北條九代記 德大寺殿諫言 付 西園寺右大膳父子召籠めらる 承久の乱【五】
○德大寺殿諫言 付 西園寺右大膳父子召籠めらる
一院愈(いよいよ)御心猛くならせ給ひ、公卿殿上人を召して、巴(ともゑ)の大將を討(うた)ばやとぞ仰出(おほせいだ)されける。西園寺右大將藤原公經、同子息中納言實氏卿は、關東に親しくおはします故に、先(まづ)この父子を討つべしと企て給ふ。當座の諸卿(しよきやう)色を失ひ、互に顏を見合せて、物申す人もなし。德大寺の左大臣申されけるは、「西園寺〔の〕右大將は、關東將軍家の外祖として、攝政道家公の舅(しうと)なり、義時に付きても親(したし)き人にて候へば、討果(うちおほ)せ給はば、思召立ち給ふ事輕(かろ)く、若(もし)又討漏さば御大事重かるべし。彼人はさせる弓矢取る者にても候はず。子細あらば靜(しづか)に計はせ給へかし、大形(おほかた)この度思召し立ち給ふ御事は、然るべしとも覺え候はず。其故は、故法皇の御時、木曾義仲勅命を背きしを、賴朝に仰せては亡されずして、壹岐判官知康が勸に付かせ給ひて、院中に兵を召れ合戰候ひしかば、淺ましき事共出來して候。東國には武士多く候。御味方の兵は千が一にも及(および)難く候、御本意を遂られん事、定(さだめ)て希に候はん。善々(よくよく)御思惟あるべきにて候」と申されければ、一院以の外に御氣色損じて後(うしろ)の障子を荒(あらゝか)に開けさせ給ひて、入らせられたりければ、「後には思召合せられんもの」と、呟きながら、德大寺殿は退出し給ひけり。西園寺右大將は、この事夢にも知り給はず。仙洞よりの召(めし)によりて、父子共に出立ちて、嘉陽門の御所に參られける所に、小舅(こじうと)二位法印尊長(そんちやう)出向ひて、父子ながら馬場殿に押籠參せけり。「是は如何に」と宣ひけれども、本院の仰(おほせ)なりとて、一言の子細にも及ばざりけり。
[やぶちゃん注:〈承久の乱Ⅴ 藤原公継(きんつぐ)、後鳥羽院に諫言するも聴き入れず、親幕派の西園寺公経(きんつね)・実氏(さねうじ)を軟禁させる〉
「承久記」(底本の編者番号14の途中から15のパート)の記載。
一院彌御心タケクナラセ給フテ、「先、トモヱノ大將ヲウタバヤ」ト被ㇾ仰ケレバ、公卿・殿上人閉口シテ物モ不ㇾ被ㇾ申。德大寺ノ大臣被ㇾ去るケルハ、「カノウタレテ候ハヾ、思召立セ給ン事輕ク、若ウタレ候ハズハ、御大事ノ重クナラセ可ㇾ給ニテ候。サセル弓矢取者ニテモ候ハズ。子細候ハヾ、閑ニ御計ヒ候へカシ」ト、「大カタ今度ノ御謀叛間、〔公〕繼可ㇾ然トモ不ㇾ覺候。其故ハ、故法皇ノ御時、木曾義仲勅命ヲ背テ振舞ケルヲ、頼朝ニ仰ラレテ不レ被ㇾ亡シテ、壹岐判官知康ト申イクヂナシガスヽメニツカセ給ヒテ、院中ニ兵ヲ被ㇾ召合戰候シカバ、淺猿キ事共出來タリキ。大カタ、日本國ヲ蘆原ノ國ト申ハ、葦ノ葉ニ似タル故ニテ候。其フクロハ東國ニ相當リ、武士本ヨリ多クシテ、隨へサセ給ハン事、フヂヤウノ次第ニ候。御カタノ兵、千ガ三モ難ㇾ及候。能々御思惟可ㇾ有候ハン」ト申サレケレバ、一院、以外ノ御氣色ナリケレ共、後ニ定テ思召合ラレケントゾ覺シ。トモヘノ大將忽チニ被ㇾ失べカリシヲ、德大寺ノ被ㇾ申候ニヨリテ、思召ナダメラレテ、「サラバ召籠ヨ」トテ被ㇾ召ケル。
大將、賀陽院へ被レ參ケル。主税頑ナガヒラヲ使ニテ伊賀判官ノ本へ仰セラレケルハ、「賀陽院メサルヽ程ニ參候。城南寺ノヤブサメソロヘト聞へシガ、其儀ナクテ、寺ノ大衆靜メラルべシトモ聞ユ。如何樣ニモ世中ヲダシカルベシ共不ㇾ覺候。御邊被ㇾ召共、無二左右一參リ給フベカラズ。子細ヲ重テ被ㇾ仰候ハンズラン」トテ、賀陽院へ被ㇾ參タレバ、小舅ノ二位法印尊長、大將ノ直衣ヲ引テ、馬場殿ニ奉二押籠一。子息ノ新中納言、同ク被二召籠一ヌ。
「フクロ」不詳。アシの円錐花序に密集している花を包む芒の部分を言うか。識者の御教授を乞うものである。
以下、「北條九代記」本文の注を示す。
「巴の大將」=「西園寺右大將藤原公經」は既に注済であるが補訂して再注しておく。藤原(西園寺)公経(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)は府第四代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇中宮姞子の祖父であり、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・幕府第五代将軍藤原頼嗣曾祖父となった稀有な人物で、姉は藤原定家の後妻で定家の義弟にも当たる。源頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから鎌倉幕府とは親しく、実朝暗殺後は、外孫に当る藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されたが(「承久記」の底本にしている古活字本(流布本)には前に掲げた通り、院は当初、公経の誅殺を目論み、また、小舅の尊長(そんちょう:後注)にも命を狙われたとする)。事前に乱の情報を幕府に知らせて幕府の勝利に貢献、乱後は幕府との結びつきを強め、内大臣から従一位太政大臣まで上りつめ、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。『関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり、公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く』、『その死にのぞんで平経高も「世の奸臣」と日記に記している』(平経高は婿道家の側近であったが反幕意識が強かった)。『なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった』(引用を含め、ウィキの「西園寺公経」の他、「承久記」底本の人物一覧も参照した)。
「同子息中納言實氏卿」藤原(西園寺)実氏(建久五(一一九四)年~文永六(一二六九)年)は公経の長男。母は前に示した通り、頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子。叙爵後に遠江介・近江介などの国司を務めた後、左近衛中将・従三位参議・権中納言左衛門督・従二位右近衛大将を歴任、父とともに幕府と親しい公家として知られ、実朝が暗殺された鶴岡八幡宮右大臣拝賀の儀にも参列し、惨劇を体験した。「承久記」の底本にしている古活字本(流布本)には、その帰途に、
春の雁の人に別れぬならひだに歸る空には鳴てこよゆけ
という哀傷歌が載る。承久の乱後は内大臣・右大臣となって従一位、さらに太政大臣となり、続いて幕府の推挙により関東申次を勤め、院評定衆にもなって権勢を揮った。晩年、出家して常盤井(ときわい)入道相国と称した。女の姞子(大宮院)が後嵯峨天皇中宮となり、後の後深草・亀山両天皇を産み、大宮院の妹の公子も後深草天皇に入内して皇后となっている。「続後撰和歌集」「続古今和歌集」「続拾遺和歌集」には和歌が載る。(ウィキの「西園寺実氏」の他、「承久記」底本の人物一覧も参照した)。
「德大寺の左大臣」藤原公継(きんつぐ 安元元(一一七五)年~嘉禄三年(一二二七)年)。後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇・仲恭天皇・後堀河天皇の五朝に亙って仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。叙爵後、侍従・備前介・右近衛少将・右近衛中将・参議公卿と累進、建久六(一一九五)年に後鳥羽天皇の中宮九条任子の中宮大夫となった。伊予権守・権中納言・左衛門督・検別当などを経て、建仁二(一二〇二)年中に皇太子守成親王(後の順徳天皇)の春宮権大夫・中納言となる。その後、権大納言・大納言・春宮大夫・右近衛大将・正二位内大臣・右近衛大将から、建暦元(一二一一)年に右大臣となり、建保三(一二一五)年に辞職したが、承久三(一二二一)年に更任、承久の乱後の貞応三(一二二四)年、一上(いちのかみ:筆頭の公卿。通常は左大臣。)となって次いで左大臣に任じられている。嘉禄元(一二二五)年に従一位に叙され、同三年に薨じた。以上は主にウィキの「藤原公継」に拠ったが、この叙任から分かる通り、この承久の乱勃発時の彼は、本文にある「左大臣」ではなく「右大臣」であったから、これは誤りである。「承久記」底本の人物一覧によれば、「承久記」の慈光寺本には北条義時が幕府軍総大将として上洛する長男泰時に公継の近辺での狼藉を慎む旨述べている記述があり、本文の諌言といい、幕府方が一目置いていた人物であることが分かり、また『新古今集以下の勅撰歌人』で、『琵琶などの音楽的才能もあった』とあり、更にウィキでは最後に、「古今著聞集」成立に関わる情報源として、この公継のサロンが大きく関わっていたとも言われている、とある。
「討果せ給はば、思召立ち給ふ事輕く」うまく誅殺遊ばされたとしても、如何なる口実を設けられたと致しましても、幕府方は倒幕の意図を、京へ兵を侵攻させるに決まっております。されば、その思し召しは失礼ながら御軽薄と申し上げざるを得ず。
「若又討漏さば御大事重かるべし」万一、誅殺に失敗なされましたならば、必ずや幕府方は即座に苛烈な報復攻撃を開始し、日本国中を巻き込んだ戦乱となることは目に見えておりまする。されば孰れに致しましても、大きな戦さに発展することは必定で御座いましょう。
「一院以の外に御氣色損じて後の障子を荒に開けさせ給ひて、入らせられたりければ」「承久記」にはない、頗るうまい演出である。
「小舅二位法印尊長」(?~安貞元・嘉禄三(一二二七)年)は一条能保の子。法印、法勝寺執行、出羽国羽黒山総長吏。延暦寺の僧であったが、その智謀と武芸を認められ、後鳥羽上皇の側近となった。院近臣に加えられて法勝寺と長淵荘を始めとする同寺寺領の支配を任された。上皇の鎌倉幕府打倒計画には首謀者の一人として参加、ここに見るように義兄弟ながら、西園寺公経父子の逮捕・監禁に当たるなど、上皇の片腕として行動した。幕府軍との戦闘においては芋洗方面の守備に就いたが、敗戦が明らかになると脱走し、行方不明となった。六年間十津川などに潜伏していたが、嘉禄三年六月、京において謀反を計画しているところを発見され、六波羅探題北条時氏の近習菅十郎左衛門周則(ちかのり)によって自害しようとしたところを逮捕、誅殺された(ここは「吾妻鏡」嘉祿三年六月十四日の条で確認した)。因みに参照したウィキの「尊長」によれば、「明月記」によると、『捕縛された際に自殺し損なった尊長は、「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫び、問いつめる武士たちに「今から死ぬ身であるのに、嘘など言わん」とも述べたという。その3年前における前執権北条義時の死去がその室伊賀の方による毒殺であったとの発言であり、このことは現在、義時死後に起こった伊賀氏の変において尊長の兄弟である一条実雅が将軍候補とされていたことと、関連づけて語られることが多い』とある。]
« 『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(14) | トップページ | カテゴリ 八木重吉「秋の瞳」 始動 / 序 / 息を 殺せ »