日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 1 9月11日 東京大学教授会/御雇外国人教授歓迎会(於・教育博物館)
第九章 大学の仕事
九月十一日。大学の正規な仕事は、今朝八時、副綜理ドクタア浜尾司会の教授会を以て、開始された。彼は先ず、綜理ドクタア加藤が、母堂の病あつき為欠席のやむを得ざるを、綜理に代って陳謝した後、ゆっくりした、ためらうような口調で、前置きの言葉を僅か述べ、この学期が教員にも学生にも、愉快なものであることを希望するといった。午後には先任文部大輔が、大学の外人教授たちを、上野公園の教育博物館へ招いて、接待した。これは、興味の深い会合だった。医科にはドイツ人が配置され、語学校には仏、独、英、支の先生がおり、大学の我々の分科には英国人が四、五人、米国人が八、九人、フランス人が一人、ドイツ人が二人、それから日本の助教授が数名いる。日本人は少数の例外を除いて洋服を着ていたが、支那の先生達はみな支那服であった。彼等は決して服装を変えないのである。
[やぶちゃん注:「大学」東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学が発足したのは、この明治一〇(一八七七)年四月十二日のことであったが、新体制での学科編成が始まったのは実際には当時の学年暦の開始であるこの同年九月「開校」であった。なお、東京大学が「東京帝國大學」と改称されるのは明治一九(一八八六)年三月二日公布、同年四月一日に施行された帝国大学令(現「国立総合大学令」)のことである。記念すべき新制東京大学初の新学年度の授業の開始は、まさに、この翌日、明治十年九月十二日のことであった。後に記されるようにその日、モースも早速、動物学の講義を行っている(後注する)。
「副綜理ドクタア浜尾」浜尾新(はまおあらた 嘉永二(一八四九)年~大正一四(一九二五)年)は教育行政官・官僚。明治一〇(一八七七)年に法理文三学部綜理補として加藤を補佐した。後に文部大臣・東京帝国大学総長・内大臣・貴族院議員・枢密院議長などを歴任。既注であるが再掲しておく(次も同じ)。
「綜理ドクタア加藤」加藤弘之(天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年)は政治学者・官僚。この明治一〇(一八七七)年に東京大学法文理三学部綜理となった。啓蒙思想家であったが晩年は国家主義に転向した。明治三九(一九〇六)年には枢密顧問官となった。モースが直接に契約を結んだ東京大学の代表者は彼である。
「先任文部大輔」原文“the senior Vice-Minister of Education”。誤訳。「先任」ではなく「上級」と訳すべきところである(「文部省上級副大臣」という訳語も屋上屋という気もするが)。文部卿であった木戸孝允が明治七(一八七四)年(年)五月十三日に台湾出兵に抗議して辞任した後、明治一一(一八七八)年五月二十四日に西郷従道(つぐみち)が就任するまでの四年間は文部大輔(たゆう:次官。)であった田中不二麿(弘化二(一八四五)年~明治四二(一九〇九)年)が文部卿の職務を代行していた。田中は岩倉遣欧使節に文部理事官として随行しアメリカのアマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手とし、欧米の学校教育を見聞するなど、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、文部行政の最高責任者であり、牽引役であった田中は『自由主義的色彩の濃い人物』で、それが当時の東大の先進的な学科編成(モースが担当することになるところの純自然科学的な生物学科の設置)に影響を与えていると推測されておられ(当該章一〇七頁)、これはひいてはモースの破格の抜擢にも関わっていたと考えてよいのではなかろうかと思われる。
「教育博物館」上野にあった文部省教育博物館。現在の東京芸術大学のある辺りにあったもので一月前の八月十八日に開館したばかりであった。因みにモースは開館の遙か前の六月二十四日に同館を見学している。この教育博物館の後身が現在の国立科学博物館である。第一章のこちらの注を参照のこと。
「医科」当時の医学部は法理文三学部の東京大学とは別扱いの学校であった。
「語学校」これは東京外国語学校(現在の東京外語大学の前身)を指している。明治六(一八七三)年十一月に開成学校語学課程(英・独・仏の三科)と独逸学教場及び外国語学所が併合されて「東京外国語学校」(旧)が設立。
英・仏・独・清(中)・魯(露)の五語学科が置かれたが、翌年には英語科が「東京英語学校」として分離独立して四語学科となっていた。
「大学の我々の分科には英国人が四、五人、米国人が八、九人、フランス人が一人、ドイツ人が二人、それから日本の助教授が数名いる」「我々の分科」とは法理文三学部の東京大学全体の謂いである。但し、人数はやや事実と異なるようだ。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、英国人が4名・米国人が7名・フランス人3名・ドイツ人2名の計十六名であった。理学部でモース以外に特に人口に膾炙する人物としては、ナウマンゾウに献名された、地質学教室初代教授であったドイツ人学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann 一八五四年~一九二七年)がいる。日本初の本格的な地質図を作成し、フォッサマグナを発見したことで知られ、貝塚の研究などもしており、モースとの学術的接点もあるのだが、実は後にモースが発掘する大森貝塚を巡ってはナウマンと彼はライバル関係となったため(後に注する)、二人の親交は殆どなかった。
「日本の助教授」原文は確かに“Japanese assistant professors”であるが、これは御雇い外国人から見下した見方による一種の誤認、若しくはモースの単なる記憶違いと思われ、事実は同等の「教授」である。心理学及び英語の外山正一、イギリス法律の井上良一、純正化学及び応用数学の菊池大麓、植物学の矢田部良吉、冶金学及びドイツ語の今井巌の計五名であった。]
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