中島敦 南洋日記 十月十七日
十月十八七日(金) 曇
神嘗祭。朝、椰子水を飮みに公學校へ行く。今日のは二つとも頗るうまし。一昨日モートロックより歸來せる「きよ丸」(二十八噸)にて、北西離島一遊を試みんと思ひ、堀君を煩はして、旅程を聞くに、二三日後出帆、十六日から二十日位 [やぶちゃん注:「神嘗祭」「かんなめさい・かんなめのまつり・かんにえのまつり」と読む。宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納する儀式が行われる。かつては旧暦九月十一日に勅使に御酒と神饌を授け、旧暦九月十七日に奉納した。明治五(一八七二)年以降は新暦の九月十七日に実施となったものの、新暦では稲穂の生育が不十分な時期に当ってしまうために明治一二(一八七九)年以降、十月十七日に実施されるようになった。古来より神嘗祭には皇室から伊勢神宮で儀式へ幣帛使が派遣されたが、応仁の乱以降は中断も多かった。しかし、正保四(一六四七)年に幣帛使発遣が復活して以降は中断なく派遣が行われている。明治四(一八七一)年以降は皇居の賢所でも神嘗祭の儀式が行われた。神嘗祭の儀式に先立って、天皇は宮中三殿の神嘉殿南庇で神宮を遥拝する。明治四一(一九〇八)年九月に制定された「皇室祭祀令」では大祭に指定された。同法は昭和二二(一九四七)年五月に廃されたが、以降、現在も宮中および伊勢神宮では従来通りの神嘗祭が行われている。「神嘗」は「神の饗(あえ)」が変化したものと言われ、「饗え」は食べ物でもてなす意。伊勢神宮ではこの時を以って御装束・祭器具を一新することから、神宮の正月ともいわれる。神宮の式年遷宮は大規模な神嘗祭とも言われ、式年遷宮後最初の神嘗祭を大神嘗祭とも呼ぶ。また「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、明治七(一八七四)年から昭和二二(一九四七)年までは同名の祝祭日(休日)で、この日、敦も神嘗祭の伊勢神宮遥拝の儀式の参加以外は休みであったことがこの日記の叙述からも分かる(以上はウィキの「神嘗祭」に拠った)。]のかかる豫定なりと。二十日出帆として、十六日とかかるとするも、來月の五・六日頃迄はかかるべし。パラオ丸は來月七日入港の豫定なれば、之は到底思寄るべくもあらず。殘念なり。モートロックも行けず、マーシャル離島も行けず、今又、北西離島も駄目とならば、此の上は、ヤップ離島だけは何とか都合したきものなり。午食は、松下、高橋、兩氏の御馳走。雞と卵なり。食後三時過迄閑談。モートロックの話、頗る面白し。高橋氏が總監となりて施行せるモートロック島防空演習の話の如き、就中、傑作なり。(椰子の枯葉を組合せて小舍の如きものを數十作り、爆彈落下想定の箇所にて、下に、それに火を放ち、實際に消火せしむるなりといふ。夜ひそかに火をつけに行くを、島民は、遊戲と心得て欣んで、之を消すなり、つひに、誤つて巡警の家まで燒捨てたりと。他島よりの見學者、之を見て、すつかり羨ましがり、「是非わが島に來りて、その防空演習とやらいふ面白きものを教へてくれ」と賴みたる由)(同島に魚多きこと、龜多きこと。人情厚くして、別に臨んで、聲を放つて悲しむものあること。一貧老女、別に際し、自分の家は貧しければ、せめて、とて、子安貝一箇を餞別として呉れたる話)夜食の時、食卓の上に、菊花あり。今日の飛行機が内地より運び來れるものなりと。防空演習なれば、燈をつけず、六時より蚊帳に入る。