北條九代記 承久の乱【四】 後鳥羽院、倒幕を決意し、軍兵陸続と参集す / 承久の乱Ⅳ 土御門院、倒幕に反対するも、順徳天皇は後鳥羽院に同意、さらに順徳帝は四歳の宮に譲位して三人目の上皇となり、仲恭天皇即位
一院愈(いよいよ)安からず思召しければ、關東を亡さるべき御心に定められ、國々の軍兵をぞ内々に召(めさ)れける。關東に志深きも、力及ばず、召に隨ひて伺候するも多かりけり。關東の武士、下総前司盛綱をも竊(ひそか)に招かれて、仙洞に參りたり。三浦〔の〕平九郎判官胤義在京して居たりけるを、西面の侍能登守藤原秀康を御使として、仰せられ遣さるゝやう、「關東奉公の身にて、久しく在京する事は所存も有るにや、子細を申すべしとなり。胤義申しけるは、「別義ある身にても候はず。當時胤義が相倶して候女房は、故右大將家の御時に、意法坊生觀(いはうばうしやうくわん)とて隱なき切者(きりもの)なりしが、その娘にて候。故左衞門督殿に思はれ參らせて、若君一人設け奉りしを、右京大夫義時に故なく失はれ、餘に泣歎き候が、見捨難くて久しく逗留仕る事にて候」とぞ申しける。秀康聞きて究竟(くつきやう)の事なりと思ひて、近く立(たち)より小聲に成りて云ひけるやう「義時が事は、内々院中の御氣色も善からぬ者にて候、如何にもして義時を討たせ給ふべき御計や候べき」と申しければ、胤義聞きて「一天の君の思召立せ給はんに、何條(なんでう)叶はぬやうの候はん。日本國重代の侍共勅を承らんには誰か背き奉るべきや。某が兄にて候三浦駿河守義村は極(きはめ)て烏呼(おこ)の者にて候。是を招きて、日本國の總追捕使(そうつゐふし)になされんと仰せ候はば、喜(よろこび)て御味方にまゐり候はん。胤義も内證より申し遣し候べし、早く秘計を廻(めぐら)し給へ」と申しければ、「近比神妙(しんべう)の仰(おほせ)かな。この趣(おもむき)善々(よくよく)奏聞を遂げ、貴殿に於いては御本意達せられ、拔群の勳賞を賜らんずるぞや。穴賢(あなかしこ)、先(まづ)深く穩密(をんみつ)し給へ」とて秀康は嘉陽門の御所に歸りて、胤義が申しける趣を奏聞す。一院御感ましまして、鳥羽の城南寺(じやうなんじ)の流鏑馬跳(やぶさめぞろへ)に事を寄せて、近国の武士を召(めさ)るに、五畿内は申すに及ばず。丹波、丹後、紀伊、但馬、伊賀、伊勢、美濃、尾張、江州、十四ヶ國の兵共(つはものども)我も我もと馳參(はせまゐ)る。内藏権頭淸範(くらのごんのかみきよのり)著到を付けけるに、宗徒(むねと)の兵一千七百餘騎とぞ記しける。
[やぶちゃん注:〈承久の乱Ⅲ 後鳥羽院、倒幕を決意し、軍兵陸続と参集す〉底本頭書『官軍の準備』
「承久記」(底本の編者番号12~14のパート)の記載。
一院彌不ㇾ安思召ケレバ、關東ヲ可ㇾ被ㇾ亡由定メテ、國々ノ兵共、事ニヨセテ被ㇾ召ケル。關東ニ志深キ輩モ力不ㇾ及、召ニ隨ヒテ伺候シケリ。其比、關東ノ武士下總ゼンジモリツナモ伺候シテケリ。平九郎判官胤義大判ノ次デ在京シテ候ケレバ、院此由被二間召一テ、能登守秀康ヲ被ㇾ召テ、「抑、胤義ハ關東伺候ノ身トシテ、久在京スルハ何事ゾ。若存ズル旨アルカ、尋キケ」ト被ㇾ仰ケレバ、秀康承テ、雨フリ閑ナル夜、平九郎判官胤義ヲ招ヨセテ、門サシカタメテ、外人ヲバヨセズ、ムカヒ居テ酒宴シ遊ケリ。夜フケテ後、秀康申ケルハ、「『關東御奉公ノ御身ニテ御在京ハ、如何樣ナル御所存ニテ候ヤラン。内々尋承り候へ』ト御氣色ニテ候」。胤義、「別ノ儀不ㇾ候。當時、胤義ガ相具足シテ候者、故大將殿ノキリモノ意法坊生觀ガムスメニテ候。故左衞門督殿ニ被ㇾ思マイラセテ、若君一人マウケ奉リシヲ、權大夫ニ無ㇾ故被ㇾ失テ、『憂キモノニ朝夕姿ヲ見スル事ヨ』ト、餘ニ泣嘆候間、サテ力不ㇾ及、角テ候ナリ」ト申。秀康、「地タヒ、義時ハ院中ノ御氣色ヨカラヌモノニテ候。如何ニシテ義時ウタセ可ㇾ給御計ヤ候ベキ」ト申ケレバ、胤義、「一天ノ君ノ思召立セ給ハンニ、何條カナハヌ樣ノ候ハンゾ。日本國重代ノ侍共、仰ヲ奉リテ、如何デカ背キ進ラセ候べキ。中ニモ兄ニテ候三浦ノ駿河守、キハメテヲコノ者ニテ候へバ、「日本國ノ惣追捕使ニモナサレン」ト仰候ハヾ、ヨモ辭申候ハジ。サルベクハ胤義モ内々申達シ候ハン」トテ歸リニケリ。秀康賀陽院ノ御所へ參リテ、「胤義、角コソ申候ツレ」ト申ケレバ、一院ヱツボニ入セ給テ、胤義ヲ召テ御尋有。秀康ガ申ツルニ少モ不ㇾ違、同ジ言葉ニ申ケレバ、今ハ角ト被二思召一テ、鳥羽ノ城南寺ノヤブサメソロヘト披露ンテ、近國ノ兵共ヲ被ㇾ召ケリ。大和・山城・近江・丹波・美濃・尾張・伊賀・伊勢・攝津國・河内・和泉・紀伊・丹後・但馬十四箇國、是等ノ兵參リケリ。内藏權頭淸範承テ、著到ヲツク。宗徒ノ兵一千七百人トゾシルシタル。
「承久記」の語注を示す。
・「地タヒ」は「地体(ぢたい)」で元来、元々の意の副詞。
・「進ラセ」「まひらせ」と訓じていよう。
・「ヱツボ」「笑壺」で、笑い興じること、満足して笑うこと。
「下総前司盛綱」小野盛綱(生没年未詳)。尾張守護であったが、承久の乱では京方に属し、後で見るように後鳥羽上皇の命により京都守護伊賀光季を討ったが、その後の美濃などの戦いで敗れて逃走、守護職は没収された。
「三浦平九郎判官胤義」(?~承久三(一二二一)年)将。頼朝の宿老であった三浦義澄の九男(末子)。畠山重忠の乱・牧氏事件・和田合戦で勲功を立て、建保六(一二一八)年六月の源実朝の左大将拝賀にも参列している。その後、京に上って検非違使判官に任じられていた。胤義の妻は二代将軍頼家の愛妾で男子を生んだ女性であり、頼家の死後に胤義の妻となっていた。実朝の暗殺後は仏門に入っていた妻と頼家の子であった禅暁の将軍擁立を望んだが、執権北条氏の画策で将軍後継者には摂関家から三寅が迎えられ、その上に禅暁も殺されてしまった。鎌倉の兄義村には密書を送ったが、義村は使者を追い返して密書を幕府に届け出、京方の目算は外れる。「吾妻鏡」承久三(一二二一)年五月十九日の条に載る、同日行われた大倉幕府での北条政子の御家人に対する叛乱鎮定の訓示では、
〇原文
二品招家人等於簾下。以秋田城介景盛。示含曰。皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者。
〇やぶちゃんの書き下し文
二品、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛を以つて示し含めて曰く、
「皆、心を一にして奉(うけたまは)るべし。是れ、最期の詞なり。故右大將軍が朝敵を征罰し、關東を草創してより以降(このかた)、官位と云ひ、俸祿と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)より深し。報謝の志、淺からんか。而るに今逆臣の讒(ざん)に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜むの族(やから)は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代將軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。但し、院中に參ぜんと欲する者は、只今、申し切るべし。」
てへれば、
と、秀康と胤義の名を叛乱の非道の逆臣の二大張本として挙げており、幕府からは当初から京方の中心人物と見られていた。以下に見るように六月に京方の大将軍として美濃国と宇治川で幕府軍と戦うも敗北、院の御所で最後の一戦を図ったが、裏切られて御所の門を閉じられ追い返され、逆に乱を引き起こした謀臣として逮捕の院宣を出されてしまう。残った京方武士と東寺に立て籠ったものの、兄義村の軍勢に攻められ、胤義は子息胤連・兼義とともに奮戦して西山木嶋(現在の京都市右京区太秦)で自害した(以上は事蹟部分はウィキの「三浦胤義」に拠った)。
「能登守藤原秀康」(?~承久三(一二二一)年)従五位上河内守藤原秀宗の子。河内国に本拠を持ち、後鳥羽上皇にとりたてられた。検非違使として京都の治安維持に当たる一方、下野・上総・若狭・伊賀・河内・備前・淡路・能登の国司を歴任して従四位下に昇った。この位階は鎌倉幕府の執権北条義時と同等で武士としては破格のものであった。白河上皇が平氏を用いて源氏を牽制したように後鳥羽上皇は秀康を新たな武士の棟梁に擬して幕府への対抗を企図したと考えられており、承久の乱では京方の総大将的な立場にあり、大手に当たる美濃国摩免戸(現在の岐阜県各務原市)に出陣するも幕府軍に敗れて帰京、再度二千余騎を率いて出陣するが再び宇治・勢多の戦いに敗れて逃走、軍記類による限りでは軍事的才能には乏しかった。南都に潜伏して本拠地河内国に逃れたが、讃良庄(現在の大阪府北河内地区の四条畷市及び大東市附近)で捕らえられ、六波羅で斬られた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「意法坊生觀(いはうばうしやうくわん)」底本のルビは「いほうばうしやくわん」であるが誤字と判断して訂した。事蹟は不詳。
「左衞門督殿」源頼家。
「究竟」「くきやう(くきょう)」とも読む。元来は仏語で物事の最後に行きつくところ、無上の謂いであるが、そこから、極めてすぐれていること、更に、ここでの謂い、極めて都合がよいこと、お誂え向き、の謂いともなった。
「城南寺」京都市伏見区にあった永暦元(一一六〇)年以前の創建とされる寺。白河上皇の鳥羽殿の遺跡に造られたといわれ、平安京の南にあったことから城南寺と名づけられた。ここでかつて行われた城南寺祭は平安末期から鎌倉初期には盛大で、競べ馬なども催された。後に廃寺となったが、祭りは真幡寸(まはたき)神社(現在の城南宮)の城南宮神幸祭として受け継がれている。
「嘉陽門」平安京内裏内郭十二門の一つ。東面して宣陽門の北にあった。左廂(さしょう)門ともいう。上皇(後鳥羽院)御所があった。
「内藏権頭淸範」藤原清範(生没年未詳/但し、後文を参照)。後鳥羽院の判官代(院庁に仕えた事務官で五位・六位の者を任じた)で歌人。北面の武士から左近衛将監を経て内蔵権頭従五位上。和歌所寄人。後鳥羽院の側近として定家の「明月記」にも頻繁に名が載る。能書家であったという。「続後和歌撰集」の編者。但し、思文閣刊「美術人名辞典」には健保元(一二一三)年五十九歳で没ともあり、不審。
「著到を付けける」着到状(出陣命令を受けた諸将が馳せ参じた旨を記した文書をいい、これを受け取った大将または奉行人がその承認の文言と花押とを加えて返却して後日の恩賞の証拠としたもの)の受領記載を行った。]
*
一院御謀叛の事、御色に出で給へば、新院は此事御無用の由諫め申さる。主上は御同意ましましけり。同月に御位を四歳の宮に讓り給ふ。懷成(かねなり)親王とぞ申ける。この時、後鳥羽院をば一院又は本院と申す。土御門院をば中院と申し、順德院をば新院とぞ申ける。一院と新院と、御心を一つにして、義時追討の事を相計(あひはから)はせ給ふより外に又他事なし。
[やぶちゃん注:〈承久の乱Ⅳ 土御門院、倒幕に反対するも、順徳天皇は後鳥羽院に同意、さらに順徳帝は四歳の宮に譲位して三人目の上皇となり、仲恭天皇即位〉底本頭書『仲恭天皇即位。一時に三上皇あり』
この箇所、原素材を明らかとせず。識者の御教授を乞う。]
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