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2013/11/22

振賣の雁あはれなりゑびす講 芭蕉

本日二〇一三年十一月二十二日

陰暦二〇一三年 十月 二十日

 

  神無月二十日(かんなづきはつか)、ふか川にて即興

振賣(ふりうり)の雁(がん)あはれなりゑびす講

 

[やぶちゃん注:元禄六(一六九三)年芭蕉五十歳同年十月二十日の作。]

「炭俵」より。「藤の実」(素牛編)では

 雁

と音読みしていることをわざわざ示し、同書その他では前書を、

 深川獨座

とする。

深川芭蕉庵での四吟歌仙「金屏風の松」の巻の発句。連衆は野坡・孤屋・利牛(この四人は「炭俵」(元禄七年六月板行)の撰者であり、その撰者揃い踏みの運座はこれしか残されていない)。因みに野坡はこの発句に、

 

 降てはやすみ時雨する軒

 

と脇をつけている。

「ゑびす講」正しい歴史的仮名遣では「えびす講」である。恵比須講は旧暦十月神無月に出雲に赴かない留守神と考えられた恵比須神(夷・戎・胡・蛭子・恵比寿・恵美須などとも表記)乃至竈神(かまどがみ)を祀って一年の無事を感謝し、五穀豊穣や大漁、商売繁盛を祈願する講(地縁的祭祀結社)の祭り。特にここでは商家に於いて当日恵比須を祀って親戚や御得意様を招いて酒食でもてなして商売繁盛を祈願したり、稲や根菜類の収穫や麦播きなどの農繁期が一段落した百姓を主な顧客として冬に備えた商品や秋物一掃といった祭事に名を借りた商業戦略でもあった(百姓向けの商業戦略部分は伊藤洋氏の「芭蕉DB」の本句の解説に拠る)。

安東次男「芭蕉百五十句」によれば、野坡・孤屋・利牛の三人は実は『いずれも越後屋(今の三井・三越の前身)の』モラルや節制を厳しく問われた住込手代であったらしいとあり、『いかなるときも木綿で通し、勝負ごとや金銭の貸借はむろんのこと、遊芸や無断外出も禁じ』られていた。そうした彼らが『隅田川を越えて深川まいりをするのは、並の物好ではなかった』。そうした『店や朋輩の義理を欠いてまで、抜出してきた』彼らへの『ねぎらいがまず芭蕉にはある。そういえば今日は君たち商人にとって特別な日だったなあ、という心の寄せかたが次にある』とする。ここからが安東の真骨頂の評釈で、『借・仮をよろこばぬ商人の祝いの日に、択りに択って』「雁(かり)の振(ふり)賣」『など縁起でもあるまい。知恵のある行商人ならこの日だけはむしろ市中を避ける、というところに深川で聞く』しがない振売の声の『あはれがある』。『そこに商人道からはずれた風狂者を迎える滑稽のたねがあるようだ』と読む。則ち、『君たちがわざわざ深川くんだりまで振売をする気があるなら、私は君たちの手に握られた獲物になろう、というところまで興は伸びる。その獲物に、そうは簡単に売れてはくれぬ仕掛を施したところが、俳諧の俳諧たるゆえんだ。因に野坡が付けた脇』句の『「降ては」に振ってはを掛け、道中休み休み来ましたが、商売のたねにするには先生は重すぎると言いたいらしい。「やすみ」の意味を二重に利かせている』とある。ぶら下った雁こそ芭蕉であるというところなどとても私など連想に及ばぬ禅機の面持ちを感ずる部分である。更に、『もしかすると、この雁はまだ生きていたかもしれぬ。それなら白楽天の「旅雁ヲ放ツ」が句の恰好の地色になるだろう』として、『この詩は元禄三年堅田での』(私の本「芭蕉」ブログカテゴリで最初に掲げた)『「病雁(やむかり)の夜さむに落て旅ね哉」にも一役買っているものだ』と附言している。ここで安東が言う白居易の詩は、次の詩である。

 

 放旅雁

九江十年冬大雪

江水生冰樹枝折

百鳥無食東西飛

中有旅雁聲最饑

雪中啄草冰上宿

翅冷騰空飛動遲

江童持網捕將去

手攜入市生賣之

我本北人今譴謫

人鳥雖殊同是客

見此客鳥傷客人

贖汝放汝飛入雲

雁雁汝飛向何處

第一莫飛西北去

淮西有賊討未平

百萬甲兵久屯聚

官軍賊軍相守老

食盡兵窮將及汝

健兒饑餓射汝吃

拔汝翅翎為箭羽

 

  旅雁を放つ

 九江 十年冬 大いに雪ふり

 江水 冰(ひやう)を生じ 樹枝 折れたり

 百鳥 食無く 東西に飛ぶ

 中に旅雁有りて 聲 最も饑(う)ゑたり

 雪中に草を啄(は)み 冰上に宿(やど)り

 翅は冷えて 空に騰(のぼ)れども飛動すること遲し

 江童 網を持(じ)して 捕へ將(も)ち去り

 手に攜(さ)げて市に入り 生きながらにして之を賣る

 我は本(もと) 北人 今 譴謫(けんたく)せらる

 人と鳥と 殊なると雖も 同じく 是れ 客(かく)

 此の客鳥(かくてう)を見ては 客人を傷ましむ

 汝を贖(あがな)ひ 汝を放ち 飛びて 雲に入らしむ

 雁や 雁や 汝 飛びて 何處(いづく)にか向ふ

 第一に 飛びて 西北に去ること莫かれ

 淮西(わいせい)に賊有り 討つも未だ平げず

 百萬の甲兵 久しく屯聚(とんじゆ)す

 官軍と賊軍と  相ひ守りて老(つか)れ

 食 盡き 兵 窮まりて 將に汝に及ばんとす

 健兒は饑餓して 汝を射て吃(くら)ひ

 汝が翅翎(しれい)を拔きて箭羽(せんう)と為さん

 

この詩は朝臣武元衡暗殺事件に絡んで犯人逮捕を上奏したことが越権行為とされ、人道上の誹謗中傷も加わって、江州司馬に左遷された折りの元和十(八〇五)年冬の三十三歳の作で、白居易の悲憤慷慨が色濃く出た七言古詩である(因みにこの詩は二〇一一年の東京大学前期入試に出題されている)。「淮西に賊有り 討つも未だ平げず」とは淮西節度使呉元済が蔡州を占拠し、朝廷に抵抗した反乱を指す(憲宗から全権委任されて討伐の指揮を執っていたのが暗殺された武元衡で、暗殺事件の刺客は朝臣の中に潜んでいた呉元済派の指嗾によるものであった)。

安東は評釈の最後で、わざわざ芭蕉が「雁」を「ガン」と読ませたことについて触れ、『空も飛べぬあわれな鳥が、歌に親まれた名ではおかしいし、カリでは声の勢いも現われまい』とある。

因みに安東は途中で珍しく、この句をかつて誤読していたことを告白して次のように述べてもいる。『当時の深川は殆んど寺と下屋敷で占められていて、まだろくに町割もできていなかった。句には、孤愁もあれば人恋しさもある。市中嘱目などであろうはずがない。所も人もお構いなしに説くと迷を取る。現に私自身、かつては、品物に法外な値をつけ取引の真似もする夷講の屋内の賑と、寒空の下を振られる雁のあはれさを対照的に詠んだ句と思い、そう書いたこともある』とし、『句の余情はそのとおりでもこれは解釈としてはまずい』と述べている。やや負け惜しみ的謂いではあるが、首肯出来る。私はかつて一度も、この句に恵比須講の賑いを聴いたことはないからでる。なお、安藤の「芭蕉百五十句」には安東らしい巧妙な仕掛けがあって、目次だけでこの句の評釈だけを見ていると、安藤の広角の(というより超広角である魚眼レンズに比してもよい。辺縁部に普通は見えない一八〇度若しくはそれ以上の隠された景観が変形して――ここが安東的なニクいところである――見出せるという点に於いて)写真は見えてこない。このタイプの評釈本は買った当初しか通読することはなく、それさえしないでいると、永く最後に載る解説など読まずに過ぎることが(少なくとも私には)ままある。この本も(というかこの本は妻の独身時代の所持品であった)そうで、先日、ふと解説を読んでみて「やられた!」という感を強くしたのであった。この本の掉尾には「解釈ということ――解説にかえて――」という安東自身の、昭和五七(一九八二)年六月に四回に渡って読売新聞に連載された「古典と私」という文章が附されているのだが(私が持っている文春文庫版「芭蕉百五十句」の親本「芭蕉発句新注」は筑摩書房から昭和六一(一九八六)年に刊行されている。但し、文庫版は十四句の評釈が新しく追加された増補版でもある)、何と、その大半は安東のこの「振賣の」の句及びその連句の評釈変遷史と、そこから得た俳言への漸層的な安東の意識に於ける解釈変化遷移を連綿と語ったものであるからである。そこには四度に亙る本句についての驚くべき相違点を持った評釈が、そのまま引用されていて頗る興味深いのである。普通のアカデミズム系の凡百の文学者や自らを俳人と標榜してやまない厚顔無恥な輩は、まず、例外なくこうした自己の解釈の深浅をさらけ出すことを極端に嫌がる。だからこそいつまでたっても昔の浅い誤った解釈に拘ることとなる。悪循環と言わざるを得ない。ここにさらに引用したいぐらいであるが、そこは当該書を是非、お読みになることをお薦めする。連句評釈の鰻のねどこのような延々持続する晦渋さに比べれば、この本は安東の芭蕉本のなかでも頗る附きで読み易い作品であることは請け合う。

以上を綜合して、改めて句に向かってみると、この行商人の持つ雁が『北を指して長い旅路の途中に病雁となって大地に下りたところを捕らえられたもの』(伊藤評釈)であると考えてよく、それを捕えて売っているこの男は行商を本業とするというよりも、江戸近縁の百姓であって、市中の恵比須講のセールに行くには、まさにこの雁を売らねばならぬほどに切「羽」詰った、零細な「尾羽」打ち枯らした貧民の後ろ姿と声が浮かび上がってくるように私には感じられる。「あはれ」を誘うのは、まず、雁であり、次にしがない振り売りであり、そうしてそうした声と姿を心眼で黙視する芭蕉の孤独な後ろ姿でもある、という仕掛けなのである。]

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