中島敦 南洋日記 十月五日
十月五日(日)
漸く快晴、午前中北方にオロロック島を認む。波無し、夜、滿月皎々。一般客の話に、マタラニュームに一チェッコ人(エストニヤ人を婦とす)あり、もとハルピンにありしが喘息に苦しみ、所々放浪の末、この地に來り、始めて、病苦を免れ、こゝに定住せりといふ。ボナペの如き濕地が良しとは、わが喘息とは異りたりと見ゆ。
[やぶちゃん注:「オロロック島」ポナペ島(現在のミクロネシア連邦のポンペイ島)の西北西凡そ三百キロメートルの位置にあるオロロック環礁(Orouluk Atoll)。
「マタラニューム」マタラニウム(Madolenihmw)はポンペイ島の東岸の島の四分の一弱を領する地域名。
以下、同日附中島たか宛書簡を示す。
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〇十月五日附(消印トラック郵便局16・10・6。パラオ丸にて。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一三二。太字にしたものは総て底本では傍点「〇」)
この晝食を喰べ終つてから、船はボナペに着いた。上陸して、又、宮野氏の所に厄介になる。何といつても、陸でとまるのはいい氣待のものだな。この前、この家に泊つた時、まだ小さかつた小松菜が、もう、トテモ大きくなつてゐるのに驚いた。それから、鉢に小さなトレニヤを三本、この家の庭に見つけた。嬉しかつたよ。近處から貰つたんださうだ。又、小學校の教員室で、サルヴィヤの鉢を見つけた。但し、お前の嫌ひな紫のヤツだがね。それでも、なつかしかつたよ。本郷町の家にあつた花なら、何でも、なつかしいんだよ。トレニヤの花を見ながら、内地の秋を考へた。内地の五月と十月はいい季節だな。横濱の山手のプールの上に萩が一株あるんだが、その花のことを思出す。外人基地の秋バラやコスモスのことも。本郷町の家のべゴニヤも咲いてるだらうな。しかし、資(スケ)さんぢや冬越(ゴシ)させては貰へまい。可哀さうに。去年の秋の終頃、本牧の久保さんの所から、パンジイを澤山貰つて来た時は嬉しかつたね。
内地にずつと居たら、(教はつた通りに)七月末にパンジイの種子を蒔いて、冬、咲かせてやらうと思つてゐたのに。櫻草も世田谷みたいな寒い所に來ちや、三月(或ひは十二月)に咲くことは、とても出來まいな。あんなチツポケな庭に、どうして、こんなに心が殘るかと不思議な位だが、でも、桓と一緒にワザワザ山手迄芝を取りに行つたり、石を拾つて來たりして、こしらへた庭だものねえ。
世田谷の庭の植木鉢などがゴタゴタしてるのを片付けてノチャの遊び場所が出來るといいんだがね。傘(かさ)をもつたノチャ助の散歩姿が目の前に浮かんで來て、仕方がない。ひとり言(ごと)の名人たる僕は、日に何度お前達の名を(聲に出して)呼んで見るか知れない。しかし、ノチャ助の名を千度呼んだとて、もはや何にもならぬ。二階から(緣側から)落ちない樣に、病氣にならないやうにと、所るばかり。
◎桓は學校に慣れた樣子かい?
◎餘り洗濯に夢中になるんぢやないぜ。
◎桓に讀ませる本を選んでやりたくても、ここちらには
本屋がないし、本の廣告を見る機含も無いのでそれが
出來ない。殘念だ。
◎今晩は宮野氏の所で泊る。明日又船に乘込む。そして、
トラックへ向ふ。
二三日少し荒れ氣味だつた空も今日はカラリと晴れ、波もすつかり、をさまつた。いよいよ明日はトラック上陸。二十日ばかり續いた船中生活とも當分お別れだ。トラック上陸と共にお前たちへの便(たより)も、ここ暫く、絶えることになるだらう。うまく飛行便でもあれば、別だが。はじめの豫定の笠置丸が缺航で、横濱丸にする積りでゐた所、又又、横濱丸が缺航になるので、今乘つてるパラオ丸が内地へ行つて、又トラック迄へもどつて來る迄待たねばならぬこととなつた。仕方が無い。一月餘り、腰を落ちつけ、ゆつくりと島民の生活の中にはいつて行つて見ようと思ふ。春島、夏島、秋島、冬島、月曜島、水曜島、と、ずうつと、廻つて見て歩くんだ。
今の所、身體の調子は大變いい。
[やぶちゃん注:囲みは底本では点線。]
昨日(四日)は陸上で晝飯をたべたので、此の獻立表が無い。だから、日記もなし。
今(午後三時)床屋(トコヤ)から出てきた所。髮を刈られながら一睡りしたので、いい氣持だ。これから、オヤツをたべて、風呂に、はいるんだ。今、眞靑(マツサヲ)な海を直ぐ目の下に見下しながら、テスリの傍(ソバ)のテーブルで之を書いてゐる。南洋の海の色は、いつ見てもいい。殆ど波もない。速く東北の水平線の所に雲が立ち少し翳(かげ)つて、虹(ニジ)の樣な色が見えるのは、今、そこでスコールが降つてゐるに違ひない。
ボナペから乘込んだ一等客の中に、島民が一人ゐる。島民といつても、南洋第一の金持で、群島で一番大きいボナペの島も半分以上は、此の男の家のものなんだ。日本の金にしても何百萬といふ富豪さ。西洋人の血が交つてゐるので、殆ど西洋人に近い顏立だ。立腹なものさ。姪(メヒ)を二人連れてゐるんだが、これは、この二人の女の子を東京の學校に入れる爲だとさ。
△船の朝飯には決(キマ)つて卵が二つづつ出る。それが、必ず、違つた料理になつてゐるから面白い。卵料理つて、色々あるものだね。今朝のは、ゆで卵を輪切にして、マヨネーズを掛け、キャベツを副へたもの。毎朝、きつと違ふんだ。何時も食卓では、内地の秋の食物の話が出ないことはない。サンマ、マツタケ、カキ、クリ。思へば、季節の推移(スヰイ)(うつりかはり)といふものは、いいものだなあ。
*
最終段落の冒頭にある「△」は底本では二重の三角形である。また、最後の一文の「(うつりかはり)」は本文でルビではない(「スヰイ」はルビ)。敦は余程の節約家と見え、船の献立表の紙の裏を便箋代わりに用いていたことは知っていたが、陸で食事をしてそれがない、「だから、日記もなし」(日録風の妻宛書のことである)というのは徹底している。]
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