日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 2 9月11日 御雇外国人教授歓迎会会場(教育博物館)にて
博物館は大きな立派な二階建で、異があり、階下の広間の一つは大きな図書室になっている。また、細長くて広い部室は、欧洲及び米国から持って来た教育に関する器具――現代式学校建築の雛型(ひながた)、机、絵、地図、模型、地球儀、石盤、黒板、インク入れ、その他の海外の学校で使用する道具の最もこまかい物――の、広汎で興味ある蒐集で充ちていた。これ等の品物はすべて私には見慣れたものであるに拘らず、これは最も興味の深い博物館で、我国の大きな都市にもある可き性質のものである。我々の持つ教育制度を踏襲した日本人が、その仕事で使用される道具類を見せる博物館を建てるとは、何という聡明な思いつきであろう。ここに、毎年の予算の殆ど三分一を、教育に支出する国民がある。それに対照して、ロシアは教育には一パーセントと半分しか出していない。二階には天産物の博物館があったが、これは魚を除くと、概して貧弱であった。然し魚は美事に仕上げて、立派な標本になっていた。この接待宴には、教員数名の夫人達を勘定に入れて、お客様が百人近くいた。いろいろな広間を廻って歩いた後、大きな部室へ導かれると、そこにはピラミッド形のアイスクリーム、菓子、サンドウィッチ、果実その他の食品の御馳走があり、芽が出てから枯れる迄を通じて如何に植物を取扱うかを知っている、世界唯一の国民の手で飾られた花が沢山置いてあった。これは実に、我国一流の宴会請負人がやったとしても、賞讃に価するもので、この整頓した教育博物館で、手の込んだ昼飯その他の仕度を見た時、我々は面喰(めんくら)って立ちすくみ、「これが日本か?」と自ら問うのであった。
[やぶちゃん注:国立科学博物館公式サイト内の松浦啓一氏の「魚類コレクションの歴史と現状」に、当時、約五百点の魚類標本を保有していたことが記されている。]
日本のお役人たちが、ドクタア・マレーその他手伝いを志願した人々と共に、いろいろな食物を給仕したが、日本人が貴婦人と紳士とが一緒に坐っている所へお皿を持って行って、先ず男の方へ差し出し、そこで教(おそわ)ったことを思い出して、即座に婦人へ出す様子は、まことに面白かった。我国では非常に一般的である(欧洲ではそれ程でもない)婦人に対する謙譲と礼譲とが、ここでは目に立って欠けている。馬車なり人力事なりに乗る時には、夫が妻に先立つ。道を歩く時には、妻は夫の、すくなくとも四、五フィートあとにしたがう。その他いろいろなことで、婦人が劣等な位置を占めていることに気がつく。海外から帰った日本人が、外国風にやろうと思っても、若し実際やれば、彼等の細君達は、きまりの悪い思いをする。それは恰度我国の婦人連が、衣服なり習慣なりで、ある進歩した考(例えば馬にまたがって乗ること)を認めはしても、目につくことを恐れて、旧式な方法を墨守するようなものである。この事実は、日本人の教授の一人が私に話して聞かせた。日本の婦人はこの状態を、大人しく受け入れている。これが、非常に長い間の習慣だからである。酌量としていうべき唯一のことは、日本の婦人が、他の東洋人種よりも、遙かに大なる自由を持っているということ丈である。
[やぶちゃん注:「墨守」自己の習慣や主張等を堅く守って変えないこと。中国の思想家墨子が宋の城を楚の攻撃から九度にわたって守ったという「墨子」の「公輸」の以下の故事に基づく。楚王は伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器雲梯(攻城用梯子)を用いて宋を併呑しようと画策したが、それを聞きつけた墨子は早速、楚に赴いて公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫る。宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、「墨子が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨子がそれで守り切ったならば宋を攻めるのは白紙にしよう」と提案、机上模擬戦の結果、墨子は公輸盤の攻撃を尽く撃退し、しかも手駒にはまだまだ余裕が有った。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わずにおく」と意味深長な言葉を吐いたが、すかさず墨子が、「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということであろうが、すでに秘策を授けた弟子三百人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせる」と再び公輸盤をやりこめた。その遣り取りを見て感嘆した楚王は宋を攻めないことを墨子に誓った(以上の故事はウィキの「墨子」に拠った)。]
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