北條九代記 伊賀到官光季討死 承久の乱【六】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――京都守護伊賀光季、倒幕計画を察知し鎌倉へ急報、後鳥羽院の召しに応ぜず。同京都守護大江親広及び西面の武士佐々木広綱は召しに応じて官軍に組みす
○伊賀到官光季討死
伊賀判官光季、佐々木左衞門〔の〕尉廣綱、大江親廣(おほえのちかひろ)入道等(ら)を召しけるに、光季(みつすゑ)は北條義時が妻の弟なり。近き緣者なれば、この事を聞くよりして、關東に飛脚を遣し、軍の用意を致しける所に、急ぎ參るべき由御使ありければ、光季御返事申すやう、「京中何とやらん申す沙汰の候。某(それがし)關東の御代官として一方の防(ふせぎ)にも罷り向ふべき身にて候へば、子細をも承らず、卒爾(そつじ)には参り候まじ」とぞ申返しける。佐々木大江は疾(とく)參りて、一院の御前にして、直(ぢき)の勅を承り、遁るゝ所なくして、起請文を書きて、御味方となりにけり。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【六】――承久三(一二二一)年五月十四日 承久の乱勃発前夜――京都守護伊賀光季、倒幕計画を察知し鎌倉へ急報、後鳥羽院の召しに応ぜず。同京都守護大江親広及び西面の武士佐々木広綱は召しに応じて官軍に組みす〉
以下、以前のようにパートごとに分割して示す。前と同じように実際の本文は改行なしで連続している。
「承久記」(底本の編者番号16のパート)の記載。この伊賀光季討死のシーンは詳細を極める。
平九郎判官胤義ヲ被ㇾ召テ、「親廣法師・伊賀判官、是等ヲバイカヾスベキ」ト被ㇾ仰ケレバ、胤義申ケルハ、「親廣ハ被ㇾ召バ參候ハンズ。光季ハ權大夫ニ緣者ニテ候へバ、被ㇾ召共參リ候ハジ。如何樣ニモ先兩人ヲ被ㇾ召候テ、參リ候ハズハ、其時コソ討手ヲモ被二差遣一候へ」ト計ラヒ申セバ、「尤可ㇾ然」トテ、少輔入道ノ許へ御使ヲ被ㇾ遣。即チ五十綺計ノ勢ヲ相具シテ參ケルガ、伊賀判官ノ許へ使ヲツカハス。「賀陽院殿へ被ㇾ召候間、參候。其へハ御使ハコヌカ」ト云ケレバ、「是へハ末御使モ見エ候ハズ。縱ヒ御使候トモ、承旨候程ニ、左右ナク參候マジ」トコタヘケリ。少輔入道是ヲサトラズ賀陽院へ參リタレバ、殿上口へ被ㇾ召テ、院直ニ被二仰下一ケルハ、「義時ガ方ニ有ンズルカ、又御方ニ可ㇾ候カ、只今申キレ」トゾ仰ケル。直ノ敕定ニテハアリ、兎角可ㇾ申トモ不ㇾ覺、「御方ニコソ候ハンズレ」ト申ケレバ、「サラバ、只今起請ヲ書テ進ラセヨ」ト被レ仰。難ㇾ遁カリケレバ、居ナガラ起請ヲ書テ進ラセケリ。サテコソ御所中ニハ候ケレ。
ヤガテ、「伊賀判官メセ」トテ被ㇾ召クレバ、「畏テ承ハリヌ。無二左右一可ㇾ參候へドモ、京中ニ何トヤランノ、シル事ノ候。光季ハ未不ㇾ承候。カタノ樣ニ候へドモ、關東ノ御代官トシテ、カクテ候ニ、如何ナル御事ニテ候トモ、先承候ハントコソ存候ニ、今始テ勅定ニアヅカリ候へバ、參マジキニテ候」トゾ申ケル。押返シ、「別ノ儀ニ非ズ。直ニ可ㇾ被二仰下一旨アリ。急ギ參レ」ト被ㇾ仰ケレバ、「子細ヲ承テ一方へモ罷向ハン、御所へハ無二左右一參リガタフ候」ト申セバ、「サテハ此事、ハヤ、知テケリ。胤義ガ申狀不ㇾ違。サラバウテ」トテ、討手ヲ被ㇾ向。承久三年五月十四日ノ事也。今日ハ日暮ヌトテ、被ㇾ留ヌ。
「平九郎判官胤義」三浦義村の弟で検非違使判官であった三浦胤義(既注済み)。
「親廣法師」大江親広(ちかひろ 生没年不詳)は幕府御家人。幕府重臣大江広元長男。公卿源通親の猶子となって源親広と称したが、建保四(一二一六)年に父の大江復姓(元は養家の中原姓を名乗っていた)に合わせて大江姓に戻った。父が幕府の実力者であったことから実朝に寺社奉行として重用され、北条氏からも執権義時の娘婿として厚い信任を受けていた。建保七(一二一九)年一月、実朝が公暁に暗殺されたため、出家して蓮阿と号し、同年二月に伊賀光季とともに京都守護に任じられて上洛していた。承久の乱では後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与し、近江国にて幕府軍と戦ったが、敗れて京都に戻り、その後の消息は不明。一説に出羽国に隠棲したともされる。また、乱後に離別させられた正妻竹殿(北条義時娘)は、後に通親の子土御門定通の側室となっており、定通の甥にあたる後嵯峨天皇の即位と深く関わることになる(以上は主にウィキの「大江親広」を参照したが、没年は未詳に変えた)。
「伊賀判官」伊賀光季(?~承久三(一二二一)年)は幕府御家人。伊賀朝光長男。母は二階堂行政娘。北条義時の後妻伊賀の方は姉妹で北条氏外戚として重用された。この時、大江親広とともに京都守護として上洛していた。
「權大夫」北条義時。当時、右京権大夫。
「承旨候程ニ」お懼れながら伝え聞いて御座いまする(不審の)義が御座いますれば。
「少輔入道」大江親広蓮阿入道。当時、民部少輔(しょうゆう/しょう)。
「申キレ」「まうしきる」で自己尊敬(卑小語)の「申す」に、「きっぱりと~する」「決定する」の意の「切る」の命令形が附いたもの。
「子細ヲ承テ一方へモ罷向ハン、御所へハ無二左右一參リガタフ候」の伊賀の奏上は「北條九代記」本文「京中何とやらん申す沙汰の候。某(それがし)關東の御代官として一方の防にも罷り向ふべき身にて候へば、子細をも承らず、卒爾には参り候まじ」(どうも京の内に何やらん、非常に不穏な噂が流布して御座います。我ら、関東より京都守護職を命ぜられた身として、帝を守るとともにこの不穏な状況から一方の、幕府の防衛のためにも不測の事態に対応して出陣致さねばならぬ身でも御座いますれば、お召しの具体的な御理由を拝聴申し上げぬ限りは、俄かに、また、御前に軽率に参上致す何度と申すことは、これ畏れ多く、とても出来そうも御座いませぬ)で非常に分かり易く言い換えられてある。光季の迂遠で慇懃なぬらりくらりとした応答は小気味よい。
以下、「北條九代記」本文を注する。
「佐々木左衞門尉廣綱」佐々木広綱(?~承久三(一二二一)年)は近江源氏で頼朝側近であった佐々木定綱の嫡男。当初、在京御家人として幕府に仕えていたが、次第に後鳥羽上皇との関係を深め、西面武士となった。承久の乱では以下に見るように京極高辻の館の伊賀光季を討ち滅ぼし、その館を賜っている(五月二十二日に幕府軍が進発するが、そこには彼の弟(定綱四男)で後の「宇治川の戦い」のシーンに登場する佐々木信綱がいた)。六月三日卯の刻、関東方を迎え討つべく京を進発、同四日、尾張川に至り、大手の将軍として藤原秀康・盛綱・高重・三浦胤義らとともに一万余騎を率いて摩免戸(まめど)の渡し(現在の各務原市前渡(まえど))を守って翌五日に鎌倉方と戦うが、官軍は他と合わせても二万余で敵の半数(北条泰時・時房率いる東海道軍は凡そ十万騎)にも満たず、敗れて帰洛、同十二日には軍を率いて宇治を守ったが、先陣を切った弟信綱の働きで十四日に幕府軍が勝利し逃れたが、後に捕らえられ、乱平定直後の七月二日に梟首された。彼の四男勢多加丸(後鳥羽上皇第二子の御室道助法親王の寵童)は捕らえられたものの、未だ年少の美少年であったため泰時は助命しようとした。ところが、広綱の弟信綱の要求によって彼に引き渡されて七月十一日に彼の手で斬首された。佐々木氏は後に信綱が継ぐ事となった。「承久記」の諸本はその哀話を詳しく語っているが、何故か「北條九代記」はそれを全く記さない。「北條九代記」という幕府史の正統から外れ、戦記物張りのリズムにも合わないと考えたものかも知れないが、かなり残念な気が私はする(以上はウィキの「佐々木広綱」及び「承久記」底本の人物一覧も参照した)。
なお、「承久記」慈光寺本を見ると、広綱と伊賀光季は「相舅(あひやけ)」(光季の息子判官次郎寿王が広綱の娘を妻としていた)であって親しく、まさにこの五月十四日の昼には光季誅伐の情報を耳にした広綱が伊賀に伝えようと彼を自邸に招いて酒宴を開いたとする。そこで光季はいつになく寛いで、
「この頃、都に数多の武士が集うて御座るとお聞き致す。一体、何事かと合点がいき申さぬ。過日の夜の夢に、宣旨の使者が三人参って私の張り立てておいた弓を取り上げ、その柄(つか)を七つに折りしだくという夢を見申したによって、何事も不安で、世も何にとなく面白うなく存じて御座った。今日の、この交遊は、まさに生涯の思い出とまりましょうぞ。」
と述べた。広綱は彼に迫った危機を告げようとしたが、後に後鳥羽院は、内通したのは広綱に違いない、と思うに決まっていると躊躇しつつも、それとなく、
「院は一体、何をお考え遊ばされておらるるものやら……。おっしゃる通り、都の中にもの騒がしき不穏な気配が確かに御座る。無常のこの世の習いなれば……ただ他人の上に何かが起ころらんとすることか……いや、もしや……我が身の上にこそ起こらんとすることか……もしものこと……これあるであろう時には……どうか、お頼み申しまするぞ。……また……同じごと――我らがことを頼みと――なさるるがよろしゅう御座る。……」
と言ったという。その後、日暮れになって自邸へ帰った光季は、その夜もそのまま白拍子の名人春日金王(かすがのかなおう)を招いて、夜もすがら、園遊を催したそうである。……「承久記」、なかなか面白い。]