束・祭器具を一新することから、神宮の正月ともいわれる。神宮の式年遷宮は大規模な神嘗祭とも言われ、式年遷宮後最初の神嘗祭を大神嘗祭とも呼ぶ。また「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、明治七(一八七四)年から昭和二二(一九四七)年までは同名の祝祭日(休日)であった(以上はウィキの「神嘗祭」に拠った)。

「上野公園にある美しい寺院」現在の東京都台東区上野恩賜公園内の徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る上野東照宮。

「チャプリン教授」ウィンフィールド・チャップリン(Winfield Scott Chaplin 一八四七年~一九一八年)。アメリカ人の土木工学者。メーン州生。ウエスト・ポイントの陸軍士官学校を卒業後に鉄道技師となり、メーン州立大学の機械工学教授となる。明治一〇(一八七七)年に東京開成学校でやはりお雇い外国人教師であったワッソンの後を受けて、土木工学を担当、同校が東京大学に昇格後も継続して雇われ、明治一五(一八八二)年まで在職した。日本に初めて微積分学を紹介、富士山の標高を測定し、観象台(天文台)の建設を指導するなど功績は大きい。また地震に関する論文も発表している。明治十五年の帰国後はアメリカの大学教授に戻って、ワシントン大学総長を務めた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」ではセカンド・ネームの頭文字が“F”であるが、英文ウィキを見ても“Scott”である)。

「お寺には各々教区、換言すれば教会の会員連」氏子のことであるが、東照宮は維新後に明治政府に摂取されているから、通常の寺院に氏子とは異なり、東照宮はその祭神から氏子は徳川家ということになる。ここに列席する者もこの時代ならでは、実際の徳川家の縁者であったと考えてよいであろう。

「十フィート」約3メートル。

「一つは儀式用の、黒い綿でつくった袋に似た品で、両側が平であって、これは位の低い老がかぶり(図226)、他は(図227)大名がかぶった儀式用の品である」図226は立烏帽子、図227は正式な冠(かんむり)であるが、後者の図は不完全で、後ろに高く聳える「巾子(こじ)」やそこから後ろに長く垂れる薄布の「纓(えい)」が描かれていないのが不審である。

「六インチか八インチ位」凡そ15~20センチメートル程度。]

中島敦 南洋日記 十月十八日

        十月十八日(土) 曇後雨、

 靖國神社臨時大祭。

 北西離島行オジャンとなりて、すつかり失望、退屈なり。朝例によつて公學校に行き椰子水をのみ、ミクロネシア民族誌を借出す。一日中閲讀。午後少時散歩。

[やぶちゃん注:「靖國神社臨時大祭」靖国神社は明治二(一八六九)年に明治天皇の勅許による軍務官達(後に内務省に人事の所管が移ったが陸軍省及び海軍省が祭事は統括した)により東京招魂社を建てたことを創建とするが、その濫觴は、戊辰戦争終戦後の慶応四(一八六八)年に東征大総督有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍(朝廷方)将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行したり、同年中、太政官布告で京都東山(現在の京都市東山区)に戦死者を祀ることが命ぜられたり(現在の京都霊山護国神社)、京都の河東操錬場において神祇官による嘉永六(一八五三)年以降の殉国者を慰霊する祭典が行われる等の幕末維新期の戦没者を慰霊顕彰する動きが活発化、その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きていたが、それらを背景に大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策した結果の勅許建立であった。後の明治一二(一八七九)年には靖国神社に改称した。「臨時大祭」というのは戦没者の合祀を行う祭儀で、昭和一二(一九三七)年の盧溝橋事件から始まっていた日中戦争の軍属戦没者の合祀であろう。

「北西離島行オジャンとなりて、すつかり失望、退屈なり」敦のそれは公務としてではなく、まさに個人的な南洋幻想に基づく現実逃避の願望でもあったことがはっきりと窺われる。

「ミクロネシア民族誌」松岡静雄著岡書院昭和二(一九二七)年刊。松岡静雄(明治一一(一八七八)年~昭和一一(一九三六)年)は海軍軍人(最終階級海軍大佐)で言語学・民族学者で南洋研究の先覚者。本書は南方民族学研究の優れた著作として、後世高く評価されることとなった。平間洋一氏のサイト内の松岡静南洋研究の先覚者に詳しい(リンク先では生年を明治十二年とされておられるが、人名事典その他ネット上のデータで示した)。]

春 萩原朔太郎 (「春の芽生」初出)

 春

私は私の腐蝕した肉體にさよならをした
そしてあたらしく出來あがつた胴體からは
あたらしい手足の芽生が生えた
それらは實にちつぽけな
あるかないかも知れないぐらひの芽生の子供たちだ
それがこんな麗らかの春の日になり
からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる
かはいらしい手足の芽生たちが
さよなら
さよなら
さよなら
と言つてゐる
おお いとしげな私の新芽よ
はぢきれる細胞よ
いまいつさいのものに別れを告げ
ずいぶん愉快になり
きらきらする芝生の上で
生あたらしい人間の皮膚のうへで
てんでに春のポルカを踊る時だ。
          三月十七日

[やぶちゃん注:『詩篇』第一巻第一号(大正六(一九一七)年十二月)掲載。「ぐらひ」「はぢきれる」「ずいぶん」の表記はママ。次に示す大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」に所収する「春の芽生」の初出形である。

 春の芽生

私は私の腐蝕した肉體にさよならをした
そしてあたらしくできあがつた胴體からは
あたらしい手足の芽生が生えた
それらはじつにちつぽけな
あるかないかも知れないぐらゐの芽生の子供たちだ
それがこんな麗らかの春の日になり
からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる
かはいらしい手足の芽生たちが
さよなら、さよなら、さよなら、と言つてゐる。
おおいとしげな私の新芽よ
はちきれる細胞よ
いま過去のいつさいのものに別れを告げ
ずゐぶん愉快になり
太陽のきらきらする芝生の上で
なまあたらしい人間の皮膚の上で
てんでに春のぽるかを踊るときだ。

やはり私は圧倒的に初出にこそ内在律は生きていると思う。]

鬼城句集 秋之部 漆紅葉

漆紅葉   石山に四五本漆紅葉かな

2013/11/20

中島敦 南洋日記 十月十七日

        十月十七日(金) 曇

 神嘗祭。朝、椰子水を飮みに公學校へ行く。今日のは二つとも頗るうまし。一昨日モートロックより歸來せる「きよ丸」(二十八噸)にて、北西離島一遊を試みんと思ひ、堀君を煩はして、旅程を聞くに、二三日後出帆、十六日から二十日位かかる豫定なりと。二十日出帆として、十六日かかるとするも、來月の五・六日頃迄はかかるべし。パラオ丸は來月七日入港の豫定なれば、之は到底思寄るべくもあらず。殘念なり。モートロックも行けず、マーシャル離島も行けず、今又、北西離島も駄目とならば、此の上は、ヤップ離島だけは何とか都合したきものなり。午食は、松下、高橋、兩氏の御馳走。雞と卵なり。食後三時過迄閑談。モートロックの話、頗る面白し。高橋氏が總監となりて施行せるモートロック島防空演習の話の如き、就中、傑作なり。(椰子の枯葉を組合せて小舍の如きものを數十作り、爆彈落下想定の箇所にて、下に、それに火を放ち、實際に消火せしむるなりといふ。夜ひそかに火をつけに行くを、島民は、遊戲と心得て欣んで、之を消すなり、つひに、誤つて巡警の家まで燒捨てたりと。他島よりの見學者、之を見て、すつかり羨ましがり、「是非わが島に來りて、その防空演習とやらいふ面白きものを教へてくれ」と賴みたる由)(同島に魚多きこと、龜多きこと。人情厚くして、別に臨んで、聲を放つて悲しむものあること。一老女、別に際し、自分の家は貧しければ、せめて、とて、子安貝一箇を餞別として呉れたる話)夜食の時、食卓の上に、菊花あり。今日の飛行機が内地より運び來れるものなりと。防空演習なれば、燈をつけず、六時より蚊帳に入る。

[やぶちゃん注:「神嘗祭」「かんなめさい・かんなめのまつり・かんにえのまつり」と読む。宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納する儀式が行われる。かつては旧暦九月十一日に勅使に御酒と神饌を授け、旧暦九月十七日に奉納した。明治五(一八七二)年以降は新暦の九月十七日に実施となったものの、新暦では稲穂の生育が不十分な時期に当ってしまうために明治一二(一八七九)年以降、十月十七日に実施されるようになった。古来より神嘗祭には皇室から伊勢神宮で儀式へ幣帛使が派遣されたが、応仁の乱以降は中断も多かった。しかし、正保四(一六四七)年に幣帛使発遣が復活して以降は中断なく派遣が行われている。明治四(一八七一)年以降は皇居の賢所でも神嘗祭の儀式が行われた。神嘗祭の儀式に先立って、天皇は宮中三殿の神嘉殿南庇で神宮を遥拝する。明治四一(一九〇八)年九月に制定された「皇室祭祀令」では大祭に指定された。同法は昭和二二(一九四七)年五月に廃されたが、以降、現在も宮中および伊勢神宮では従来通りの神嘗祭が行われている。「神嘗」は「神の饗(あえ)」が変化したものと言われ、「饗え」は食べ物でもてなす意。伊勢神宮ではこの時を以って御装束・祭器具を一新することから、神宮の正月ともいわれる。神宮の式年遷宮は大規模な神嘗祭とも言われ、式年遷宮後最初の神嘗祭を大神嘗祭とも呼ぶ。また「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、明治七(一八七四)年から昭和二二(一九四七)年までは同名の祝祭日(休日)で、この日、敦も神嘗祭の伊勢神宮遥拝の儀式の参加以外は休みであったことがこの日記の叙述からも分かる(以上はウィキの「神嘗祭」に拠った)。]

床の中での思想 萩原朔太郎

       床の中での思想

 朝、寢床の中で考へる時、今日の一日の生活が、ひどく無意味に退屈であり、何の仕事への興味もなく、人生そのものが厭はしいほど、暗黑で絶望的なものに考へられる。反對にまたある場合は、何かしら樂しいことが、何處かで自分を待つてゐるやうに思はれ、漠然とした幸福の豫感が、朝の麗らかな空の下で、微笑みかけてるやうに思はれる。だが起きて着物をきてしまへば、現實はそのどつちほどでもなく、相變らずの日課を繰り返すところの、平凡で中庸的なものに過ぎない。――老年になつてから、その一生を囘顧する人々は、自分があまりに長い間、寢床で考へすぎたことを後悔する。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」より。]

鬼城句集 秋之部 烏瓜

烏瓜    夕日して垣に照合ふ烏瓜

2013/11/19

臨時休業

先ほどアップした中島敦の日記に江の島が出たが、偶然にも今日はこれから古い友人と三年ぶりに再会し、二人で思い出深い江の島を跋渉せんとすれば、これにて閉店と致す。 心朽窩主人敬白

中島敦 南洋日記 十月十六日 又は 南洋のタルコフスキイ

        十月十六日(木)

 七時頃旅館に行くに、既に飯無しといふ。改めて炊かんとも云はず、不愉快至極。昨日の殘りの饅頭を以て朝食にかへ、公學校に行く。午後、稻氏、松下氏と共にクツワなる神學校へと行く。途は概ね工事場にて甚だしき泥濘なり。椰子及パンの木の伐採さるるもの多し。パンの木は、トロッコのレールの枕木に用ひらる一なり。工事場より行くこと暫くにして、林間に山羊の群を見る。黑色あり、白色あり、褐色にして鹿の如きもあり。スコール沛然として到る。教合堂に逃込む、側廊なども裕かにとりたる仲々立派な會堂なり。殊にその位置、海岸に吃立せる岩山の上、椰子林中にあり、眼下直ちに淡碧のリーフを俯瞰する狀、江の島に髣髴たり、遙か春島の、スコールに烟りて模糊たるなど、風景頗る佳。雨のやみ間を見て、山口牧師宅に行くに、主人不在。神學校移轉の準備中なりと。庭上、芝生の中に、ロバァト・ローガン師の墓あり。一八八七年四十四歳にて此の地に歿す、とあり。神學生より椰子水の馳走を受けて、歸る。再び雨に遭ひ教會内に避く。三時半頃漸く霽れ、歸途に着く。泥濘、前路より更に甚し。朝鮮人人夫のバラック多し。海中に長く連れる便所、面白し。四時半、漸く歸る。散々の遠足なりし。ウンチバ田の白鷺。

[やぶちゃん注:この日録、読みながら「アンドレイ・ルブリョフ」や「ノスタルジア」のあれこれのシーンがオーバー・ラップした。私には南洋でタルコフスキイが撮りたくなるような映像に思えたのである。

「山口牧師」山口祥吉(ネット上で生没年を確認出来ず)。大正八(一九一九)年に設立されたプロテスタント系の南洋伝道団の最初の宣教師の一人で、実に二十四年(大正九(一九二〇)年二月から昭和一八(一九四三)年十二月)の永きに亙ってトラック島夏島で伝道活動を行った(以上は西原一郎日本組合海外伝道影(2)――南洋つい」PDFに拠った。この論文はそれまでの南洋でのキリスト教布教史から日本統治時代の伝道の実態と当時の南洋社会の文化様相を詳細に語っており、山口牧師の報告書の引用もあって、敦の日記を読み解く上でも非常に参考になる優れたものである)。

「一ロバァト・ローガン」八七四年にポナペ島に赴任したプロテスタント牧師。来島の翌年にはモートロック島に転任して新約聖書をモートロック語に翻訳し、旧約物語を書いた。後ににトラック島に赴任し、そこで病没している。以上は前注に使用した西原論文に拠った。なお、同論文によれば、神学校は日本統治時代になって一時閉鎖されていたものの、女学校とともに南洋伝道団によって復活し、特に公学校の設備の不十分な地域に置かれていたとあり、公学校(国民学校)と競合しないように図られていたようである。だからこそ官吏の敦が巡察をしているとも言えよう。
「ウンチバ田」後掲の十一月三日の日記注に附した十一月三日附書簡に出る、熱帯産の野菜であるウンチバ(詳細不詳)を栽培する湿田。]

鬼城句集 秋之部 尾花

尾花    頂上の風に吹かるゝ尾花かな

2013/11/18

中島敦 南洋日記 十月十五日

        十月十五日(水) 雨

 朝公學校授業參觀、今日より毎日榔子水を飮むことを得ることとなる。

 午後、再び公學校。職員室にて、座談會式に現行教科書の檢討。本科六册を終へしのみにて暗くなる。久しぶりにて大饅頭を喰ふ。夜再び公學校。松下、高橋、兩訓導と語る。九時歸る。

[やぶちゃん注:以下、同日附中島たか宛書簡を示す。

   *

〇十月十五日附(消印トラック郵便局一六・一〇・一七、世田谷一六・一〇・二一。南洋群島トラック島トラック支庁庶務課気付。東京市世田谷区世田谷一の一二四 中島たか宛。封書。航空便。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一三五)

○此の前の手紙は、つまらないことをして了つた。郵便局へ持つて行つたら、内地行の飛行機は今日出ましたと言ふんだ。まさか、こんな惡い天氣に出やしまい、と思つて油斷(ユダン)してゐたんだよ。だから、今度の此の手紙と一緒に着くだらう。凡て、ボクの手紙は、日附の順序に讀んでおくれよ。

 今度の旅行は、ヤルート迄の二週間は、すばらしい上天氣つづきだつたが、トラックへ上陸してからは、毎日々々雨ばかり。いやになつて了ふ。外へ出て見學してる時はいいんだが、雨に、とぢこめられて机に向つてゐると、お前達のことを考へて仕方がない。ノチャの寫眞もお前達三人の寫眞も鞄(カバン)に入れて持つて來てゐるが、ノチャは、もう、どんなことをしやべるかなあ。ボクの見たお前の最後の手紙(八月の終の日付)では、ノチャが名前を呼ばれると、太い聲で「ハアイ」と返事をするとか、何を見ても「コエ(コレ?)コヱ」つて云ふとか書いてあつたが、その後、二(ふた)月以上經たつてゐる今、どんなことを言ふやうになつたかなあ、

○所で、ボクが九月十三日にパラオから(旅行出發のすぐ前)電報がはせで送つたお金は、とゞいたらうね? 念のために一寸、聞いておく。

○ボクのかいた畫、三匹の犬に、ノチャの分の仔犬を一匹書きそへたやつ、とつてあるかい? 本郷町の茶の間の壁にはりつけといたやつさ。あれと、桓の廻覽板の畫とは、しまつといておくれ。もう、なくしちまつたのでなければ。

○此の島には猩々草(しやうじやうさう)が多い。一杯、野山に茂つてゐる。おぼえてるだらう? ウチの庭にあつた、葉の一部の赤くなるヤツさ。それから、變りだねの「葉げいとう」も澤山生えてゐる、此の島には、一體、葉のキレイな植物が多いやうだ。しやうじやう草、クロトン(この前の手紙に書いた)もさうだが、ここに同封した赤いハツパ(何といふ木か知らないが、家の垣根に多く使はれてゐる。實に眞赤でキレイだよ)もさうだ。同封した見本では、とても、實物は想像できないが。カンナも澤山、山(ヤマ)に生えてるが、花が小さい。やはり、球根の根分をしてやらないと、葉ばかり、むらがつて、花が小さくなるらしい。

△十月十二日[やぶちゃん注:△は底本では二重三角印。最後の方のそれも同じ。]。今日は土人の歌を聞き、踊を見た。唄は大抵、眠いやうな、物悲しいやうなのはかりだ。中々面白い題の歌がある。「他人(ひと)の妻のことを考へずに、自分の妻のことを考へませう」なんていふ、大變な題の歌があるよ。踊は面白かつた。棒踊といふのがある。二十人程の男が二列に向ひあつて遊んで、皆両手に、二尺位の竹の棒をもつてゐる。その竹で、地べたを叩いたり、向ひあつてゐる者の竹と叩き合つたりして、調子を取りながら、さんざんをどり廻るんだ。時々後向きになつて、片足を上げ、股(マタ)の間から、後にゐる男(その男も後向きになり、片足を上げて、股の間から竹棒を出してゐる)の竹を叩いたりして、イヤ、モウ、ニギヤカな踊さ。エイ、サツサ、エイ、サツサといふ掛聲も景氣がいい。こんなのではなく、もう少し、芝居がかつた、筋のある踊もある。さういふ踊の時は、身體を色々に飾り立てて出てくる。花輪を頭にまき、椰子の若芽で作つた飾を腕や腰や足くびにつける。オデコとホツペタにべニ(黄色に近い)を塗る。さうして、お尻(しり)を奇妙に振りながら、踊るんだ、

 

Odirisyou

 

◎ボクの専属の案内役の若い役人は風邪を引いて寐ちまつたのに、ボクは、平気さ。エライだらう。毎日雨降つゞきでも何ともない。その代り、色はズヰブン黑くなつたぜ。

○此の前の手紙には、(お前が)瘦せたと書いてあつたが、又、ふとつておくれ。さうして、何時だかみたいに「とてもキレイな、身體の弱い人と、キレイでなくてもふとつて丈夫な者と、どつちが良い?」と威張つておくれ。オレの方は此の一月近く、フシギな位、調子がいいんだよ。

○近頃は、お前、頭痛しないかい? ノーシンやヂヤスターゼやアスピリンを無理にのませる人がゐなくつて、しあはせだね。

 

○横濱丸缺航のため、僕の今後の豫定は大體次のやうになつた。

 今から十一月七日頃迄トラック滯在。

 十一月八日(頃)パラオ丸乘船

 十一月十日頃ポナペ着。十日あまりポナペ滯在

 十一月廿三日頃、又パラオ丸に乘る。

 十一月廿九三十日頃サイパン着

  サイパンに一週間か十日位ゐて、

 十二月の十日頃までにサイパンを立ちパラオへ向ふ。

 はじめはサイパン――パラオ間を飛行機にする積りだつたが、この十月から飛行機の道順が變つて、サイパンから、マツスグにパラオへ行かなくなつたので、この飛行機は止めようかと思ふ。その代り、十一月八日頃パラオ丸乘船とある所――つまり、トラック――ポナペ間を飛行機にするかも知れない。

◎セツカクの押葉の色がスッカリ變つて了ふだらうと思ふと殘念だ。マツカなのがマツクロになるだらう。クロトンだけはあまり變るまいと思ふ。

 ホソ長イ葉ハ、ミンナ「クロトン」。少シ、ハバノヒロイノ(キイロ、キイロトミドリ) モ、「クロトン」。

△桓も格も、別にリコウな兒にしなくつてもいい。丈夫で、すなほなら、それで結構。

○僕によこす手紙は、やはり桓の名前にしろよ。(少しテレクサイからな)

   *

「猩々草」こう言った場合はポインセチアに似た北アメリカ原産の一年草の双子葉植物綱トウダイグサ目トウダイグサ科トウダイグサ亜科トウダイグサ連トウダイグサ属ショウジョウソウ Euphorbia cyathophora を指す。ショウジョウソウは観賞用に花壇で栽培され、茎は高さ約六十センチメートル、葉は多くは楕円形で中央に大きなくびれを持つ。夏、茎頂に緑黄色鐘形の花序が集まって咲き、上方の数個の葉が朱赤色になる。花は小さく目立たない。グーグル画像検索「Euphorbia cyathophora」が。但し、同じトウダイグサ属ポインセチア Euphorbia pulcherrima も和名でショウジョウボク(猩々木)と呼ぶ。こちらは中央アメリカ原産で、両者は全体によく似ているが、ショウジョウソウは名前の如く草であって、幹の木質化は起こらず、また、包葉の赤化も全部には及ばないのが普通であるから、敦がこれらの二種を区別していたかは疑問乍ら、「葉の一部が赤くなるヤツ」という謂いは、正しくショウジョウソウを指していると、一応、考えてよいであろう。

 図の解説を電子化しておく(右下から反時計回りで示す)。

   *

椰子(ヤシ)の若芽を結んだもの

耳たぶに孔があいてゐるのでそこにも花がさしてある

赤い花[やぶちゃん注:頭に回した花輪の内、大きな白いの花間を繫ぐ小さな花を指している。]

白い花[やぶちゃん注:頭に回した花輪の内、大きな五弁の花を指している。]

ヒタヒホツペベニ[やぶちゃん注:下線は原画では太字「ベニ」は原画では傍点「〇」

足くびにも椰子の若芽のリボン

   *

なお、この踊りと衣裳、その歌詞等については十二日」の日録に詳しい。手紙文の最後はちょっと敦の意外にシャイな一面が見て取れる。恐らくは彼の発信数同様に、非常に頻繁に送られて来たものらしく、支庁の担当者から冷やかされでもしたものか。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 6 大森貝塚最初の調査

 当日朝早く、私は松村氏及び特別学生二人と共に出発した。手紙の文句で、線路上でシャベルや鶴嘴を使用することは許さぬことを知ったので、我々は小さな籠を二つ持った丈で、発掘道具は持参しなかった。我々は東京から六マイルの大森まで汽車に乗り、それから築堤までの半マイルは、線路を歩いて行った。途中私は学生達に向って、我々が古代の手製陶器、細工をした骨、それから恐らく、粗末な石器を僅か発見するであろうことを語り、次にステーンストラップが、バルティック沿岸で貝塚を発見したことや、ニューイングランド及びフロリダの貝塚に就て、簡単に話して聞かせた。最後に現場に到達するや否や、我々は古代陶器の素晴しい破片を拾い始め、学生達は私が以前ここへ来たに違いないといい張った。私はうれしさの余りまったく夢中になって了ったが、学生達も私の熱中に仲間入りした。我我は手で掘って、ころがり出した砕岩を検査し、そして珍奇な形の陶器を沢山と、細工をした骨片を三個と、不思議な焼いた粘土の小牌(タブレット)一枚とを採集した。この国の原住民の性状は、前から大なる興味の中心になっていたし、またこの問題はかつて研究されていないので、これは大切な発見だとされている。私は一般的な記事を『月刊通俗科学雑誌』【*】へ書き、次にもっと注意深い報告書【**】をつくり上げることにしよう。

 

 

* その後『月刊通俗科学雑誌』(Popular Science Monthly)の一八七九年一月号で発表。

** その後東京帝国大学から発表された。

[やぶちゃん注:明治一〇(一八七七)年九月十六日の最初の調査の記録である。

「松村氏及び特別学生二人」江の島臨界実験所での有能な助手であった松村任三と、松浦佐用彦(まつらさよひこ)と佐々木忠次郎(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の本書の訳の引用の割注(但し、三種の訳文を合成したもので私の底本とは以下に一例示すように訳や割注がかなり異なる)を参考にした)である。この二人は記念すべき東京大学理学部生物学科第一回生で佐々木忠次郎は後に昆虫学者となり、近代養蚕学・製糸学の開拓者となった人物。後に夭折してモースが哀傷した松浦については「第七章 江ノ島に於る採集 24 ホイスト・ゲーム/松浦佐用彦のこと」に詳注してあるので是非ご覧頂きたい。

「六マイル」9・66キロメートル。現在のJRの走行距離で東京―大森間は11・4キロメートル。発掘場所は現在の大森駅中心から530メートル戻った位置にあった。

「ステーンストラップ」デンマークの動物学者ヤペトゥス・ステーンストロップ(Johannes Japetus Smith Steenstrup 一八一三年~一八九七年)。一八四五年からコペンハーゲン大学の動物学の教授を務め、頭足類を含む多くの分野の研究を行い、遺伝学の分野も研究、寄生虫の世代交代の原理を一八四二年に発見、同年にはまた、後氷期の半化石の研究から気候変動や植生の変動を推定出来る可能性があることをも発見している(以上はウィキヤペトゥス・ステーンストロップに拠った)。

「不思議な焼いた粘土の小牌(タブレット)」原文は“a curious baked-clay tablet”。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の本書の訳の引用(一一六頁)では、『粘土を焼成した小さな板[土板]』とある。如何なるものであるか語られていないのが残念であるが、明らかにモースは土器片と区別して、まさに不思議な印象を与える、焼成された粘土の板状小片であると述べている点から推理すると、これは次の「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚」の「図―250」の最下段左に示されている、本文で『奇妙な粘土製の扁片』とある、同心円状(左手ではその二本が波のようになっている)の紋の周囲に複雑な摺ったような紋が沢山入ったプレート状(右下部が欠損)の遺物を指しているように思われる。

「*」Vol.14, p.257-266(1879)。同誌はアメリカの一般向け科学雑誌で、標題は「日本に於ける古代民族の形跡」であった。この標題からも分かる通り、実はモースは大森貝塚人はアイヌ以前の先住民族、所謂、プレ・アイヌ(アイヌがホップから日本にやって来る以前に住んでいた民族)、原日本人説を採っていた。なお現在、大森貝塚人はプレ・アイヌでもアイヌでもなく、我々の直接の祖先である原日本人であることに落ち着いている(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る。この辺りの論争部分を磯野先生は特に第十四章「プレ・アイヌ説をめぐって」と特に一章分設けて語っておられ、非常に面白い。是非、ご一読をお薦めする)。

「**」明治一二(一八七九)年七月十六日附の序文を持つ大森貝塚の報告書“Shell Mounds of Omori”(英文の紀要“Memoirs of the Science Department, University of Tokio, Japan”(「日本・東京大学・理学部紀要」)の第一部第一巻)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠れば、紀要とはいうものの、それだけで一冊に纏まった単行本のようなもので、『序文二頁、目次一頁、本文三六頁、それに土器を主体とした図版一八枚がついた立派な』ものである。モースが離日する(九月三日)直前に刊行されたものであった。]

耳嚢 巻之七 諸物傳術の事

 諸物傳術の事

 

 世に吸酸(きふさん)の三聖とて、釋迦孔子老子をさして、三人甕(かめ)をとり廻し立(たて)るを畫く。山本宗英來りて、此程東披懿跡(いせき)の圖迚、元趙子昂(てうすがう)が著書なせるを見しに、右甕の側に立る三人は、蘇東披黄山谷(くわうさんこく)佛印の三人也。何れも宋人(そうひと)にて子昂の哥曲の文も有(ある)由。左も有べき。世の諺語(げんご)を爰に記す。畫家抔にてもやはり孔老釋と心得認來(したためきたり)し由、狩野法印申けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。まずプレ学習としてグーグル画像検索「三聖吸図」でそれらを見た後、解説が詳しい熊谷市公式サイトの真言宗妻沼聖天山の「聖天堂の彫刻3 三聖吸酸」を読んでみよう。

・「吸酸の三聖」「三聖吸酸図」のこと。略して三酸図(さんさんず)とも言い、東洋画の画題である。儒教の蘇東坡・道教の黄山谷・仏教の仏印禅師の三人が、桃花酸(とうかさん)という極めつけの酸っぱい名酢を舐めて眉を顰めている図で、儒・道・仏の三教一致を主題としたしたものである。孔子・老子・釈迦として描かれることもあるが、これについて底本の鈴木氏注には、『互にそしり会うことを諷するもの』と注され、その後に大田南畝の「南畝莠言」上から以下を引用されておられる。「南畝莠言(なんぽしゅうげん)」は門人文宝亭の編になる文化一四(一八一七)年刊の世事・風俗・文学多方面に亙る有職故実の考証本(二巻)で引用部は恣意的に正字化した。

『世に醋吸の三聖の圖といふものありて、老子孔子釋迦のかたちを畫けり、按ずるに趙子昂が東披懿蹟の圖といふもの一卷あり、その中に云、東披黄門黄魯直とゝもに佛印をとひし時、佛印いはく、吾桃花醋を得たり、甚美なりとてともになめてその眉を顰む、時の人稱して三酸とす、然れば東坡山谷佛印をあやまりて、老子孔子釋迦といふなるべし。僧横川が京華集に、三教吸ㇾ醋圖詩云翁々乞ㇾ醋到其隣、顰ㇾ膞忍ㇾ酸寒迫ㇾ身、李白題ㇾ詩妙於廟、擧ㇾ盃邀ㇾ月影三人、しからば此項より誤來る事多し』

本文にも出る語が多いが、ここで簡単に注すると、「懿蹟」は立派な行跡の意。「黄門黄魯直」は後注する黄庭堅のこと。「桃花醋」は「とうかす」でと読み、桃の花の様に薄らと紅い色を帯びた酢の名。桃花酸。「京華集」は室町中後期の五山文学を代表する臨済僧横川景三(おうせんけいさん 永享元・正長二(一四二九)年~明応二(一四九三)年の漢詩文集。別名「補菴京華集」。但し、ネット上の影印で管見したが私の調べ方が杜撰なものか、当該箇所を発見出来ない。しかもこの引用箇所の意味も今一つ不審な箇所がある(「顰膞」「妙於廟」の「妙」の部分)ので、識者の御教授を乞うものである。李白の詩は陶淵明の「影答形」「形贈影」をインスパイアした「月下獨酌」の冒頭の、

 花間一壼酒

 獨酌無相親

 舉杯邀明月

 對影成三人(以下略)

  花間 一壺の酒

  獨酌 相ひ親しむ無し

  杯を擧げて 明月を邀(むか)へ

  影に對して 三人と成る

の部分である。因みに私は寧ろこの「三酸図」というイメージに、淵明のそれのように現実の惨めな個としての己の肉体、それと対峙するところの内在する超俗的なものを希求する魂、そして月光に照らされた影法師との「三」であるように感じた。

 閑話休題。さて鈴木氏は注の最後に『根岸氏も同書を読んだものか』と注されておられる。確かにその可能性を強く疑わせるほどに大田の言辞とこの「耳嚢」の記載には類似性が強く感じられるのであるが、しかし、そうすると不審が起こる。それは「南畝莠言」の刊行が文化一四(一八一七)年であることである。「耳嚢 卷之七」の執筆推定下限は鈴木氏によって文化三(一八〇六)年夏に推定されており、しかも根岸は同書の刊行前の文化一二(一八一五)年に亡くなっているからである。「南畝莠言」は大田の研究資料からの抜書きであるから、本記載もそれ以前に何か別な形で公刊されていたものであろうか? ここも識者の御教授を乞うものである。

・「山本宗英」底本鈴木氏注によれば、山本惟直(いちょく)。『宗安とも。寛政四年奥医となる。同年法眼に叙せらる』とある。寛政四年は西暦一七九二年。彼は父山本宗洪とともに滝沢馬琴の医学の師でもあった。

・「蘇東坡」蘇軾(一〇三七年~一一〇一年)北宋の政治家で詩人・書家。東坡居士と号したので蘇東坡とも呼ばれる。唐宋八大家の一人。二十二歳で科挙の進士科に及第して官界に入り、四十代の半ばまでは主に各地の知事を務めたが、新法党の王安石らの施策に反対して左遷、一〇八五年に神宗が死去して哲宗が即位、王が失脚して旧法派が復権すると蘇軾も中央復帰する。ところが今度は新法の良い部分を存続させることを主張する彼と新法全面廃止を掲げた宰相司馬光と対立、またしても左遷・追放された。波乱万丈の人生を生きた彼は中国の儒教・仏教・道教の三つの宗教哲学を自家薬籠中のものとなし、楽観的な姿勢で人生の苦しみに臨む解脱の境地を開いて常に理想を堅持した高潔の才人であった。

・「趙子昂」趙孟頫(ちょうもうふ 一二五四年~一三二二年)。南宋から元にかけての政治家・文人画家。字は子昂(すごう)、宋の宗室の出自で南宋二代皇帝孝宗の弟の家系。

・「黄山谷」黄庭堅(こうていけん 一〇四五年~一一〇五年)。北宋の詩人・書家。字は魯直(ろちょく)。号は山谷道人。師の蘇軾とともに「蘇黄」と並称される。江西詩派の祖。書は行書・草書に優れた。仏門に帰依すると同時に老荘思想にも傾倒した。

・「佛印」仏印了元(ぶついんりょうげん 一〇三二年~一〇九八年)。北宋の禅宗の高僧。儒家に生まれたが仏教に転身するも世襲であった官吏をも同時に勤め、僧俗二足の草鞋の生活をした。蘇軾の友人であった。「ぶっちん」とも読む。

・「諺語」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『諺誤』とする。この方が分かりが良い。

・「狩野法印」画家狩野惟信(かのうこれのぶ 宝暦三(一七五三)年~文化五(一八〇八)年)。狩野栄川長男。号は養川院・玄之斎。寛政二(一七九〇)年父の跡を受けて木挽町狩野家を継いだ。後に法印となった。江戸城障壁画や京都御所関係の絵事を多く手がけている(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 諸物伝承の際の誤謬の事

 

 世に吸酸(きゅうさん)の三聖と申し、釈迦・孔子・老子を配して、両三人が甕(かめ)の周りを取り囲んで立てる絵図なんどを描く。

 知れる奥医山本宗英殿が訪ねてこられ、申されたことには、

「このほど蘇東坡の遺蹟の図と申し、元は趙子昂(ちょうすごう)の書き著(あらわ)したる書画を見申したが、右甕の側に立てる三人と申すは、これ、蘇東披・黄山谷(こうさんこく)・佛印(ぶっちん)の三人で御座った。孰れも宋代の人にて、子昂にはそれに纏わる歌曲仕立ての文章も、これ、御座る。」

との由にて御座った。

 いや、まさしく、その通りで御座ろう。世に伝えるところの誤謬(ごびゅう)を正さんがため、特にここに記しおくことと致す。

 当今の画家の間などにてもやはり、これを孔子・老子・釈迦なんどと思い違い致いて、そのようなとんでもない絵図を平気で描く者も御座る由、かの奥絵師狩野法印殿も申しておられる、とのことで御座った。

紙燭して廊下通るや五月雨 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   紙燭して廊下通るや五月雨(さつきあめ)

 

 降り續く梅雨季節。空氣は陰濕にカビ臭く、室内は晝でも薄暗くたそがれて居る。その爲紙燭を持つて、晝間廊下を通つたといふのである。日本の夏に特有な、梅雨時の暗い天氣と、疊の上にカビが生えるやうな、じめじめした濕氣と、さうした季節に、さうした薄暗い家の中で、陰影深く生活して居る人間の心境とが、句の表象する言葉の外周に書きこまれて居る。僕らの日本人は、かうした句から直ちに日本の家を聯想し、中廊下の薄暗い冷たさや、梅雨に濕つた紙の障子や、便所の靑くさい臭ひや、一體に梅雨時のカビ臭く、内部の暗く陰影にみちた家をイメーヂすることから、必然にまたさうした家の中の生活を聯想し、自然と人生の聯結する或るポイントに、特殊な意味深い詩趣を感ずるのである。しかし夏の濕氣がなく、家屋の構造がちがつてる外國人にとつて、かうした俳句は全然無意味以上であり、何の爲に、どうしてどこに「詩」があるのか、それさへ理解できないであらう。日本の茶道の基本趣味や、芭蕉俳句の所謂風流やが、すべて苔やさびやの風情を愛し、濕氣によつて生ずる特殊な雅趣を、生活の中にまで浸潤させて藝術して居るのは、人のよく知る通りであるけれども、一般に日本人の文學や情操で、多少とも濕氣の影響を受けてないものは殆んどない。(すべての日本的な物は梅雨(つゆ)臭いのである)特に就中、自然と人生を一元的に見て、季節を詩の主題とする俳句の如き文學では、この影響が著しい。日本の氣候の特殊な觸感を考へないで、俳句の趣味を理解することは不可能である。かの濕氣が全くなく、常に明るく乾燥した空氣の中で、石と金屬とで出來た家に住んでる西洋人らに、日本の俳句が理解されないのは當然であり、氣象學的にも決定された宿命である。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。太字「さび」は底本では傍点「ヽ」。「中廊下」は「なからうか(なかろうか)」と読み、屋敷や御殿内の両側に部屋や住居が並んだ廊下。]



以上を以って本ブログ・カテゴリでの「郷愁の詩人與謝蕪村」の春夏秋冬の部の句評釈を総て公開した(一部、抜けているように思われる箇所はずっと以前に公開しているので、遡ってご覧戴きたい)。

夕立や草葉を摑む群雀 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   夕立や草葉を摑む群雀

 急の夕立に打たれて、翼を濡らした雀たちが、飛ばうとして飛び得ず、麥の穗や草の葉を摑んでまごついて居るのである。一時に襲つて來た夕立の烈しい勢が、雀の動作によつてよく描かれて居る。純粹に寫生的の繪畫句であつて、ポエジイとしての餘韻や含蓄には缺けてるけれども、自然に對して鋭い觀照の目を持つて居た蕪村、畫家としての蕪村の本領が、かうした俳句に於て表現されてる。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。]

鬼城句集 秋之部 胡麻の花

胡麻の花  嵐して起きも直らず胡麻の花

2013/11/17

耳嚢 巻之七 金銀を賤き者に見せまじき事

 金銀を賤き者に見せまじき事

 

 栗原叟語りけるは、彼(かの)知れる者鎌倉へ詣ふで歸るさに、藤澤とかの茶屋にて休(やすみ)しが、年比六十斗(としのころばかり)の出家荷を負(おひ)て、同じ床机(しやうぎ)に腰かけて色々咄しける内、諸侯の家來と見へて若侍兩三人彼茶屋に入(いり)て酒抔給(た)べ、人足又茶屋の若者に申付(まうしつけ)、酒肴抔調へさせけるに、價ひ拂はんとにや、彼(かれ)出さん、是(これ)出さんと懷中より歩判(ぶはん)をひしと付(つけ)し折手本樣の物を出しけるを、彼出家人々目(ひとめ)を見合て、金子を輕き者大勢入込(いれこみ)し所にて取(とり)なやみ給ふまじき事といゝしを、彼若侍は取用ひ候心無(こころもなく)て仕舞(しまひ)、拂ひなして茶やを立出なしぬ。跡にて彼出家酒呑(のみ)ながら語りけるは、道中抔都(すべ)て貴賤の者立廻(たちまは)る所にて、金子多取(おおくとり)なやむべき事にあらず、我等既に出家せしも、金子を見て欲おこり、かゝる世捨人と成りぬと申ける故、夫(それ)はいか成(なる)事やと切(せち)に尋問(たづねとひ)しに、然らば懺悔に語り申さん、あなもらし給ふな、我は江戸芝伊皿子(しばいさらご)邊に住(すみ)て蕎麥を商ひしが、富貴にもあらず、夫婦右の稼(かせぎ)せし子供を養ひ、貧しくもあらずくらしけるに、或夜四ツ時比(ごろ)、鄽(みせ)も仕舞(しまひ)、角(かど)のあんどんを消可申(けしまうすべし)と思ふ比(ころ)、壹人の侍あはたゞしく駈入(かけいり)、何卒追手のかゝるもの也、かくまひ呉(くれ)候やふ申(まうし)ける故、穴藏の板敷をはづし其内へ忍ばせ、何しらぬ躰(てい)にて居たりしに、無程(ほどなく)侍五六人追欠(おひかけ)來り、此内へ入(いり)つらんと尋(たづね)ければ、一向存不申(ぞんじまうさず)、然れ共(ども)外へ可行(ゆくべき)やふなし。角行燈(かくあんどん)あるからは、此家の内へ立入(たちいり)つらん、家搜しせんと申ける故、我大ひに憤り、隱すべき筋なきに理不盡に家搜し抔といふ事、民家なり共(とも)理不盡の事也、妻幷(ならびに)幼年の娘あれど、妻は煩ひて臥居(ふしゐ)ぬ、廣からぬ内(うち)さがし給ふに及(およぶ)まじといゝしを、妻の臥所(ふしど)其外□き尋て、彼侍大きにあきれ、十分爰許(ここもと)へ隱れしと思ひしに、不有(あらざる)こそ不思議なれと申(まうし)、最初の氣性には似ず誤り口上(こうじやう)なりしを見て、輕き町人ながら無實の儀を以(もつて)家搜しなし給ふは男も立難(たちがた)しと六ケ敷申(むつかしくまうす)ゆへ、追手の侍も困り入(いり)、品々侘言(わびごと)して立(たち)歸りぬ。暫く過(すぎ)て彼穴藏より侍を出し、少(すこし)も早く立退(たちのく)べしと申(まうし)ければ、懷中より金子四五百兩程取出し、誠に命の親なり、此禮はいつか報申(むくひまう)さん、是はいさゝかなれども印斗(ばか)りと、金五十兩斗(ばかり)を與へければ、いやとよ、此禮を取らんとて斯(かく)まひしにあらず、男と見込御賴(みこみおたのみ)ゆへかくまひぬれば、早々歸り給ふべしと突(つき)戻しける故、侍も逃(にげ)道をあわてけるや、早く荷作りて立出(たちいで)ぬ。無益の事に骨折(ほねをり)しと跡片付(かたづけ)、表の燈火(ともしび)も取入臥(とりいれふせ)りけるが、彼侍は主人の者か、又は傍輩の金子か盜取(ぬすみとり)て欠落(かけおち)せしならんと、蕎麥切(そばきり)庖丁引提欠出(ひつさげてかけいで)んとせしを、女房驚き押留(おしとどめ)しを突(つき)倒し一さんに追欠(おひかけ)しに、遙(はるか)に人影見へしゆへ、先刻のお侍にはなきやと聲を掛(かえ)しかば立(たち)歸りし故、いづ方へ迯(にげ)給ふや、品川の方へは人を廻し候由也と申ければ、辱(かたじけなし)と答へ由斷(ゆだん)を見濟(みすま)し、右庖丁にて切(きり)倒し、懷中の金子奪取(うばひとり)て空(そら)しらぬ㒵(かほ)して宿へ歸り、妻にも語らず一旦は心よく暮せしが、天誅に不遁所(のがれざるところ)にや、娘も間もなく相果(あひはて)、妻も無程(ほどなく)空しく成(なり)、右左間違(みぎひだりまちがひ)だらけにて金銀も空敷(むなしく)、つくづくと懃しぬれば、今生(こんじやう)未來も恐ろ敷(しく)、出家遁世なしける事も、懺悔ながら人の誡(いましめ)とかたりて立出(たちいで)しが、いづちへ行(ゆき)しかしれざりけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。岩波の長谷川氏の注に『西鶴の『本朝二十不孝』二の二など、一旦難を救うが、大金を持つのに心変りして殺して金を奪うこと、それを懺悔のこと、類話が多い』とある。確かに角行灯の舞台の小道具染みた使い方や、エンディングで僧が掻き消すように消えてゆく辺り、如何にもな作為が見える。

・「栗原叟」御用達の「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクティヴな情報屋で、既に何度も登場している。

・「歩判をひしと付し折手本樣の物」「歩判」は金貨の一分金(いちぶきん)のことで、金座などで用いられた公式の名称は一分判(いちぶばん)であり、一歩判・一分判金・壹分判金(いちぶばんきん)とも言った。形状は長方形で表面上部には扇の枠に五三の桐紋、中間部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されており、裏面には鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である「光次」の署名と花押が刻印されている。額面は一分でその貨幣価値は一両の四分の一及び四朱に相当した。江戸時代を通じて常に小判とともに鋳造され、品位(金の純度)は同時代に発行された小判金と同じで、量目(重量)も小判金の四分の一で、小判とともに基軸通貨として流通した。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年に近い元文元(一七三六)年五月発行の元文一分判の場合で金の含有率は六五・七%(以上はウィキの「一分金」に拠った)。岩波の長谷川氏の注によれば、旅客は『携帯の便のため糊付けして折本にして』所持していた旨の記載がある。『折本』とは和本の装丁の一つで、横に長く繋ぎ合わせた紙を端から折り畳んで作った綴じ目のないもので習字手本や経典のタイプをイメージすればよい。

・「取なやみ」取り出しては、なんやかやと言う。

・「立出なしぬ」底本には右にママ注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『出立(しゅったつ)なしぬ』とある。

・「芝伊皿子」東京都港区三田四丁目と高輪一丁目及び二丁目の旧地名。同地の坂の名として伊皿子坂(いさらござか)が今も残る。変わった名前の由来は明国人の伊皿子(いんべいす)がこの坂附近に住んでいたからとも、大仏(おさらぎ)のなまりとも言い、はっきりしない(ウィキの「伊皿子坂」に拠った)。

・「四ツ時比」午後十時から十時半頃。

・「妻の臥所其外□き尋て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『其外隈々(くまぐま)も尋て』(「々」の部分は底本では踊り字「〲」)。これで訳した。

・「斯まひしにあらず」底本では「斯まひ」の右に『(匿まひ)』という訂正注を附す。

・「辱(かたじけなし)」「由斷(ゆだん)」孰れも底本のルビ。

・「右左間違だらけ」岩波の長谷川氏注に『やる事がすべて齟齬する』とある。

・「懃しぬれば」底本には右にママ注記がある。カリフォルニア大学バークレー校版では『觀じぬれば』(正字化した)とあり、これで訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 金銀を賤しい者に見せてはならない事

 

 栗原翁の語った話。

   *

……私の知れる者が鎌倉へ詣うでてその帰るさに、藤沢宿(しゅく)とか、茶屋にて休んで御座ったと申す。すると、年の頃、六十ほどの出家が荷を担いで、同じ床机(しょうぎ)に腰かけて色々と咄しなどて御座ったうち、諸侯の家来衆と見えて、若侍が三人ばかり、その茶屋に入って酒なんどを呑み、従えて御座った人足から茶屋の若者に申し付け、酒の肴なんどまでも拵えさせて御座ったが、さても勘定を払おうという段となって、

「……ここは一つ、拙者が出そう。」

「いやいや、ここは拙者が。……」

「……何の! まずは我らが。」

と、三人が三人とも懐中より歩判(ぶはん)をひしと貼り附けた折手本様(よう)の財布を出だいたところが、かの出家人、多くの人目(ひとめ)のあるを見咎め、

「……大枚の金子を、身分の軽ろき者どもの大勢入れ込んで御座る、かくなる場所にて取り出だいて、それをあからさまに見せつけて、支払いのことなんど議論なさるは、これ、良からざる振舞いにて御座いまするぞ。……」

と忠言致いたところが、かの若侍どもは出家の諌めもどこ吹く風と、却って金に輝く歩判の折本を見せびらかすようにしは、払いを済ませ、傲然と茶屋を後に致いたと申す。

 それから後、その出家は酒など呑みながら、我らが知人に語ったことには、

「……旅の道中なんどに限らず、どのような折りにもすべて、貴賤の者が入り混じっておる所にあって、あのような多額の金子をあからさまに取り出だいて、とやかうと申すべきことは、これ、厳に慎まねばならぬことで御座る。……さても、我らかく出家致いたも、これ、大枚の金子を見て邪(よこしま)なる欲の起こり、かかる世捨て人となって御座ったによってのぅ。……」

と申したによって、

「……それはまた、如何なる仕儀で御座ったものか?」

と切(せち)に尋ね問うたところが、

「……然らば……懺悔に語り申そうぞ。……但し、決して口外なさるるな。……」

と、徐ろに話し始めたと申す。

   *   *

……我らは嘗て、江戸芝伊皿子(しばいさらご)辺りに住んで蕎麦屋を商(あきの)う者で御座った。……富貴(ふうき)にてもあらず、夫婦してその蕎麦商いの稼ぎを致いて、は生まれし娘一人をやっとかっと養(やしの)うて、まあ、貧しいと申すわけでもなく暮して御座った。……

……そんな、ある夜のこと、四ツ時頃で御座った。蕎麦も売り切れ、店も仕舞(しも)うて、角(かど)の行灯の灯をさても消すかと思うて御座った折り、一人の侍が、慌ただしゅう、店へ駈け入って参り、

「……何卒! 追手の掛かっておる者で御座れば! ここは一つ、何も聞かずに匿(かくも)うて下さらぬかッ!」

と申したによって、店の奥の穴蔵の板敷を外し、その内へ侍を忍ばせ、我らは何も知らぬ体(てい)にて店仕舞いに取り掛かってっ御座ったところが、ほどのぅ、侍が五、六人も追い駈けて参り、

「この蕎麦屋へ入ったやに見えた!」

と声のして、

――どん! どん! どん! どん!

と戸を五月蠅く叩いたによって、戸を開いて招じ入れたところが、

「誰ぞ今、参ったであろうがッ!」

と糺いたによって、

「いいえ! 一向、存知ませぬが?」

と返すと、いきり立った一人が、

「――されども外(ほか)へ行こうはずもない! 角行燈(かくあんどん)の明かりを頼りと致いたに相違なければ、この家(や)の内へ立ち入ったに違いない! 家捜(やさが)し致いそうぞ!」

と申したによって、我ら大いに憤り、

「隠すべき筋もなきに、理不尽にも家捜しなんどということ! これ、賤しき民家なりとも理不尽極まりなきことじゃ。妻ならびに幼年の娘はあれど、妻は患いて横臥しておる。広うもない茅屋、その内をお捜しなさるるは、これ及ぶまいことじゃッ!!」

と啖呵を切ったれど、侍どもは聞き入れず、不作法この上のぅ、土足にて妻や娘の臥所(ふしど)その外、隅々に至るまで捜し回った末――我らは憮然として、かの穴蔵の板の上に立って御座った――遂に見つからず、かの侍どもも大いに呆れた体(てい)となって、

「……疑いなく爰許(ここもと)へ飛び込んで隠れたと思うたのじゃが……その影も形もないと申すは……まあその……これこそ……不思議なことと申すべきか……」

と呟く、その口振りは、最初に飛び込んで参った折りの、あの猛々しい気勢には似ず、半ば謝りの口上(こうじょう)へと転じたを、見逃さず、

「――おい! 我ら軽き身の町人ながら、知りもせぬ咎人(とがにん)を匿ったとか申す無実の罪を以って言いがかりをつけたばかりか! 土足にて家捜しまでなさるると申すは! これ、儂も江戸っ子デェ! 男が立たネエ!!」

と開き直って逆に詰め寄ったゆえ、追手の侍どもも困り果て、いろいろと詫び言(ごと)なんどを申して、這う這うの体で立ち帰って御座った。……

……暫くして、かの穴蔵より匿った侍を連れ出だし、

「少しでも早う、ここを立ち退くがよかろう。」

と申したところ、侍は懐中より、何と金子四、五百両ほども取り出だいて、

「……まことに拙者の命の恩人で御座る! この御礼はいつか必ず、屹度、報い申しましょうぞ!……今はとりあえず……これは些少で御座るが……まずは当座の御礼の印として……」

と、金五十両ほどをも、その大枚から分け出だいたが、我らは、

「――いやさ! こんな礼を取ろうと思うて匿(かくも)うたのでは、これ、ない。お前さんが儂を男と見込んでお頼み下すったから、匿(かくも)うたのであればこそ――早々にお帰りなさるるがよかろう!――」

と五十両を突き戻して御座った。

……その侍も、逃げるに慌てて御座ったらしく、すぐに大枚の小判を我らが目の前にて、

――チャラチャラ……

――ズン……ズン……

と荷作り致いて、我らの店を出でて御座った。

「……無益なることに、つまらぬ骨折りをしたもんじゃ……」

と穴蔵や土足の跡片付けなど致いて、表の燈火(ともしび)をも取り入れて臥して御座った。……

……が、煎餅布団の中で、

――チャラチャラ……

――ズン……ズン……

という、あの小判の音が耳に残って……

『……あの侍は……主人の物か……若しくは同僚の金子かを……これ……盜み取ってトンずらを決め込んだに違いない……大悪党じゃねえかッ!……』

と……思い至ったので御座る。……

……我ら、やおら、蒲団を跳ね除け、蕎麦切きり庖丁をひっ摑んで駈け出そうと致いた。……

……女房は庖丁を引っ提げた鬼のような我らの姿に驚き、押し留めて御座ったものの、それをも突き倒して一散に、かの侍の跡を追っかけて御座った。……

……すると、遙かに人影の見えたによって、

「――申し! 先刻のお侍さまにては、これ、御座らぬかッ!?」

と声を掛かけたところが、まさにかの侍で御座った。我らが方へと走り戻って参ったによって、

「――何方(いずかた)へお逃げ遊ばさるるおつもりかッ?! 先程、小耳に挟んで御座ったには、品川の方へは既に探索の人を廻しおるとの由にて御座ったぞ!」

と嘘八百を申したところ、

「――こ、これは、重々忝(かたじけな)い!」

と、我らを信じ切って笑みさえ浮かべて答へて御座った……

――その油断を見すまし……

――我らは……

――隠し持った蕎麦切り庖丁にて……

――バラリ! ズン!

――と斬り倒し……

――懐中の金子総てを奪い取って……

……そのまま、そ知らぬ顔で家へ帰り……いや、勿論、妻にも一切は語らずに仕舞うたので御座る。……

……大枚の金子……一旦は豪勢な暮しも致しましたが――天誅は遁れざる所――とか申しまする。娘も間もなく、急な流行り病いのために相い果て、妻もほどのぅ宿痾にために空しぅなりまして……やることなすこと、これ、悉く裏目に出……遂にはかの大枚の金銀も……我らが手から霧か霞のように消え失せまして御座った。……その総ての出来事に、つくづくと感じ入るところの御座ったれば……今生(こんじょう)未来も末恐ろしゅう覚え……かく出家遁世なして御座った。……懺悔ながら……これも人の誡めと相い成らば幸い……

   *   *

……と語り終え、すっくと床机から立って茶屋を出でたかと思うと……気付いた時には、街道の右にも左にも、その僧の影も形もなく……一体、何処(いずこ)へ行ったものやら……雲か霞のように……消え去って御座いました。……

ブログ・アクセス520000突破記念 新月 火野葦平

[やぶちゃん注:本テクストは「河童曼陀羅」完全テクスト化プロジェクトの一つであると同時に(ここのところ更新を怠っていた)、ブログ・アクセス520000突破記念テクストとしても公開した。藪野直史【二〇一三年十一月十七日】]

 

   新月   火野葦平

 

 或る義理がたい一ぴきの河童が、飛沫をちらしてがうがうと鳴る溪流のほとりにたたずんで、すつかり途方にくれてゐた。うつろに眼をみはつてぼんやりと水面をみつめてゐる。その靑褐色のとがつた細い顏は苦痛のいろをたたへ、ときどきいらだたしげにきちきちと嘴を鳴らし、甲羅の音がするほど深くためいきをついた。ひどく疲れてゐる樣子で、かたはらの岩のうへにおいた濡れ藁の籠と、しだいに酉にかたむいてゆく夕日とをなんども見くらべては、かくしきれぬ焦躁の色をあらはした。抱いてゐる瘦せた膝頭はすりむけて血がながれてゐるが、ぬぐふ氣力もない樣子である。膝頭のみでなくて、身體の數箇所に怪我をしてをり、背の甲羅も一枚剝げおちてをれば、皿をつつむ毛もすりきれて、使ひ古したたわしのやうになつてゐた。釣瓶落(つるべおと)しの夕日の速力に、河童の焦躁はさらにはげしくなるやうに見うけられた。……

[やぶちゃん注:「たわし」は底本では傍点「ヽ」。以下、同様。]

 しばらくつづいた雨のために、千軒嶽に源を發する目痛川(めいたがは)は三倍の水量となり、ながれは五倍のはやさとなり、曲り角では岩をけづりとつてゆくやうな激湍(げきたん)のなかに魚をとることは、さすがの手練(しゆれん)の河童にとつても、十倍の困難さとなつてゐた。ふだんでさへ、斷魚溪(だんぎよけい)などと人間の名づけてゐる急滯であるから、このすさまじさのなかにあつては魚とても粉碎されてしまふやにおもはれる。とはいへ、この溪流の唯一の淵となつてゐる中流のよどみに避難してゐる魚類もすくなからずあつて、その底までもひびいてくる川のとどろきにおびえながらも、水量の減退を靜かに待つてゐた。このやうな場所を河童が見のがすはずはない。ながくこの溪流を棲所(すみか)としてゐる河童には、一切の外界の影響にともなふ環境の變化について、知るところは十分であつた。かくて、すでに彼は數十日前から、水中に潛行して、魚類を攻撃しつづけてきた。しかしながら、彼の目標がつねに鮒(ふな)に集中されてゐるために、彼の事業はただちに困難に逢着した。鯉、鮎(あゆ)、鮠(はや)、岩魚、さては鯰(なまづ)山椒魚(さんせううを)まで、この避難所にむらがつてゐたが、鮒の數はさして多くはなかつた。さうして、その數すくない鮒は河童のために、毎日五ひきづつ捕獲され、いつか淵からほとんど姿を消すにいたつた眼を光らせた河童が頭の皿の緒をひきしめながら水中を游弋(いうよく)してくると、多くの魚たちは恐怖のために右往左往する、陽の光がとほしてきて幻燈繪(げんとうゑ)のやうな紺碧にいろどられた水中を、赤、靑、黑、とりどりの魚たちが花びらをまきちらしたやうにはげしく旋囘した。その騷ぎに、水藻は大風に吹かれたやうにざわめきうねつて搖れなびいた。魚の口からはきだされる白い水泡がくるくると舞ひながら、數珠(じゆず)つなぎになつて水面へのぼつてゆくが、水中の活劇のためにかきみだされて、水晶玉をふきあげたやうに散亂した。魚たちは危險からのがれるために淵を出ようとはかつたけれども、鱗をはぎ、肉をくだいてしまふやうな急流にはでることができず、あまりひろくない淵のなかだけを必死になつて逃げまはるのが關の山であつた。さうして、幾ひきかの不幸な魚が河童の食餌となつた。

[やぶちゃん注:「千軒嶽」先行作にも出るが不詳。そこを水源とする「目痛川」も当然、不詳。]

 この恐怖は日課となつて、魚たちを襲つた。ところが、おなじ慘劇が數日くりかへされたのち、魚たちは河童の來襲についての不思議な特徴を知るにいたつた。河童の來襲の時間もほぼ一定してをり、且つその攻撃もまことに整然とした規律にもとづいてゐることがわかつた。河童は淵の魚顆のうち、ただ鮒にだけしか眼をつけなかつたし、それも五ひきを得れば、見むきもせずにさつさと離水してしまふのだ。しかも、彼はそれを自己の食糧としてゐる樣子はなく、岸の岩のうへにおいた濡れ藁の籠のなかに五ひきの鮒を入れると、それを片手にぶらさげて、いづくにか立ちさつてゆくのであつた。さうして、一日に一度しかこないので、河童の去つたあとの淵には安堵の空氣がただよひ、河童の規律ある不思議な行動についでのはてしない論議がはじまるのであつた。鯉、鱸(すずき)、岩魚、山椒魚など、おのおのの立場からさまぎまの解釋をこころみ、したりげに自説を主張したりもしてみるのであるが、所詮は揣摩臆測(しまおくそく)にとどまつて、たれもが肯定できるやうな説をなすものはなかつた。

 このやうな論議のいかんにかかはらず、ただひとつ否定することのできない眞實は、毎日、五ひきの鮒のいのちが犧牲にされるといふことである。最初の驚愕にひきかへ、その理由は不可解にしろ、河童のねらふところはただ鮒ばかりであると却つて、他の魚たちはやうやく愁眉をひらいた。いつ氣がかはるかも知れないといふ不安はあるにしても、まづさしあたつて危險はないとかんがへるにいたつた。そこで河童の足音がきこえてきても、魚たらは以前のやうに狼狽しなくなつたし、なかには好奇心をもつて河童の行動を觀察する餘裕のあるものもでてきた。これに反して、鮒たらの恐怖と戰慄とが絶頂に達したことはいふまでもない。おそろしい河童の唯一の目標が日分たちであるときづいたときの鮒たちの驚愕を、なんにたとへればよいのであらうか。毎日仲間の五ひきづつが減つてゆく。さうして、河童の來襲がつづくかぎり、いつの日にか、仲間が全滅することは必至の運命であつた。今日一日をまぬがれたものも、明日のいのちを約束することはできない。仲間の多いあひだは、生存の公算も多かつたが、しだいに仲間が減るにしたがつて、鮒たちの恐怖はいよいよふかまり、もはや絶望となつた自分のいのちをいかに處理すればよいか、茫然自失して、なにをかんがへる氣力もなく、ただ不意昧に水に浮いてゐるのみであつた。強力な河童にたいしてなんら防禦の手段はなかつた。攻撃することなどおもひもよらず、ただ遁走して一身の安全をはかるほかはなかつた。多くの他の魚たちとて、大同團結してみたところで、蟷螂(たうらう)の斧にすぎない。しかしながら、鮒の危險にたいして、同情してゐるのやら、面白がつてゐるのやら、とりまいて傍觀してゐる他の魚たちの態度に、鮒ははげしい憤怒を感じてゐた。いかに強力とはいへ、相手は一ぴきではないか。平和のときばかりが友だちではない。危險のときに助けあはなくて、なにが友だらか。數千の魚が團結してたたかへば、なかには山椒魚や鯰のやうな強いものもゐるのだから、闖入者(ちんにふしや)をたふすことができはしないかと、ときに口角に泡をふいて難詰してみたこともあつたが、自分たちにはいまのところ直接の不安はないと見きはめてゐる他の魚たちは、他人のために無駄な抵抗をして怪我でもしてははじまらぬとうそぶいてゐるばかりであつた。さうして、確實に一日に五ひきの鮒が滅つていつた。やがて、鮒のすがたが點々とまばらになつたとき、つひに、のこつた鮒たちは絶望の勇氣をふるひおこして、この淵から脱出をした。しかしながら、それは死の淵から、あらたなる死のながれにでたにすぎなかつた。いつ減るともみえぬはげしい本流は、まるで鋭利な刀物を間斷なく下流にむかつて放出してゐるに似て、淵からでた鮒を容赦もなく切斷した。このやうなあからさまな危險にもかかはらず、鮒たらはつぎつぎに淵をでた。さうして死んだ。他の魚たらはその無謀を笑つたけれども、鮒たちの悲しさは、坐して瓦のごとく死するよりも、萬一をたのんで淵をでるよりほかはなかつた。さうして、その冐險ののちに、脱出に成功し、どこか岩と岩とのあひだのささやかな場所に安住の地を見いだした鮒も、わづかならずあつた。

 淵には怯懦(きようだ)なる鮒のみのこり、河童からさらはれた。淵から鮒のすがたが減ると、自然の結果として、はじめのほどはみじかい時間にさして苦勞もなく五ひきの鮒を得てゐた河童が、しだいにその日課に困難の度を加へてきた。五ひきを得るのにながい時間を要するやうになり、はてははたしてその五ひきを得ることができるかどうかとあやぶまれるやうな日が重なつた。明瞭に河童は狼狽し、いらだたしげに水中を游弋しはじめた。焦燥にみちた眼をせはしげに八方にくばつて、狂氣のごとく右往左往した。そのときには、攻撃の規律はみだれ、戰鬪の樣式も昏迷してゐた。鮒のたくさんゐるあひだにはのんきにしてゐた他の魚たらは、その河童の狂亂した行動にふたたび不安がきざし、とつぜん攻撃目標がかはるのではないかと、戰々兢々とするやうになつた。河童ににらみつけられると氣が遠くなるおもひがした。ふたたび、魚たちは河童の來襲とともに、みづからのいのちをまもるために、淵中にあぶくを水晶玉のやうにまきららしながら、逃げまはるやうになつた。しかし、河童は氣のかはる樣子もなく、腹だたしげににらみつけはするが、鯉にも、岩魚にも、鯰にも手をふれようとはしなかつた。さうして、ひどく落膽した樣子で、淵を出、力なく空の濡れ藁籠をさげて、憤然と去つていつた。

 ところが、脱出した鮒たちの安堵も束の間であつた。それは淵にたいして河童を斷念せしめるために、狡猾(かうくわつ)な一ぴきの鯰が鮒の脱走をかたり、それらのすくなからぬものが棲息してゐるとおもはれるいくつかの岩の壺を河童に教へたからである。それをきいて、河童は元氣を快復したが、それらの鮒にたいする攻撃は、淵でのやうになまやさしいものではなかつた。するどい刀物を放出するやうな激流に突入することは、水棲を習慣とする河童とて、朝飯まへといふわけにはいかなかつた。長年の手練にものいはせて、光線の速さで水の劍をよこぎつて岩壺に達し、もはやのがれ去ることのできない鮒をとることができたが、不覺にも身には各所に傷を負うた。足をくじいたり、膝をすりむいたり、折角とらへた鮒をにがしてしまつたりした。あまりの水流の激しさにたたきつけられ、急流のしぶきにはねあげられて、昏倒したことも、一度や二度ではなかつた。大切な甲羅も一枚、急流に拉(らつ)し去られた。あまりのつらさに、おもひだしたやうに以前の樂な淵をおとづれてみても、もはや淵には一ぴきの鮒も見いだすことはできなかつた。ひさしぶりの河童の出現に、てつきり氣がかはつたのだと早合點して、魚群は逃げまどひ、かはりはてた河童のすがたを見て、復讐をおそれた饒舌な鯰は、水草の奧ふかくにかくれてぶるんぶるんと顫へてゐた。淵に鮒がゐなければ、いかに困難であらうとも、また激流とたたかふほかはなかつた。彼は傷ついた身體をひきずり、がうがうと鳴る溪流の岸に立つて嘴をかみ、らんらんと光る眼に血ばしつた決意のいろを漲らせて、またも、奔騰する激湍にまつきかさまにおどりこむのであつた。かくて、連日、このやうな悽絶の苦行がくりかへされ、河童はやうやく疲弊をおぼえ、悔恨と焦燥の面持をたたへて、溪流のほとりにぼんやりとたたずむ日が多くなつた。……

 さて、われわれは冒頭で見た、水遵に傷ついた膝を抱いて、うつろな眼をみはり、苦惱のいろをうかべ、ときどきいらだたしげにきちきちと嘴を鳴らし、夕日と濡れ藁籠とを見くらべながらいよいよ狼狽し、つかひ古したたわしのやうに毛のきれた皿を振りながら、ふかいためいきをついてゐる河童のすがたにかへつてきたのであるが、さらにそれならばなぜ彼がそのやうに力をおとしたすがたで途方にくれてゐるのか。またなぜ彼はそのやうに一日に鮒を五ひき得ることを絶對の日課にしなくてはならなかつたか。また、冒頭に「或る義理がたい一ぴきの河童」と書いたが、しからば彼がどのやうに義理がたいのであるか。それらのことについて語らねばならない。

 四十日ばかり前のことである。彼はひとつの失策を演じた。下流の俗に佛土堤(ほとけどて)といはれてゐる場所で、人間を水中に引きこまうとこころみて、あべこべに陸にひきあげられた。なんといふ協力無雙な人間であつたことか。皿に適度な水をたたへてゐるときには、河童は自分の膂力(りよりよく)に絶大の自信を持つてゐて、牛でも馬でも水中にひきいれることは易々たるものである。引き綱にまきつけられ、かへつて馬からひきずられて不慮の災厄にあつた仲間もゐたけれども、綱に手足をからめぬ注意さへしてをれば、馬一頭くらゐひきこむのはさして困難ではなかつた。まして人間ひとりくらゐは馬に比べればものの數ではない。雨もよひの朝まだき、河童は土堤を通りかかつたひとりの男の尻子玉をねらつて、水中から手をのばし、無造作にうしろから片足をつかんで、水中へひきいれようとした。すると、二三歩はついてきた人間の足が水際でぴたりととまり、いきなり首筋をつかまれるとおどろくべき力でずるずるとあべこベに水中からひきずりあげられた。たしかに油斷であつた。しまつたとおもつたときには、身體は宙に浮いてゐて、空と川と木と草と人間の顏とがくるくるとが走馬燈のやうにまはつて、眩暈めまひ)を感じると同時に、したたかに地面にたたきつけられてゐた。皿に水さへあつたならばこのやうにあつけなく敗北を契すことはなかつたのだが、あつとおどろいた拍子に水がながれでたとみえて、身懷中からまつたく力といふものが拔けてゐた。氣が遠くなり、氣づいたときには荒繩でぐるぐる卷きにされて、厩舍(うまや)の片隅に投げだされてゐた。嘔吐(おうと)をもよほす臭氣がただよひ、馬糞のなかにころがされてゐると知つて、河童はおもはず無念の吐息がでた。百姓家らしく、鍬(くは)、鎌、犂(すき)の類が壁に立てかけられ、天井には黄色い煙草の葉がずらりと干しならべてあつた。やかてどやどやと五六人の人間がやつてきたが、手に手に鎌や棍棒の類を持つてゐて、河童をとりまきながら、こいつがいつも禍(わざ)をしよつたんだな、逃がすな、うち殺してしまへ、などと口々に喚(わめ)いてゐた。子供や、女もゐた。この家の家族なのであらう。おどろいた河童は必死になつていのち乞ひをした。こののちはけつして人間にたいして危害を加へないといふことを、何度もくりかへした。人間たちがはかばかしく返事をしないので、必死となつた河童は、もし自分のいのちを助けてくださるならば、貴家において魚に不自由をきせることはしない、家族が五名をられるやうであるから、明朝より毎日魚を五ひきづつ獻呈することにしたい、なにとぞいのちばかりはお助けねがひたいと、懇請した。この一瞬にかかつてゐる生命の危險に、河童はわれながらあさましいとおもふほどの卑屈な態度で歎願したが、いまは恥も外聞もかんがへてをられなかつた。いのちが惜しきのでたらめだらうといふ人間の疑惑をとくために、河童はけつして噓をつかないといふことを躍起(やくき)となつて力説してみたけれども、所詮それとて證明しようもない辯解としか人間にうけとれる筈もなかつた。しかしながら、この哀れな河童のすがたはすこしく人間の心を動かした。この人問は強力無雙であつたが、人情もろい一面も持つてゐたらしく、河童の條件を信用したわけではなかつたらうが、その哀願をききいれて、繩をほどいた。河童はうれしさのあまりに、ぴよこんと飛びあがり、おもはず土下座して人間を拜んだ。その恰好がをかしかつたか、人間たちはどつと笑ひくづれた。鼻孔の巨大な強力の百姓は金壺眼(かなつぼまなこ)を細めて、微笑をふくみながら、これからはけつしてこの村の人間に手をだしてはいかんぞと威嚴を示していつた。その銅鑼聲(どらごゑ)は胸の奧までひびいて、河童はいくどもその旨を宣誓した。もう躇つてよいといはれて立ちさらうとすると、人間はよびとめ、魚をくれるといふのはほんたうかと念をおした。相違なき旨をこたへると、なんの魚かと人間は問ひかへし、鮒が食ひたいな、鮒がええと子供がさけびだして、結局五ひきづつ毎朝とどけるといふ確約をした。いのちを助けられて、鮒の五ひきくらゐの禮ですめばたやすいことだし、河童としてはこの取引はあたかも大勝利のやうなつもりで、その家を辭したわけであつた。ただ歸るとき、河童は人間にむかつて傳説の掟のきびしさと約束とを語り、河童といふものは刀物をきらふのである。自分は毎日魚をとどけにくるが、けつして自分の眼前に刀物を見せないでほしい、自分は約束した以上、一年でも二年でも、貴家一代の間でも鮒をおとどけするが、刀物を見たときには傳説の掟にしたがはねばならぬので、その日からやむほかはない、とつけ加へた。人間がそれを承認したので、河童はすこし水をもらつて頭の皿にそそぎ、やうやく力を快復して、水底にかへつた。おもはぬ不覺によつて、はたさねばならぬ負擔ができたが、いのちのあつたことにたいするよろこびにくらべればなにほどのことでないとおもつてゐた。そのことが非常なる認識不足であつたことに氣づかなかつたのは、もともと河童といふものが暗愚とおひとよしの生れつきのせゐであつたかも知れない。

 翌朝、半信半疑であつた人間は、裏庭の井戸端にでてきて、河童が約束をまもるものであることを知つた。うちあはせたとほり、井戸の横にある柿の木の枝に籠をつるしておいたが、そのなかに竹の葉にのせられた新鮮な五ひきの鮒が入れられてあつた。暗いうちに入れて歸つたものであらう。數町はなれた川からの道に、かすかに水かきのある足の往復した跡がみとめられ、やや靑昧をおびて濡れてゐた。

 翌朝も、次の朝も、その翌朝も、まつたくおなじことがつづいた。この一家は鮒にめぐまれ、家内中で、煮たり燒いたりして食べ、近所にもわけたり、ときに賣つたりして、悦に入つた。ほんたうに約束をまもるなら、五ひきといはず十びきに、いや十五ひきにしとけばよかつた。どうせ河童のことだから五ひきとるも十きとるもおなじことだらうにと慾ばつたことをかんがへたり、いつたりして笑つた。それからの毎朝、一日も缺けることなく、柿の木の籠は五ひきの鮒にみたされて、河童が信義にあつき動物であることをあきらかにした。

 二百十日の風がことなくすぎると、近年にない豪雨がこの近郊をおとづれた。雨はところによつては崖をくづし、家をたふしたりしたが、目痛川(めいたがは)の水量を三倍にして、中流から上流にかけての溪谷はすさまじい急湍となつて、日夜、がうがうと鳴つた。このやうな自然の變貌にあつて、河童の鮒をとる作業がしだいに困難をきはめるにいたつた事情は、前述したとほりである。しかしながら、その河童の苦衷(くちゆう)といふものはまつたく人間にはつたはらなかつた。なぜなら、人間は天候や作業の困難などには無關係に、あひもかはらず、正確にさしいれられる五ひきの鮒に滿足してをつたからである。したがつて河童への同情などわくわけもなく、また感謝の念すらも持つてゐなかつた。いのちを助けた當然の報酬とおもひ、むろんその鮒の五ひきがいかなる惡戰苦鬪の結果得られたものであるかどうかといふやうなことは、さらに注意をむける筈もなかつた。傷つき、疲れ、いまは生命を賭する冐險を連日くり返すのでなければ、五ひきの鮒を得ることば至難になつたのに、人間は朝になつて籠をおろしてみて、このごろの鮒は生きがわるくなつた、死んでゐるのや鱗のはげたのがある。河童のやつ、だんだん不誠實になりだした、などとつぶやくのであつた。家内の着たちが語りあつてゐる。河童といふものは案外律儀だねえ。もうあれから何十日になるかしらん。まだ五十日にはならないよ。一年でも、二年でも、十年でも、一代でもなんて、えらさうなことをいつてをつたから、まづ鮒に不自由はないね。鮒ばかりで食ひ飽いたな。今度ひつつかまへて、鯉とか、鮠とか、ときどき變へるやうにいつてやろか。どうせ、河童だから魚をとることなんてわけないだろ。たつた五ひきにせずにふやすやうにならんもんかな。お父うが河童をつかまへたとき、河童がお父うの家來にしてくれというたといふのはほんたうか。うん、河童は自分より力が強いもんはをらんとおもつとつたんぢやな。お父うがひきずりあげたら、こんな力の強い人にははじめてであうた、今日から家來にしてくれ、毎日、魚はなんでもさしあげるといひをつたよ。そんなら、鮒五ひきくらゐぢやつまらん。今度あうたら毎朝鮒五ひき、鯉五ひき、鮠五ひきにしてもらうておくれや。うん、そんなこたわけない。お父うがつかみころすぞといへば、河童奴、いのちが惜しいからなんでもききをるわ。それから家族たちは賤しい慾ばつた顏をして大きな聲で笑ふのであつた。河童はそれをみんなきいてゐた。そして、齒を食ひしばり、憤りと悲しみと悔いとの錯雜した感情をいだいて、動搖する心とたたかつた。自分の苦心がまつたく知られないことはともかくとして、人間の得手勝手な放言にがまんならぬおもひがした。あのときはたしかに油斷のために、おもはぬ不覺をとつた。しかし正常に準備をして對等に立ちむかへば、人間に敗北する筈はないのである。たとへ強力無雙といへども、頭の皿に水をたたへ、菱の實をふくんでむかへば人間の膂力の限度は知れてゐる。その後、彼をうち挫いた人間の力のほどをひそかに鑑定してみれば、常人よりほんのすこし強いといふだけであることがわかつた。河童はかくて悔恨の臍(ほぞ)をかみ、とりかへしのつかぬ不覺に地團太をふむのであつた。どんなに苦勞をして五ひきの鮒をとどけてゐるかも知らずに太平樂ばかりいふ人間に腹がたつて、いつそ、もうやめてやらうかとかんがへてみたこともないではなかつたが、そのかんがへを惡魔の思想であるとして、河童は直ちに否定した。まこと河童こそは愚直きはまるものであり、また傳説の掟こそは鋼鐡の規律であつた。いかなることあるも、約をたがへるは河童の名譽を失墜するものであるとするこのやうな頑迷の一徹さは、傳説を偉大なるものとして生活の方法に示唆をあたへることがあるかも知れぬが、河童が度しがたく愚直にしておひとよしであるといふ定説を否定することはできまい。人間にひつとらへられ、生命の危險に遭遇して約束をし、やうやく解放されてゐながら、その約束のためにより苦痛な生命の危險にさらされてゐる自分の立場に想到せず、いちづに傳説の掟に忠實ならんとしてゐるやうな河童を、暗愚の最たるものであると定義したのは人間の思想であつた。いづれにしろ、この河童の唯一の實踐の道は、つねに生死の巷を彷徨(はうくわう)してゐるやうな土壇場におかれてはゐたが、彼自身としてはその行爲そのものについての悔いはさらにないのであつた。かくて、いよいよ困難になつてゆく鮒捕獲のため、河童はますます苦境におちいり、疲弊は極に達し、全身傷だらけとなり、その後、甲羅は四枚もはげて、亡靈のごとく瘦せ衰へた。ただ執念の鬼となつて、鮒を追ひ、からうじて約のみはたがヘずにきたが、やがて、自分も死期がきたのではないかといふ不安に驅られるやうになつたのである。

 はじめのほどは意氣揚々と、五ひきの鮒を柿の木の籠に運んだが、いまは歩く氣力も衰へて、びたびたと足どりも弱くはかどらなかつた。このやうなときにも、まだ人間どもの太平樂と放言と不平とをきかなければならなかつたが、もはやそれにたいして憤りの心もわかなかつた。腰の蝶番も弱つて、がくんがくんと歩くたびにはづれさうになるが、鮒だけは落してはならぬと濡れ藁籠をしつかりと兩手で抱いた。自分のすがたを人間にさらすことを避け得たのはせめてものさいはひであつた。このときにもまだ河童は見榮坊の心を大切にしてゐたとみえる。

 やうやく、川の水量が減り、ながれも靜まり、水中にはいることが危險でなくなつたときには、河童の體力が衰へてゐた。元氣であつたならば、いまは五ひきの鮒をとることは易々たるものであつたのに、苦痛は以前にも増してゐた。氣ばかり焦つても動作がともなはず、眼前を泳ぐ鮒をつかむことができぬこともあつた。

 かつて淵のなかで河童に威嚇(ゐかく)された鯉や鮭や繪などが、いまは哀へはてた河童を嘲笑し愚弄するやうになつた。敏捷な彼等は河童がいかにくやしくても追つかけてくることのできないことを知つてゐたからである。河童はふと眩暈(めまひ)をおぼえ、人事不省になつて、水中をただよつてゐることがあつた。岩角に頭をぶつけてはつと氣がつき、氣がつくとうつろな眼で鮒をさがした。かういふ状態がこれ以上つづいたならば、河童は人間への約束をはたすどころか、肝心のいのちをも失つたであらう。しかしながら、よろこぶべきことには、哀れな河童が最後まで名聲を失はずにすむことのできるやうな事態がおこつた。

 或る朝、やうやくにして得た五ひきの鮒を濡れ藁籠に入れ、蹌踉(さうらう)足どりで河童が人間の家に近づくと、、井戸端の緣にきらりと光つたものがあつた。まだ暗く、晴れた夜空に、星とともに新月がかがやいてゐたが、その光が井戸端のうへにあるなにかに反射した。河童ははつとして立ちどまつた。眼をこらした。井戸端のうへのものは、あたかも空にある新月がそのまま影を落したやうにするどく靑く光つてゐた。傳説の掟のきびしさはたらちどころにあらはれ、心臟の冷えるおもひになつた河童は恐怖のあまりおもはず籠をとり落した。籠からをどり出た五ひきの鮒が五本の刀物のやうに新月の光をうけて靑くきらめいた。跛(びつこ)をひきひき、びたびたとぶざまな足音をのこして、河童はもときた道を一散にひつかへした。四枚も甲羅がはげおちてゐるので、走るたびにぎしぎしと背がいやな音をたて、すりきれた古たわしのやうな頭の毛がをどつた。河童は息もきれぎれに遁走しながら、寂寥(せきれう)と、悲哀と、忘我と、なんともいひやうのない錯雜した感慨につつまれながら、やうやく水底のわが家へ歸つた。絶叫したいやうな、消えいりたいやうな、とめどもない惑亂のうちに、耐へに耐へてゐた疲弊が一度にどつとのしかかつてきて、いつか昏々とふかい眠りに落らてゐた。

 夜が明けると、人間の家ではさかんな口論がはじまつた。長いあひだつづけられた河童の約束が破られたからである。柿の木の籠にははじめて鮒がはいつてゐなかつた。お父うは怒號し、その妻と子供とが泣き喚いた。鮒は家から一町ほど手前の道傍に散亂して發見きれた。河童がここまできてなにかにおどろいて逃げていつたことは、血のめぐりのわるいお父うにも理解された。巨大な鼻孔を鞴(ふいご)のやうに鳴らして、人間は運をとりにがしたことをくやしがつた。馬鹿なことをするやつらだといつて、その妻と子供とがおのおの五つづつ毆打(おうだ)をくらつて泣いた。妻と子供とが共謀して、井戸端のうへに刀物をのせておいたことはたちまち露見した。どうしてそんないらんことをするか、きさまらの了見がわからぬと、お父うはもはや明日から鮒のこなくなる殘念さで、いつまでも喚きちらしたが、妻と子との了見は明瞭であつた。はじめは鮒も食べられるし、面白年分であつたが、約をたがへず毎朝鮒がくるやうになると、しだいに薄氣味がわるくなつてきた。いはばお化けである河童が、夜ごとに家のかたはらまで忍んでくることをかんがへると、不氣味さが嵩じてきて、夜も眠れぬことがあるやうになつた。夜中になにか音がしても、河童ではないかとおもひ、外にある便所にゆきたくても怖くてゆけなくなつた。おとなしいやうでも河童のことだから、ふと氣がかはつてなにをしでかすか知れたものではない。暗いうちに魚をとどけにくる河童が、家のまはりを徘徊したり、家のなかを覗いたりしてゐることをかんがへると身ぶるひがした。さうおもかだすと、もう鮒どころではなく、河童の來訪をことはらねば、神經衰弱になつてしまひさうであつた。お父うに相談したところでききいれるわけがないので、恐れをいだく氣持で一致してゐた妻と子とが話しあひのうへ、お父うに内緒で、井戸端の上に包丁(はうてう)をのせておいた。いつか河童が約束をしたときに、刄物だけはごめんだといつたことをおもひだしたからである。さうして、河童の來訪がとまつたら、やつぱり河童なんて噓つきだと、罪を河童になすりつけるつもりでゐたのである。このことは子供が白狀したためにたちまちあらはれ、その後長いあひだ、お父うが妻と子の迂愚を罵倒する絶好の口實となつた。賤しい人間たちは路傍に散亂した鮒をひろつて食べたが、この河童の最後のおくりもののため、なぜか家内中ひどい腹下しをした。

[やぶちゃん注:「迂愚」「うぐ」と読み、物事に疎く愚かなこと。愚鈍なこと。また、そのさま。]

 水底では河童は昏々と眠り、夢なのか現(うつつ)なのかわからないやうな何日かをすごした。天候は快復してゐて、さしこんでくる光線はきらきらと水中に銀の幕をたなびかせ、靑々したゆるやかなながれに水藻がしづかにただよつて、木の葉のやうに魚たちが游弋してゐた。水面には落葉がしきりに降るらしく、光の玉が何百何千となくゆれうごいて水紋がしきりにひろがりちぢまり、ぶつかりあつた。鮠、鯉、鰻、岩魚などにまじつて鮒が泳いでゐたが、もはやどちらからも特別な考慮をはらふわけでもなかつた。長い髭をひねくりながら、鯰が穴からちよいとのぞいたり、のたりのたりとものうげに山椒魚が這ひまはつてゐるうへを、列をなして目高の一隊が雁のやうに通りすぎる。潺湲(せんかん)の昔は遠くかすかで、幻のやうな水底のうごきをながめながら、河童は寢そべつたまま、一切の記憶を喪失したやうな、ほうとした顏つきをしてゐた。滿ちたりたやうな、ときにもの足りぬやうな面持をたたへながら、河童の今囘の決心は、しばらく旅をしてみたいなどといふ、とぼけたことにすぎなかつた。

[やぶちゃん注:私も、この読後「しばらく旅をしてみたいなどといふ、とぼけたこと」を考えた……。]

520000アクセス突破

先程、19時14分14秒に「Blog鬼火~日々の迷走」2013年5月のアーカイヴをご覧になられたユニーク・アクセスのあなたが2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、520000アクセス目の訪問者でした。向後ともよろしくお付き合いの程、お願い申し上げます。
それでは記念テクストの公開作業に入ります。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 5 大森貝塚事始

 横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、線路の切割に貝殻の堆積があるのを、通行中の汽車の窓から見て、私は即座にこれを本当の Kjoekkenmoedig(貝墟)であると知った。私はメイン州の海岸で、貝塚を沢山研究したから、ここにある物の性質もすぐ認めた。私は数ヶ月間誰かが私より先にそこへ行きはしないかということを、絶えず恐れながら、この貝墟を訪れる機会を待っていた。私がこの堆横の性質を話したのは、文部省督学のドクタア・マレーただ一人である。今や大学に於る私の仕事が開始されたので、私は堆積を検査する準備にとりかかった。先ず私は鉄道の監理者から、その所有地に入り込む許可を受けなくてはならぬ。これは文部省を通じて手に入れた。間もなく鉄道の技師長から次のような手紙が来た。

 

 総ての線路工夫等等等へ

 この手紙の持参人(文部省教授の一人なり)及び同伴の学生に、本月十六日日曜日、線路にそうて歩き、彼等が希望する工事の検査を許可すべし。

 彼等は、列車を避け、且つすべての工事に干渉せざるべし。

     工部省鉄道局建築技師長

           エル・イングランド

[やぶちゃん注:「横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、線路の切割に貝殻の堆積がある」遂に大森貝塚発見の話がここに登場する。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の第十二章「大森貝塚の発掘」によれば、まずこの「横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った」日は六月十九日、未だ横浜に上陸して丸二日も経たない、それも車窓からの一瞬の嘱目を見逃さなかった発見であった(但し、ここに見るように発掘は初回が九月十六日、二回目が九月十八日か十九日で、九月二十九日にはモースの命を受けた佐々木忠二郎が探査に行き(注で後述)、十月九日から本格的な発掘が行われた。更に後で述べるように、実は「大森貝塚」はモースが最初の発見者では実はないようである)。モースが貝塚に興味を示すようになった痕跡は、一八六二年モース二十四歳の時、ポートランド博物学協会で行った“Excavation at Goose Id. Me., and occurrence of rare Helices beneath Indian deposits”(メーン州グーズ島に於ける発掘とインディアン堆積層下層からの珍しいカタツムリ類の発見)という報告の遡れるという。欧米で貝塚が古代人の塵捨て場の遺跡であると認められるようになったには一八五〇年前後で、モースは一八五九年からの二年余り、ハーバード大学のルイ・アガシー教授の学生助手を務めたが、その時、アメリカでの貝塚発掘と研究のパイオニアの一人であった同大のジェフリー・ワイスマン(Jeffries Wyman  一八一四年~一八七四年)の講義を聴き、ワイスマンが一八六七年の夏と秋に行ったメーン州とマサチューセッツ州での貝塚発掘にも同行している。一八六七年十月のボストン博物学会例会で「グース島貝塚が太古のものである証拠」という題の発表(後に同会報や雑誌“Canadian naturalist”に要約掲載)をしているのが、貝塚を主題としたモースの初報告で、そこでモースは貝塚からの出土品の中に石器が乏しいことが貝塚の古さを示すゲージであるとしており、この大森貝塚の年代推定にもそれが採用されている。モースが論文に発掘場所の詳細を書かなかったこと、貝塚発見の報告文書には所在地を大森村と記していることから、当初の発掘地点については長い間、品川区説と大田区説の二説が存在した。しかし、その後昭和五九(一九八四)年までの複数の調査によって東京府が大井村字鹿島谷二千九百六十番(現在の品川区大井六丁目二十一番)の土地所有者桜井甚右衛門に調査補償金五十円を支払った文書が発見されたこと、現在、車窓から現認出来る記念碑が三百メートル程離れた位置に二つあるが、その一方の「大森貝塚」碑(昭和四(一九二九)年建立)周辺の再発掘で貝層が確認されたのに対し、「大森貝墟」碑(昭和五(一九三〇)年建立)周辺では見つからなかったことから、現在ではモースが調査したのは品川区側の線路に沿った貝塚部分(実は北西の台地部分には別な広範な貝塚が存在し、モースの報告書「大森貝塚」にも「線路の裏手九十五メートル地点に別の貝塚がある」と載る)であったことが分かっている。従って正確を期するとすれば「大森貝塚」ではなく、「大井貝塚」と称するべきであって、この名称の誤りについて磯野先生は、次の段落に記されているように、発掘の際には常に大森駅から歩いた、そこでモースが仲間内で「大森貝塚」と通称してしまったことが混乱の種となったとある(この所在地説についてはウィキの「大森貝塚」も参考にした)。

Kjoekkenmoedig(貝墟)」貝塚。現代英語では“kitchen midden”(単に“midden”とも)。ドイツ語“Køkkenmøddinger”、デンマーク語“Køkkenmødding”で、考古学用語がスカンジナビアの言語の影響を受けた中世英語から選んだ結果らしいが、現代の辞書には見出せない特殊な綴りの英語で、そもそもどう見ても英語には見えない。なお、二〇一二年度早稲田大学国際教養学部入試日本史の「Ⅲ」では「モースの滞在記録(英文史料)」(恐らくは本書)が出題されており、まさにこの奇体な熟語を含む部分から出題されているようである。

「私は数ヶ月間誰かが私より先にそこへ行きはしないかということを、絶えず恐れながら、この貝墟を訪れる機会を待っていた。私がこの堆横の性質を話したのは、文部省督学のドクタア・マレーただ一人である」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、九月二十九日にモースの命を受けた佐々木忠二郎が探査に行った際、佐々木は大森貝塚で何と、モースと同じ御雇い外国人教師でドイツ人の、金石学及び地質学担当である理学部教授ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann 一八五四年~一九二七年)と逢った。帰った佐々木から『その報告を受けたモースは先をこされるのを心配したらしい』とあって、更に『モースが知っていたかどうか不明だが、フイリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子、ハインリッヒ(ヘンリー)・フォン・シーボルトもこの頃大森貝塚の発掘を計画していたことが、ボン大学日本学研究所長のヨーゼフ・クライナー教授の最近の研究で明らかになっている。なにしろ、線路脇の目立つところにある貝塚のこと、それまで誰も発掘していなかったのが不思議なくらいである』と続く。則ち、「大森貝塚」を現認していた人物としてはモース以前にこのハインリッヒ・フォン・シーボルトいた可能性があり、ナウマンもモース以前に既に存在は知っていた可能性があるということになる。あくまで最初の発掘者がモースであったということになるが、そこでは実はモースの意外な一面にとしての、したたかな速攻戦略術が展開されたものと見ていいだろう。その証拠に磯野先生は続けて、『ともかく、モースは大学当局を動かし、十月一日付で東京大学から東京府に対する発掘願を出してもらった。松浦佐用彦がそれを東京府に持参したが、その発掘願のなかに』(以下、引用文を正字化して示す)

「古生物發見ノ義ハ全クモース氏ヲ以テ初メトシ候事ユヘ、若シ右傳聞他ニ掘採スルモノ有之候而バ、自物品散佚年代徴考ノ便ヲ失ヒ候ニ付、掘採許可之義ハ暫ク本部限リ、他ヨリ願出候而モ御聞届無之樣致シ度候」

『と他者の発掘を認めぬように要請しているのである』と記されておられるのである。文部学監のマレーが同じアメリカ人で、モースとウマが合った(日光旅行もマレーの誘いであった)ことなども陰に陽にプラスに作用しているようにも思われる。なお、以前にも注した通り、ナウマンとはここでライバル関係に立ってしまい、学際的に被る部分が多くあったにも関わらず、全くと言っていい程、交流がなかったようである。

「等等等」は「とうとうとう」と音読みしているものと思われる。原文は“&c., &c., &c.”で、“&c.”は“etc.”と同じく、ラテン語由来の“et cetera”の略語。

「工部省鉄道局建築技師長/エル・イングランド」原文は“L. England”(改行で以下右インデントで)“Principal Eng. Sec, I.G.C.”。名前の頭文字や肩書などで齟齬があるが、これはイギリス人のお雇い外国人技師ジョン・イングランド(John England ?~一八七七年)のことであろう。明治三(一八七〇)年四月から五ヶ年の契約で建築副役として来日し、同年四月に新橋~横浜間の、七月には大阪~神戸間の鉄道測量を行い、明治七(一八七四)年からは神戸建築課の業務を主管、翌八年八月には再度、新橋~横浜間に戻って木橋改修や複線化工事を監督、明治一九(一八八六)年二月に建築師長となっている。]

中島敦 南洋日記 十月十四日

        十月十四日(火) 雨、一時曇
 午前公學校。午後トラック旅館にて、海軍の人と將棋。公學校生徒の發音――キャ、キョが kya, kyo とならず kiya, kiyo となる傾きあり。ア行とハ行とは常に混同さる。連日の惡天候には全く呆れ果てたり。

夕立や草葉を摑む群雀 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   夕立や草葉を摑む群雀

 急の夕立に打たれて、翼を濡らした雀たちが、飛ばうとして飛び得ず、麥の穗や草の葉を摑んでまごついて居るのである。一時に襲つて來た夕立の烈しい勢が、雀の動作によつてよく描かれて居る。純粹に寫生的の繪畫句であつて、ポエジイとしての餘韻や含蓄には缺けてるけれども、自然に對して鋭い觀照の目を持つて居た蕪村、畫家としての蕪村の本領が、かうした俳句に於て表現されてる。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。]

鬼城句集 秋之部 栗

栗     小さなる栗乾しにけり山の宿

2013/11/16

臨時休業

教え子のカップルを「駒形どぜう」に招待するので本日はこれにて臨時休業と致します 心朽窩主人敬白

草の雨祭の車過てのち 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   草の雨祭の車過てのち

 京都の夏祭、即ち祇園會である。夏の白晝(まひる)の街路を、祭の鉾や車が過ぎた後で、一雨さつと降つて來たのである。夏祭の日には、家々の軒に、あやめや、菖蒲や、百合などの草花を挿して置くので、それが雨に濡れて茂り、町中が忽ち靑々たる草原のやうになつてしまふ。古都の床しい風流であり、ここにも蕪村の平安朝懷古趣味が、ほのかに郷愁の影を曳いてる。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。「夏の白晝」は底本では「夕の白晝」であるが、初出によって訂した。言わずもがな、「徒然草」第百三十七段「花は盛りに」の平安貴族的審美観を寄合した句である。]

鬼城句集 秋之部 梨

梨     梨畑や二つかけたる虎鋏

2013/11/15

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 4 お雇車夫と女中(車夫の妻)/中国人の靴屋/内国博覧会の浮彫細工

 屋敷にある私の家では、私が月ぎめでやとった人力車夫が、私のために用達をし、私のいいつけで、理解出来ることなら、何でもよろこんでやる。別の車夫の神さんが――この女は忠義で正直だが、どっちかというと美人ではなく、黒い歯をしている。これは括婿した療人が行う、実に気味の悪い醜化作用で、我々が歯を白くしようとするのと同じく、わざわざ苦心して、ある種の染料で歯を黒くする――一ケ月三ドルという素晴しい金額で、毎晩やって来ては、私のタオルを洗ったり、靴を磨いたり、その他部屋女中の役目をつとめる。私は家全体を占領しているので、隅から隅まで、物をちらかしておくことが出来る。車夫のお神さんに、机の上の物でも、床の上の物でも、断じてさわってはならぬと厳重にいい渡してあるので、彼女はそれを遵奉する。晩になると、いささか淋しいが、私は沢山書き物をするので、暇さえあればペンを持っている。

M222_2


図―222

 

 図222は、私の靴を修繕している支那人の靴屋である。東京及び横浜で、彼等は各種の職業を求めて、仕事を沢山持っているが、就中、洋服屋と靴屋としては、大いに成功している。彼等の中には、非常に上手な写真屋もいる。洗濯屋はいう迄もない。私はすでに洋服一着と、頑丈な靴一足とを支那人達につくらせたが、値段は米国に於るよりも大分やすい。


M223_2

図―223

 

 今日の午後、私はまた産業博覧会へ行った。今度は、博覧会の会長に宛てて、私に写生を許可することを依頼する、大学綜理の手紙を持って行ったのであるが、建物を写生することは許されても、出品物を写生するためには、各出品人の許可を得なくてはならぬという次第である。加藤さんは私のために、出品者に示すべき手紙を手に入れようと努力しておられるが、それ迄の間にも、私はもう数枚写生をしようとした。然し役人達が邪魔をしたり(疑もなく、命令に従ってであろうが)、見物人がスケッチを見ようとして集って来たりして、うるさくて仕方がないから、とうとう絶望して会場を立ち去った。私が会場にいた最後の一時間は、役人の一人が最も無関心な態度で、その実、私が一枚も写生をしないということを見届ける気で、私を尾行した。私はこれは面白いぞと思ったから、あちらこちらの隅々を出たり入ったり、一つの建物から別のに移ったり何かして、さんざん彼を引きまわしてやった。こんな真似をしながらも、私は若干の写生をすることが出来たが、その中の一つは、前から非常に写生したかった、壁にかける美しい板なのである。それは一種の濃紅に塗った簡単な額縁に入っていて、木理(もくめ)をこすり出した虫喰いの杉板四枚に、漆で朝顔その他の植物をあらわし、終りに近い月は磨いた真鍮で、葉は暗色の青銅で、朝顔の花は白と青の釉薬をかけた陶器で出来ている(図223)。これはすべて盛上(もりあげ)細工である。葉の端が摩れ損じてギザギザになっている、このような模様を製作するということは、我々には一寸思いつかぬことであろう。日本人はこれをよろこぶらしく、そしてこれは確かに美麗で、人の心を引きつけた。

[やぶちゃん注:「産業博覧会」明治一〇(一八七七)年に上野公園で開催された政府主催の第一回内国勧業博覧会。既注したが再注しておく。既に見たようにモースは八月二十一日の同開会式に出席後、その後の再訪でそこに出品された工芸品にいたく感動し、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『帰国するまでに少なくとも八回訪れ』ているとある。これは同書の注記から本「第九章 大学の仕事」後文で『博覧会が開かれてから、私は都合七回見に行き、毎回僅かではあるが、写生をして来ることが出来た』とあるのに加えて、次の「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚」の終わりの方で、モースが一時帰国をする送別会が行われ、その晩餐後に『一同で展覧会へ行った』という一回を加えているものと思われる。それにしてもモース先生、不愉快な尾行を困らせた上にちゃっかりこっそりスケッチも認めるところなんざ、なかなかにお茶目なんだから!

「加藤さん」先に出た京大学法文理三学部綜理加藤弘之。

「盛上細工」原文“relief”。

「終りに近い月」底本では直下に『〔三日月〕』と石川氏の割注が入る。やや形がおかしいが図左手上の楕円形のものがそれであろう。]

耳嚢 巻之七 古猫奇有事

 古猫奇有事

 石川某親族の元に年久しく飼(かへ)る猫有(あり)しが、或時客ありし時彼(かの)猫其邊を立廻りしに、彼猫は古く飼置(かひおき)給ふ抔物語の席にてい主申けるは、猫は襖抔建付(たてつく)るを明(あく)る者也(なり)、此猫も襖のたて明(あけ)をいたし、此猫もやがて化(ばけ)もいたすべきやといふを聞(きく)客も驚(おどろき)しが、猫てい主の㒵(かほ)をつくづく見て立出(たちいで)しが、其後は何方(いづかた)へ行(ゆき)しや行衞知れず。亭主の言葉的中故(ゆへ)なるべしと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:妖猫奇譚二連発。
・「古猫奇有事」は「こびやうきあること」と読む。
・「石川某」直近二つ前(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では直前)の「變生男子又女子の事」で中小姓が女に変じた例を挙げる「石川某」と同一人物の様に読める。

■やぶちゃん現代語訳

 古猫(ふるねこ)に奇しきことある事

 石川某(なにがし)の親族の元に、年久しく飼うて御座った猫があったと申す。……
   *
……ある時、客が御座った折り、その猫が主客の座せる座敷近くをうろついて御座ったが、
「この猫は古うから飼(こ)うております猫で御座ってのぅ……」
なんどと、物語の序でに亭主が申しましたは、
「……猫と申すものは、襖なんどを締め切って御座っても、これ、器用に開くるもので御座る。……この猫も襖の開け閉めを人の如く致いて御座る。……いや……この猫もやがては……化けたりも、これ、致すもので御座ろうかのぅ……」
と言うたによって聞いた客も驚いた。
……ところがその時
……うろついて御座った猫が
――ピタ
……と、足を停めた。……
……そうして
……亭主の顔を
……そのまま
――ジッ
……と、見詰めた。……
……暫く致いたかと思うと
――プイ
……と、座敷を出でて行ったと申す。……
……が
……そのまま
……何方(いずかた)へと行ったものやら一向、行衞知れずと相い成ったと申す。
……これは……亭主の言(げん)がまっこと、真実を射たもので御座ったがゆえ、かく姿を隠したもので御座ろう……。
   *
と、石川殿が語って御座った。

中島敦 南洋日記 十月十三日

        十月十三日(月) 曇

 朝九時より公學校に行き授業參觀、稻校長と一時間ばかり語る。歸途、獨身宿舍に堀君を訪へば風邪にて臥床中。タマタマ島の怪しきダンスの寫眞を見せて貰ふ。午後散歩。夏島は何處を歩きても不愉快なり。公學校下にて、紺色に白き紋ある蝶を見たり。初めて見る蝶なり。

[やぶちゃん注:「紺色に白き紋ある蝶」蝶は門外漢であるが、鱗翅目タテハチョウ科メスアカムラサキ属リュウキュウムラサキ Hypolimnas bolina か(ネット上でチューク諸島に棲息を確認した)、その仲間であろうか。]

更衣野路の人はつかに白し 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   更衣(ころもがへ)野路の人はつかに白し

 春着を脱いで夏の薄物にかえる更衣(ころもがへ)の頃は、新綠初夏の候であつて、ロマンチツクな旅情をそそる季節である。さうした初夏の野道に、遠く點々とした行路の人の姿を見るのは、とりわけ心の旅愁を呼びおこして、何かの縹渺たるあこがれを感じさせる。「眺望」といふこの句の題が、またよくさうした情愁を表象して居り、如何にも詩情に富んだ俳句である。こかうした詩境は、西洋の詩や近代の詩には普通であるが、昔の日本の詩歌には珍しく、特に江戸時代の文學には全くなかつたところである。前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」や、春の句の「陽炎や名も知らぬ蟲の白き飛ぶ」などと共に、西歐詩の香氣を強く持つた蕪村獨特の句の一つである。
 因(ちなみ)に、蕪村は「白」といふ色に特殊な表象感覺を有して居て、彼の多くの句に含蓄深く使用して居る。例へば前に評釋した句、

     白梅や誰が昔より垣の外
     白梅に明る夜ばかりとなりにけり

 等の句も、白といふ色の特殊なイメーヂが主題になつて、これが梅の花に聯結されて居るのである。これらの句に於て、蕪村は或る心象的なアトモスフイアと、或る縹渺とした主觀の情愁とを、白といふ言葉においてイメーヂさせて居る。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。引用の二句は底本ではポイント落ち。
 蕪村の個人句集「落日庵句集」では初案を、

 更衣野路の人わづかに白し

とする。朔太郎は完全な実景として絶賛しているが、例えば清水孝之校注新潮日本古典集成「蕪村句集」(昭和五四(一九七九)年刊)では、本句は「古今和歌集」の壬生忠岑の和歌(第四七八番歌)、
 春日野の雪間をわけて生ひ出でくる草のはつかに見えし君はも
を転換したもので、写生句ではない、と断じている。しかしだとすれば、初案を「わづかに」としたものを、後から言わずもがなに合わせる如く「はつかに」と直すであろうか? 寧ろ、朔太郎の「見た」ように嘱目としての実景としての『眺望』の感動がまずあって、それに壬生忠岑の和歌に附合せることを蕪村は考えたとする方が遙かに自然である。]

鬼城句集 秋之部 草の實

草の實   草の實をふりかむりたる小犬かな

2013/11/14

中島敦 南洋日記 十月十二日

        十月十二日(日) 雨

 朝八時より公學校に行く、司令官の希望とかにて島民歌謠を軍樂隊に編曲せしむる爲、本日、公學校にて、歌と踊の實演あるなり。九時、公學校離島兒童の歌謠に始まる、先づ、1、北西離島シュックの女の歌あり。イケイプなる美男を戀慕ふ唄なりと。次に2、男の歌あり。「人の妻のことを思はず、己が妻のことを考へませう」といふ題なり。以上二つ共に、憂愁に充ちたる懶さとでもいふべき趣あり。次に、3、「友達の歌」。(童謠)4、ローソップの子守唄あり。後者は極めて日本の俚謠に近きもの。5、水鳥と蛸についてのローソップ古譚詩の唄。短くして他愛なし。6、砂遊の唄。これは恐らく外人(米國)宣教師の教へたるものならむ。明らかに米國民話のメロディが取入れられたり。この歌は、男と女と代合ひて二度歌へり。女の唄としては、尚此の他古の戀の歌二つばかりありたり。以上、軍樂隊員をして譜にとらしむるため、三囘四囘繰返して唱せしむ。最後に成年男子の古譚歌の合唱あり。流石に最も見事なり。唄畢りて後舞踊二あり。一はローソップの竹踊(クーサーサ)。各人兩手に二尺ばかりの竹片を持ち、之を以て、互に打合はせ、或は地を叩き、或ひは對者の竹を打ち、エイサツサ、エイ、サツサと掛聲をかけ、めぐりめぐりつゝ踊る。頗る目覺まし。互に竹を叩き合ふ相手が順次に移り行き、時に後向きになり、片脚を上げ、股の間より背後の者の竹を打つなど、面白し。次は北西離島の踊にて、皆花飾を頭に卷き、額頼に朱色のべにを塗り、手頸、足頸、腕等に椰子の若芽をまきつけ、同じく榔子の若葉にて作れる腰簑をつけたり。中には耳朶に孔を穿ち、花を插したるも見ゆ。初め、右手の甲に椰子葉にて作れる 111nikki_3 
狀のものを輕く縛りつけ、指を顚動して、微妙なる音を立つ。之にて踊始まり、掌もて胸腕のあたりを叩き、腰を捻り、奇聲を發し、多分に性的なる身振を交へつゝ、踊り廻るなり。雨のため、教室内の演出とて、多人數參加せしめ得ざりしは、遺憾なり。後、軍樂隊の演奏「アルヽの女」その他あり。島民等頗る喜びをりしが如し。稻校長と自動車にて歸る。

 午睡。雨、終日止まず。本日より防空演習の由なれど、夜に入るも家々の電燈煌々たり。

○ 追記――北西離島の腰簑踊に就いての説明、

 こは、「シュウ ノボロン」と稱する踊にて、もと、ヤップのサタワル島より渡來せるものなり。シュウとは「出ること」ノポロンとは「帆」の意。即ち船出の意なり。先づ、ウルネギマンなる序曲あり。以下七つの部分に分たる。

[やぶちゃん注:以下⑺までは、各項の二行目以降は二字下げで底本では全体が一字下げである。また原音カタカナ表記の後の丸括弧部分は括弧附きのママ前のカタカナ音のルビ位置に配されてある。則ち、これがその語彙の日本語訳である。句読点・中点の有無はママ。「子(ツクツ)」は同ポイント本文。]

⑴ ウルマン(三人) ネテネテ(見る―探す)……北西離島のカノー他の島に行かんとして流さる。島に殘れる兄弟が淋しさに堪へずして作れるもの

⑵ ウル(漂ふ) ネギ(天氣) マン(流れた)……序曲に同じ

⑶ メギメギ(思ふ) ツワツ……流されたツワツなる子供の母が、子を思ひて作れるもの

⑷ イケスク(何時來るか)・スクタス(待つてゐる)……母がその船の歸着を待ちをるなり。

⑸ シミノモ(殘つてゐる) ウヌマン(三人)……その母と父と娘とだけになり了れり。最早一人の子(ツクツ)は亡し。

⑹ シプノン(着いた)・ヌクオル(南へ)……漂流船は南方へ流されたるならむ

⑺ エフィノポ(北の風)・エゲンコ(吹いてくる)……北風のため、南に漂流せるならむ、噫!

[やぶちゃん注:太字「べに」は底本では傍点「〇」。この最後の敦の採録は非常に貴重なもののように思われる。

「二尺」約六十一センチメートル弱。]

麥秋や何におどろく屋根の鷄 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   麥秋(むぎあき)や何におどろく屋根の鷄(とり)

 農家の屋根の上に飛びあがつて、けたたましく啼いてる鷄は、何に驚いたのであらう。その屋根の上から、刈入時の田舍の自然が、眺望を越えて遠くひろがつて居るのである。空には秋のやうな日が照り渡つて、地上には麥が實り、大鎌や小鎌を持つた農夫たちが、至るところの畑の中で、戰爭のやうに忙がしく働いて居る。そして畔道には、麥を積んだ車が通り、後から後からと、列を作つて行くのである。――かうした刈入時の田舍の自然と、收穫に忙しい勞働の人生とが、屋根の上に飛びあがつた一羽の鷄の主觀の影に、茫洋として意味深く展開されて居るのである。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。]

鬼城句集 秋之部 柿紅葉

柿紅葉   目ざましき柿の紅葉の草家かな

[やぶちゃん注:「草家」は「くさや」で、草屋、草葺の家。]

2013/11/13

旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉

本日二〇一三年十一月十三日

陰暦二〇一三年 十月十一日

 

  神無月(かんなづき)の初、空(そら)

  定めなきけしき、身は風葉(ふうえふ)

  の行末(ゆくすゑ)なき心地(ここち)

  して

旅人と我(わが)名よばれん初しぐれ

 

  はやこなたへといふ鶯の、むぐらの宿(やど)

  はうれたくとも、袖はかたしきて、御とまり

  あれやたび人

たび人と我名よばれむはつしぐれ

 

[やぶちゃん注:貞享四(一六八七)年芭蕉四十四歳同年十月十一日の作。

第一句目は「笈の小文」、第二句目は「俳諧千鳥掛」(知足編)のもので、後者の前書は世阿弥の複式夢幻能「梅枝」(太鼓の役争いで殺された楽人富士の妻の霊が津の国住吉を訪れた僧に嘆きを語る)の謠をそのまま用いている。以下にその冒頭から引用の地下歌までを掲げる(引用は高橋半魚氏の「半魚文庫」のものを参考に正字化し、読み易く加工した)。

   *

ワキ・ワキツレ次第

〽捨てゝも廻る世の中は。世の中は。心の隔なりけり。

ワキ詞

「是は甲斐の國身延山より出でたる沙門にて候。我緣の衆生を濟度せんと。多年の望にて候ふ程に。此度思ひ立ち廻國に赴き候。」

ワキ、ワキツレ道行

〽何処にも住みは果つべき雲水の 雲水の 身は果知らぬ旅の空 月日程なく移り來て 處を問へば世を厭ふ 我が衣手や住の江の里にも早く着きにけり 里にも早く着きにけり

ワキ詞

「急ぎ候ふ程に。これは早津の國住吉に着きて候。あら笑止や。俄に村雨の降り候。これなる庵に宿を借らばやと思ひ候。いかに此屋の内へ案内申し候。」

シテサシ

〽實にや松風草壁の宿に通ふといへども 正木の葛來る人もなく 心も澄めるをりふしに こととふ人は誰やらん

ワキ詞

「これは無緣の沙門にて候。一夜の宿を御借し候へ。」

シテ詞

「實に實に出家の御事。一宿は利益なるべけれども。さながら傾く軒の草。埴生の小家のいぶせくて。何と御身を置かるべき。」

ワキ

「よしよし内はいぶせくとも。降りくる雨に立ち寄る方なし。唯さりとては借し給へ。」

シテ

〽實にや雨降り日もくれ竹の 一夜を明かさせ給へとて

地下歌

〽はや此方へと夕露の 葎の宿はうれたくとも 袖をかたしきて 御泊あれや旅人

   *

「笈の小文」の旅で最初(十一月四日着)に身を寄せたのが尾張鳴海の古参蕉門であった下里知足亭であったが、安藤次男は「芭蕉百五十句」で『そのとき旅立の吟を記念に書与えたものらしい』とし、この『前書は芭蕉が、謡曲にまず出てくる旅僧の風体を以て己が行脚の好みとしたことを知らせてくれる興味ある例で』あるとする。首肯出来る。

 本句は所謂、紀行「笈の小文」の旅の旅立ちの吟で、十月十一日に其角亭で行われた送別の連句会で詠まれた。但し、亭主役は由之(以下に示した「笈の小文」の「磐城の住、長太郎」のこと)で、他に其角・枳風・文鱗・仙化・魚児・観水・全峯・嵐雪・挙白の連衆による十一吟世吉(よよし:世吉連歌。連句の形式の一つで百韻の初折と名残の折とを組み合わせた四十四句からなる略式のものであるが、この当時は既に廃れていた)の発句である。前掲の安藤の本によれば、芭蕉の「野ざらし紀行」「奥のほそ道」「笈の小文」の大きな三つの旅の内、『派手やかな送別の句座をかさねて江戸を後にしたのは、「笈の小文」だけである』とし、現在残るもの五回の送別句会を数え上げている。さらに何故、当時は既に顧みられなくなっていた古い世吉形式を採ったかについては、芭蕉がこの時、四十四歳であったことに掛けての趣向で、『旅の古字は』(ここに「旅」の字の古体である旁の部分の下部が「人人」となる字が入る)『と作る。「陳」(ならべる、つらねる)と同義である。四四に掛けたきみたちの餞別の気配りのおかげで、私も「旅人」になれる、本当の旅ができると句は告げている筈だ。かりにこのときの送別興行が歌仙であったなら、また、芭蕉が偶四十四歳でなかったなら「旅人と我名呼ばれん」と俳諧師は応えなかったかもしれぬ』と例によって快刀乱麻の解析をしている。

 「笈の小文」の出立部分を再現すると(新潮古典集成「芭蕉文集」を参考に正字化して示した)、

   *

 神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、

 

  旅人と我名よばれん初しぐれ

   また山茶花(さざんくわ)を宿々(やどやど)にして

 

 磐城(いはき)の住(ぢゆう)、長太郎といふ者、此脇を付けて其角亭におゐて關送りせんともてなす。

   *

とある。因みに、この附句の「また」は「野ざらし紀行」に「名古屋に入る道のほど諷吟す」とし載り、「冬の日 尾張五哥仙」の巻首を飾る貞享元(一六八四)年十一月頃に催された連句の発句として知られる破格の「狂句木枯の身は竹齋に似たるかな」に、野水(やすい)が脇句した「誰(た)そやとばしる笠の山茶花」を踏まえた付句である。

 「三冊子」で土芳は(岩波文庫頴原退蔵校訂版に拠る)、

   *

 此句は、師武江に旅出の日の吟也。心のいさましきを句のふりにふり出して、よばれん初しぐれ。とは云しと也。いさましき心を顯す所、謠のはしを前書にして、書のごとく章さして門人に送られし也。一風情あるもの也。この珍らしき作意に出る師の心の出所を味べし。

   *

と述べており、二句目の知足へ贈答したその前書きには、謠本のように脇に胡麻点(墨譜)を打ってあることも分かる。
 なお、「笈の小文」の実際の深川出立は、この十四日後の貞亨四年十月二十五日(新暦一六八七年十一月二十九日)のことであった。]

2013/11/12

鬼城句集 秋之部 唐辛子

唐辛子   きびきびと爪折り曲げて鷹の爪

 

      大男のあつき涙や唐辛子

鮒鮓や彦根の城に雲かかる 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   鮒鮓や彦根の城に雲かかる

 夏草の茂る野道の向ふに、遠く彦根の城をながめ、鮒鮓のヴイジヨンを浮べたのである。鮒鮓を食つたのではなく、鮒鮓の聯想から、心の隅の侘しい旅愁を感じたのである。「鮒鮓」といふ言葉、その特殊なイメーヂが、夏の日の雲と對照して、不思議に寂しい旅愁を感じさせるところに、この句の秀れた技巧を見るべきである。島崎藤村氏の名詩「千曲川旅情の歌」と、どこか共通した詩情であつて、もつと感覺的の要素を多分に持つて居る。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。「城」は「じやう(じょう)」と読む。]

卓上の鮓に目寒し觀魚亭 / 寂寞と晝間を鮓のなれ加減 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

   卓上の鮓(すし)に目寒し觀魚亭

 

「卓」といふ言葉、また「觀魚亭」といふ言葉によつて、それが紫檀か何かで出來た、支那風の角ばつた、冷たい感じのする食卓であることを思はせる。その卓の上に、鮮魚の冷たい鮓が、靜かに、ひつそりと、沈默して置いてあるのである。鮓の冷たい、靜物的な感じを捉へた純感覺的な表現であり、近代詩の行き方とも共通してゐる、非常に鮮新味のある俳句である。尚ほ蕪村は、鮓に就いて特殊な鋭どい感覺を持ち、次に掲出する如く、名句を澤山作つて居る。

[やぶちゃん注:「鮓に就いて」の「鮓」は底本では「酢」。訂した。

「觀魚亭」服部南郭(天和三(一六八三)年~宝暦九(一七五九)年)一派の詩人がよく詩会を催した水亭。服部南郭は漢詩人で名は元喬、字は子遷、南郭は号。京の町家の生まれで幼少のときから和歌をたしなんだ。早く江戸に出て第五代将軍綱吉の寵臣柳沢吉保に歌人として抱えられた。正徳元(一七一一)年頃には柳沢家の儒臣荻生徂徠に入門して漢詩文に転じたが、享保三(一七一八)年に柳沢家を退いて後は終生、野にあって詩文を専らとする生涯を送った。それまで儒学の支配下にあった漢詩を文学として解放するに功績あり、またその生き方は江戸中期の知識人たちの現実を離れて芸術や趣味の世界に遊ばんとする文人気質の典型を成すものとされる。蕪村は若き日に江戸に出て来た頃、この南郭に師事したことが高井几董宛書簡などによって分かっている。]

 

   寂寞と晝間を鮓(すし)のなれ加減

 

 鮓は、それの醋が醗酵するまで、靜かに冷却して、暗所に慣らさねばならないのである。寂寞たる夏の白晝(まひる)。萬象の死んでる沈默(しじま)の中で、暗い臺所の一隅に、かうした鮓がならされて居るのである。その鮓は、時間の沈滯する底の方で、靜かに、冷たく、永遠の瞑想に耽つて居るのである。この句の詩境には、宇宙の恆久と不變に關して、或る感覺的な瞳(め)を持つところの、一のメタフイヂカルな凝視がある。それは鮓の素であるところの、醋の嗅覺や味覺にも關聯して居るし、またその醋が、暗所において醱酵する時の、靜かな化學的狀態とも關聯して居る。とにかく、蕪村の如き昔の詩人が、季節季節の事物に對して、かうした鋭敏な感覺を持つて居たことは、今日のイマヂズムの詩人以上で、全く驚嘆する外はない。

[やぶちゃん注:「鮓は、」及び「かうした鮓が」「その鮓は、」「それは鮓の素であるところの」の四箇所の「鮓」は底本では「酢」。訂した。]

鬼城句集 秋之部 破芭蕉

破芭蕉   眼前に芭蕉破るゝ風の秋

2013/11/11

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 3 明治10年9月12日、モース、初めて東京大学にて授業をす

 博物館は大きな立派な二階建で、翼があり、階下の広間の一つは大きな図書室になっている。また、細長くて広い部室は、欧洲及び米国から持って来た教育に関する器具――現代式学校建築の雛型(ひながた)、机、絵、地図、模型、地球儀、石盤、黒板、インク入れ、その他の海外の学校で使用する道具の最もこまかい物――の、広汎で興味ある蒐集で充ちていた。これ等の品物はすべて私には見慣れたものであるに拘らず、これは最も興味の深い博物館で、我国の大きな都市にもある可き性質のものである。我々の持つ教育制度を踏襲した日本人が、その仕事で使用される道具類を見せる博物館を建てるとは、何という聡明な思いつきであろう。ここに、毎年の予算の殆ど三分一を、教育に支出する国民がある。それに対照して、ロシアは教育には一パーセントと半分しか出していない。二階には天産物の博物館があったが、これは魚を除くと、概して貧弱であった。然し魚は美事に仕上げて、立派な標本になっていた。この接待宴には、教員数名の夫人達を勘定に入れて、お客様が百人近くいた。いろいろな広間を廻って歩いた後、大きな部室へ導かれると、そこにはピラミッド形のアイスクリーム、菓子、サンドウィッチ、果実その他の食品の御馳走があり、芽が出てから枯れる迄を通じて如何に植物を取扱うかを知っている、世界唯一の国民の手で飾られた花が沢山置いてあった。これは実に、我国一流の宴会請負人がやったとしても、賞讃に価するもので、この整頓した教育博物館で、手の込んだ昼飯その他の仕度を見た時、我々は面喰(めんくら)って立ちすくみ、「これが日本か?」と自ら問うのであった。

[やぶちゃん注:国立科学博物館公式サイト内の松浦啓一氏の「魚類コレクションの歴史と現状」に、当時、約五百点の魚類標本を保有していたことが記されている。]

 

 日本のお役人たちが、ドクタア・マレーその他手伝いを志願した人々と共に、いろいろな食物を給仕したが、日本人が貴婦人と紳士とが一緒に坐っている所へお皿を持って行って、先ず男の方へ差し出し、そこで教(おそわ)ったことを思い出して、即座に婦人へ出す様子は、まことに面白かった。我国では非常に一般的である(欧洲ではそれ程でもない)婦人に対する謙譲と礼譲とが、ここでは目に立って欠けている。馬車なり人力事なりに乗る時には、夫が妻に先立つ。道を歩く時には、妻は夫の、すくなくとも四、五フィートあとにしたがう。その他いろいろなことで、婦人が劣等な位置を占めていることに気がつく。海外から帰った日本人が、外国風にやろうと思っても、若し実際やれば、彼等の細君達は、きまりの悪い思いをする。それは恰度我国の婦人連が、衣服なり習慣なりで、ある進歩した考(例えば馬にまたがって乗ること)を認めはしても、目につくことを恐れて、旧式な方法を墨守するようなものである。この事実は、日本人の教授の一人が私に話して聞かせた。日本の婦人はこの状態を、大人しく受け入れている。これが、非常に長い間の習慣だからである。酌量としていうべき唯一のことは、日本の婦人が、他の東洋人種よりも、遙かに大なる自由を持っているということ丈である。

[やぶちゃん注:「墨守」自己の習慣や主張等を堅く守って変えないこと。中国の思想家墨子が宋の城を楚の攻撃から九度にわたって守ったという「墨子」の「公輸」の以下の故事に基づく。楚王は伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器雲梯(攻城用梯子)を用いて宋を併呑しようと画策したが、それを聞きつけた墨子は早速、楚に赴いて公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫る。宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、「墨子が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨子がそれで守り切ったならば宋を攻めるのは白紙にしよう」と提案、机上模擬戦の結果、墨子は公輸盤の攻撃を尽く撃退し、しかも手駒にはまだまだ余裕が有った。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わずにおく」と意味深長な言葉を吐いたが、すかさず墨子が、「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということであろうが、すでに秘策を授けた弟子三百人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせる」と再び公輸盤をやりこめた。その遣り取りを見て感嘆した楚王は宋を攻めないことを墨子に誓った(以上の故事はウィキの「墨子」に拠った)。]

 


M221
図―221

 

 私が講義を始めた日、大学へ副綜理が私の召使いになる十四歳ばかりの男の子を連れて来た。すでに私は、彼が非常に役立つことを発見した。彼は実験室で瓶や見を洗うのを手伝い、毎朝私の黒板を奇麗にする。今日私は試験してやるつもりで、いろいろな貝のまざったのを選り別けさせた所が、彼は「属」や「種」をうまく分けた。また淡水貝のある物を取りにやったら、沢山採集して持って来た。彼は、数年前すでに学生の制服としての役目をつとめ終えた一種の紺の上衣(今は制服は着ない)に、縮んだ毛糸の股引をズボン代りにはき、頭は乾いて清潔な黒い頭髪の完全な雑巾帯(モップ)で被われている。写生する間、立っていろといったら、彼は吃驚してドギマギした(図221)。私が部屋へ入って行くと、彼は、私が真似をしたら吃度背骨が折れるだろうと思う位、丁寧なお辞儀をする。

[やぶちゃん注:「私が講義を始めた」日前注及び次の段落冒頭に記されている通り、明治一〇(一八七七)年九月十二日で水曜日であった。]

 

 九月十二日、私は最初の講義をした。講義室は建物の二階にある。そこには大きな黒板一枚と、引出しがいくつかついている机と、それから私が講義を説明するのに使用する物を入れておく、大きな箱が一つある。張子製で、各種の動物の消化機関を示した標本のいくつ、及び神経中枢の模型その他の道具は、この課目にうまく役立つだろう。私の学級は四十五人ずつの二組に分れているので、一つの講義を二度ずつしなくてはならず、これは多少疲労を感じさせる。私はもう学生達に惚れ込んで了った。これ程熱心に勉強しようとする、いい子供を教えるのは、実に愉快だ。彼等の注意、礼儀、並に慇懃な態度は、まったく霊感的である。彼等の多くは合理主義者で、仏教信者もすこしはいるかも知れぬが、とにかく、かくの如き条件にあって、純然たるダーウィニズムを叙示することは愉快な体験であろうと、今から考えている。特に注目に価するのは、彼等が、私が黒板に描く色々な動物を、素速く認識することである。これ等の青年は、サムライの子息達で、大いに富裕な者も、貧乏な者もあるが、皆、お互に謙譲で丁寧であり、また非常に静かで注意深い。一人のこらず、真黒な頭髪、黒い眼、そして皆青味を帯びた色の着物を着ているが、ハカマが如何にも半分に割れたスカートに似ているので、まるで女の子の学級を受持ったような気がする。教授室と呼ばれる一つの大きな部屋には、さっぱりした藁の敷物が敷いてあり、椅子の外に大型の机が一つ、その上には横浜発行の朝刊新聞、雑誌若干並に例のヒバチがのせてある。ここで先生は、講義の時が来る迄、ひまをつぶすことが出来る。お昼前に小使が茶碗をのせたお盆と、とても上等なお茶を入れた土瓶とを持って来るが、このお茶は疲れをいやす。教授の連中はみな気持がいい。当大学の統合的の役員は、綜理一人、副綜理二人〔綜理心得〕、幹事、会計、書記であるが、いずれも極めて丁寧で注意が届き、私としては彼等と共にあること、並に、私が現に占めている位置よりも、気持のよいものはあり得ない。器具類に関して、私の欲しいと思うものは、即刻私の為に手に入れて呉れる。私が目下案を立てている箱類は、すぐ造らせてくれることになっている。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、対象生徒は予備門の四年生で、無論、講義は英語で通訳はなかった。当時、その講義を受けた、後の地球物理学者で東京帝国大学教授田中舘愛橘(たなかだて あいきつ 安政三(一八五六)年~昭和二七(一九五二):陸奥福岡(現在の二戸市)生。明治一五(一八八二)年東京大学理学部卒業。後、グラスゴー大学・ベルリン大学に留学し、帰国後に帝国大学理科学教授となり、日本物理学の草創期の純粋物理学をはじめとして重力・地磁気・測地学・度量衡・航空などの学問の基礎を築いた。日本式ローマ字の創始者でもある。)の残したノートによれば、『講義は原生動物に始まり、海綿、放射動物(イソギンチャク。サンゴ、クラゲ、クシクラゲ)、棘皮動物、軟体動物(貝、イカなど)の順で、思ったより詳しい。ノートはここまでしか残っていないが、』彼の『記載の回想では、さらに蠕虫(ぜんちゅう)(ゴカイなど)、甲殻類、昆虫、脊椎動物と続いたというから、動物分類学入門といったところである』とあって、この十二日後の『九月二四日、モースはこの講義のなかで初めて進化論に触れ、ついで十月六日、十五日、二十日に東大講堂で進化論の公開講演を行った』とある。同書はこの後、第二十一章の「進化論事始め」から第二十六章「進化論の受容」まで実に三十九頁に亙って本邦初のモースの進化論講義の齎した影響を語っておられ、実に興味深い。是非、原書をお読み戴きたく思う。それにしても……私は英語に暗いけれど……モース先生の生の講義に触れたかったと思う者である。……

「叙示」原文は“presenting”。叙述して示す、の謂いであるが、辞書には載らず、哲学用語の中に垣間見える、如何にも生硬な訳語という感じである。

「サムライ」原文も“samurai”。

「ハカマ]原文も“hakama”。

「例のヒバチ]原文は“the usual hibachi”。

「副綜理二人」底本では「二人」の下に『〔綜理心得〕』と石川氏の割注があるが、磯野先生の前掲書では『綜理補』とあり、『法理文三学部の綜理は加藤弘之、綜理補は浜尾新と服部一三(予備門主幹兼任)』とある。浜尾と加藤は直前で再注した。やはり既注である服部一三(はっとりいちぞう 嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)は文部官僚で政治家、後に貴族院議員となった。これら加藤・浜尾・服部の三名が東京大学法理文三学部の最終決定権を掌握していた。]



明日、妻が甲府の病院に暫くリハビリ入院する。
荷物を運んで明後日に帰る。
随分、御機嫌よう。
――一本だけ――相応に力を入れた芭蕉をセットしてある。
御笑覧の程――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 2 9月11日 御雇外国人教授歓迎会会場(教育博物館)にて

 博物館は大きな立派な二階建で、異があり、階下の広間の一つは大きな図書室になっている。また、細長くて広い部室は、欧洲及び米国から持って来た教育に関する器具――現代式学校建築の雛型(ひながた)、机、絵、地図、模型、地球儀、石盤、黒板、インク入れ、その他の海外の学校で使用する道具の最もこまかい物――の、広汎で興味ある蒐集で充ちていた。これ等の品物はすべて私には見慣れたものであるに拘らず、これは最も興味の深い博物館で、我国の大きな都市にもある可き性質のものである。我々の持つ教育制度を踏襲した日本人が、その仕事で使用される道具類を見せる博物館を建てるとは、何という聡明な思いつきであろう。ここに、毎年の予算の殆ど三分一を、教育に支出する国民がある。それに対照して、ロシアは教育には一パーセントと半分しか出していない。二階には天産物の博物館があったが、これは魚を除くと、概して貧弱であった。然し魚は美事に仕上げて、立派な標本になっていた。この接待宴には、教員数名の夫人達を勘定に入れて、お客様が百人近くいた。いろいろな広間を廻って歩いた後、大きな部室へ導かれると、そこにはピラミッド形のアイスクリーム、菓子、サンドウィッチ、果実その他の食品の御馳走があり、芽が出てから枯れる迄を通じて如何に植物を取扱うかを知っている、世界唯一の国民の手で飾られた花が沢山置いてあった。これは実に、我国一流の宴会請負人がやったとしても、賞讃に価するもので、この整頓した教育博物館で、手の込んだ昼飯その他の仕度を見た時、我々は面喰(めんくら)って立ちすくみ、「これが日本か?」と自ら問うのであった。

[やぶちゃん注:国立科学博物館公式サイト内の松浦啓一氏の魚類コレクションの歴史と現状