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2013/11/04

蟇の足跡 拓次の生涯 逸見享

    蟇 の 足 跡

 拓 次 の 生 涯

逸見 享 

 

 彼は逝いた、しかも忽然と。

あの神樂坂の下宿都館に、二十年も詩に瘠せ、戀に蝕まれてつひに最も恐れてゐた茅ヶ崎南湖院の一室に、看護婦ひとりに看取られながら死んでいつた。

 思へばあの鬱蒼とした相貌と、異常なる神經との作つた彼の生涯こそはまことに異風景である。

 ちひさい時分に兩親をなくした彼は、上州磯部温泉を拓いた祖父の大手萬平翁と祖母との愛を一身に集めて成長した。あの我儘はこの閒に培はれたものであらうか。臆病で、おこりっぽく、はにかみやで、少年時代から孤獨に慣れ、それを樂むやうにさへなつてゐた。よく手を嗅ぐ癖があつで、熊だ熊だといはれたさうである。病氣で耳をわるくしてゐたが、鼻はかなり敏感でいろんな香水を嗅ぎわける癖は晩年までつゞいてゐた。

 高崎中學を卒業して、早大英文科に入學した頃から彼の詩作生活がはじめられた。が我儘に育てられた彼には、月々のきめられた送金と、不自由な下宿生活がかなり憂鬱なものだつたらしい。

 當時は詩壇の華やかな頃で、白秋氏の芳醇に醉ひ、ボオドレエルの惡の華に魅せられて、この若き詩人の鬼火のやうな魂は怪しく燃えさかつた。そして新鮮で特異な詩があふれるやうに生れた。

 彼のどの詩を讀んでもわかるやうに、あの言葉は得難いものであるが、その研究はまことに深いものがあつた。「花野」と題する三十餘册のノオトに印されたいろんな言葉、それ等はいつのまにか彼に吸收され、その血管をめぐつで詩の中に生きてゐるやうに思はれるのである。

大學を出た頃はあの下宿で明け暮れ詩に浸つでゐた。ちやうど白秋氏が「ザムボア」「地上巡禮」などを出され頃で、そのザムボアに始めて吉川惣一郎のペンネエムで詩を發表した。この頃が彼の生涯でのもつとも華やかな、樂しい思ひ出の頃だつたであらう。

 だがいつまでも下宿に夢を追うてばかりはゐられなかつた。彼のいふ窮迫時代がこの若き詩人のうへにもひしひしと押し寄せてゐた。彼は鬱憂の日々を故郷にまた神樂坂に妖気を吐きつづけてゐた。

 その内にライオン齒磨廣告部にはひることになつて、自活の道がひらけた。大正五年五月のことである。私と知合つたのもその頃で、うつろの眼をしばたたきながら、腕を組んで何かを追ひかけてゐる彼が思ひ出される。彼の詩的教養はその廣告文案に現はれて、一種の清新味を漾はせた。けれどやはり彼は詩人であつた。ひたすらに詩をつくり、孤獨を守ら續けた彼には、あの二十年近い社員生活もつひに空虛なものだつたに違ひない。他と十分解けあはぬのみか、むしろ多くの人のなかにあつてその孤獨癖は一層深められて行つた。

 私はそのころ毎日のやうに彼と詩歌や畫の話をした。これはもつとも彼を喜ばせた。あのきれの長い眠が輝き、細長いその手が紅潮して別人のやうに潑溂として見えた。話の高潮する時は掌を眞直ぐに上にあげ、眼をおもむろにつむつて新作の詩を歌ふこともめづらしくなかつた。その頃彼の發表する雜誌がなかつたので、私がすすめて數人の同志と詩歌誌「異香」を發行した。

 萩原朔太郎氏の「月に吠える」がそれと前後して發行され、詩壇に大反響を呼び起した。氏から贈られた詩集を見て彼は何と思つたであらうか。「朱欒」「地上巡禮」「ARS」など白秋氏の發行された詩誌には常に發表しあつて來たふたり、互に十分の信賴をもちあつてゐた氏の詩集は後に非常な感動を與へずにはおかなかつた。私は彼に一脈のさびしさを見た。そして祕に愛讀してゐた彼からこの詩集についてつかに何も聞いたことがない。

 その後幾度か彼と二人で詩畫集を出したが、以前に見る情熱がだんだんうすれて行くやうに思はれた。

 ちやうどあの大震災後、ある少女に熱烈な戀をした。彼にあつては、戀愛によつて詩が高潮するよりも哀しき調べに終つてゐる。そしてこの戀は通り魔のやうに過ぎて行つた。昭和に入つてこの四十過ぎた寂しい詩人は現實の、また幻の戀人を慕ひ歩いた。その度に少年のやうな純な性情と、弱氣の彼がまざまざと見られで、私は彼の心情に祕に涙したものである。そしてその詩に於ても實にやさしく涙ぐましい抒情詩が作られてゐる。當時白秋氏の發行された「近代風景」に發表された多くの詩のほとんど總てがその哀唱である。

 その内昭和二年の初め頃からほのかにある異性を想ひ初めてゐたが、年を追うて深められて行つた。そして昭和七年頃の日記には絶え入るばかりのせつなさを書き綴つてゐる。

 ……戀するものにとつて夕暮こそこよなき樂園である。あのうす靑い光こそなんといふなぐさめとゆめとを私にあたへてくれるでせう。

といつてゐる。また

 ……たゞやすらかな美しき死をば願へり。

 ……たとひいのちはむなしくなるともこのおもひはつきざらむ。

ともいつてゐる。

 そしてつひに病臥する日が多くなつて行つた。

 その年の十一月、たうとう伊豆山温泉に療養することになり、私が送つて行つた。その夜旅館の二階の一室に彼と蒲團を竝べたが、私はまことにねぐるしかつた。うちよせる窓下の波の音、その絶え閒に浮ぶ遠き彼のことども、近きその横顏の疲れをうすあかりに見て獨り平復を祈つた。この年は其處で越して八年に入つた。病氣はあまりはかばかしくなかつた。日々の單調さと同じ食物に耐へきれなくなつた彼は、其處を引上げて寂しく神樂坂に歸つて來た。そして醫師のすすめで茅ケ崎南湖院に入院した。三月のことである。

 彼は此處でも詩を書いたがそれも六月で終つてゐる。その頃の詩を讀んで見ると深い寂しさに襲はれ、そのままあの幻を追ひつつ、自分も死の淵へ吸ひ込まれるやうに思はれて來る。

 南湖院の彼の窓からは小松林が續いでゐた。

 彼の好きな五月のそよ風のわたる時、葉梢に澄みわたる十月の靑空を仰ぐ時など、ふと便りなど書く氣にもなつたらしいが、それも極く稀になつて、遠ざかりゆく戀人のうへをのみ思ひつづけてゐたらしいのである。がたまさかに見舞ふ私を迎へてやはりうれしさうであつた。病院の食物の不平を訴へたり、家族の安否を聞いてくれたりした。好きな大福餅ばかり食つて一日過したなどとも聞いたので、好物の豆を煮て持つて行つたこともあつたが、彼は非常に喜んでくれた。

 その頃から病氣もかなら順調のやうに醫者から聞いてゐたので、九年の春には彼を東京に迎へることが出來るものとばかり思つてゐたが、ここにも彼の我儘が出てかなり無理をしたらしく、つひに命を縮めてしまつた。

 彼は逝いた。しかも忽然と。

 あの小兒のやうに純眞な彼、實に得難いこの本質的な詩人は、一生獨身のその生涯を寂しく閉じた。彼は日頃北原白秋氏、萩原朔太郎氏、大木惇夫氏などの敬愛する詩人達と私とのほかには殆んど交遊がなかつた。彼が死の床に見たものは、看護婦のつめたい白衣のみであつた。

 作品に不滿を感じつつ新境地を拓くこともなく、失戀に失戀を重ねてつひに病床に瘠せせ衰へて行つた彼、彼はいかに寂しかつたであらう。

 いや私はさう思かたくない。詩を愛し、戀人を愛し、孤獨に、寂しさに徹し、一切空の心境にあつて、親しければこそ友にその臨終を示さず、むしろ安らかに眠つて逝つたに違ひないのである。

 あの死顏に見た崇高さ、靜けさ、彼は今もなほ薔薇の足音を聞きながら幻を追ひつゞけてゐるであらう。          昭和十年四月十八日夜

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