中島敦 南洋日記 十月十六日 又は 南洋のタルコフスキイ
十月十六日(木)
七時頃旅館に行くに、既に飯無しといふ。改めて炊かんとも云はず、不愉快至極。昨日の殘りの饅頭を以て朝食にかへ、公學校に行く。午後、稻氏、松下氏と共にクツワなる神學校へと行く。途は概ね工事場にて甚だしき泥濘なり。椰子及パンの木の伐採さるるもの多し。パンの木は、トロッコのレールの枕木に用ひらる一なり。工事場より行くこと暫くにして、林間に山羊の群を見る。黑色あり、白色あり、褐色にして鹿の如きもあり。スコール沛然として到る。教合堂に逃込む、側廊なども裕かにとりたる仲々立派なる會堂なり。殊にその位置、海岸に吃立せる岩山の上、椰子林中にあり、眼下直ちに淡碧のリーフを俯瞰する狀、江の島に髣髴たり、遙か春島の、スコールに烟りて模糊たるなど、風景頗る佳。雨のやみ間を見て、山口牧師宅に行くに、主人不在。神學校移轉の準備中なりと。庭上、芝生の中に、ロバァト・ローガン氏師の墓あり。一八八七年四十四歳にて此の地に歿す、とあり。神學生より椰子水の馳走を受けて、歸る。再び雨に遭ひ教會内に避く。三時半頃漸く霽れ、歸途に着く。泥濘、前路より更に甚し。朝鮮人人夫のバラック多し。海中に長く連れる便所、面白し。四時半、漸く歸る。散々の遠足なりし。ウンチバ田の白鷺。
[やぶちゃん注:この日録、読みながら「アンドレイ・ルブリョフ」や「ノスタルジア」のあれこれのシーンがオーバー・ラップした。私には南洋でタルコフスキイが撮りたくなるような映像に思えたのである。
「山口牧師」山口祥吉(ネット上で生没年を確認出来ず)。大正八(一九一九)年に設立されたプロテスタント系の南洋伝道団の最初の宣教師の一人で、実に二十四年(大正九(一九二〇)年二月から昭和一八(一九四三)年十二月)の永きに亙ってトラック島夏島で伝道活動を行った(以上は西原基一郎「日本組合海外伝道の光と影(2)――南洋伝道団について」PDF版に拠った。この論文はそれまでの南洋でのキリスト教布教史から日本統治時代の伝道の実態と当時の南洋社会の文化様相を詳細に語っており、山口牧師の報告書の引用もあって、敦の日記を読み解く上でも非常に参考になる優れたものである)。
「一ロバァト・ローガン」八七四年にポナペ島に赴任したプロテスタント牧師。来島の翌年にはモートロック島に転任して新約聖書をモートロック語に翻訳し、旧約物語を書いた。後ににトラック島に赴任し、そこで病没している。以上は前注に使用した西原論文に拠った。なお、同論文によれば、神学校は日本統治時代になって一時閉鎖されていたものの、女学校とともに南洋伝道団によって復活し、特に公学校の設備の不十分な地域に置かれていたとあり、公学校(国民学校)と競合しないように図られていたようである。だからこそ官吏の敦が巡察をしているとも言えよう。
「ウンチバ田」後掲の十一月三日の日記注に附した十一月三日附書簡に出る、熱帯産の野菜であるウンチバ(詳細不詳)を栽培する湿田。]

